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第2話 エンチャント!!

 聖王都アルディオン。


 三十年前の俊彰によれば、この世界最大の都市らしい。


「……最大って、何人住んでんだよ」


 小脇に抱えたノートをめくる。


 書いてない。


「人口くらい決めとけよ」


 十四歳に都市設計を求める方が間違っている。


 俊彰は吐き捨てるようにノートを閉じ、湿った森の中を歩き始めた。


 目指す方向は分かっている。


 あの塔へ向かえば、いずれ街道に出る。


 なぜなら――。


「……俺がそう描いたからな」


 自分で言って、猛烈に気持ち悪くなった。


 自分の妄想の内部を歩かされているという気味の悪さが、胃のあたりを重く押し潰す。


 右手には大学ノート。


 左手にはスマートフォン。


 画面には、虚しく灯る「圏外」の二文字。


 文明の遺物と暗黒の黒歴史を両手に持った四十四歳が、異世界の森をひとり歩いている。


 あまりにも惨めで滑稽な構図だった。


「誰かに見られたら終わりだな」


 誰に何が終わるのかは分からない。


 だが、社会人としての尊厳のようなものが確実に終わる気がした。


 しばらく歩くと、立ち並ぶ木々の隙間から眩しい光が差し込んできた。


「お」


 鬱蒼とした森が途切れる。


 その先には、広大な景色のただ中を貫く一本の道が伸びていた。


 舗装などされていない。無数の馬車や人が往来し、長い年月をかけて土を踏み固めただけの、剥き出しの街道だ。


 俊彰はその場で立ち止まり、再びノートを開いた。


 十四歳の自分が描いた地図を見る。


 目の前の森を見る。


 伸びる街道を見る。


「……ここか」


 合っている。


 気味が悪いくらい、完璧に合っている。


 街道を南へ進めば聖王都。


 そして、北へ向かえば――。


「《封魔の森》……」


 俊彰はノートの文字を読み上げ、不吉な予感に眉を寄せた。


「…………封魔?」


 嫌な単語だった。


 胸のざわつきを抑えながらページの端へ視線をやると、小さな字で何か書いてある。


 十四歳特有の、無駄に筆圧が高く尖った筆跡。


 俊彰は目を細めた。


 《この森には魔獣が棲む》


「…………」


 ゆっくりと顔を上げる。


 昼下がりの森は、静まり返っていた。


「いやいや」


 遠くで鳥が鳴いている。


 木々の間から差し込む陽光は穏やかで、風が吹くたびに葉がさらさらと揺れていた。


 平和そのものの光景だ。


「こういうのは普通、もっと早く――」


 ガサッ。


 背後で、分厚い茂みが大きく揺れた。


「…………」


 俊彰は振り返らない。


 四十四歳という年齢は、伊達に人生の修羅場をくぐっていない。


 世の中には。


 確認しない方が幸せなことも、確かにあるのだ。


 グルルルル……。


 背後から、低く重い地鳴りのような唸り声が響く。


「犬だ」


 そういうことにした。


 そう思わなければ、足がすくんで倒れてしまう。


 グルルルルルル……。


「ちょっとデカい犬だ」


 バキッ。


 何かが、太い木の枝を一息に踏み折った。


「…………」


 俊彰は無言でノートを脇に抱え直した。


 手に持っていたスマートフォンをズボンのポケットへ滑り込ませる。


 そして。


 全力で走った。


「なんで魔獣まで実装してんだよ! 十四歳の俺ぇぇぇ!!」


 本当に全力で走った。


 少なくとも本人は、そのつもりだった。


「はっ……はっ……!」


 だが悲しい現実として、四十四歳の全力疾走は長く続かない。


 もののわずかな時間で、激しい運動から見放されていた肺が悲鳴を上げ始めた。


 呼吸が苦しい。


 膝から下が鉛のように重い。


 胸の奥では心臓が、普段聞いたこともないような嫌な早打ちの音を立てている。


「待て……っ、速いって……!」


 待ってくれるはずもない。


 背後から迫る重い足音は、むしろ着実に近づいていた。


 草を蹴散らし、枝をへし折る音が、息を切らす俊彰のすぐ後ろまで迫ってくる。


 たまらず振り返った。


「うわっ!」


