26_潮の合流点
共同攻撃旗が上がると、残る十隻の船首が一斉に南へ向いた。
それまで追っていた帝国前衛は、目の前で獲物が反転したため速度を落とした。後ろから来る中型船は止まれない。先頭の軽ガレー船へ船首をぶつけ、長い櫂同士が絡んだ。
「北隊、二列へ開け! 中央を空けろ!」
ダリオの青白旗が上がる。
アマルタ、イスカラ、タヴェラの船が左右へ分かれた。沈没船の乗員を拾ったレウカ巡回船も、最後尾へ戻っている。中央には、帝国艦隊へ向かって伸びる水路だけが残った。
北岸の石堤で、アマルタの船大工たちが待っていた。
槌が鋲を外す。
三隻の古船が、係留索を断たれて潮へ出た。
帆柱を切り、甲板の荷をすべて下ろした無人船だった。船腹には穴を開けず、沈むまでの時間を長くしてある。その後ろから、縄で緩く束ねた浮材が流される。造船所から運んだ廃材、折れた帆柱、空樽。先端だけに、水をかけた帆布と油壺が結ばれていた。
無人船は空いた中央を通り、帝国前衛へ向かった。
「火矢を用意!」
「まだ放つな!」
ダリオは火を止めた。
燃やすのは、帝国船が浮材を避けられなくなってからだ。それも東端の一列だけ。水路全体を火で塞げば、沈む兵が逃げる場所までなくなる。
*
ダリオの位置から、南の岩列を回る細身の船首が五つ見えた。
テッサの先頭船は帆を畳み、片舷の櫂だけで岩を回る。後続は船一隻分の間隔を正確に保った。最後尾が暗礁を抜けた瞬間、南の潮が船団を北へ押し出す。
帝国斥候の軽ガレー船二隻が気づき、向きを変えた。
テッサは戦わなかった。
先頭船を輸送船団へ向け、二隻目と三隻目だけを斥候の前へ出す。鉤縄を投げず、矢も使わず、長櫂で相手の櫂先を叩く。斥候が避けた隙に、残る三隻が帝国後衛へ入った。
輸送船は戦闘艦より重く、動きが遅い。舵を守る兵も少ない。
ドレカ船員が船尾へ鉤をかけ、舵索を切る。輸送船同士をつないでいた曳航索も、斧で落とした。舵を失った一隻が横を向き、その腹へ後続の輸送船がぶつかる。
帝国後衛が止まった。
中央では軽ガレー船が前へ出たまま戦い、主力中型船は狭い北航路へ入っている。後ろの輸送船だけが南から切られた。
四十隻は、主力、軽艦、輸送船の三群へ分かれた。
それでも帝国艦隊は崩れなかった。
軽艦は二隻ずつ背中を合わせ、動けない仲間の外側へ矢を返す。輸送船では兵が切られた舵索を手で取り、長櫂を船尾から突き出して向きを戻そうとしている。主力の中型艦も、前の船へぶつからない間隔まで速度を落とした。
カシアン旗艦の信号は、三群すべてへ別々に届いていた。後衛は輸送船を捨てず、軽艦は勝手に外海へ逃げず、主力は共同艦隊を正面に残す。
分けただけでは勝てない。三群が互いを助けられない時間に、それぞれの動きを止めなければ、また一つに戻る。
「南隊、成功!」
信号役が叫ぶ。
ドレカの黒旗の下に、舵切断を示す白布が三枚並んだ。
テッサの先頭船が帝国後衛の船尾を横切り、共同旗艦から声の届く距離まで来た。
「待たせたな!」
「斥候二隻をやり過ごす時刻まで、作戦には書いてない」
「書いてあったら、帝国兵にも読める」
岩陰で動かず、五隻全部を半刻の水路へ通したのはテッサの判断だった。ダリオが焦って催促しなかったことより、入れる瞬間を逃さなかった操船のほうが難しい。
「今日の南航路は君の勝ちだ!」
テッサは一瞬だけ目を丸くした。
「海峡で一番は?」
「一日で決めるな!」
「負けた側はいつもそう言う!」
笑い声を残し、テッサの船は帝国輸送船の退路へ戻った。塩船奪還から続いた勝負に、その日一日の勝敗だけはついた。
帝国旗艦から、後衛救援の旗が上がる。
だが主力の後ろ二隻は、すぐに反転しなかった。共同艦隊を目前にして、自分だけ退けば戦列が崩れる。命令がもう一度上がってから、ようやく一隻が船首を回した。
