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海峡の旗 ―潮と暗礁で帝国艦隊を破る―  作者: 八夜巡


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27_生きて降りよ

 二つの旗艦が船腹をぶつけた。


 鉤縄が飛び、互いの舷側へ食い込む。帝国兵が一本を切っても、次の二本がかかった。波に押された船体が離れかけ、また激しく当たる。


「今だ!」


 ダリオは綱をつかみ、帝国旗艦へ飛び移った。


 甲板は右へ傾いていた。浮材へ絡んだ櫂が水中で船腹を引き、帆は半分落ち、切れた索が頭上で揺れている。


 着地した足元へ槍が来た。


 ダリオは剣で穂先を外し、槍兵の胸へ肩からぶつかった。倒れた兵を踏まず、傾斜の下へ押し流す。後ろからアマルタ兵とドレカ船員が続いた。


「旗艦を燃やすな! 帆柱を倒すな!」


 敵船を奪うためだけではない。帆柱が倒れれば、海へ落ちた兵も両船の救難路も潰す。


 帝国親衛隊は船尾楼の階段に盾を並べた。甲板の幅いっぱいを塞ぎ、槍の穂先を一列に出す。正面から押せば、味方が海へ落ちる。


「左舷を空けろ!」


 ダリオは接舷索を一本緩めさせた。


 共同旗艦が波に引かれ、帝国船の左舷を外へ引く。二つの船体が角度を変え、帝国旗艦の傾きがさらに深くなった。


 盾列の端にいた兵が足を滑らせる。


 ドレカ船員がその隙へ鉤竿を入れ、盾を横へ引いた。アマルタ兵が階段の一段目を取る。


 帝国兵は倒れた仲間を踏まず、二列目の盾を前へ送った。乱れた端がすぐ閉じる。短槍が一段下から突き出され、先頭のアマルタ兵の腿を貫いた。


 男が崩れる前に、後ろの船員が胴へ腕を回した。盾列を押す人数は一人減る。負傷者を引けば階段を明け渡す。残せば、次の波で海へ滑り落ちる。


「下へ送れ。戻る二人で運べ!」


 ダリオは階段脇の切れた帆綱を取った。輪を作り、負傷者の胸へ回す。下の共同旗艦から船員が綱を引き、傾斜を滑らせるように男を下ろした。


 帝国兵がその間へ踏み込む。


 ダリオは帆綱を放さず、張った綱を槍の柄へ巻きつけた。波で二隻の距離が開く。綱が横へ引かれ、槍兵の腕ごと盾列の外へ持っていった。


「今だ、左端!」


 ドレカ船員が盾の下へ潜り、アマルタ兵が上から押す。盾は甲板へ倒れたが、帝国兵は武器を捨てなかった。短剣へ持ち替え、膝をついたままダリオの脚を狙う。


 剣の峰で手首を打つ。刃が落ちても、兵はダリオの腰へ組みついた。


 二人の身体が傾斜を滑った。


 舷側の向こうに、火の浮いた海が見える。ダリオは帆綱を片腕へ巻き、帝国兵の襟をつかんだ。敵だけを落とせば進める。だが男もろとも綱へぶら下がり、後ろの船員に二人を引き戻させた。


