第1話 漆黒零式改MarkⅡ
プロローグ
すべては、この一冊の本から始まってしまった。
《漆黒零式改MarkⅡ》
闇より生まれし究極奥義。
光属性も使える。
時間も止められる。
ただし本気を出すと世界がヤバいので、普段は使わない。
――そう書いてある。
俺の字で。
三十年前。
当時十四歳だった俺が、大学ノートに本気で書いたものだ。
「…………」
四十四歳になった俺は、異世界の王立大図書館、その最深部で。
国宝として厳重に保管されているソレを見つめていた。
――『始原の聖典』。
そう呼ばれているらしい。
「…………返せ」
大司教が顔を蒼白になり身体が震えた。
「な、何を仰います! これは神代より伝わる、この世界で最も神聖な――」
「俺のだよ」
「は?」
「俺が中二のときに書いたやつだって言ってるの!!」
その瞬間。
聖典が、黒く輝いた。
《システムオールグリーン》
《SYSTEM ALL GREEN》
「嘘だろ……」
俺の顔は真っ青に――いや、恥ずかしさで真っ赤になっていた。
岡島俊彰、四十四歳。
独身。会社員。
平日は朝七時に起き、八時前には家を出る。帰宅はだいたい十九時過ぎ。
特別、不満があるわけではない。かといって、毎朝目を輝かせて会社へ向かうほど仕事を愛しているわけでもない。
働いて、帰って、飯を食って、寝る。
そんな、ごく普通の男だった。
「……腰いてぇ」
土曜の午後。
俊彰は実家の自室で、畳の上に座り込んでいた。
カーテン越しに差し込む午後の日差しの中、細かな埃がゆっくりと舞っている。
母親から「いい加減、あんたの荷物どうにかして」と言われ、三十年近く放置していた押し入れを整理しているところだった。
古いゲームソフトに、日焼けして背表紙の褪せた漫画。黄ばんだ卒業アルバムまで出てくる。
「あー……あったな、こんなの」
手に取れば、それなりに懐かしい。
少年だった頃の記憶が、埃の匂いとともに一瞬だけ蘇る。
だが、取っておくほどでもない。
四十四歳にもなると、思い出と不用品を分ける判断もそれなりに早くなる。
俊彰はそれらを淡々と段ボールへ放り込んでいった。
そして。
「ん?」
押し入れの奥。
積み上げられた段ボールの隙間から、一冊の大学ノートが出てきた。
黒い表紙。
しかも、まるで二度と世に出してはならない何かを封印するかのように、ビニール袋で厳重に包まれている。
「…………」
嫌な予感がした。
こういうものは、四十四歳にもなれば分かる。
開けてはいけない。
理屈ではない。
四十年以上という人生経験が、そう告げている。
だが、人間というものは不思議なもので。
開けてはいけないものほど、開けたくなる。
「……何入れたんだ、俺」
俊彰はカサカサと音を立てながらビニールを剥がした。
黒い表紙が露わになる。
そこには銀色のペンで、わざと角ばらせた痛々しい字体が大きく躍っていた。
《漆黒零式改MarkⅡ》
「…………」
俊彰は無言でビニールに戻した。
三秒後。
「捨てよう」
記憶が蘇る前に処分する。
それがいい。
いや、それしかない。
過去には、掘り返していいものと悪いものがある。これは間違いなく後者だ。
俊彰はノートを持って立ち上がろうとした。
そのときだった。
ビニール越しに、黒い光が滲んだ。
「……は?」
最初は、窓から差し込んだ光の加減かと思った。
違う。
ノートそのものが光っている。
それも神々しい白や金ではない。
粘りつくような、黒。
「ちょ、待て待て」
畳の上を黒い光が走った。
一本だった線は枝分かれし、俊彰を中心に円を描いていく。そこへ幾何学的な文字や紋様が次々と重なり、数秒もしないうちに巨大な魔法陣が完成した。
初めて見る光景――ではない。
見覚えがある。
というより。
俊彰は、その作者だった。
「これ……ガキの頃の俺が描いたやつじゃねえか!」
十四歳の頃。
定規とコンパスまで持ち出し、意味も分からない文字を並べて「完璧だ」と悦に入っていた。
あの魔法陣だ。
「なんで動いて――」
言い終えるより早く、魔法陣の中心から黒い光が弾けた。
視界が一瞬で塗りつぶされる。
身体が浮く。
上下の感覚すら失われ、俊彰は咄嗟にノートを胸元へ抱き込んだ。
「うおっ――!」
次の瞬間。
岡島俊彰は、四十四年間生きてきた世界から消えた。
◇
最初に感じたのは、土の匂いだった。
青臭い草の湿り気と、鼻の奥に残る濃い緑の匂い。頬に触れる風はひんやりとしていて、どこかで鳥の鳴く声が聞こえている。
少なくとも、実家の押し入れには絶対に存在しないものばかりだった。
「…………いてぇ」
