15.もう、理由はいらない
「離縁しよう」
アグネスは何も言わなかった。
ただ、俺を見ていた。
思っていたより長く、そのままの時間が続いた。
「……なぜですか」
「俺が君と結婚した理由は、もう知ってるだろ」
「はい」
「ロデリックへの復讐のためだった」
「はい」
「ロデリックは罪を認めた。自分が持ってる記録も提出するって言ってる。だったら、俺が君と結婚してる理由もなくなる」
アグネスは少し考えるように目を伏せた。
「それは、ルーファスの理由ですよね」
「……え?」
「ルーファスが、私と結婚した理由です」
「そうだけど」
「私は、離縁したいとは言っていません」
思いもしなかった言葉だった。
「でも」
「ルーファスは、私と離縁したいのですか?」
答えようとして、言葉が出なかった。
離縁したほうがいい。
そう思っている。
けれど、離縁したいのかと聞かれれば、違う。
「……君のためだよ」
「私のため?」
「俺と夫婦でいる必要なんてないだろ」
「それを決めるのは、私ではありませんか?」
昨日も、似たようなことをロデリックに言っていた。
自分のことなのだから、自分で決めたい。
アグネスは今も、同じことを言っている。
「俺が君に何をしたか、分かってる?」
「はい」
「君を利用した」
「はい」
「最初から、ロデリックを苦しめるために結婚した」
「知っています」
「それだけじゃない」
口にするのをためらった。
けれど、ここを曖昧にしたまま、これからのことを決めるわけにはいかない。
「君を殺そうとした」
「はい」
「一度じゃない」
「知っています」
「つい一昨夜だって、君の薬に毒を入れた」
「はい」
「だったら、どうして」
そこまで知っていて、なぜ離縁したくないと言えるのか。
「許したわけではありません」
アグネスは静かに言った。
「怖かったこともあります」
「だったら、なおさら――」
「でも、それと離縁するかどうかは、別のことだと思います」
「別?」
「はい」
膝の上に置かれたアグネスの両手が、ゆっくりと重なる。
「ルーファスが私にしたことを、なかったことにするつもりはありません」
「……」
「それでも、離縁したいとは思いません」
「どうして?」
今度は、答えが返ってくるまで少し時間がかかった。
「……分かりません」
「分からない?」
「はい」
予想していなかった答えだった。
「でも、離縁すると言われて、嫌だと思いました」
アグネスがまっすぐ俺を見る。
「離縁したいかと聞かれれば、したくありません。妻でいたいかと聞かれれば、いたいです」
そこで一度、言葉を切った。
「私は、これからもルーファスの妻でいたいです」
嬉しいと思った。
そのことに、自分でも戸惑った。
俺はこの人を殺そうとした。
それなのに、アグネスは俺の妻でいたいと言っている。
「ロデリックのためじゃない?」
「違います」
「俺の父や母のことを聞いたから?」
「それも違います」
「でも君は一昨夜、自分が死ぬことでロデリックの罪を償えるなら、それでいいって――」
「はい」
アグネスは小さく頷いた。
「そう思っていました」
「……」
「でも、父の罪は、父が償うべきなのですよね」
一昨夜、俺が言ったことだった。
「うん」
「お父様も、償うと決めてくださいました」
父親がこれからどうなるのか、不安ではないはずがない。
それでも、アグネスは言葉を続けた。
「ですから、お父様が何をしたかと、私が誰の妻でいたいかは、別のことです」
ロデリックの娘だから、俺の妻でいるのではない。
父親の代わりに償うためでもない。
アグネス自身が、そうしたいと言っている。
「本当に、俺でいいの?」
「今は、そう思っています」
「今は?」
「この先のことは、分かりませんから」
あまりにも普通に言うので、少しだけ肩の力が抜けた。
「後悔するかもしれないよ」
「そうかもしれません」
「そこは否定しないんだ」
「分からないことを、分かるとは言えません」
