第6話 それは、返すことで動き出した
車で一時間半かかった。
田中さんは道中、ほとんど喋らなかった。
俺も喋らなかった。
カーラジオもつけなかった。
エンジン音と、タイヤの音だけが続いた。
———
目的地が近づくにつれて、俺は八月のことを思い出していた。
あの夜、四人で来た道。
ナンパして仲良くなった女の子二人と、○○と、俺。
「つまんねーな」と言いながら帰った夜。
全員、今頃どうしているんだろうと思った。
○○には、この話を一度もしていなかった。
———
「着いた」
田中さんが言った。
———
道路脇に車を停めた。
外に出ると、空気が違った。
冷たいというより、薄い感じがした。
深呼吸しても、酸素が足りない気がする。
田中さんは後部座席から紙袋を出した。
中を見せてくれた。
塩が入った小さな袋が三つ。
白い布。
それと、細い縄のようなもの。
———
「これを持て」
田中さんは塩の袋を一つ、俺に渡した。
「歩く時、前には出るな。俺の後ろにいろ」
「声は出すな。どんなことがあっても」
———
俺は頷いた。
———
懐中電灯で足元を照らしながら、田中さんの後をついた。
舗装されていない道が続く。
草の音がする。
遠くで、何かの鳴き声がした。
動物の声だと思った。
思うようにした。
———
五分ほど歩いたところで、田中さんが止まった。
———
あの草むらだった。
八月に俺が近づいた場所だ。
奥に、小屋が見える。
あの時より、小さく見えた。
暗いからかもしれない。
———
田中さんは振り向かずに、手で「止まれ」のサインを出した。
俺は立ち止まった。
———
田中さんはしばらく、草むらの入口で動かなかった。
何かを確認しているようだった。
懐中電灯も向けずに、ただ立っていた。
闇の中を、見ていた。
———
一分くらい経って、田中さんが動いた。
草をかき分けて、中に入っていく。
俺は後に続いた。
———
草が顔に当たった。
足元が不安定だった。
懐中電灯の光だけを頼りに進んだ。
———
小屋の前に出た。
———
八月に見た時と、変わっていなかった。
木造の、古い建物。
窓は板で打ち付けてある。
ドアは、ない。開口部だけが、闇になっている。
———
田中さんは小屋の前で膝をついた。
地面に、白い布を広げた。
塩の袋を開けて、布の上に三角形になるよう塩を盛った。
丁寧な手つきだった。
———
俺はその後ろに立って、見ていた。
———
田中さんが振り向いた。
声は出さずに、唇だけで言った。
『お前が感じたことを、思い出せ』
———
俺は頷いた。
八月の夜。
この場所に近づいた時の、あの感覚。
唐突な悲しさ。
理由のない、それでいて確かな悲しみ。
———
思い出した。
———
その瞬間、小屋の開口部から、風が出た。
———
風なんて、おかしい。
外は無風だった。
なのに、小屋の中から、生温かい空気が押し出されてきた。
———
田中さんは動じなかった。
塩の三角形の前に、縄を置いた。
輪になるように。
それから、白い布の端を折って、何かを包むような形にした。
———
俺は見ていた。
———
田中さんが、俺を手招きした。
———
近づいた。
田中さんは布の前を指さした。
そこに膝をつけ、ということだと分かった。
———
俺は膝をついた。
———
田中さんは縄の輪の中を指さした。
それから俺の胸を指さした。
———
意味が、少しずつ分かってきた。
俺が受け取ったものを、ここに置く。
———
方法が分からなかった。
田中さに目で問うと、田中さんは目を閉じて、ゆっくり息を吐いた。
同じようにしろ、ということだと思った。
———
俺は目を閉じた。
———
あの悲しさを、思い出した。
八月の夜。
あの場所で感じた、重くて、静かで、古い悲しみ。
誰かの感情だと、今なら分かる。
この場所に残っていた、誰かの。
———
俺が無意識に受け取ってしまった、その感情を——
———
手放す、というより。
———
返す、という感覚だった。
———
ここに来る前に持っていたものを、元の場所に戻す。
宅配便の、誤配達を届け直すみたいな。
そんな、妙に事務的なイメージが浮かんで、場違いだとは思ったけれど、それが一番近かった。
———
息を吐いた。
声は、出さなかった。
———
何も起きなかった。
———
もう一度、息を吐いた。
今度は少し長く。
———
その時だった。
———
胸の中で、何かが動いた。
———
痛くはない。
でも確かに、動いた。
まるで長い間そこにあったものが、初めて位置を変えたみたいな感覚。
———
目を開けた。
———
縄の輪の中に、何かあった。
———
見えるわけじゃない。
でも、「ある」と分かった。
さっきまで何もなかったのに、今は何かがそこにある。
———
田中さんは縄の輪を、素早く縛った。
布で包んだ。
塩で覆った。
———
立ち上がって、その包みを小屋の開口部に置いた。
奥に向かって、深く頭を下げた。
———
声は出さなかった。
でも唇が、少し動いた。
何を言ったのかは、聞こえなかった。
———
田中さんが振り向いた。
