19_五つ目の署名
テッサは、走る証拠船の船尾へ飛び移った。
ダリオも続く。
甲板は左へ傾き、船倉から水の音がする。乗員たちは右舷へ逃げ、二人へ鉤竿と剣を向けた。
「武器を捨てろ!」
ダリオが叫ぶ。
「港鎖へ着く前に沈むぞ!」
「だから沈めるんだ!」
一人が帆綱を切ろうとする。
テッサが折れた櫂柄を投げ、男の手を打った。剣が甲板へ落ちる。
「右へ寄れ! 沈みたいなら一人で海へ飛び込め!」
船がさらに傾いた。右舷へ走らなければ、乗員自身も逃げる小舟を下ろせない。
男たちは顔を見合わせ、船縁へ移った。
「帆は残せ! 舵を鎖へ向けろ!」
ダリオは船尾楼へ上がり、舵柄を押した。
「船倉へ入る!」
テッサが昇降口へ向かう。
「一人で行くな。水が胸まで来てたら戻れ!」
「命令が多い!」
「沈む船では増える!」
港衛兵二人が追いつき、テッサと一緒に船倉へ下りた。
ダリオは舵を握ったまま、船の傾きと帆の力を比べる。港鎖は半分まで下りていた。その内側なら水深が浅く、完全に沈んでも船体を回収できる。
「荷を捨てるな! 右舷へ積め!」
証拠になる縄や旗まで海へ落とされては困る。乗員には水桶を持たせ、船倉から汲み出させた。
テッサが顔を出す。
「栓は二つ! 一つ塞いだ。もう一つは板が割れてる!」
「帆布を詰めて、上から板を当てろ!」
「船大工じゃない!」
「昨日から何人見てきた!」
テッサは悪態をつき、また潜った。
証拠船が港鎖の内側へ入る。
「鎖を上げろ!」
イスカラ衛兵が巻き上げ機を回した。重い鎖が水面から上がり、船の後方を塞ぐ。
逃げる小舟は出せない。
二つ目の栓へ帆布が詰められ、浸水が弱まった。船は左へ傾いたままだが、沈下は止まる。
乗員たちは武器を捨てた。
イスカラ衛兵が甲板へ移り、一人ずつ拘束する。ダリオは船倉へ下りた。
水は膝まで溜まり、壁際には取り外した商船用の棚と、後付けの櫂台が並んでいる。偽のドレカ旗、同じ染料で描きかけた予備旗、イスカラ倉庫印のある縄束。沈めようとした理由が、一つの船倉に残っていた。
「水を汲み出せ。証拠品は位置を記録してから動かす」
リヴィアが到着し、船倉へ降りてきた。
「先に船を浮かせないと、記録ごと沈むぞ」
「だから位置を素早く記録する。動かしたあとで、都合よく置いたと言わせないためよ」
テッサは濡れた髪を払い、予備旗を見た。
「これを広場で燃やしたい」
「審理が終わって、旗の所有者が決まってからにしてくれ」
「偽物にまで所有者がいるのか」
「それを決めるのが審理だ」
証拠船は、港鎖の内側で船体も積荷も失わずに拿捕された。
ダリオは預かっていた短剣をテッサへ返した。
*
公開審理は、船荷取引所で行われた。
偽造されたドレカ旗。改造された商船の櫂座。イスカラ倉庫の印がある鉤縄。襲撃船に残っていた積荷と、過大な保険証書。
リヴィアが物証の発見場所と保管経路を読み上げ、ニコラが保険契約と倉庫権の移動を説明する。
捕らえた乗員の一人は、帝国派商人に雇われたことを認めた。
証言だけに頼らず、リヴィアは改造した櫂座の間隔を測らせた。襲われた船員が記憶していた間隔と一致する。鉤縄の荷印は、首謀者が権利を得る予定だった倉庫のものだった。
船底の付着物は、修理船溜まりの杭から採ったものと同じ。船がドレカから来たのではなく、長くイスカラ港内に隠されていたことを示している。
証拠が一つなら偶然と言える。保険、倉庫、船体、縄、乗員証言が同じ相手へつながれば、偶然で押し通すことは難しい。
「船を沈めるな。死者を出すな。ドレカ旗を見せ、穀物船を港へ戻せと命じられた」
「目的は」
「イスカラ市民へ、ドレカの脅威を見せること。帝国保護を求める声を増やすことだと聞いた」
首謀者たちは審理席の向こうにいた。中央に座るのは、帝国優遇契約を説いていた倉庫商マルコ・ヴァレリだった。
「我々は都市を守ろうとした」
マルコが主張する。
「四都市船団は帝国に勝てない。被害を作らなければ、市会は危険を理解しなかった」
「自分の船員を傷つけて?」
テッサの声が低くなる。
「死者は出さない計画だった」
「矢は計画どおり人を避けない」
襲われた穀物船の負傷者が前へ出た。肩へ包帯を巻き、片腕を吊っている。
「俺たちは、ドレカ船に襲われたと思って矢を返した。もし一人でもドレカ人を殺していれば、もう戦争になっていた」
首謀者は目をそらした。
テッサが立ち上がった。ドレカ船員たちも動く。
ダリオは、テッサの前へ出なかった。
代わりに、リヴィアが審理記録を閉じる音が響いた。
「これはイスカラとドレカの戦争ではありません」
全員の視線が彼女へ向く。
「イスカラの一部商人が、ドレカ旗を偽造し、イスカラ船を襲わせた事件です。都市間の開戦理由ではなく、偽旗、保険詐欺、傷害、通商妨害として裁くべきです」
「レウカがイスカラ人を裁くのか」
