13_父を破った男
裁定船には、二つの旗がなかった。
帝国旗も、三都市の旗も降ろされ、レウカの白い標旗だけが帆柱に上がっている。
甲板の中央へ一本の線が引かれ、東側に帝国、西側に三都市の席が置かれていた。武装した随員は乗れない。ダリオとカシアンが持ち込める剣も、それぞれ一振りだけだ。
リヴィアは記録官としてダリオの後ろに座り、パウロスが両者の間に立っている。
帝国側の小舟が船腹へ着いた。
最初に書記官、次に副官。最後にカシアン・デキウスが上がってきた。
四十三歳。軍人家系の提督だが、大貴族の飾りは身につけていない。実用だけを残した鎖帷子と外套、腰に許可された剣。甲板へ上がると、まず自分を運んだ漕ぎ手へ水を回すよう副官へ命じた。
父を破った男は、怪物には見えなかった。
それがダリオには不愉快だった。
「ダリオ・アルケス」
カシアンは線の向こうで立ち止まった。
「七年前より、父上に似た」
「俺はあんたの顔を知らない」
「知っている。君はあの海戦へ出ていなかった」
パウロスが会談の規則を読み上げる。双方は相手へ危害を加えず、発言をレウカが記録する。ここでの言葉は、正式な条約でも裁定でもない。
カシアンは席についた。ダリオも座る。
机の上には水差しが一つだけ置かれていた。パウロスが双方の杯へ同じ量を注ぎ、書記が時刻を記す。どちらかが席を立つときも、先に武器へ触れてはならない。
面倒な手順だった。だが、その面倒さがあるから、父を破った男と同じ甲板へ座っていられる。
「俺の父の話をするために呼んだのか」
「それだけなら、七年前に手紙を書いている。五都市側が届けることを拒んだ」
「何を書いた」
「レアンドロ・アルケスは、無能な指揮官ではなかったと」
ダリオの指が膝の上で止まった。
「父を破った本人が、名誉を守るつもりだったと?」
「戦場で勝つことと、相手の能力を偽ることは別だ」
カシアンの声に誇張はない。
「七年前、五都市は連合艦隊と呼ばれていた。だが、命令語も信号も、補給の取り決めも別々だった。各都市は自港を守る船を残し、損害が出れば隣の都市が先に埋めると考えた」
先日の初陣で、ダリオが見た光景と同じだった。
タヴェラは隊形を守り、ドレカは獲物を追った。どちらも自分の約束には従っていた。
「私は中央を攻め続けたわけではない。タヴェラ隊へ陸軍が河口へ向かったという偽報を流し、イスカラ船団には商船が襲われたと知らせた。各隊は、自分の都市を守るために少しずつ隊形を離れた」
「父は止めなかったのか」
「止めた。だが、命令へ従わなくても罰する権限がなかった。彼にあったのは名声と、海峡侯という帝国爵位だけだ。各都市の船を所有していたわけではない」
「だから、離れた船を各個に破った」
「戦場では、敵の欠陥を利用する」
悪びれず、誇りもしない答えだった。
「父は、五都市を見捨てなかった」
「だから不完全な戦力で決戦を受けた。指揮官として判断の責任はある。だが、敗北を彼一人の無能で説明するのは事実ではない」
「それで処刑させたのか」
「私は降伏を受け入れ、捕虜交換を上申した」
カシアンはダリオの視線を避けなかった。
「帝国政府は見せしめを求めた。五都市の有力者は、講和の責任を一人へ負わせることを望んだ。双方の政治判断で、上申は退けられた」
「あんたには止められなかった?」
「当時の私は艦隊指揮官であって、皇帝ではない」
「命令には従ったわけだ」
「そうだ」
言い訳をしない答えだった。
ルシオと同じだ。自分の権限で選び、選べなかったものまで飾らない。
それでも、許せなかった。
*
「君の父の敗戦責任は、帝国の公文書から一部取り消せる」
カシアンは書記官から文書を受け取った。
「アルケス家の爵位と家格を復活させ、没収された邸宅と財産を返還する。君を帝国公認のエリド海峡水先案内人頭へ任命する用意もある」
「ずいぶん気前がいいな」
「能力ある者を、父の罪だけで遠ざけておく必要はない」
次の文書には、小型船の図と仕様が記されていた。
「この船を君へ与える。帝国海軍工廠で建造中の案内船だ。サビーナ・ロッサの古船より速く、外海でも航行できる」
ダリオは見たくないのに、図面から目を離せなかった。
細い船首。浅い喫水。少人数で扱える帆。七年働いて買った船より、新しく、速く、広い。
家名。没収された家。父の汚名の一部取り消し。水先案内人としての最高位。そして自分の船。