「そうだね」
「もし後悔したら、そのときに考えます」
アグネスらしい答えだった。
「ルーファスは?」
「何?」
「私と離縁したいのですか?」
最初と同じことを聞かれた。
さっきは答えられなかった。
離縁するべきかどうかばかり考えて、自分がどうしたいのかなど考えていなかった。
今度は、答えられた。
「……したくない」
口にしてしまえば、それだけだった。
アグネスが少し目を見開く。
「では、なぜ離縁しようとおっしゃったのですか?」
「だから、君のためだと思ったんだよ」
「私のためではありません」
「……うん」
はっきり言われた。
「そうみたいだね」
「はい」
アグネスは当然のように頷いた。
俺は今まで、何もかも自分で決めてきた。
アグネスと結婚することも。
復讐に利用することも。
殺すことも、殺さないことも。
そして今度は、離縁することまで一人で決めようとしていた。
「じゃあ、君が決めて」
「私が?」
「うん」
アグネスを見る。
「どうしたい?」
答えはすぐに返ってきた。
「妻でいたいです」
「……分かった」
「はい」
「離縁の話は、なしにする」
アグネスの表情が、わずかに和らいだ。
「ありがとうございます」
「何のお礼?」
「今度は、私に決めさせてくださいましたから」
「……今まで聞いてなかったからね」
「そうですね」
否定してくれなかった。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
◇
それから間もなく、ロデリックは自分が保管していた記録を持って王都へ向かった。
俺も、それまでに集めていた証拠を提出した。
ロデリックがしてきたことについて、正式な調査が始まった。
父の事件も、改めて調べられることになった。当時の記録を確認し、残っている関係者からも話を聞くという。
父の汚名が正式に晴れるまでには、まだ時間がかかる。
ロデリックがどのような処分を受けるのかも、今は分からない。
ここまで、ずっと待ってきたのだ。
今さら、少しくらい待つことは苦ではなかった。
アグネスは、王都へ向かうロデリックを見送った。
父娘が何を話したのか、俺は聞かなかった。
アグネスも話さなかった。
その日の夕食も、アグネスはいつもと変わらず取った。
食後はしばらく本を読み、いつもの時間になると自室へ戻っていった。
◇
その夜、アグネスの寝室を訪れると、侍女が小卓に水と薬を用意しているところだった。
「こちらでよろしいでしょうか」
「ええ。ありがとう」
「では、失礼いたします」
侍女が一礼して下がり、扉が閉じる。
アグネスは小卓の前へ座ると、いつものように薬入れの蓋を開けた。
薬匙で決められた量をすくって口に入れ、水を飲む。
その一連の動きを、気づけばずっと見ていた。
空になったグラスが小卓へ戻される。
アグネスがこちらを見て、目が合った。
何か言われるかと思ったけれど、アグネスは何も言わなかった。
薬入れの蓋を閉じると、静かに立ち上がる。
「ルーファス」
「何?」
「今夜も、こちらにいらっしゃいますか」
少しだけ返事が遅れた。
「……いてもいい?」
「はい」
アグネスが寝台へ向かい、俺もそのあとに続いた。
夫婦なのだから、おかしなことではない。
それなのに、今までとは何かが違う気がした。
明かりを落とす。
隣にアグネスが横になる。
手を伸ばせば届く距離だった。
少し迷ってから、その手を取った。
アグネスがこちらを向く。
「……嫌だった?」
「いいえ」
アグネスの指が、俺の手を握り返した。
それだけで、胸の奥が妙に落ち着いた。
「ルーファス」
「何?」
「おやすみなさい」
「……おやすみ、アグネス」
手は、そのままだった。
殺すために、アグネスと結婚した。
ロデリックから最愛の娘を奪うために、三年間、夫でいた。
けれど、もう復讐のためにすることは何もない。
それでも、夫でいることは終わらなかった。
明日も、彼女は俺の妻だ。




