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海峡の旗 ―潮と暗礁で帝国艦隊を破る―  作者: 八夜巡


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04_引き潮の逃亡

 逃がすだけなら、門を壊せばいい。


 三百人を生きたまま逃がすには、潮が要る。


 ダリオは港の記録所で、卓上いっぱいに潮流暦を広げていた。帝国兵の見張りは戸口の外にいる。カシアンの命令どおり、ダリオがどこへ入り、誰と話したかを板へ書きつけていた。


 リヴィアは向かい側で、倉庫に拘束された人々の証言へ神殿印を押している。


「今夜、港の水が最も低くなるのは」


 ダリオが尋ねた。


「それを私に聞くの?」


「レウカの潮流暦は、アマルタの暦より一刻ごとの記録が細かい」


「調査官に逃亡の時刻を教えろと?」


 リヴィアは声を落としていた。戸口の兵士には、紙をめくる音しか聞こえない。


「誰でも閲覧できる記録だ。俺が勝手に読めば、君は何も教えていない」


「ずいぶん都合よく手続きを使うのね」


「七年前に君から習った」


 リヴィアは答えず、潮流暦の束から一冊を抜いた。


「閲覧用の正本はこれ。港内の潮位は、この欄」


 指先が頁の中央を一度だけ押す。


 今夜、月が西の城壁へかかるころ。引き潮は南へ強く流れ、造船所裏の浅い水路から海へ抜ける。普段は泥と岩に塞がれているが、地元の浅喫水船なら短い時間だけ通れる。


 帝国の中型ガレー船は入れない。軽ガレーでも、知らずに追えば櫂と船底を傷める。


「見た。閉じていい」


 ダリオが言うと、リヴィアは本を戻した。


「私は何も承認していない」


「分かっている」


「でも、倉庫から人がいなくなるまでに起きたことは、すべて記録する。帝国兵が合意前に拘束したことも、家族を分けたことも」


「それで十分だ」


「十分なわけがないでしょう」


 抑えた声に、昨日と同じ苛立ちがにじんだ。


「ダリオ。海へ出したあと、その人たちをどこへ連れていくの」


「まずは帝国船の入れない場所だ」


「その先は?」


 答えはなかった。


 三百人を倉庫から出すところまでは考えた。水路も、船も、潮時も分かる。だが、その先の食料も、住む場所も、帝国と戦う方法も、何一つない。


「今夜を越えなければ、その先もない」


 ダリオは潮流暦を閉じた。


     *


 使える船は、造船所裏の荷揚げ場にあった。


 材木を運ぶ平底船、帆布や綱を積む小型の運搬船、修理待ちの漁船。どれも戦うための船ではない。船腹に接収印はあったが、帝国兵は大型の都市艦ばかり警戒し、泥のついた作業船には二人しか見張りを置いていなかった。


 サビーナは案内船の帆綱を確かめながら、ダリオの話を聞いた。


「三百人を一度に動かせば、隠しようがない」


「一度には動かさない。倉庫へ水と食料を運ぶ船が出入りしている。入るときは荷を積み、戻るときは空だ」


「空の船へ人を積む。何往復する気だい」


「しない。今夜だけ、戻った船をここへ係留せず、そのまま水路の入口へ並べる。最後の倉庫が空になるまで、先頭は待つ」


「待ってる間に見つかるよ」


「だから親方に頼みがある」


 サビーナは帆綱から手を離した。


「ろくでもない頼みだね」


「まだ何も言ってない」


「弟子が船を買った日の夜にする頼みなんて、相場が決まってる」


 ダリオは、港の正面にいる帝国兵を見た。


「見つかったら、向こうで騒ぎを起こしてくれ。船から目をそらすだけでいい。一緒には来なくていい」


「最初から来る気はないよ」


 サビーナは平然と言った。


「船を持ち出した責任を取る者が、港に一人は必要だ。あたしが勝手に鍵を渡し、勝手に持ち出させたことにする」


「拘束される」


「あんたが残れば、三百人と一緒に拘束される。どっちが高くつく?」


「値段の話じゃない」


「船乗りがそう言い出したら、たいてい負けるね」


 ダリオは反論できなかった。


 サビーナは案内船の舵を軽く叩いた。


「この船を先頭にするな。速い船だけ逃げ切っても、遅い平底船が捕まれば終わりだ」


「分かってる。俺は最後尾にいる」


「なら行きな。今のうちに、三百人へ命令を覚えさせてこい」


     *


 命令は三つだけにした。


 持てる荷物しか持たない。呼ばれるまで声を出さない。家族から離れない。


 ダリオは水桶を運ぶ人夫に交じり、倉庫を一棟ずつ回った。職人たちは計画を聞くと、すぐ船ごとの人数を決め、足の悪い老人と幼い子供を中央へ集めた。船を造る者は、狭い場所で人と荷をどう収めるか知っている。


