02_接収される海
接収印は、まだ濡れていた。
ダリオは革袋を腰へ押し込み、案内船の船腹へ手を伸ばした。指先で端を起こせば剥がせる。紙の下の塗料まで削ることになっても、こんなものをつけたままにはしておけない。
手首を横からつかまれた。
「親方、離してくれ」
「嫌だね」
サビーナ・ロッサは鍵を握った手で、弟子の腕を押し戻した。五十二歳の水先案内人は、帝国兵の槍先を前にしても眉一つ動かさない。
「俺が買う船だ」
「まだ金を受け取ってない。今はあたしの船だ」
「だったら親方が剥がせ」
「船一隻の話じゃない。目を開けな」
サビーナが顎を振った。
桟橋の先では、兵士たちが係留船を一隻ずつ回っていた。漁船も、荷船も、港内で使う曳き船も、船腹へ同じ印を押されている。造船所の入口には帝国兵が二人立ち、運び出そうとした材木を戻させていた。
周囲には船主や職人が集まっていたが、誰も印へ手を出せない。先遣軽ガレー船の甲板では、弩を持った兵がこちらを見下ろしている。
「触れば拘束する」
近くの帝国兵が言った。
ダリオはサビーナの手を振りほどいた。
「公認航路も守れない連中が、港の規則は守らせるのか」
兵士が槍を持ち直す。
「ダリオ」
今度はリヴィアの声だった。
彼女は少し離れた場所で記録帖を開いていた。視線だけで、兵士の胸元と接収印を交互に示す。ここで殴り合えば、それも記録される。帝国の違反と並んで、ダリオの罪として。
理屈は分かった。分かったことと、腹が立たないことは別だった。
「印を押した時刻も書いておけ」
「そのつもりよ」
東の海から、角笛が鳴った。
一度では終わらなかった。低く長い音へ別の角笛が重なり、港の石壁を震わせる。
霧の向こうで、無数の櫂が水を打ち始めた。
*
最初に現れたのは軽ガレー船だった。
一列になった八隻が霧を切り開き、港外へ広がる。今朝、商船の進路を横切った船も、その中へ戻っていった。
続いて、より長く重い船影が姿を現した。中型戦闘ガレー船。衝角を低く突き出し、甲板へ弩兵と槍兵を並べている。二十四隻まで数えたところで、ダリオは船種の違う影へ目を移した。
喫水の深い輸送船が八隻。帆柱の間から、積み上げた樽、馬を降ろすための歩み板、予備の櫂が見える。
合わせて四十隻。
すべてが戦闘艦ではない。それでも、アマルタが持つ中型ガレー船は五隻だけだ。その五隻にも、もう帝国兵が見張りとして乗り込んでいる。
「港へ入れる気か」
ダリオはつぶやいた。
「半分は外へ置くよ」
サビーナが答えた。
「あの喫水で全部押し込めば、味方同士で舵も切れなくなる。指揮官が馬鹿じゃなければね」
帝国艦は、彼女の予想どおりに動いた。軽ガレー船が港口と北航路を押さえ、中型船の一部だけが港内へ進む。輸送船は互いの間隔を保ち、投錨できる深さで止まった。
知らない海へ力任せに入ってきた動きではない。
霧がさらに薄れ、中央の旗艦に提督旗が上がった。港の帝国兵が一斉に姿勢を正す。
「レグナ帝国海軍提督、カシアン・デキウス閣下の入港である!」
先遣隊の士官が声を張った。
その名だけは、忘れようがなかった。
七年前、五都市の艦隊を分断し、父レアンドロ・アルケスの旗艦を降伏させた男。
ダリオは処刑台を見ていない。父を倒した敵の顔も知らない。それでも、敗戦を語る者は皆、最後にカシアンの名を口にした。
旗艦の船首に、一人の男が立っていた。遠すぎて顔は分からない。だが、何十隻もの船が間隔を乱さず止まり、各艦が決められた位置へ収まっていく。その動きだけで、誰の命令が海を満たしているかは分かった。
「親方」
「なんだい」
「あの船、買うのを今日でやめてもいいか」
「銀貨は返さないよ」
「まだ渡してない」
サビーナは鼻を鳴らした。冗談を返せるうちは、槍へ飛びかかる心配はないと判断したらしい。
*
帝国使節の布告は、造船所前の広場で行われた。
軍船から降りた帝国兵が広場を囲み、その外側を船大工、船主、荷役人、漁師たちが埋める。造船所の大扉は開いているのに、仕事の槌音は一つもしなかった。
白い石段の上に、最高執政官ルシオ・モレトが立っていた。
七年前より髪に白いものが増え、頬が削げている。それでも、感情を表へ出さない立ち方は変わらない。
父を帝国へ差し出す最後の一票を投じたときも、あの顔だった。
その後でダリオを処刑させず、サビーナのもとへ預けたのもルシオだった。一人を死なせ、一人を生かした。そのどちらについても、謝罪も弁明もしなかった。
帝国使節が勅書を開く。リヴィアはレウカから派遣された調査官として、石段の脇に立っていた。
「新皇帝陛下の勅命を伝える。アマルタ市は、帝国総督とその官吏の常駐を受け入れること」
群衆から低い声が上がった。
「第二に、造船所およびアマルタ都市艦隊の管理権を帝国海軍へ移すこと。第三に、エリド海峡通行税の徴収権を帝国へ移管すること。以上は海峡の恒久的な安全と、公平な通商を回復するための措置である」
公平な通商。
