01_霧の中の再会
開いていただきありがとうございます。
本日は3話投稿します。(12時、18時)
明日以降は毎日投稿(7時)予定です。
霧の中では、船は目より先に足裏へ姿を見せる。
板一枚を隔てて響く波。荷を満載した船腹の重いうなり。舵を切るたび、船尾から船首へゆっくり伝わる軋み。
ダリオ・アルケスは濡れた舷側に手を置き、大型商船の息遣いを数えていた。
晩春の白い霧は、十歩先の帆柱まで半分呑み込んでいる。帆は絞られ、船は北の公認航路を慎重に進んでいた。見えない水面のどこかで、潮が船腹を低く叩いている。
「アマルタの鐘が聞こえる前に日が暮れるぞ」
樽を固定していた船員がぼやいた。
「遅く着けば、港で一晩余計に飲める」
「積荷番をしながらか?」
「そこまで面倒を見る契約じゃない」
笑いが起きた。ダリオも口元を緩めたが、頭の中では到着後に受け取る銀貨を数えていた。
今回の案内料を足せば、ようやく届く。
サビーナの小さな案内船。古く、帆には何度も継ぎが当てられ、二人も乗れば窮屈になる。それでも雇い主の顔色をうかがわず、自分で仕事を選べる船だ。
借りた船では、危険だと思っても最後の決定は船主か船長にある。引き返せば報酬を削られ、進めば船底を削る。自分の船なら、失う金も、助ける相手も、自分で決められる。
一隻だけなら、責任の重さも知れている。
七年働いて、最後の一日だった。
「ずいぶん嬉しそうですね」
背後から女の声がした。
旅装の若い女が、船尾楼の下に立っていた。肩から提げた革鞄に、レウカ神殿国の印が下がっている。乗船したときにも見かけたが、言葉を交わすのは初めてだった。
「霧が好きに見えましたか」
「いいえ。霧の向こうにあるものが好きそうに見えました」
妙に遠慮のない言い方だった。
ダリオは女の顔を見直した。七年前の面影など、探そうと思えば誰の顔にも見つかる。そう決めて視線を海へ戻した。
「港には仕事と飯と、まだ俺のものじゃない船がある。それだけです」
「まだ?」
「今日までは」
女は何か言いかけた。そのとき、霧の奥から櫂の音が届いた。
規則正しく水を噛む、軽い音だった。
ダリオは舷側から手を離した。
「船長」
年長の商船長はもう船尾で耳を澄ませていた。
「聞こえている。小型のガレーだ」
「航路の内側にいます」
「まさか。ここは大型船の道だぞ」
櫂音がいったん霧に沈み、今度は前方の右寄りから返ってきた。近い。しかも速力を落としていない。
女も霧へ顔を向けた。
「公認航路を横切っているのですか」
「そうでなければ、海のほうが動いたことになる」
船長が見張りへ鐘を鳴らさせた。低い音が霧へ吸い込まれる。
返事の代わりに、鋭い角笛が鳴った。
白い壁を破って、細長い船首が現れた。濡れた衝角、その上には帝国旗。左右の櫂が一斉に水を押し、軽ガレー船は商船の前を斜めに横切ろうとしていた。
「帝国船だ! 向こうが優先を求めている!」
見張りが叫ぶ。
「舵を切れ。離れろ!」
船長の命令で、舵手が舵をいっぱいに回した。
「そっちは浅い!」
ダリオは怒鳴った。
「ぶつかるよりはましだ!」
大型商船が鈍く身を傾けた。荷が軋み、甲板を樽が一つ転がった。船員が飛びついて止める。
帝国船の櫂がすぐ前を通り過ぎた。激しく掻き乱された水が、商船の船首をさらに外へ押す。
その瞬間、冷たさがダリオの掌を刺した。
霧で濡れたせいではない。船底のずっと下を、細い流れが逆向きに擦っている。舌の奥に強い塩味が広がり、甲板の傾きが実際より深く感じられた。
近い。
何が、どれだけ近いかは、それだけでは分からない。
「測鉛!」
船首の船員が縄のついた鉛を投げた。
「三尋!」
さっきまで五尋あった。
「舵を戻せ!」
「まだ帝国船が――」
「もう抜けた。櫂音を聞け!」
ガレー船の櫂音は左の後方へ移っていた。代わりに、右前方から砕ける波音が聞こえる。短く、硬い。岩に当たる音だ。
「船長、このままなら腹を裂きます」
「帆を落とせ!」
「全部落としたら潮に横腹を向ける!」
船長がダリオを振り返った。その間にも船底の違和感が強くなる。耳鳴りがして、霧の中の距離が一瞬伸びた。
待てなかった。
「前の帆だけ落とせ! 後ろは残せ! 舵手、俺の手を見るんだ。船首の三人は測鉛を絶やすな。ほかは荷を動かすな、船を傾けるぞ!」
声が甲板を打った。
船員たちは船長ではなく、ダリオを見た。
「早くしろ!」