俺に向かって、頷いた。
———
帰るぞ、という意味だと分かった。
———
来た道を戻った。
田中さんの後ろを、黙ってついた。
草の音。足元の土。遠くの鳴き声。
———
車に戻った時、田中さんが初めて普通の声で喋った。
「終わった」
———
俺は助手席に座って、深く息を吐いた。
「本当に、終わったんですか」
「あそこでは、終わった」
田中さんはエンジンをかけた。
「ただ、もう一つある」
———
「もう一つ?」
———
田中さんは車を出しながら、前を向いたまま言った。
「あれが、お前の感情を持ち歩いていた期間、あれはお前の一部を知っていた」
「返した今、その繋がりは切れた」
「でも」
———
「向こうは、まだお前の声を持っている」
———
俺は窓の外を見た。
暗い山道が続く。
———
「声は、返せないんですか」
「返せない。声は記憶と違って、複製されたものだ。向こうが持っている声を消すには、元を断つしかない」
———
「元を断つ、というのは」
———
田中さんは少し間を置いた。
———
「お前が声を変えるか」
「あるいは、向こうを完全に消すか」
———
「消す方法は?」
「俺には分からない。俺が二十年やってきて、まだ見つけていない」
———
車が山道を抜けた。
街の明かりが見えてきた。
———
「声を変えるというのは、どういうことですか」
———
田中さんはしばらく黙っていた。
信号で止まった時、こう言った。
「人間の声は、大きな経験で変わることがある」
「病気で変わる人もいる。歳で変わる人もいる」
「あるいは——感情で変わることもある」
———
「感情で」
「大きな悲しみや、大きな恐怖や」
田中さんは続けた。
「そういう経験が、声質を変えることがある」
「もし声が変われば、向こうが持っているものは、お前の声じゃなくなる」
———
俺は、その言葉の意味をゆっくり考えた。
———
「つまり」
俺は言った。
「俺が何か大きな経験をすれば、向こうの持っている声が古くなる?」
「そういうことだ」
「ただし、それは自然に起きるものだ。意図して起こせるものじゃない」
———
「だから、待つしかない?」
「今は、そうだ」
———
車が、見慣れた街に入った。
マンションが見えてきた。
———
「田中さんは」
俺は聞いた。
「田中さんの声は、まだ持たれてるんですか」
———
田中さんは答えなかった。
車を路肩に寄せて、止めた。
エンジンは切らなかった。
———
「降りろ」
———
俺は降りた。
ドアを閉める前に、田中さんの横顔を見た。
———
「田中さん」
「なんだ」
「また、連絡しますか」
———
田中さんは前を向いたまま言った。
———
「お前から連絡してくるな」
「俺から行く」
「ただ」
———
一拍置いた。
———
「もし、俺から来た連絡が、おかしいと思ったら」
「無視しろ」
———
俺は頷いた。
ドアを閉めた。
田中さんの車は、静かに走り去った。
———
部屋に戻った。
お札はあった。鍵も閉まっていた。
部屋の空気は、普通だった。
あの「重さ」が、なかった。
———
眠れると思った。
久しぶりに、そう思えた。
———
布団に入って、電気を消した。
———
暗闇に、染みは出なかった。
———
静かだった。
本当に、静かだった。
———
俺は眠った。
———
夢を見た。
———
知らない場所だった。
でも怖くはなかった。
広い野原みたいな場所で、空が明るかった。
誰もいなかった。
———
俺は一人で、そこに立っていた。
声を出してみた。
自分の声が、普通に出た。
誰にも聞かれていない声が。
———
目が覚めたら、朝だった。
カーテンの隙間から、光が入っていた。
———
静かな朝だった。
それだけで、十分だった。
———
——ただし。
———
これが終わりじゃないことを、俺はどこかで分かっていた。
———
向こうはまだ、俺の声を持っている。
田中さんは「また連絡する」と言った。
中村の顔をした何かと、俺は会話した。
神社の老人のお札は、年を越えるかどうかの期限がある。
———
一つ一つを並べると、終わってなんかいない。
———
でも、あの朝の光は本物だった。
あの静けさは本物だった。
———
だから俺は、とりあえず飯を食った。
コーヒーを淹れた。
窓を開けて、冷たい空気を吸った。
———
普通の朝だった。
———
それだけで、今は十分だと思った。
———
年が明けたら、どうなるか。
田中さんが来るのか、来ないのか。
声が変わるほどの何かが起きるのか、起きないのか。
———
全部、分からない。
———
でも一つだけ。
あの封筒に書いてあった一行を、俺は思い出した。
———
『まだ、終わっていない。でも、一人じゃない』
———
誰が書いたのか、今も分からない。
田中さんなのか、神社の老人なのか、それとも別の何かなのか。
———
でも。
———
一人じゃない、という言葉だけは。
信じることにした。
———
年末まで、あと十日。
ありがとうございました。
感想をいただけるとありがたいです。