今朝、公認航路を横切った帝国船の衝角が、ダリオの脳裏へ浮かんだ。
造船所の書記が帳簿箱を抱えて出てきた。帝国兵は箱を取り上げ、封をした。別の兵たちはアマルタ艦の渡し板を塞ぎ、乗員を下船させている。
ルシオは最後まで口を挟まなかった。
「勅書の原本と、要求の根拠となる旧盟約の条項を確認したい」
読み上げが終わると、静かな声で言った。
「五都市と帝国の盟約には、要求を受けた都市が回答を整えるための交渉期間が定められている。その期間中、都市の財産と統治権は現状を維持されるはずだ」
「艦隊は秩序維持のために進駐した。要求への回答とは別問題である」
「造船所を封じ、都市艦へ兵を乗せることを、現状維持とは呼ばない」
ルシオの口調は変わらない。怒鳴りもせず、拒絶もしない。その落ち着きが、ダリオにはかえって腹立たしかった。
七年前にも、この男は時間を買った。その代価が父だった。
「即答はしない」
ルシオは言った。
「旧盟約に基づく交渉期間を要求する。アマルタ市会の回答は、その後に文書で出す」
帝国使節は旗艦のほうを見た。しばらくして、勅書を巻く。
「盟約に定められた期間は認める。ただし帝国艦隊は移動しない。接収対象への立ち入りも禁ずる」
ルシオが得たのは、回答を書くための時間だけだった。その間にも、船と造船所は帝国兵の手の中にある。
ダリオが石段へ近づこうとすると、サビーナが横へ並んだ。
「四十隻に聞こえる声で怒鳴るつもりかい」
「一人には聞こえる」
「なら、今は腹の中へしまっときな。怒鳴る相手はこれから増えるよ」
ダリオは足を止めた。
*
リヴィアは、港の記録所で三種類の文書を並べた。
先遣軽ガレー船が提出した入港記録。先ほど読み上げられた帝国の勅書。その勅書を受領したアマルタ側の時刻記録。
「見たとおりに話して」
記録机の向かいに座らされたダリオは、腕を組んだ。
「帝国船が規則を破り、俺の船を奪った」
「後半はまだあなたの船ではなかったでしょう」
「親方と同じことを言うな」
「見たことだけ。先遣船を最初に確認した位置と、進行方向は?」
ダリオは北航路とアマルタ港口を描いた略図へ指を置いた。櫂音を聞いた方角、帝国船が霧から現れた位置、商船が避けた向きを順に示す。
リヴィアは余計な言葉を足さず、証言を書き取った。
「これで違反だと証明できるのか」
「公認航路の横断は記録できる。でも、操船上の過失なのか、帝国艦隊全体の命令なのかは別の問題よ」
「目の前で船を取り上げているのに?」
「だからこそ、混ぜてはいけないの」
ダリオが言い返す前に、記録所の外で声が上がった。
造船所の門前で、帝国兵が職人たちを止めていた。名前、住居、家族の人数を聞き、板へ書きつけている。
「仕事場へ入るのに、なぜ子供の数まで答える必要がある」
一人の船大工が抗議した。
「接収財産を管理するためだ」
帝国兵は同じ答えを繰り返した。
ダリオは記録所を出た。門へ近づくと、帝国士官が腕を上げて止める。
「立ち入りは禁止されている」
「俺は水先案内人だ。中に道具を置いている」
「名を言え」
「先にそっちが名乗れ」
士官の顔が険しくなったところへ、旗艦から来た伝令が耳打ちした。
士官はダリオを見直した。
「ダリオ・アルケスか」
ダリオは答えなかった。
「カシアン提督の命令だ。お前には危害を加えるな。ただし行動は記録しろ」
今朝着いたばかりの提督が、なぜ自分の存在を知っている。
ダリオが旗艦を振り返るころには、伝令はもう背を向けていた。
「ずいぶん偉い男に目をつけられたね」
追いついてきたサビーナが言った。
「監視されるなら、案内料を取るべきだった」
「交渉してみな。槍一本ぶんくらいは払ってくれるかもしれないよ」
笑えなかった。
*
日が傾き始めたころ、帝国側から追加の文書箱が届いた。
ルシオ、アマルタの書記、リヴィアが、記録所の長机を囲む。ダリオは証言への署名を終えていたが、造船所の門が開かないかぎり帰る気になれず、壁際に残っていた。
最初の巻物には、接収される船、船台、材木、帆布、工具が並んでいた。
二つ目を開いたリヴィアの手が止まった。
「これは、物品の一覧ではありません」
ルシオが文書を受け取る。
船大工。櫂職人。帆職人。綱職人。
名前の横には年齢と住居、その下には妻や夫、子供の人数が記されていた。頁をめくっても、同じ欄が続く。
「何人いる」
ルシオが尋ねた。
書記たちが頁ごとの人数を拾い、声を潜めて合計する。
「家族を含めて、およそ三百人です」
広場で帝国使節と向き合っていたときにも変わらなかったルシオの顔から、初めて表情が消えた。
ダリオは、昼間の光景を思い出した。
門前で聞かれていた名前。住居。子供の数。
帝国兵は、造船所を守るために記録していたのではない。
運び出すために数えていたのだ。
接収されようとしているのは、船だけではなかった。
船を造り、櫂を削り、帆を縫い、この海で生きてきた人間そのものだった。




