第4話 始原の聖典
「…………返せ」
俊彰の口から、怒りと戦慄の入り混じった低い声が漏れた。
「な、何を仰います!」
突然、静寂に包まれた部屋の奥から鋭い声が響いた。
「うわっ!」
俊彰が跳ね上がるように振り向く。
部屋の奥にある別の扉から、白を基調とした豪華な法衣をまとった老人が慌ただしく姿を現した。
年齢は六十を過ぎたくらいだろうか。
整えられた白髪を綺麗に後ろへ撫でつけ、胸元には神聖さを物語る金色の装飾。身なりだけを見ても、先ほどの騎士たちより明らかに立場が上なのが一目で分かる。
老人は見慣れない格好をした俊彰には目もくれず、真っ先に台座のガラスケースへ駆け寄った。
「これは神代より伝わる、この世界で最も神聖な書! 三千年にわたり我らが守り続けてきた《始原の聖典》ですぞ!」
「俺のだ」
「…………は?」
「俺のノートだよ」
俊彰は右手に持っていた、使い古しの黒い大学ノートをすっと高く掲げた。
老人の鋭い視線が、そこで初めて俊彰へ向く。
「何を馬鹿な……」
「ここ見ろ」
俊彰はトントンと表紙を指差した。
そこに躍る、銀色の角ばった文字。
《漆黒零式改MarkⅡ》
老人の厳格な顔から、一瞬で表情が消え失せた。
「…………」
目の前のガラスケースを見る。
俊彰の手元にあるノートを見る。
もう一度、吸い寄せられるようにガラスケースを見る。
老人は数秒間、壊れた機械のようにそれを繰り返した。
「……なぜ」
「それを俺が一番聞きたいんだよ」
俊彰は呆れ混じりにガラスケースの前まで歩み寄った。
台座の中と自分の右手、二冊を真上からじっくりと見比べる。
何度見比べても、紛れもなく同じ物だった。
「これは俺が十四歳のときに書いた。実家の押し入れから今日出てきたばっかりだ」
「十四歳……?」
「三十年前だよ」
老人の白眉の間に、深く刻み込まれるような皺が寄る。
「あり得ません」
「だから俺も頭抱えて困ってんだよ」
「《始原の聖典》は、およそ三千年前よりこの地に存在しております」
「俺、四十四歳なんだけど」
「…………」
「…………」
厳かな地下の最深部で、大司教らしき老人とジャージ姿の四十四歳が見つめ合う。
どう考えても計算が合わない。
三千年と四十四年。
数字の桁が違いすぎて、誤差で済ませられる差では断じてなかった。
老人はしばらく鋭い眼光で俊彰を凝視していたが、やがてその視線が彼の後ろで控える騎士へ移った。
「ガルド」
「はっ」
俊彰をここまで案内してきた先頭の騎士が、甲冑を鳴らして片膝をついたまま深々と応じる。
「この御方は?」
「森の街道付近にてお会いいたしました。魔獣と対峙されており、その際――」
ガルドが一瞬、思い出すように言葉を切った。
「《魔装剣》を顕現されました」
老人の目が大きく見開かれた。
「……魔装剣を?」
「はい。聖典に記されたものと寸分違わぬ、炎をまとった漆黒の剣を」
「ちょっと待って」
俊彰が二人のやり取りにぬっと口を挟む。
「ガルドっていうの?」
「……はい」
「今さらだけど、俺まだ名前聞いてなかったよね?」
「…………」
「…………」
ガルドが申し訳なさそうに気まずく目を伏せた。
「失礼いたしました」
「まあ、いいけど」
異世界へ飛ばされてから数時間。
ようやく一人目の人間の名前を知った。
そんな俊彰の呑気さをよそに、老人は険しい表情のまま重々しい足取りで一歩近づいてくる。
「私はオルフェン。この王都にて大司教を務めております」
「岡島俊彰。会社員です」
「……カイシャイン?」
「そこはいい」
説明すると日が暮れる。
オルフェンはまだ何か眉をひそめて言いたげだったが、俊彰の持つノートへ視線を戻した。
「その書を……拝見しても?」
「いいけど」
俊彰は素直にノートを差し出しかけ――ピタリと手を止めた。
「いや、待て」
「はい?」
急激な冷や汗とともに、猛烈な嫌な予感がした。
これを渡したら。
三十年前の自分がノリノリで全力で書き殴ったアレやコレやの黒歴史を、初対面の厳格そうな老人に真正面から音読されることになる。
社会死だ。
「…………」
「始祖様?」
「その呼び方もやめて」
俊彰は死守するようにノートを自分の胸元へ引き戻した。
ガルドとオルフェンが不審そうに顔を見合わせる。
二人の反応を見て、俊彰は本日何度目になるか分からない大きな息を吐いた。
「とにかく」
ガラスケースの中に鎮座する《始原の聖典》を指差す。
「そっちは三千年前からここにある」
次に、自分が必死に胸に抱えるノートを掲げる。
「こっちは今日、俺が実家から持ってきた」
「……はい」
「で、どう見ても同じ」
「……そのように見受けられます」
「意味分からん」
「私にも分かりません」
「だよな」
三人揃って腕を組み、重苦しく黙り込む。
ひんやりと静まり返った地下最深部で、二冊の《漆黒零式改MarkⅡ》だけが不気味に向かい合っていた。
十四歳の少年が三十年前に作った黒歴史と。
三千年間、この世界で世界の真理として崇められてきた聖典。
その絶対に交わるはずのない二つが、今。
同じ空間に並んで存在している。
俊彰はズキズキと痛み出した額を右手で押さえた。
「……まず、そこから調べよう」
どうやら。
自分が十四歳のときにやらかした黒歴史は、思っていたより遥かに面倒で危険な事態を引き起こしているらしい。
End_is_Zéro_Project