「なぜ助けた」


 甲板へ転がった帝国兵が息を切らす。


「降伏の命令を聞く者を、一人でも多く残すためだ」


 武器を遠くへ蹴り、縛る役は後ろへ任せた。


 そのあいだに、階段の上では親衛隊がもう一列を作っていた。旗艦を取る一歩ごとに、負傷者を下ろす道も残さなければならない。早さだけなら、殺して進むほうが速かった。


 それでも接舷隊は、倒れた者を両船の間へ置かなかった。


 ダリオは中央を駆け上がらず、倒れた帆の影へ入った。切れた索をつかみ、船の揺れに合わせて右側へ回る。帝国兵が影へ槍を突き込んだときには、もう反対側へ出ていた。


 剣の技だけなら、親衛隊のほうが上だった。


 だが彼らは傾いた甲板を平らな地面のように守ろうとする。ダリオには、次の波でどちらへ重さが移るか足裏から分かった。


「押せ!」


 船体が左へ戻る瞬間に、味方が盾列へぶつかった。


 階段が開いた。


     *


 カシアンは船尾楼にいた。


 兜を脱ぎ、長剣を両手で構えている。そばには副官と親衛兵が六人。帆柱の上では金縁の帝国旗がまだ下りていない。


「ダリオ・アルケス」


 戦場の騒音の中でも、声は聞こえた。


「七年前より、いい艦隊だ」


「俺の艦隊じゃない。五都市から借りてる」


「借りた命令権で、四十隻を破ったのか」


「十九隻はまだ破ってない」


 ダリオは剣先を下げなかった。


「旗を降ろせ。残った船も降伏させろ」


「私を殺しても、各艦長は戦い続ける。帝国海軍に、提督一人のため降伏する規則はない」


「なら、生きたまま命じろ」


 カシアンの副官が一歩出た。


「提督へ無礼を――」


「下がれ」


 カシアンが止めた。


「これは艦隊の指揮を争う戦いだ」


 親衛兵たちが道を空ける。ダリオの後ろでも味方が止まった。


 一騎打ちで決まる戦争ではない。それでも、ここで全員が斬り合えば、降伏の声を出せる者がいなくなる。


 カシアンが先に踏み込んだ。


 長剣が上から落ちる。ダリオは受けず、傾斜の下へ退いた。刃が手すりを削る。


 二撃目は横から来た。今度は剣を合わせたが、腕ごと押される。肩が切れた索へ当たり、背後に逃げ場がなくなった。


 ダリオは鍔で押し返そうとした。カシアンは力を緩め、急に刃を引く。支えを失ったダリオの上体が前へ流れ、返った柄頭が頬へ当たった。


 視界が白く弾けた。


 口に血の味が広がる。足裏の感覚まで一瞬遠のいた。


 カシアンは追い急がない。ダリオが傾斜の下へ戻る道を塞ぎ、船尾楼の狭い側へ追い込む。七年前、都市艦を一つずつ離して破ったのと同じだった。逃げたい方向を見せ、その先へ剣を置いている。


