03_三百人の名簿
船の目録には、長さと喫水、積める荷の重さが書かれる。
人間の名簿にも、たいして違いはなかった。
名前、年齢、職種、住居。妻か夫の有無、子供の人数。帝国の書記が引いた細い罫線の中に、アマルタで暮らす三百人がおさまっていた。
翌朝、ダリオはその写しを、造船所の管理所で見ていた。
長机の正面には帝国使節と書記官たち、向かいには最高執政官ルシオ・モレトとアマルタの役人が座っている。リヴィアは双方から少し離れ、提出文書の印と日付を確かめていた。
サビーナは接収対象の船主兼水先案内人として呼ばれている。ダリオはその後ろに立っていた。正式な席を持たない彼を追い出そうとする者はいなかった。カシアンが監視を命じた水先案内人を、帝国側も見える場所へ置いておきたいらしい。
「貢納金の増額には応じる用意がある」
ルシオが言った。
「海峡通行税も、定められた期間に限って一部を帝国へ渡す。帝国商船に認めてきた港湾上の優遇についても、条件を協議しよう」
「総督の常駐と造船所の移管については」
「受け入れられない」
帝国使節が眉を上げた。
「貢納も税も、造船所が動き、商船が海峡を通るから払える。帝国が造船所と海峡通行税を直接管理するなら、アマルタには貢納を生む力そのものが残らない」
「帝国海軍の管理によって通商は安定する。造船所の職人も、より大きな工廠で安定した仕事を得られる」
使節は名簿へ手を置いた。
「彼らには帝国海軍工廠への期限付き出向を命じる。家族の住居と食料も帝国が用意する」
「出向だと?」
後ろにいた船大工が声を上げた。
「兵に囲まれて船へ乗せられるのを、アマルタでは出向とは呼ばない!」
帝国兵が一歩出る。ルシオが手を上げ、船大工を座らせた。
「旧盟約のどこに、帝国がアマルタ市民を家族ごと移せると書かれている」
「造船所の接収には、稼働に必要な技術者の配置も含まれる」
「人間は船台でも工具でもない」
ルシオの声は静かなままだった。
「貢納の増額も、通行税の一部譲渡も交渉できる。だが、市民を帝国の財産として差し出すことはできない。移送名簿は撤回してもらう」
ダリオは、初めてルシオの横顔を見直した。
使節は返事をせず、書記官から別の文書を受け取った。
「これは移送ではない。帝国領内での職務配置である。アマルタは帝国に従属する都市だ」
「自治を認めた盟約が現にあります」
リヴィアが口を挟んだ。
使節の視線が彼女へ向く。
「確認したかぎり、造船所や軍船の提供義務を定めた条項はあっても、住民の強制移住を認める条項はありません。正式な合意前に行動を制限することにも、法的な疑義があります」
「レウカは帝国の要求を裁く立場なのか」
「私は事実と文書の不一致を記録するために派遣されています。裁定はレウカの評議会が行います」
リヴィアは断言できる線から一歩も出なかった。
「ならば、記録に専念されたい」
帝国使節は立ち上がった。
「職人の保護と移動準備は予定どおり進める。アマルタ側の回答を待って、出航日を決める」
「交渉中の拘束は認めない」
「拘束ではない。安全のための集合である」
期限付き出向。職務配置。安全のための集合。
言葉を替えるたびに、三百人を囲う柵だけが高くなっていく。
*
管理所を出た帝国兵は、名簿を持って倉庫街へ向かった。
港に近いいくつかの倉庫が空にされ、職人と家族を集める場所に変えられていた。入口では名簿と本人を照合し、荷物を調べ、建物ごとに人数を数えている。
職人たちは自分の道具を持たされていた。槌、鑿、鋸、帆針。帝国が必要としているのが、彼らの身体だけでなく、長年使い込んだ技までだと分かる。
「止めさせろ」
ダリオはルシオへ言った。
倉庫街を見下ろす石段で、ルシオは兵の配置を数えていた。
「使節には中止を要求した」
「要求じゃなく、門を開けさせろ」
「帝国兵は従わない」
「アマルタの警備兵を出せばいい」
「最初の一人が剣を抜けば、港の帝国艦から兵が上がる。造船所と倉庫街が戦場になり、市街へ火が移る」
「だから待つのか」
ダリオの声が低くなった。
「七年前と同じように」
ルシオが彼を見る。
「あのときも、あんたは時間を買った。帝国が中央島を略奪しないように、父一人を差し出して」
「そうだ」
否定も弁明もなかった。
「同じ状況なら、私は今でも同じ票を投じる。一人を拒んで島全体を焼かせることはできなかった」
「今度は三百人だ」