その遅れが、旗艦と輸送船の間をさらに広げた。
*
古船の一隻が、帝国軽ガレー船へ当たった。
衝角のない丸い船首が、細長い船体を横へ押す。帝国船は櫂で離れようとしたが、後から来た浮材が櫂列へ入った。一本が止まり、隣の櫂が重なり、漕ぎ手の列が乱れる。
「東端へ火!」
アマルタ艦から火矢が三本放たれた。
油壺が割れ、浮材の端だけに炎が走る。帝国船は火を避けようと西へ寄った。そこにはまだ燃えていない古船と材木があり、前へ進めない。
共同艦隊は二列の外側から矢と投石を浴びせた。敵船を焼くためではなく、櫂を外そうと甲板へ出る兵を伏せさせるためだ。
「旗艦、合流点中央!」
見張りの報告と同時に、ダリオの足裏を強い冷たさが走った。
水の向きが変わる。
予定より早い。
東端の燃える浮材が、西へ流れるはずの線を外れ、共同艦隊の右列へ向かってきた。昨日測った合流点が通常より西へずれているため、満ち潮の逆流も広がっている。
「浮材、右列へ接近!」
帝国船を止めるはずの障害が、味方の退路を塞ごうとしていた。
「右列、北へ戻せ!」
反射的に命じかけ、ダリオは口を閉じた。
北へ戻せば、イスカラ船は自港へ退く線へ、タヴェラ船は河口へ続く線へ入る。一隻ずつなら安全だが、共同艦隊は二つに裂ける。カシアンの主力が中央を突破する。
冷たい感触だけでは、浮材がどこまで来るか分からない。
「昨夜の測深図! 第三線の値を読め!」
リヴィアが船尾の板から紙を外した。
「右列の位置は二尋半。西へ八十歩で三尋、そこから百二十歩で逆流です!」
「旗艦の速力!」
「櫂十六打で百歩!」
見張りが答える。
帝国旗艦は浮材を避けて西へ舵を切っている。あの大きさなら、三尋より浅い場所へは入れない。共同艦隊の小型船は二尋半を通れる。
ダリオは、精霊の警告を思わせる冷たさが示した位置と、測深値と、旗艦の進む速さを頭の中で重ねた。
当初の計画では、両列が中央へ寄り、動けない帝国前衛を挟む。
それでは燃える浮材と衝突する。
「計画を変える!」
信号役がダリオを見る。
「右列は西へ八十歩。第三線を南下! 左列は位置を保て。中央を閉じるな!」
「帝国旗艦が抜けます!」
「抜けさせる。三尋の境までだ」
青旗一本、白布二枚、速力維持の黄布。
昨日決めた共通信号が上がる。
右列最後尾のアマルタ艦から、受領旗が上がらない。
昨日まで大破していた一隻だった。船尾へ当てた新しい舵板が、急な逆流を受けて軸ごとずれている。艦長は長櫂を舵代わりにしようとしたが、燃える浮材の先端が左舷へ触れた。
濡らした帆布の上を火が舐め、継ぎ直した帆綱へ移る。
「最後尾、船を捨てろ!」
退避旗が上がる。
だが艦長は、隣のタヴェラ艦へ乗員を移したあとも一人残った。燃える船へ鉤縄をかけ、長櫂で船首を外へ押す。ここで放せば、浮材ごと前の二隻へ流れ込む。
「早く飛べ!」
サビーナの船から怒声が飛ぶ。
艦長は最後の鉤縄を舵柄へ結び、火のついた船を右列の外へ向けた。舷側から海へ飛び込み、タヴェラ船の綱につかまる。
無人になったアマルタ艦が浮材を抱えたまま列を離れた。炎は帆柱へ上がり、まもなく船尾が沈む。
新造艦で十六隻へ戻してから、決戦当日に失った二隻目だった。
右列の先頭はイスカラ船だった。西へ動けば、遠くにイスカラ港へ戻る外海航路が見える。自都市の倉庫が帝国軽艦に狙われているという報せも届いている。
それでも艦長は港へ向かわなかった。
測深図の第三線へ入り、八十歩で船首を南へ変える。後続のタヴェラ艦とアマルタ艦が、同じ場所で続いた。
最後尾となったアマルタ艦では、サビーナが舵を握っていた。親方から助言の旗は上がらない。受領の白布だけを返し、先行艦と同じ位置で船首を南へ向けた。