 ダリオはわざと左足を滑らせた。


 カシアンの切っ先が、起き上がる位置へ先回りする。ダリオは起きず、甲板へ片手をついたまま切れた索を蹴った。頭上で垂れていた滑車が振れ、カシアンの肩へぶつかる。


 致命傷にはならない。長剣が半歩遅れただけだった。


 その半歩で、ダリオは帆の影へ逃れた。


 カシアンの剣技は正確だった。船が揺れても腰が崩れず、短い足運びで距離を詰める。ダリオが一度打つ間に、二度刃が返る。


 頬を浅く切られた。


 次は腿を狙われ、外套の裾が裂ける。


 純粋に打ち合えば負ける。


 ダリオは、船尾に残る水面を見た。舵を失った旗艦は、潮の合流点でゆっくり左へ回っている。あと二度の波で、落ちた帆が風を受け、傾きが逆になる。


 カシアンが三度目に踏み込む。


 今度の切っ先は、胸ではなく剣を持つ指へ来た。ダリオが刃を合わせれば、そのまま鍔を押さえて武器を落とす狙いだ。


 ダリオは受けなかった。


 指一本ぶん身体を開き、刃を肩の鎖帷子へ滑らせる。金属環が三つ切れ、熱い線が皮膚へ走った。浅い傷と引き換えに、カシアンの長剣は身体の外へ流れる。


 ダリオは帆の影へ下がった。


 陽が雲から出て、帆布の裂け目から光が差す。カシアンの顔へ白い線が走った。目を眩ませるほどではない。ただ一瞬、足元へ落ちた影の境が消えた。


 その瞬間に旗艦が回った。


 甲板の傾きが戻る。


 カシアンは踏み込んだ足へ重さを移し、崩れない。だが長剣の切っ先が、予定より指二本ぶん下がった。


 ダリオは刃の下へ入り、鍔で相手の手首を打った。


 長剣が落ちる。


 石造りの床なら、カシアンはすぐ拾えただろう。


 落ちた剣は傾いた甲板を滑り、排水穴へ鍔を引っかけた。カシアンが手を伸ばすより先に、次の波で船尾側へ跳ね、階段の下まで落ちていく。


 カシアンは腰の短剣へ手を伸ばす。ダリオはその腕を索へ押しつけ、剣先を喉へ向けた。


 親衛兵が武器を構え直した。


「動くな!」


 ダリオの後ろでも、味方が弓を引く。


 一人が動けば、船尾楼は血で埋まる。


「私を殺せ」


 カシアンは剣先から目を逸らさなかった。


「それで帝国の兵が武器を置くと思うな」


「殺さない」


「復讐するために来たのではなかったのか」


「七年前は、そう思ってた」


 父を破った男の喉へ、剣を入れることはできる。


 だがそれで父の名が戻るわけではない。残る十九隻が提督を奪い返そうと戦えば、帝国兵も五都市の船員もさらに死ぬ。


「あんたは父の降伏を受け入れた。兵の武器をまとめて、負傷者を治療し、捕虜交換を上申した」


「帝国政府は処刑した」


「あんたの条件は違った」


 喉元の切っ先は動かさなかった。


「同じものを返す。旗艦を含む十九隻は武器を置く。将兵は名を記録し、負傷者を治療する。私物は奪わない。略奪や住民移送に関わった疑いがある者だけ、別に審理する。あんたは捕虜として生きて部下をまとめろ」


「帝国軍人の名誉を残すと?」


「海へ飛び込むことを名誉とは呼ばない。生きて降りろ」


 カシアンは周囲を見た。


 旗艦の外には、座礁した帝国船、燃える帆、兵を拾うレウカ救難船がある。八隻の軽艦はすでに外海へ消えた。残る主力は退路を失い、それでも帝国旗を上げて待っている。


「五都市は、降伏条件を守れるのか」


「俺一人が約束するんじゃない」


 ダリオは共同艦隊の信号旗を指した。


「捕虜、略奪、審理は盟約に書いてある。俺が破れば、五都市共同の審理にかけられる」


 カシアンの口元がわずかに歪んだ。


「敗者へ法を示すために、勝者も縛られるか」


「それが嫌なら、ここで戦え」


 長い沈黙のあと、カシアンは短剣から手を離した。


「副官。全艦へ送れ」


 副官は動けなかった。


「提督」


「艦隊命令だ。旗を降ろし、武器を甲板中央へ集めよ。負傷者の救助を優先する」


 帝国旗艦の金縁旗が下りた。


 白布が上がる。


 合流点に残った船から、一隻ずつ帝国旗が降りていった。


     *


 歓声は、すぐには起きなかった。


 沈みかけた船から、まだ人の声がしていた。


 五都市の船員は武器を置き、鉤竿と綱を持った。帝国兵も、集めるはずの武器を脇へ寄せ、同じ海から負傷者を引き上げる。燃える船では帆を切り落とし、火が船倉へ入る前に水桶を回した。


 レウカ救難船の甲板には、負傷者が旗を分けず並べられた。


「歩ける者は船首! 出血の多い者を中央へ! 息のない者は動かすな!」


 治療役の指示が飛ぶ。


 ダリオは自分の頬の血を拭い、海へ落ちた兵を引き上げた。帝国の鎧は水を吸って重い。味方二人と綱を引き、ようやく舷側を越えさせる。


「水を」


 帝国兵がかすれた声で言った。


 五都市の水袋は、勝者だけの分を残さず回された。


 昼すぎ、ダリオは負傷者を運ぶ列の向こうにリヴィアを見つけた。彼女は記録箱を担架の台へ変え、意識のないドレカ船員の頭を支えていた。


 目が合ったのは一瞬だけだった。


 互いに近づかなかった。ダリオの前には捕虜の武器と降伏船の確認があり、リヴィアの前にはまだ収容されていない負傷者がいた。


 リヴィアは二本の指を上げた。盟約の夜に交わした、戻るという約束を確かめるような短い合図だった。


 ダリオも同じ指を返した。


 それだけで、二人はそれぞれの列へ戻った。


 捕虜の武器は船ごとに数え、持ち主の名と一緒に記録する。私物を奪った者は、その場で艦長へ申し出させた。造船所の職人と家族の強制移送、タヴェラでの穀物焼却、救難船への攻撃に関わった疑いがある者は、証言と所属だけを書き、一般捕虜と別の船へ移す。