「西へ逃げるのか」


 誰かが尋ねた。


「今夜は海蝕洞までだ」


「その先は」


 リヴィアと同じ問いだった。


「洞窟で考える」


「考えてないのか」


「考えるための時間を、これから盗む」


 不安そうな顔は消えなかった。それでも、帝国の輸送船を待つよりはましだと、彼らはうなずいた。


 夕方に見た兄妹もいた。少年は妹の手と、小さな布包みを離さなかった。


 月が西へ傾く。


 最初の水運び船が倉庫裏の水門へ着いた。


 空の桶を戻すふりをして、帆布の下へ二十人余りずつ潜り込ませる。泣きそうになる子供を、親が胸へ抱き込む。平底船は荷揚げ場へ戻らず、造船所の陰へ滑り込んだ。


 二隻目。三隻目。


 見張りは出ていく船の数を数えていたが、戻った船がどこへ係留されたかまでは見ていない。


 半分を運び終えたころ、倉庫前で怒鳴り声がした。


「人数が足りない!」


 帝国兵が裏口へ走る。


 同時に、正面の桟橋で材木が崩れた。


 積み上げてあった長材が道いっぱいに転がり、兵士の進路を塞ぐ。中央に立っているのはサビーナだった。


「何をした!」


「年寄りの手が滑っただけさ」


「船が消えている。誰の命令だ!」


 サビーナは、ダリオの案内船を指した。


「あたしの船だ。あたしが持ち出させた。弟子は雇われたとおりに舵を取ってるだけだよ」


 帝国兵が彼女の両腕をつかむ。


 ダリオは船陰からその姿を見た。


 戻れば、親方と一緒に捕まる。進めば、親方を置いていく。


 サビーナがこちらを向いた。


「潮を逃すな!」


 迷う時間は終わった。


「残りを乗せろ!」


 ダリオは叫んだ。


 帆布は投げ捨てられ、隠れる必要がなくなった。職人たちが倉庫の水門を内側から開き、家族を次々に船へ乗せる。帝国兵が長材を乗り越える間に、最後の平底船が岸を離れた。


     *


 十一隻の民間船が、暗い水路へ一列に入った。


 先頭には浅瀬を知る船大工を乗せ、ダリオの案内船は最後尾につける。引き潮が船団を南へ運ぶが、船ごとの速さは揃わない。人を詰め込んだ平底船は、曲がるたびに船腹を泥へ擦った。


「前を止めろ! 間を空けすぎるな!」


 ダリオの声が船から船へ伝えられる。


 背後で角笛が鳴った。


 帝国の巡回軽ガレー船が、造船所裏へ回り込んでくる。船首の火籠が夜の水面を照らした。


「全船停船せよ! 接収財産の窃取および住民誘拐の疑いがある!」


「自分の足で乗った!」


 職人の一人が叫び返す。


 帝国船の櫂が速まった。


 ダリオは舵を握り、足裏へ伝わる流れを探った。水の冷たさが右から左へ細く走る。だが、正しい筋がどこかは測らなければ分からない。


「測鉛を落とせ!」


 案内船の船首から鉛が投げられる。


「一尋半!」


 後ろの帝国船には浅すぎる。だが家族を満載した船も、少しでも岩へ寄れば動けなくなる。


 前方で悲鳴が上がった。


 一番遅い平底船が泥州へ船首を突っ込み、列から外れかけている。ほかの船は潮に乗り、先へ進んでいた。


「ダリオ、先へ行け!」


 平底船の船頭が叫んだ。


 自分の案内船なら、帝国船が追いつく前に浅瀬を抜けられる。


 一隻だけなら。


「綱を投げろ!」


 ダリオは舵を切り、泥州へ戻った。


「船尾へ人を寄せろ。子供は動かすな! 合図で全員、右へ!」


 綱がつながる。案内船が引き、平底船の乗員が重さを移した。泥が船底を吸い、舵柄が震える。


 帝国船から矢が飛んだ。暗い水へ突き立つ。


「ダリオ・アルケス! 停船しろ!」


 帝国士官の声が響いた。


「接収妨害、住民誘拐、反乱扇動の罪で拘束する!」


「まだ一つも裁判をしてないだろ!」


 ダリオは綱を握る船員へ叫んだ。


「今だ、右へ寄れ!」


 平底船が泥から外れた。


 二隻が浅い流れへ戻る。追ってきた帝国船の櫂が一斉に底を叩き、乾いた音を立てた。櫂の動きが乱れ、船首が横を向く。


 ダリオは追ってきた帝国船を振り返らなかった。前には十隻がいて、その一隻ごとに家族が乗っている。


 潮の冷たさ、岩へ当たる波音、測鉛の深さを一つずつ確かめ、船団を進めた。


 やがて崖の影に、海蝕洞の黒い入口が現れた。


 一隻ずつ中へ入れ、人数を数える。


 最後の案内船が岩陰へ収まったとき、東の空がわずかに白み始めていた。


 三百人。十一隻。


 全員がいた。


 歓声は起きなかった。洞窟の奥には救難用の水甕と乾いた薪があるだけで、これほどの人数を養う備えはない。助かった者たちは暗闇の中で家族を確かめ、次に、乏しい荷物を見た。


 帝国船からは逃れた。飢えと渇きから逃れたわけではない。


 ダリオは舵から手を離した。指が固まり、すぐには開かなかった。


 七年かけて手に入れた船で、最初に運んだのは自分の自由ではなかった。


 帝国から奪い返した、三百人の命だった。


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