 デカい。


 視界に飛び込んできた異形に、一瞬息が止まる。


 到底、犬などではなかった。


 漆黒の毛に覆われた巨大な四足の獣。肩までの高さだけでも、俊彰の胸ほどある。


 凶暴な光を孕んだ赤い瞳。


 開いた口からは鋭い牙が覗き、その額には天を突くような一本の鋭利な角が生えていた。


「…………」


 強烈に見覚えがあった。


「お前……」


 十四歳の自分が、放課後の自室でワクワクしながら考えた魔獣だ。


 名前は確か――。


「ダーク……なんだっけ!?」


 覚えているわけがない。


 三十年前の黒歴史である。


 瞬間、魔獣が地面を蹴った。


 巨体からは想像もできない速度で、一気に間合いを詰めてくる。


「うおっ!」


 俊彰は無我夢中で横へ転がった。


 頭上を通り過ぎた鋭い爪が、ザッと土を深く抉り取る。


「痛ってぇ!」


 社会人に受け身なんて取れるはずもない。


 地面の突起に肩と肘を強く打ちつけ、身体のあちこちに鈍い痛みが走る。


 だが、痛がっている暇もなかった。


 着地した魔獣が低い唸り声を上げ、こちらへ向き直る。


 赤い瞳が、明確な殺意を持って俊彰を捉えていた。


 俊彰は土にまみれながら、這うようにして必死に距離を取った。


「ちょ、待て……!」


 話が違う。


 異世界。


 魔法。


 魔獣。


 十四歳の頃なら、目を輝かせて胸を躍らせたかもしれない。


 しかし、四十四歳になった今なら身に染みて分かる。


 こんな殺意の塊のようなもの、実際に目の前にいたら、ただただ恐ろしいだけだ。


「くそっ……!」


 逃げても追いつかれるのは明白だ。


 じゃあ、戦う?


 無理だ。


 絶対に無理だ。


 大人の喧嘩すら何年……いや、何十年としていない。


 そもそも、こんな巨大な化け物と素手で殴り合える人間がいるなら会ってみたい。


 魔獣が地面に爪を立て、低く身を沈めた。


 突進の姿勢。


「…………」


 焦燥の中、俊彰の手が脇に抱えていたノートの表紙に触れた。


 もしも。


 この世界が、あのノートに書いた通りに動いているのだとしたら。


「いや……」


 最悪で、あまりにも馬鹿げた可能性が脳裏をよぎる。


 俊彰はブンブンと首を振った。


「それはない」


 だが。


 異世界。


 地図。


 正午の鐘。


 そして、目の前の魔獣。


 全部、合っていた。


 狂いなく、合ってしまっている。


 なら。


 そこに書かれた魔法は?


「…………マジかよ」


 観念した俊彰はノートを開いた。


 震える指で、必死にページをめくる。


「どこだ……どこに書いた……!」


 魔獣が喉を鳴らし、低く唸る。


「待てって! 三十年前なんだよ!」


 乱雑に描かれた剣。


 凝った魔法陣。


 無駄に威勢のいい必殺技。


 十代特有の意味不明な設定の山。


「これじゃない……これも違う……!」


 そして。


 ページをめくっていた手が、ぴたりと止まった。


 そこには、ページいっぱいに一振りの剣が描かれていた。


 禍々しい炎をまとった黒い刀身。


 刃から柄に至るまで、十四歳なりに細部まで考え抜いたらしい装飾がびっしりと描き込まれている。


 その横には、十四歳の岡島俊彰がドヤ顔で書いたであろう太字の四文字。


 《魔装剣》


「…………」


 そして、その下。


 小さく書かれた発動方法を見つけた瞬間、俊彰の顔が恐怖とは別の意味の絶望で引きつった。


「…………これ、言うの?」


 魔獣が爆発的な脚力で地面を蹴った。


「くそっ!」


 俊彰は半ばヤケクソで、右手を前に突き出した。


 武器なんて持っていない。


 その手には、何も握られていない。


 それでも。


 三十年前の自分がノートに刻みつけた通りに。


 迫り来る魔獣を睨みつけ、喉が破れんばかりの声で叫んだ。


「――エンチャント!!」


 瞬間。


 何もない右手の中で、視界を染め上げるほどの黒赤い炎が、けたたましく爆ぜた。


End_is_Zéro_Project

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