第九話 End is Zero
俊彰の右手に集まった黒い光は、炎のように揺らめくことすら見せなかった。
音もない。
熱も感じない。
ただ、俊彰の右手を中心にして、周囲の空間と景色だけがぐにゃりとわずかに歪んでいく。
「…………」
まずい。
原理も理屈も何一つ分からない。
だが、長年生きてきた本能だけが「これは危険すぎる」と警鐘を鳴らしていた。
これは先ほどまでの《魔装剣・焔》とは根本的に違う。
比べること自体がおかしい代物だ。
グランヴァルの巨体が目前まで迫る。
あと十メートル。
俊彰はグランヴァルへ右手を向け――
ふと、動きを止めた。
「…………」
十四歳の自分が考えた、最強の技。
三十年間、思い出すたびに恥ずかしさで悶絶しそうになった黒歴史。
馬鹿みたいな名前をつけて。
馬鹿みたいな設定を盛って。
一人きりの部屋で、鏡の前に立ち、馬鹿みたいにポーズをとって格好をつけた。
四十四歳のおっさんにもなって。
まさか、それを本当に使う日が来るなんて思わなかった。
グランヴァルが猛然と迫る。
あと五メートル。
丸太のような巨大な前脚が頭上高く持ち上がった。
恐ろしい。
今すぐ逃げ出したい。
《Lost Step》を使えば、まだ避けられるかもしれない。
それでも。
「……もういいか」
俊彰は、小さく笑った。
ここまで来て。
今さら恥ずかしがってどうする。
どうせやるなら。
中途半端が、一番格好悪い。
俊彰はゆっくりと右手を持ち上げた。
人差し指と中指を揃え、右目の前へとかざす。
三十年前。
十四歳の自分が、自室の鏡の前で何度も角度を微調整して決めた構え。
そして。
口元を、わずかに吊り上げた。
「フン……」
グランヴァルの赤い双眸を、指の隙間から冷徹に見据える。
「傷つけるというのなら――」
もう恥ずかしくなかった。
今、この瞬間だけは。
四十四歳の冴えない会社員・岡島俊彰ではなく。
三十年前、《漆黒零式改MarkⅡ》を書いたあの少年のままに。
「傷つけられる覚悟も、あるのだろう?」
背後で、誰かが息を呑んだ。
知ったことか。
俊彰は右手を勢いよく前へ突き出した。
その掌にまとわりついていた黒い光が、一気に膨れ上がる。
煙でもない。
炎でもない。
黒いオーラとしか表現できない何かが、俊彰の腕から溢れ出し、空間を侵食するように広がっていく。
「三千年か……」
目の前の巨大な魔獣を見上げる。
「随分と好き勝手に育ったものだ」
グランヴァルが猛烈な咆哮を上げる。
俊彰は一ミリも動かなかった。
「ならば――」
右手に集まった黒いオーラが、さらに濃さを増す。
周囲の光が吸い込まれているかのように、俊彰の右手だけが異様な黒に染まっていく。
「創った者として、終わらせよう」
風が止まった。
草木のざわめきも消えた。
先ほどまで響き渡っていたグランヴァルの咆哮さえ、どこか遠くへ押しやられたように薄れていく。
俊彰は静かに息を吸った。
「すべては零より生まれ――」
右手を覆う黒が脈打った。
グランヴァルが地面を蹴る。
巨体が俊彰へ迫る。
それでも、動かない。
逃げない。
真正面から、その赤い双眸を見据えた。
「そして、零へ還る」
十四歳の自分が考えた。
究極にして、最後の術式。
俊彰は右手を突き出したまま、その名を告げた。
「End is Zero」
その瞬間。
俊彰の右手から溢れていた黒いオーラが、一斉にグランヴァルへと殺到した。
爆発は起きない。
閃光もない。
ただただ圧倒的な黒だけが、迫り来る巨体を呑み込むようにどこまでも広がっていく。
「――――ッ!」
ただならぬ異変を本能で察したのか、グランヴァルが俊彰へ振り下ろそうとしていた巨木のような前脚を途中で止め、咄嗟に身を捩った。
遅い。
黒いオーラは四本の太い脚を這い上がり、肉を、骨を、その巨体すべてを容赦なく呑み込んでいく。
そして。
グランヴァルを中心に、巨大な漆黒の球体が形成された。
「…………」
俊彰は無言でそれを見据える。
二階建ての家ほどもある魔獣を丸ごと包み込んでなお余りある、巨大な黒球。
周囲の光を反射している様子すらない。
ただそこだけが、世界の空間から丸く切り抜かれたような完全な黒だった。
次の瞬間。
――ドンッ!
黒球の表面が激しく大きく歪んだ。
内側からだ。
グランヴァルが中で暴れている。
もう一度。
――ドンッ!