 疑いだけで罰しない。


 だが、勝った勢いで記録を消しもしない。


 夕刻までに、損害の仮集計が出た。


 帝国艦隊は、沈没・焼失六隻、座礁して修復不能七隻、降伏・鹵獲十九隻、逃走八隻。


 五都市側は三隻を失った。


 戦死はおよそ百八十人。負傷者は、軽傷を含め四百二十人ほど。名簿の空欄はまだ残り、海へ流された者の数は夜になっても確定しない。


 四十隻を止めた数字より、百八十の名を書く時間のほうが長かった。


     *


 日没前、リヴィアと双方の書記が帝国旗艦へ来た。


 傾いた机を縄で固定し、三十日間の現地軍事休戦文書を作る。


 カシアン指揮下の帝国遠征軍は、五都市の港、河口、倉庫、民間船を攻撃しない。共同作戦登録十六隻は逃走した八隻を追わず、帝国領へ攻撃を広げない。両軍が引き取った捕虜は治療と給水を受け、正式交渉まで共同で管理される。遭難船は、両軍の救難範囲で旗にかかわらず救助する。


 カシアンが、指揮下の帝国遠征軍に限って、遠征艦隊指揮官として署名した。


 ダリオは、共同作戦登録十六隻の作戦指揮官として、戦時盟約で事前に委ねられた範囲に限って署名した。


 剣を交えた二人の名が、同じ紙に並んだ。


 両名の署名で、三十日間の現地軍事休戦は軍事上ただちに発効した。ダリオは五都市全体を、カシアンは帝国全体を代表していない。政治上の延長も、正式な講和も決めない。


 同時に、戦時盟約の終了条項が働き、ダリオの作戦指揮権は各都市へ戻った。


「三十日で、五都市はまた争う」


 カシアンが言った。


「争う」


「それでも、一つでいられると?」


「一つになる必要はない。同じ約束を守ればいい」


 カシアンは答えなかった。


     *


 夜、最後の負傷者がアマルタの臨時治療所へ運ばれた。


 ダリオは港鎖のそばで、ようやく座った。肩と頬の傷は縫うほどではない。腕を上げるたび痛むが、生きて動く。


 リヴィアが隣へ来た。


 いつもの文書箱は持っていなかった。両手には乾いた血が残り、袖は救難船の水で濡れている。


「名簿は」


「朝まで増えます」


「休戦文書は」


「五通作りました。なくしても、あなた一人の記憶には頼りません」


 リヴィアは、戦時盟約の起草控えを出した。指揮官が最初に報告すべき失敗を書くため、空けておいた欄がある。


「三隻です」


 ダリオは言った。


「一隻目は、敵兵を拾うため二隻を列から外したあとに沈んだ。二隻目は浮材から列を守って焼けた。三隻目は、損傷したところへ舵を失った帝国船が流れ込み、衝突した」


「救難命令を後悔していますか」


「してる」


 答えはすぐ出た。


「あの三人を拾わなければ、タヴェラ艦は残ったかもしれない。そう考えない日は、たぶん来ない」


「次も同じなら」


「拾う。ただし今度は、空いた場所を先に埋める」


 リヴィアはそのまま記した。正しい選択だったとも、避けられない損失だったとも書き足さない。


「戻ったら、一緒に埋める約束でした」


「戻った」


「ええ」


 彼女は筆を置いた。


 ダリオは笑おうとして、頬の傷に顔をしかめた。


「生きてたな」


「あなたも」


 記録に残せることをすべて書いても、それだけでは足りない気がした。


 七年前から、帰る場所は一隻の船だけでいいと思っていた。けれど霧の中で再会してから、判断を疑い、記録を突きつけ、危険な海で上着をつかんでくれる者が、いつも隣にいた。


 ダリオはリヴィアの頬へ触れた。離れる時間を残してから、短く口づけた。


 リヴィアは驚いて目を開き、それからダリオの濡れた上着をつかんだ。


 もう一度、唇が重なることはなかった。


 少し先で、テッサが負傷者を運ぶ船員たちと立っていた。こちらに気づくと、片方の眉を上げた。


 だが何も言わず、別の担架へ手を貸して歩いていった。


 勝利の鐘は、まだ鳴っていない。


 夜の港には、負傷者の声と、船をつなぎ直す槌の音だけが続いていた。


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