俊彰は顔をしかめながら上体を起こした。
腰が痛い。
膝も痛い。
ついでに、硬い地面へ叩きつけられたらしい右肘も痛い。
何が起きたのか理解できなくても、身体の方は律儀に四十四歳だった。
「異世界転移って、もっとこう……優しくできないのかよ」
そこまで口にして、俊彰は止まった。
「…………異世界?」
自分で言っておいて、嫌な響きだった。
ゆっくりと周囲を見回す。
森だった。
見たこともないほど太い木々が聳え立ち、複雑に絡み合った枝葉の隙間から、澄んだ青空が覗いている。木漏れ日が湿った地面にまだらな模様を作り、風が吹くたびに葉が擦れ合った。
聞いたこともない鳥の声。
嗅いだことのない草木の匂い。
夢にしては、妙に生々しい。
「いやいやいや……」
俊彰は頭を振りながら立ち上がった。
その拍子に腰が鈍く鳴る。
「……っつ」
夢だろうが異世界だろうが、腰だけは現実だった。
足元を見ると、湿った草の上にあの大学ノートが落ちている。
俊彰は屈み込み、それを拾った。
《漆黒零式改MarkⅡ》
「お前か?」
当然、返事はない。
「お前だよな?」
やっぱりない。
「三十年ぶりに開けた持ち主にする仕打ちじゃねえぞ」
ため息をつき、ノートを小脇に抱える。
ここで座り込んでいても状況は変わらない。
まずは人を探す。
そう考えて、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。
画面の隅には「圏外」の二文字。
「でしょうね」
驚きはなかった。
むしろアンテナが立っていたら、その方が怖い。
時計は動いている。
財布もある。
実家の鍵もある。
今朝コンビニでもらったレシートまで、きっちりポケットに入っていた。
四十四年間かけて身につけてきた現代社会の装備が、恐ろしいほど役に立たない。
「……参ったな」
スマートフォンをしまい、俊彰は周囲を見渡した。
すると、立ち並ぶ木々の隙間から、遥か向こうで何かが日光を反射した。
「ん?」
手をかざし、目を細める。
森の切れ目に、古びた石造りの塔が立っていた。
さらにその奥。
地平線を切り取るように、巨大な城壁らしき建造物が伸びている。
「…………」
俊彰は黙って、その光景を眺めた。
それから手元のノートを見る。
もう一度、城壁。
またノート。
「まさかな」
嫌な予感がした。
今日二度目だった。
そして今日一度目の嫌な予感は、これ以上ないほど綺麗に的中している。
俊彰はノートを開いた。
最初の数ページを飛ばす。
妙なポーズを取った人型。
長々と書き連ねられた詠唱。
意味深な片目。
読まない。
絶対に読みたくない。
四十四歳の精神を守るためにも、そこだけは譲れない。
目的のページを探し、次々と紙をめくっていく。
やがて、ある見開きで手が止まった。
「……あった」
十四歳の自分が、黒の極細ペンと定規まで使って描いたらしい地図。
今見ると、妙なところだけ細かい。
中央には巨大な城。
その北側には森が広がり、森の中には一本の塔が描かれている。
そして、その横。
やたらと凝った角張った文字で、こう書かれていた。
《聖王都アルディオン》
「…………」
俊彰は顔を上げた。
森の向こうに立つ塔。
その奥に伸びる城壁。
視線を落とせば、三十年前に自分が描いた地図。
位置まで合っている。
「いや」
俊彰は首を振った。
「似てるだけだ」
世界は広い。
塔と城壁くらい、偶然似ることだってある。
あることにしたい。
四十四歳にもなると、受け入れ難い現実に出会ったとき、まずは現実の方と交渉したくなる。
その瞬間だった。
遠く、城壁の向こうから重厚な鐘の音が響いてきた。
ゴォン――。
低く太い音が森を抜け、空気を震わせる。
俊彰の表情が固まった。
ゴォン――。
二度目。
「…………」
嫌な記憶が蘇った。
俊彰の視線が、ゆっくりと地図の余白へ落ちていく。
そこには十四歳の自分が書き残した、どうでもいい設定があった。
《聖王都では正午、始原の鐘が三度鳴る》
「いやいや……」
俊彰は呟いた。
「そこまで合わせなくていいだろ」
まるで返事をするように。
ゴォン――。
三度目。
鐘の余韻が森を抜け、ゆっくりと空へ消えていく。
鳥の声が戻った。
葉が風に揺れている。
何事もなかったように、森は再び静けさを取り戻した。
俊彰だけが、その場から動けなかった。
やがて乾いた音を立てて、ノートを閉じる。
「マジかよ」
三十年前。
十四歳の岡島俊彰が、自室で本気になって妄想した世界が。
現実となって、目の前に広がっていた。
End_is_Zéro_Project