左列では、タヴェラの艦長が北岸の見張り塔を見ていた。塔は、河口沖に上がった黒煙を次の塔へ継いでいる。偽装用の麦袋を帝国船が焼いた煙だが、短い信号だけでは街が攻撃されたのか見分けられない。
左列も動かなかった。
レウカ巡回船は、海に落ちた帝国兵を見つけても単独では列を離れず、救難旗を上げて後方の専用船へ位置を伝えた。
ドレカ五隻は、帝国輸送船を沈める機会を捨てた。舵を切ったあとは深入りせず、命令どおり主力の退路へ回る。
五都市の船が、それぞれ守りたい方向へ走らなかった。
損失を共同で負い、救難を分担し、命令拒否を帰港後に裁くと書いた紙を、艦長たちが実際に守っているだけだった。
*
帝国旗艦が中央を抜けた。
共同艦隊の右列が西へ開いたため、カシアンには包囲が崩れたように見えたはずだ。旗艦と主力がその隙へ進む。
三尋の線へ入った瞬間、北から来た潮が船尾を東へ押した。
旗艦は舵を切る。だが右舷の櫂が浮材へ絡み、向きを戻せない。後続船は旗艦を避けて西へ寄り、船底を浅瀬へ擦った。
「一隻、座礁!」
次の船が避けようとして、さらに西へ出る。
「二隻目!」
右列は浅い第三線を通り、座礁船の外側へ回った。深い帝国船だけが、同じ道を追えない。
左列が中央の出口を狭める。
帝国主力は、燃える浮材、浅瀬、共同艦隊の二列に囲まれた。
カシアン旗艦から、全艦反転の旗が上がった。
後ろではドレカ五隻が退路へ入り、輸送船の横向きになった船体が水路を塞いでいる。軽ガレー船だけが狭い隙間を抜け、南東へ走った。
「逃走艦八!」
「追うな!」
ダリオは即座に追撃中止旗を上げた。
テッサの先頭船も、逃げる軽艦へ船首を向けかけて戻した。
帝国中型船七隻が暗礁へ乗り上げた。引き潮になれば船腹がさらに岩へ食い込み、修理して浮かべることはできない。
古船との衝突で三隻が浸水し、互いの重みで傾いた。燃える浮材を避けきれなかった二隻は帆と索具へ火が移る。もう一隻は、舵を失った輸送船と衝突して船首を割った。
沈没と焼失、合わせて六隻。
火を使ったのは東端だけだったが、風が変われば味方にも移る。アマルタ船員は矢を放つ手を止め、火消し桶を帝国船へ投げた。
「左列後方、衝突!」
損傷していたアマルタ艦へ、舵を失った帝国船が流れ込んだ。
船員は退避旗を上げる。レウカ救難船が寄り、残った者を移した直後、二隻の間で火が上がった。
決戦当日に失った三隻目だった。
海上には、折れた櫂、浮材、帆布、助けを求める兵が散らばっていた。勝敗を数える前に、救難船が旗の違いを問わず人を拾う。
それでも戦いは終わっていない。
逃げた軽艦八隻、修復不能の座礁船七隻、沈没・焼失六隻。
カシアン旗艦を含む主力十九隻が、退路を失って合流点の内側に残っている。
「八隻を今追えば、外海へ出る前に捕まえられます」
イスカラ艦長が信号を送ってきた。
「追わない」
ダリオは答えた。
逃げる八隻を取れば、勝利の数は増える。だが旗艦を残せば、十九隻はカシアンの命令でまだ戦える。合流点の潮が変わる前に制圧しなければ、夜まで殺し合うことになる。
「全艦、包囲を維持。救難船の水路を空けろ」
ダリオは共同旗艦を、金縁の旗へ向けた。
自分が敵船へ移れば、共同旗艦からは命令できなくなる。ダリオは昨夜決めた順序に従い、包囲指揮と信号運用をテッサへ委ねる旗を上げた。南にいる黒旗から、受領の白布が返る。
「俺が倒れても旗艦を沈めるな。降伏旗が上がったら射撃を止める。上がらなくても、日没前にもう一度勧告しろ」
信号役は復唱し、同じ文を残る全艦へ送った。
ダリオが持っていくのは剣と鉤縄だけだった。指揮権まで敵船へ持ち込まない。海上の戦いは、彼がいない間も同じ命令で続く。
「接舷隊は俺についてこい。カシアンの旗艦へ乗る」
帝国旗艦も、衝角をこちらへ向けた。
七年前に父の船が止まった海で、二つの旗艦が近づいていった。