巨大な爪の形が、黒球の表面に鮮明に浮かび上がる。
さらに別の場所が鋭く突き出した。
角だ。
黒い膜を突き破ろうとするように、グランヴァルが内側から猛烈に抵抗している。
「…………」
俊彰の頬を冷たい汗が静かに伝った。
もし、あれを力任せに破られたら。
そんな考えが一瞬だけ頭をよぎる。
だが。
黒球は破れなかった。
それどころか――
「……縮んでる?」
巨大な球体がゆっくりと、しかし確実に小さくなっていた。
十メートル。
八メートル。
六メートル。
縮むほどに、内側からの抵抗が激しさを増していく。
球体の表面が何度も歪み、爪が、角が、巨大な頭部の輪郭が次々と浮かび上がる。
それでも。
縮退は止まらない。
五メートル。
三メートル。
グランヴァルの苦悶の咆哮が聞こえた。
いや。
聞こえたような気がした。
黒球の内側から伝わってくるはずの音は、縮むにつれて急速に遠ざかっていく。
二メートル。
一メートル。
もう、中で抵抗する影すら見えない。
黒球はさらに縮む。
人の頭ほど。
拳ほど。
硬貨ほど。
「…………」
俊彰も。
エリシアも。
ガルドも。
騎士たちも。
誰一人として声を発さない。
息をすることすら忘れたように。
やがて。
そこに残ったのは――
黒い一点。
針の先ほどの、あまりにも小さな黒点だけだった。
一瞬。
それが空中に静止する。
そして。
――シュン。
消えた。
「…………」
何もない。
グランヴァルが確かに存在していたはずの場所には、死体も、血も、灰すら残っていなかった。
あれほど圧倒的だった《煉獄獣グランヴァル》が。
存在していた痕跡ごと。
完全に――零へ還っていた。
俊彰は突き出していた右手を、ゆっくりと下ろした。
まだ終わっていない。
少なくとも。
今の俊彰の意識の中では。
口元に、冷酷で薄い笑みを浮かべる。
「……愚か者め」
低く。
吐き捨てるように。
「獣風情が――」
誰もいなくなった空間を冷たく見据えたまま、俊彰は言い放った。
「誰に牙を向けているのか、少しは弁えろ」
静寂。
完璧だった。
恐ろしいほどに。
完璧に――決まった。
俊彰は、そのまま数秒間動かなかった。
右手をゆっくりと下ろし、完全に消え去ったグランヴァルのいた無の空間を冷徹に見据える。
口元には、まだ絶対的な余裕を感じさせる薄い笑み。
完璧だった。
三十年前、十四歳の岡島俊彰が夢見た『最強の自分』が、今まさにここにいた。
「…………」
そして。
四十四歳の岡島俊彰が、現実へと帰ってきた。
「…………」
俊彰の口元から、急速にスーッと薄い笑みが消えていった。
今。
俺は。
一体何を言った……?
『愚か者め』
……言った。
『獣風情が』
……間違いなく言った。
『誰に牙を向けているのか、少しは弁えろ』
……フルコンボで全部言った。
「…………」
しかも。
無駄に低音の効いた、結構いい声で。
「…………」
俊彰の背筋を、先ほどまでの死闘中とはまったく種類の違う、じっとりとした冷たい汗が流れ落ちていった。
振り返れない。
絶対に、死んでも振り返りたくない。
だが、自分の背後には確実にいる。
エリシアが。
ガルドが。
生き残った騎士たちが。
全員揃って、じっと自分を見つめている気配がする。
俊彰は正面を向いたまま、恐る恐る小さな声で口を開いた。
「…………今の、誰か聞いてた?」
「我ら全員が」
ガルドからの即答だった。
「…………」
ガルド。
お前。
そこは少しくらい大人の空気を読め。
俊彰は静かに、そっと目を閉じた。
終わった。
四十四年間、社会人としてコツコツと積み上げてきた何かが、今、音を立てて確実に終わった。
「…………そうか」
だが。
まだ手はあるはずだ。
今の自分は、この世界で《始祖様》と崇め奉られている。
ならば。
その絶大な権力を。
今だけ。
ほんの少しだけ。
私的に使わせてもらおう。
俊彰は腹を括り、再び右手をゆっくりと持ち上げた。
人差し指と中指を揃え、静かに右目の前へとかざす。
背後で騎士たちが息を呑む気配が伝わってきた。
「我が名において命ずる……」
先ほどまでの完全没入とはまったく違う意味で、俊彰の声は重々しく低かった。
俊彰は威厳を保ったまま、ゆっくりと振り返る。
エリシア。
ガルド。
騎士たち。
その場にいる全員をぐるりと見渡し。
始祖として。
厳かに命じた。
「忘れろ」
「御意」
「おっ」
ガルドが深々と頭を下げる。
いける。
始祖様権力、いけるじゃないか。
俊彰の表情が一瞬だけぱっと明るくなった。
「ですが、それはできません」
「なんでだよ!!」
俊彰の魂からの絶叫が、静まり返った街道に虚しく響き渡った。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
30年間育てた厨二設定が、異世界では全部正しかった ~ただし本気を出すと世界がヤバいので普段は使わない~ 「ソダチュウ」はここで終了とさせて頂きます。元々短編構成の予定でした。やるならしっかり長編で書いていくかも知れません。意見でも何でも構いせん。感想など頂けるとめちゃくちゃうれしいです。
第9話「End is Zero」。
今回、この第9話をリメイク版を別にご用意しました。
そして、この物語にはもうひとつの形があります。
End_is_Zéro_Project Episode 3rd。
同じ第9話から生まれた、もうひとつの短編物語です。
近日公開予定です。よろしければ、そちらも覗いてみてください。




