14_消された航跡
会談の翌朝、ダリオはレウカ港から帝国艦隊を見ていた。
カシアンの船は、中立水域の外で整然と停泊している。攻撃も封鎖も宣言せず、三都市船団が動けば同じだけ位置を変える。
父の爵位。没収財産。新しい案内船。
断ったものが、まだ机の上に置かれているように頭から離れなかった。
「今日は記録院へ籠もるわ」
リヴィアが書類箱を抱えてきた。
「カシアンの報告を調べるのか」
「帝国側が正式な航海報告を提出した。先遣船の航路と、アマルタへ入った輸送船の記録が含まれているはずよ」
「都合の悪いことを、自分から書くと思う?」
「書いていなければ、それも分かる」
「消した証拠になるのか」
「消す前の記録が見つかればね」
リヴィアは記録院へ向かった。
ダリオには、船団へ戻って三都市の命令を揃える仕事がある。そう分かっているのに、帝国艦隊とレウカ港の間から動けなかった。
海の上なら、船が通った航跡はすぐ消える。
記録の上では、誰かが消さないかぎり残るはずだった。
*
航海記録院の地下書庫は、外の暑さが届かなかった。
リヴィアは灯台記録、救難日誌、商船の入港記録、帝国側の航海報告を、日付と時刻の順に並べた。
灯台記録には、海峡を通った船の旗と隻数がある。救難日誌には、霧の濃さ、波、潮、救助要請。商船の記録には入港時刻と水先案内人、積荷、出港地。
どれも単独では、帝国の違反を証明しない。
重ねると、違う航跡が見えた。
リヴィアは大きな紙へ時刻の線を引いた。大灯台の前を先遣船が西へ通過した時刻。アマルタ北航路の標識番所が帝国旗を確認した時刻。アマルタの港鐘が鳴った時刻。ダリオの商船が危険信号を出した時刻。先遣船が入港手続きをした時刻。
一つずつ、別の書記が別の場所で残した記録だ。全員が同じ嘘をつくことは難しい。レウカからアマルタまでの距離と先遣船の速力から所要時間を見積もれば、時刻に多少のずれがあっても、船がどちらから来て、どこを横切ったかは絞り込める。
帝国報告だけを読むと、先遣船は何事もなく公認航路を通ったことになる。商船側の記録だけなら、濃霧の中で位置を誤った可能性が残る。
レウカの通過時刻、標識番所の目撃、危険信号を重ねて初めて、帝国船が公認航路の外から商船前方へ入った航跡が浮かんだ。
帝国報告では、先遣軽ガレー船は公認北航路を通り、アマルタ港へ直行したとされている。
だがレウカ通過後の所要時間からすれば、その時刻にはすでにアマルタ北航路へ達している。さらにアマルタ側の標識番所は、先遣船を北航路の標識より南側で確認していた。ダリオたちの商船が危険信号の鐘を鳴らしたことも、別の商船の日誌へ残っている。
帝国の報告からは、その鐘が消えていた。
リヴィアは、標識番所の記録と危険信号を残した商船の日誌を写し、出典を記す。
次は輸送船だった。
帝国側は、職人移送に使う輸送船が正式要求の受諾後にアマルタへ入る予定だったと主張している。
ところがアマルタから届いた入港記録には、要求書が読み上げられるより前に、帝国輸送船が一隻入港していた。積荷欄は空。乗員以外を運ぶ余地のある船だった。
帝国は最初から、人を運び出す船を連れてきていた。
さらに、輸送船の食料搭載量が通常の乗員数に対して多すぎることも、イスカラ商船の荷役記録から分かった。空船ではあるが、帰路に大勢を乗せる準備をしている。
それでも、船が先に来ていたことと、交渉を偽装したことは同じではない。帝国側は、要求受諾後すぐ動けるよう準備しただけだと主張できる。
疑いは濃くなる。裁定へ使える断定は増えない。
リヴィアはその結論を書きかけ、筆を止めた。
記録が示すのは、輸送船が先に来ていた事実までだ。帝国政府やカシアンが、交渉を偽装する意図で命じた証拠ではない。現地の担当者が独断で早く動かした可能性も残る。
断定したい気持ちと、断定できる事実を分ける。
それが盟約官の仕事だと学んできた。
「メルテ補」
背後から呼ばれた。
年長の盟約官が、机の記録を見下ろしている。
「帝国報告の照合作業は、首席盟約官の指示か」
「提出資料の確認は、調査任務の範囲です」
「先遣船と輸送船だけで、国家間の意図まで追うのは範囲を越える」
「意図は断定していません」
「ならば、ここで止めなさい。正式任官の審査が近い。政治事件へ深入りし、どちらか一方の代弁者と見なされれば、これまでの修練が無駄になる」
正式な盟約官になることは、リヴィアが長く望んできたことだった。
神殿印を預かり、現場を調べても、盟約官補の彼女には裁定権がない。資格を得れば、弱い船主や漁師の証言を、権力者と同じ記録へ残せる。
幼いころ、家の漁船を沈めた商船側は、霧のせいだと主張した。裕福な荷主は何人もの証人を連れ、漁師の家族が航路を誤ったと言わせようとした。