七年前に失ったものと、この春まで欲しかったものが、すべて机の上へ並んでいる。
帝国の文書へ署名すれば、アマルタ港へ堂々と戻れる。接収印を剥がすために夜の水路を逃げる必要もない。サビーナを拘束から出し、職人家族が帝国工廠で受ける待遇についても、要求を出せるかもしれない。
戦わずに助けられる命がある。その誘惑は、爵位よりも強かった。
「君が帝国側へ立てば、反乱の罪も取り消す」
カシアンはダリオが迷った間を見逃さなかった。
「三都市の船員にも、武器を置けば処罰を求めない。これ以上、海峡の住民同士が死ぬ必要はない」
「条件は」
「帝国艦隊の水先案内を務めること。アマルタ造船所の接収へ協力し、三都市へ帝国総督を受け入れさせること」
「海峡を帝国の直轄地にする手伝いをしろと」
「五都市の市会と内政は残す。ただし、海峡の航行、軍船、通行税は帝国が一つの規則で管理する」
「なぜそれが必要だ」
「先日の戦いで証明しただろう。三都市の船は、敵を前にして味方同士で衝突した」
ダリオはカシアンを見た。
「報告を受けるのが早いな」
「逃げ帰った護衛船長から聞いた。三都市が集まっても、共通命令がなければ七年前と同じだ」
「だから、あんたが上から命令する?」
「協力には強制が必要だ。海峡の安全、通商の公平、私掠の規制。利益の異なる五都市が、自発的に同じ損失を引き受けるとは思わない」
「帝国が管理すれば、損失は公平になるのか」
「少なくとも同じ規則で決める。イスカラ商人だけが優遇契約を持ち、ドレカ船だけが海賊として扱われ、タヴェラだけが穀物を安く出させられる状態よりはましだ」
「その同じ規則で、アマルタの職人を家族ごと運ぶ?」
「帝国全体の造船能力を高めれば、海峡へ無秩序な私兵船団を入れずに済む。長期的には通商も安全になる」
「運ばれる三百人にとっての長期は、誰が決める」
「国家だ」
「五都市の市民は、決める席にいない」
「すべての住民を政策の席へ座らせれば、艦隊は出航前に冬になる」
「だからって、席そのものを帝国だけで埋めていい理由にはならない」
カシアンの統一は、海峡の違いをなくせば争いもなくなるという考えだった。ダリオには、違いを消すために人を船へ積む平和に見えた。
カシアンの言葉には、五都市への憎しみがなかった。
本当に、帝国が管理するほうが人は死なず、船は安全に通れると信じているように見える。
「考える時間を与える」
「その前に、条件を一つ加える」
ダリオはリヴィアから、職人家族の名簿の写しを受け取った。
「この三百人を移送対象から外せ。アマルタへ戻し、造船所の接収も止める」
カシアンは名簿を開いた。
「職人には給与と住居が与えられる。家族も保護する」
「帝国へ行きたいか、一人ずつ聞いたのか」
「国家が必要とする配置を、全員の希望だけでは決められない」
「なら、今ここで命令を変えろ」
「できない」
即答だった。
「皇帝の勅命だ。現地提督の裁量で、造船所と技術者の接収を撤回すれば、私自身が命令違反になる」
「父の処刑には反対した。だが止める権限はなかった。三百人の移送も変える権限はない。あんたは、いつも正しいと思うことより命令を選ぶのか」
「軍人は国家の命令へ従う。そうでなければ、四十隻は四十人の都合で動く」
「間違った命令でも?」
「命令系統の中で反対し、記録を残す。それでも決定されたなら従う。気に入らないたび軍人が武器を持って離反すれば、国家は軍閥へ分かれる」
父の処刑へ反対した上申も、帝国の記録のどこかに残っているのだろう。それで父が生き返るわけではない。
「俺たちの船と同じだと言いたいのか」
「同じ失敗を避けろと言っている」
ダリオは、船の図面を裏返した。
「父の名を返しても、生きている人間を差し出すなら受け取らない」
「君自身の船も、地位もか」
「それで三百人を帝国船へ案内するなら、俺の船じゃない」
カシアンはしばらく黙った。
「レアンドロも、同盟都市を見捨てれば勝てた戦いを選ばなかった」
「父と同じ失敗をしていると言いたいなら、そうかもしれない」
「いや」
カシアンは文書を戻した。
「同じ才能があると言っている。だから帝国側へ欲しかった」
会談終了の鐘が鳴った。
ダリオは立ち上がる。
欲しかったものをすべて断ったのに、胸が軽くはならなかった。
父を破った男は、父を侮辱しなかった。三都市の弱点も正しく見抜いていた。
だからこそ、その男の正しさに従わず勝たなければならなかった。