「だから拒絶した。だが、三百人を救うために、いま港で戦端を開けばいいわけではない」
「連れていかれてから交渉するつもりか」
「出航させないための手を探している」
「父のときにも、そう言ったのか」
ルシオの表情は動かなかった。
「お前の父を差し出したあと、お前まで処刑しろという要求は退けた。サビーナのもとへ預け、家名ではなく仕事で生きられるようにした」
「それで貸し借りが消えると思うな」
「思ってはいない」
短い答えが、怒鳴り声より重く落ちた。
父と最後に会った夜の声が、ダリオの耳へ戻った。
――私の名を晴らそうとするな。なぜ五つの都市が敗れたのか、それだけは忘れるな。
翌朝に聞いたのは処刑の鐘だった。
ダリオは拳を握った。父の名を晴らすつもりはない。ルシオを殺したいわけでもない。
ただ、待てと言われて待った先に何があるかを、もう知っていた。
*
「盟約官補なら、あれを止められないのか」
倉庫街へ下りながら、ダリオはリヴィアへ尋ねた。
「私一人に裁定権はないわ」
「違法なんだろう」
「住民を強制移住させる根拠は見つからない。合意前に建物へ集め、自由に出られなくしていることも、拘束と判断される可能性が高い」
「だったら神殿の印を押して、違法だと書け」
「権限のない私が正式裁定を出せば、帝国は偽の裁定だとして記録ごと退ける。私の資格だけでなく、正しい証言まで信用を失う」
「正しい手続きを待つ間、あの人たちは船へ乗せられる」
「分かっている」
リヴィアの声が初めて強くなった。
彼女はすぐに息を整え、記録帖を抱き直した。
「だから、拘束された人全員の名前と、連れてこられた時刻、命令した兵の所属を残している。いなくなったことにさせないために」
ダリオには、それで船を止められるとは思えなかった。それでも、彼女が安全な場所から規則を説いているのではないことだけは分かった。
*
案内船へ戻ると、サビーナが接収印の前に座っていた。
剥がしてはいない。上から油布を張り、雨や波で傷まないようにしている。
「帝国の印を守ってやるのか」
「証拠を残してるのさ。勝手に剥がれたと言わせないためにね」
サビーナは立ち上がった。
「銀貨は持ってきたかい」
ダリオは腰の革袋を外し、差し出した。
「数える?」
「七年かけて足し算も覚えなかったなら、あたしの教え方が悪かった」
サビーナは袋を受け取り、代わりに鍵を投げた。
ダリオは片手で受け止めた。
「接収された船だぞ」
「昨日から何度も見てる。目は悪くない」
「今、渡せば親方も疑われる」
「今渡さなきゃ、あたしが帝国へ船をくれてやったみたいじゃないか」
鍵は掌におさまるほど小さかった。七年かけて欲しかったものなのに、手に入れた喜びは湧かなかった。
「船と舵は渡したよ」
サビーナは言った。
「どこへ向けるかまで、あたしに決めさせるんじゃない」
ダリオが顔を上げたときには、親方はもう背を向けていた。
*
夕方、倉庫街で子供の泣き声が上がった。
名簿の照合を早めるため、帝国兵が職人本人と家族を別々の建物へ分け始めていた。
十歳ほどの少年が、もっと幼い妹の手を握っている。両親は職人の列へ押し込まれ、子供たちは反対側の倉庫へ連れていかれようとしていた。
「一緒に行く!」
少女が泣きながら叫ぶ。
兵士が少年の腕をつかみ、妹から引き離そうとした。
ダリオはその間へ入った。
「同じ家族だ。名簿を見ろ」
「子供は向こうだ。退け」
「その子は兄の名前しか言えない。別々に数えたら、どちらかが名簿から消えるぞ」
「関係ない。退け」
兵士がダリオの胸を押した。
ダリオは動かなかった。
別の兵が彼の名を耳打ちする。カシアンから危害を加えるなと命じられている。兵士は顔を歪めたが、剣には手をかけなかった。
「二人まとめて向こうへ入れろ」
やがて吐き捨てるように言った。
少年は妹の手を握り直した。離れた倉庫へ入れられた両親を振り返りながら、二人で扉の向こうへ消える。
救えたわけではない。ただ、今この場で引き離されなかっただけだ。
同じことが、倉庫街のあちこちで起きている。
「ダリオ」
リヴィアが呼んだ。
止めるための声ではなかった。彼女は何をするつもりか問わず、ただダリオの右手を見た。
彼はいつの間にか、案内船の鍵を握っていた。
倉庫の向こうで、港の水がゆっくり下がり始めている。夕刻の引き潮だった。
ルシオは待てと言った。
ダリオは、待たないことにした。