「イスカラ市会が一般犯罪を裁き、ドレカとの旗と戦利品に関する争いは、共同契約の裁定手続きで扱う。どちらか一方だけが判決を決めない」
テッサは首謀者を見た。
「私がここで斬れば、ドレカの私的報復になるな」
「ええ」
「なら、裁判でドレカの席を外すな」
「外さない」
テッサは短剣から手を離した。
ドレカの代表が審理記録へ署名し、イスカラ側の裁定官と同じ机へ座る。旗と戦利品に関する争いは共同契約の裁定手続きで、偽旗を使った者の処罰と負傷者への補償、過大な保険契約の無効化はイスカラ市会で審理することになった。
偽旗で始まりかけた都市間戦争は、裁判へ戻された。
*
証拠船を港内へ係留したあと、ダリオはリヴィアと市会の審理場へ戻った。ニコラは、そこへ新しい損失表を提出した。
「帝国直轄化で失うものは、数字にできないと言った」
彼は審理場に集まった商人たちへ話した。
「だが、帝国派商人が準備していた契約を調べれば、最初の数字は出せる」
帝国保護下へ入った場合、海上保険は帝国指定組合の認可制になる。倉庫使用権は、帝国軍需を扱う商人へ優先される。信用状は帝国官吏の承認が必要となり、海峡通行税の徴収にも指定商人が介在する。
ニコラは、イスカラの取引記録から試算を出した。
帝国指定の保険料率が適用されれば、西方商船との契約の一部は帝国本土の組合へ移る。倉庫の優先権が軍需商人へ渡れば、平時の商品は空きが出るまで港外で待たされる。信用状へ官吏の承認が必要になれば、現在一日で終わる決済に何日もかかる。
「戦争へ参加した損失は大きい。だが、直轄化の利益はイスカラ全体へ均等に来ない。帝国に選ばれた少数へ集中する」
「選ばれる側へ入ればいい」
マルコが言う。
「その資格を保つため、帝国の都合に合わない取引を断ることになる。今日はドレカ、明日は西方の商人、その次はタヴェラの穀物だ。相手を選ぶ自由を失った商人は、独立した商人ではない」
「現在利益を得ているイスカラ商人も、独立した取引主体ではなくなる。帝国指定の仲介人になれなければ、倉庫も信用も失う」
「帝国が安定を保証するなら、それでも利益は残る」
「残る者はいる。だが、誰を残すか決めるのはイスカラではない」
ニコラは、偽旗事件で移動していた倉庫権の一覧を掲げた。
「この事件は、帝国直轄化後に起きる権利移動を、小さな形で先に見せた。短期の戦争損失より、取引相手を選ぶ権利そのものを失う長期損失が大きい」
値札のつかなかった損失へ、初めて数字と契約がついた。
*
イスカラ市会は、共同防衛への参加を決議した。
条件は、通商の自由、イスカラ固有の港湾税を残すこと、戦利品の所有争いを都市間裁定で扱うこと。
ニコラが五つ目の署名をした。
「イスカラは、ダリオ個人へ従うのではない」
「みんな、それを言うな」
「重要な確認だ」
「分かってる」
年一度、灯台分担金や水先案内料を相談するだけだった五港会議も改組された。
帝国艦隊が撤退するまで、五都市は戦時案件を多数決で決める。決まった共同任務については、反対した都市も署名済みの範囲で履行する。
「多数決で、イスカラの船を勝手に戦場へ出すのか」
市会議員が尋ねた。
「所有権は各都市へ残す」
リヴィアが暫定規則を読んだ。
「共同作戦へ出す船、食料、資金は、各都市が署名した上限まで。上限を越える追加負担は、その都市の同意が必要です。ただし、一度差し出した船は、任務中に単独で引き揚げない」
「反対票を投じた都市も?」
「共同防衛へ署名した範囲では従う。そうでなければ、戦場へ出てから毎回全会一致を取り直すことになる」
ドレカは内政と氏族船の所有、タヴェラは農村の徴発禁止、イスカラは港湾税、レウカは救難手続きの中立、アマルタは造船所と都市艦の所有を留保する。
違いを消さず、共同で決める範囲だけを切り出した。
全会一致を待って何もできない会議から、決定を実行する暫定評議会へ変わった。
五都市すべてが、初めて同じ文書へ署名した。
その直後、アマルタから高速漁船が到着した。
乗員は息を切らし、封書をダリオへ渡す。
「帝国軍がアマルタ港の鎖を閉じた。造船所を完全に軍管理へ入れ、都市艦五隻の乗員を下ろした」
「ルシオは」
「総督の監視下だ。最初の三百人は全員逃げた。だが帝国はその後、造船所の補助職人を名簿へ加え、逃亡を手伝った者の家族まで拘束した。新たな移送対象者を、三日後に帝国へ送ると通告された」
会場で署名した代表たちが、一斉に自都市の船と負担を口にした。イスカラは参加直後で、アマルタ救援に全船を出すことへ反対する。タヴェラは帝国陸軍が河口を狙う可能性を捨てられない。
五都市が揃っても、すぐ一つの軍にはならない。
「まず港を開ける」
ダリオは言った。
「アマルタの五隻を取り戻さなければ、共同防衛の船数そのものが足りない」
カシアンは、五都市が揃うのを待ってはいなかった。
揃ったからこそ、共同船団の母港と戦闘艦を先に奪った。
五つ目の署名が乾く前に、アマルタは鎖された。




