15_救うべき敵
レウカの巡回船は、救う相手の旗を選ばない。
捜索に出たのは、この一隻だけだった。リヴィアは前日に見つけた記録の不一致を正式な報告書にまとめるため、記録院に残った。港外の三都市船団から来たテッサは、レウカの船長に同乗を認められていた。
船首の両側に縄梯子を下ろし、甲板には毛布、水桶、手当て用の帆布を積んでいる。武器は弓と短槍だけ。海賊を追うためではなく、難破船へ近づくまで自分を守るためのものだ。
ダリオは水先案内人として舵の横に立った。
「なぜ君までいる」
船首で海を見ているテッサへ尋ねる。
「消えた船を探すなら、速い船の目が要る」
「船は置いてきただろ」
「目は持ってきた」
短剣も置いてきたらしい。腰の鞘が空だった。
レウカの船長は、二人へ同じ条件を出していた。救難命令には従う。帝国船を見つけても攻撃しない。救助者の旗で扱いを変えない。
テッサは三度念を押され、三度とも不満そうにうなずいた。
夜明け前の海は霧が低く、灯台の光だけが頭上を一定の間隔で通った。
中立水域を出る前に、レウカ船長が救難旗を二枚上げた。帝国側へ捜索範囲と目的を知らせる信号だ。
封鎖線の外側を巡回する沿岸警備船から、進入を認めない旗が返る。この船はカシアンの方面遠征四十隻には含まれず、帝国東岸の警備隊から回されたものだった。
「救難船が戻っていない。遭難確認のため西側を捜索する」
レウカ船長は同じ通告を三度送った。
三度目にも拒絶が返ったが、船は進んだ。帝国船は衝角を向けたまま追尾するだけで、救難旗を掲げた巡回船へ攻撃はできない。
「中立というのは、ずいぶん面倒だな」
テッサが言う。
「面倒だから、帝国船も矢を射てない」
ダリオは背後の櫂音を聞いた。
「役に立つ面倒もある」
「救難船が最後に上げた灯は一度だけだ」
レウカ船長が言う。
「通常の救助要請では二度。衝突や攻撃を受けたときは三度。途中で消えた可能性がある」
「灯を上げたあと、帆が見えた者は」
「帝国巡回船の船影と重なったという証言がある」
ダリオは潮の向きから捜索範囲を西へずらした。
救難船が自力で動けるなら、レウカへ戻る。戻らないなら、舵か帆を失い、潮に流されている。
霧の中で、木片が船腹へ当たった。
白く塗られた板。レウカ船のものだ。
「速度を落とせ。全員、水面を見ろ!」
ほどなく、折れた帆柱と帆布が見つかった。その先から、人の声がする。
ダリオは浮いている破片の向きを確かめた。細い板は西へ、重い帆柱は南へ流れている。表面と海底近くで潮の向きが違う。人が浮輪につかまっているなら風下へ、索に絡まって沈みかけているなら南へ運ばれる。
「見張りを左右に分けろ。浮いている者だけを見るな。水面の下に帆布がないか探せ」
船員たちは長竿で破片を避け、声を返した。霧の中では、叫びが岩や船腹へ反響し、人数を誤りやすい。
一度聞こえた声へまっすぐ進まず、鐘を打って返る方向を確かめた。
*
二隻の船が、互いの船腹を食い込ませていた。
レウカ救難船は船首を割られ、帝国巡回船は片側の櫂台を失っている。衝角で攻撃した形ではない。狭い角度から接近し、避けきれず横同士でぶつかったらしい。
甲板には誰もいない。
ダリオは衝突箇所を見た。帝国船の衝角は救難船の横へ向いていない。両船とも船首近くの舷側が潰れ、折れた櫂が同じ向きへ流れている。
帝国船が救難船の前を塞ぎ、救難船が進路を変えて避けようとした。そこへ帝国船も進路を寄せ、横同士で衝突したのだろう。
沈める意図はなかったとしても、救難船を力ずくで止めた結果だった。
周囲の海に、人が浮いていた。
「左に三人!」
「帝国船の陰にもいる!」
レウカの船員が縄梯子と浮輪を投げる。
ダリオは船を風上へ回し、漂流者へ船腹を寄せた。助けを求める手が水面から伸びる。
一人を引き上げる。レウカの救難員だった。
次は帝国の漕ぎ手。額から血を流し、櫂の破片へしがみついている。
別のレウカ船員が、帝国兵と同じ浮輪につかまっていた。互いに相手を押しのける力も残っていない。
「二人まとめて上げろ!」
縄梯子を下ろすと、帝国兵が先に手を伸ばした。レウカ船員の指が離れかける。
テッサが腹ばいになり、レウカ船員の腕をつかんだ。
「お前は浮輪を離すな! 帝国兵、先に下から押せ!」
命令された兵士が、無意識に従った。二人を順に引き上げ、甲板へ転がす。
「敵へ命令するのがうまいな」
ダリオが言う。
「海へ落ちれば、全員ただの荷物だ」
「荷物扱いするなと、リヴィアに怒られるぞ」
テッサは返事の代わりに次の浮輪を投げた。
「そいつは後だ!」
テッサが叫んだ。
帝国巡回船の向こうで、小舟が一隻、霧へ逃げていく。帝国兵が乗っていた。
「あの舟を追えば、何をしたか吐かせられる!」
「水の中にまだ人がいる」
「レウカ船員は拾った!」
「帝国の漕ぎ手もだ!」
「仲間の船を沈めた敵だぞ!」
冷たさが、ダリオの足裏へ広がった。