前帆が落ちる。船首の勢いが死に、残した帆が船尾を押した。ダリオは片腕を上げ、潮の押し返す間を待った。
「今だ。戻せ!」
舵手が全身で舵を回す。
「二尋半!」
岩を洗う音が、もう一度近くで弾けた。霧の下に黒い影が一瞬浮かぶ。暗礁の先端だった。
商船はすぐには向きを変えない。重い船腹を軋ませ、船尾から少しずつ深い側へ滑っていく。
「そのまま。切りすぎるな」
「三尋!」
甲板の誰も息をしなかった。
「四尋!」
ダリオは上げていた手を下ろした。
「帆を戻せ。ゆっくりだ」
押し殺されていた息が、甲板中から一度に漏れた。
船長は舵手の肩を叩き、それからダリオを見た。怒るかと思ったが、深く息を吐いただけだった。
「俺の船で、勝手に命令しやがって」
「沈めば俺の案内料も出ない」
「可愛げのない若造だ」
「港で払ってくれれば、もう会いませんよ」
笑おうとした声は、思ったより乾いていた。危険が去ると、耳鳴りと吐き気だけが残る。ダリオは舷側をつかんだ。
「――ダリオ?」
女の声がした。
先ほどまでとは違う。役人の正確な声ではなく、ずっと昔、潮読みを競った少女の声だった。
ダリオは振り返った。
「やっぱり、ダリオ・アルケスなのね」
七年という歳月が、霧より先に二人の間から消えた。
「リヴィア」
名は驚くほど簡単に出た。
リヴィア・メルテは笑いかけ、途中でやめた。何から話せばよいか分からないのは、彼女も同じらしい。
「気づいていたの?」
「似ているとは思った」
「それで黙っていた?」
「七年もたてば、人違いもある」
「顔なら見間違えたかもしれない。でも、危ない海で人に命令するときの声は変わっていないわ」
懐かしさが胸へ入りかけた。ダリオは先に扉を閉めた。
「神殿の仕事か」
「盟約官補よ。帝国の船と命令が、古い盟約に反していないか調べに来たの」
「正式な盟約官になったと思っていた」
「今回の任務を問題なく終えれば、たぶんね」
そこでリヴィアはわずかに顔をしかめた。初日から、帝国船が公認航路を破るところへ居合わせたのだ。問題のない任務とは、もう呼びにくい。
「さっきの船を見れば、調査は半分終わったな」
「見たことと、証明できることは別よ」
それも彼女らしい答えだった。
「俺の仕事は終わりだ。港へ着いたら船を買う。帝国も盟約も、今日からは雇い主に任せる」
リヴィアは反論しなかった。ただ、先ほど帝国船が消えた霧を見た。
*
アマルタ港では、霧の中から槌音が降ってきた。
造船所の船台、積み上げられた材木、油と海藻の匂い。大型商船が埠頭へ綱を取るころには、白い石壁も輪郭を取り戻していた。
船長から革袋を受け取ると、ダリオは重さを掌で確かめた。
「数えないのか」
「足りなければ、船を買う前に戻ります」
「二度と会わんのだろう」
「金が足りなければ別です」
船長の悪態を背に、ダリオは渡し板を下りた。
甲板を離れれば、船員たちが次の指示を求めるのは船長だった。ほんの少し前まで全員の命が自分の声へぶら下がっていたのに、もう誰もダリオを見ていない。
それでいい、と彼は思った。
大勢の視線が自分から外れていく安堵を、責任を果たした証しだと思うことにしていた。そのほうが、次も一人で海へ出られる。
船を救った。報酬を受け取った。あとは自分の一隻を持てば、今日の責任は今日で終わる。
目当ての案内船は、二つ先の桟橋にいた。
低い船腹。継ぎの当たった帆。船尾に立つサビーナ・ロッサが、鍵を指先で回している。見慣れた船なのに、その日だけは自分を待っているように見えた。
ダリオは革袋を持ち上げて見せた。サビーナが片方の眉を上げ、鍵を放るふりをする。
あと数歩だった。
「親方!」
呼びかけた声を、角笛が遮った。
港口を横切った帝国の軽ガレー船が、すでに軍用埠頭へ着いていた。帝国兵が列を作り、書記官らしい男が布告を読み上げている。
「皇帝の勅命により、帝国使節および艦隊本隊の到着まで、港内の船舶と造船設備を接収対象とする。所有者は移動、売買、改装を禁ずる――」
兵士たちが桟橋へ散った。船ごとに書面を示し、拒む船主を押しのけ、船腹へ接収印を押していく。
ダリオは革袋を握ったまま走った。
「待て。その船は――」
間に合わなかった。
帝国兵の手が、サビーナの案内船の船腹へ印を押しつけた。
親方の指で、鍵が止まった。
背後では、リヴィアが鞄から記録帖を取り出していた。ダリオは振り返らなかった。
掌の銀貨は、七年かけて、ようやく船一隻の値になった。
その船にはもう、帝国の印があった。