海難裁判が見たのは、証人の数ではなかった。壊れた船板の向き、商船の日誌、風と潮の記録。裁定には家族にとって途方もなく長い時間がかかったが、最後には商船側の責任が認められた。
手続きがなければ、声の大きな商人の話だけが事実になっていた。
だからリヴィアは、証拠が足りないまま帝国を断罪することも怖い。自分が正しいと思う側のために手続きを曲げれば、いつか同じ曲げ方が弱い漁師へ向けられる。
その資格を得るために、いま見つけた事実から目をそらすのか。
資格を守るため黙れば、手続きは強者の時間稼ぎになる。
「記録の不一致を報告書へ記します。帝国の意図については、証拠不足と明記します」
「その一文だけでも、帝国は君を三都市寄りと非難する」
「不一致を書かなければ、記録院が帝国報告を追認したことになります」
「評議会は、任官審査を延期するかもしれない」
胸の奥が縮んだ。
「それは、評議会が決めることです」
声が震えなかったことだけは、自分で分かった。
「忠告はした」
盟約官は去った。
リヴィアは新しい紙を出した。
証明できる事実と、まだ証明できない疑い。その間へ、一本の線を引いた。
*
夕暮れ、ダリオは大灯台の下の階段にいた。
リヴィアが書類箱を抱えて下りてくる。
「見つかったか」
「航路違反と、輸送船の入港時刻が帝国報告から抜けていた」
「やっぱり消してたんだな」
「不一致は証明できる。でも、誰が、どんな意図で消したかは分からない」
「また証拠不足か」
リヴィアは疲れた顔で、ダリオを見た。
「不確かなことまで断言すれば、確かな部分も疑われるの」
「分かってる」
「分かっていない顔ね」
「分かりたくないだけだ」
二人は階段へ腰を下ろした。
下にはレウカ港、外には帝国と三都市の船が見える。
「父のことで、君を責めた」
ダリオは言った。
「神殿が父を見捨てたことと、十三歳だった君が命令へ従ったことを、同じにした。悪かった」
「謝るのが遅い」
「七年はかかってない」
「私よりは早いわね」
リヴィアは膝の上で手を組んだ。
「私は、手続きが弱い人を守ると信じて盟約官を目指した。家の漁船が沈められたとき、海難裁判が商人の圧力を退けてくれたから」
彼女の一家が裁定で救われた話は、ダリオも昔聞いていた。
「あの裁定がなければ、家は船を買い直せなかった。父も兄も別の船で雇われ、家族はばらばらになっていたと思う」
「だから神殿の手続きを信じる」
「信じたいの。信じているから、都合の悪い事実を隠す神殿にはしたくない」
「今日見つけたことを、パウロスは出すと思うか」
「正式報告には入れるはず。あの人は証拠を捨てない。でも、それだけで共同防衛へ入るとは言わないでしょうね」
「正しい証拠を正しくしまって、誰にも届かない棚へ置くこともできる」
「そうさせないのが、私の仕事になる」
「でも、制度を守ることを理由に、目の前の人を見捨てたくはない。どこまで待てば慎重で、どこから先が臆病なのか、まだ分からないの」
「パウロスは待つほうを選ぶ」
「あの人は中立が崩れたあとに起きる事故を、私より多く見ている。間違っていると簡単には言えない」
港で、警鐘が鳴った。
神殿衛士が大灯台へ駆け上がってくる。
「救難船が戻らない!」
昼すぎ、帝国封鎖線付近で消息を絶った小型商船を捜すため、レウカの救難船が一隻出ていた。リヴィアは、アマルタで帝国使節の提示写しから作った調査用記録写しと拘束証言を封じた箱へ移送名簿の写しを加え、封印箱ごと救難船へ積むよう指示していた。受け取ったレウカ船長が、船上での保管を担っていた。
救難船は封印箱内の名簿写しと照らし、拘束された者が小型商船に乗っていないか確認する予定だった。
日没までに戻るはずが、信号もない。
「最後に見た位置は」
ダリオは立ち上がった。
「帝国巡回線の西端。救難信号の灯を一度上げたあと、霧へ入った」
ダリオは壁に掛けられた海図を外し、最後の位置へ指を置いた。帝国艦隊の停泊線と、三都市船団の間。潮は西へ流れている。衝突して漂流したなら、すでにレウカ島の南へ回っている可能性がある。
「巡回船を一隻借りる。俺の案内船と二隻で捜す」
「武装船を帝国の封鎖線へ近づければ、戦闘になる」
駆けつけたパウロスが言った。
「救難船が消えたんだろ。中立を守るなら探せ」
「レウカ旗の船だけを出す。君は武器を持たず、水先案内人として乗れ」
「帝国船が止めたら?」
「救難活動だと通告する。それでも攻撃された事実は、レウカ自身の記録になる」
パウロスは慎重だが、何もしないわけではなかった。
リヴィアが書類箱を抱き直す。
「私も行く」
「君は記録を出せ」
「封印箱を積ませたのは私よ」
ダリオは港へ走った。
記録から消された航跡を追ううちに、本物の船が海から消えていた。