潮の冷たさとは違う。船尾の右側、霧で見えない場所に、まだ何かがある。耳鳴りが始まり、距離感が揺れた。
ダリオは舷側を叩き、返る音を聞く。人の声はない。
「右後方へ綱を流せ! 網もだ!」
「何も見えないぞ!」
「潮が帆柱の下へ巻いてる。誰か引っかかってるかもしれない!」
船を回すと、沈みかけた帆布の下から手が現れた。
帝国漕ぎ手が二人、絡まった索に捕まっている。
テッサは逃げる小舟と、浮いている男たちを見比べた。
「追跡はやめる! 網をこっちへ!」
自分で網を取り、船員と一緒に投げる。
小舟は霧へ消えた。
代わりに、レウカ船員七人、帝国側九人を海から引き上げた。負傷者を甲板の左右へ分けようとする船員を、ダリオは止めた。
人数を照合すると、救難船員がまだ一人足りなかった。
全員が水面を探し直す。やがて壊れた帝国船の櫂台の下から、叩く音がした。
衝突で船腹の隙間に挟まれ、水位が上がって出られなくなっている。船大工の経験があるレウカ船員が板を外し、腕一本ぶんの穴を広げた。
最後の一人を引き出したとき、意識はなかった。手当て係が胸を押し、水を吐かせる。長い咳のあと、かすかな呼吸が戻った。
テッサは逃げた小舟の方角を一度だけ見たが、もう追えとは言わなかった。
「重傷者から中央へ寝かせろ。旗はあとだ」
レウカの手当て係が、帝国漕ぎ手の傷を先に縛った。
*
救助した中に、帝国巡回船の指揮を執っていた士官が一人いた。
水を吐き、呼吸が戻ると、テッサが目の前へ座る。
「なぜ救難船を沈めた」
「沈める命令ではない」
士官は咳き込んだ。
「停船させろと命じた。レウカ船が封鎖線へ近づき、アマルタの名簿を積んでいると分かった」
「なぜ積荷を知っていた」
「港の書記から報告があった。移送対象者を探し、証言を集めるための写しだと」
「それで押収を命じた?」
士官は答えなかった。
ダリオは水杯を差し出した。
「飲め。死にかけた相手から取った証言は、レウカが使えない」
士官は杯を見た。
「なぜ敵へ水をやる」
「同じようなことを、タヴェラでも言われた」
「答えは」
「次に俺たちが捕まったとき、水をもらうためだ」
士官は少し飲んだ。
顔色が戻るまで、レウカ書記は質問を待った。証言を急いで意識を失わせれば、都合のよい言葉だけを引き出したと疑われる。
「あなた自身が、封印箱の中身を見たのか」
書記が尋ねる。
「見ていない。報告で知っただけだ」
「押収命令を出した人物は」
「私だ。帝国艦隊から、証拠文書を運ぶレウカ船を検査せよという通達があった」
「カシアン提督の署名を見たか」
「通達の原本は見ていない」
カシアン本人の命令かは、まだ断定できない。リヴィアなら、そう線を引くだろう。
「私は、封印箱を渡せと命じた。レウカ船長が拒み、こちらの前を横切って逃げようとした。進路を塞がせて、衝突した」
「攻撃命令は」
「なかった。だが、箱は必ず押収しろと命じた」
リヴィアがいなくても、レウカ船長と書記が同じ証言を記録していた。士官の名、時刻、意識状態。記録を本人に読み上げて確認させるまで、テッサも次の質問を許されない。
*
壊れた救難船を調べると、船尾の板の下から鉄の封印箱が見つかった。
鎖は切られていたが、レウカの封は残っている。
巡回船へ移し、レウカ船長の立ち会いで開けた。
中には、アマルタの移送名簿の写し、拘束証言、帝国総督府から現地部隊へ出された命令の写しが入っていた。
最後の文書を、書記が読み上げる。
「五都市の造船技術者および扶養家族は、帝国海軍の必要に応じて移動可能な帝国資産として管理する――」
期限付き出向でも、安全のための集合でもない。
帝国自身の命令が、人間を資産と呼んでいた。
「これを持って帰れば、パウロスも裁定を出せるな」
テッサが言った。
「原命令じゃない。写しだ」
「また足りないと言うのか」
「だから、写しがどこで作られ、誰が保管し、どう救難船へ積まれたかまで記録する」
ダリオは封印箱を閉じた。
「帝国兵を殺して奪った証拠にはさせない。救助した士官の扱いも、レウカの手続きに委ねる」
「逃げた小舟はどうする」
「追わなかった。十七人を救った。それも全部、記録へ残す」
帰路、動けない二隻を巡回船で曳いた。
封鎖線へ近づくと、帝国軽ガレー船二隻が進路を塞いだ。
「帝国巡回船と乗員を引き渡せ!」
「海難事故の生存者としてレウカへ収容する。治療と記録の後、正式な手続きで返還する!」
レウカ船長が答えた。
帝国船はさらに近づいたが、自軍の負傷者が甲板に並び、壊れた巡回船まで同じ索につながれているのを見ると止まった。
ここで攻撃すれば、救助された帝国兵ごと沈めることになる。
レウカ救難船と帝国巡回船は、互いの船腹を傷つけたまま同じ索につながれた。
敵と味方を分けるより先に、沈む者を救った船が曳いていく。
その光景自体が、帝国の命令より強い証言になると、ダリオは思った。




