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『声を覚えられた話』  作者: 普通


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6/7

第6話 それは、返すことで動き出した

車で一時間半かかった。

田中さんは道中、ほとんど喋らなかった。

俺も喋らなかった。

カーラジオもつけなかった。

エンジン音と、タイヤの音だけが続いた。

———

目的地が近づくにつれて、俺は八月のことを思い出していた。

あの夜、四人で来た道。

ナンパして仲良くなった女の子二人と、○○と、俺。

「つまんねーな」と言いながら帰った夜。

全員、今頃どうしているんだろうと思った。

○○には、この話を一度もしていなかった。

———

「着いた」

田中さんが言った。

———

道路脇に車を停めた。

外に出ると、空気が違った。

冷たいというより、薄い感じがした。

深呼吸しても、酸素が足りない気がする。

田中さんは後部座席から紙袋を出した。

中を見せてくれた。

塩が入った小さな袋が三つ。

白い布。

それと、細い縄のようなもの。

———

「これを持て」

田中さんは塩の袋を一つ、俺に渡した。

「歩く時、前には出るな。俺の後ろにいろ」

「声は出すな。どんなことがあっても」

———

俺は頷いた。

———

懐中電灯で足元を照らしながら、田中さんの後をついた。

舗装されていない道が続く。

草の音がする。

遠くで、何かの鳴き声がした。

動物の声だと思った。

思うようにした。

———

五分ほど歩いたところで、田中さんが止まった。

———

あの草むらだった。

八月に俺が近づいた場所だ。

奥に、小屋が見える。

あの時より、小さく見えた。

暗いからかもしれない。

———

田中さんは振り向かずに、手で「止まれ」のサインを出した。

俺は立ち止まった。

———

田中さんはしばらく、草むらの入口で動かなかった。

何かを確認しているようだった。

懐中電灯も向けずに、ただ立っていた。

闇の中を、見ていた。

———

一分くらい経って、田中さんが動いた。

草をかき分けて、中に入っていく。

俺は後に続いた。

———

草が顔に当たった。

足元が不安定だった。

懐中電灯の光だけを頼りに進んだ。

———

小屋の前に出た。

———

八月に見た時と、変わっていなかった。

木造の、古い建物。

窓は板で打ち付けてある。

ドアは、ない。開口部だけが、闇になっている。

———

田中さんは小屋の前で膝をついた。

地面に、白い布を広げた。

塩の袋を開けて、布の上に三角形になるよう塩を盛った。

丁寧な手つきだった。

———

俺はその後ろに立って、見ていた。

———

田中さんが振り向いた。

声は出さずに、唇だけで言った。

『お前が感じたことを、思い出せ』

———

俺は頷いた。

八月の夜。

この場所に近づいた時の、あの感覚。

唐突な悲しさ。

理由のない、それでいて確かな悲しみ。

———

思い出した。

———

その瞬間、小屋の開口部から、風が出た。

———

風なんて、おかしい。

外は無風だった。

なのに、小屋の中から、生温かい空気が押し出されてきた。

———

田中さんは動じなかった。

塩の三角形の前に、縄を置いた。

輪になるように。

それから、白い布の端を折って、何かを包むような形にした。

———

俺は見ていた。

———

田中さんが、俺を手招きした。

———

近づいた。

田中さんは布の前を指さした。

そこに膝をつけ、ということだと分かった。

———

俺は膝をついた。

———

田中さんは縄の輪の中を指さした。

それから俺の胸を指さした。

———

意味が、少しずつ分かってきた。

俺が受け取ったものを、ここに置く。

———

方法が分からなかった。

田中さに目で問うと、田中さんは目を閉じて、ゆっくり息を吐いた。

同じようにしろ、ということだと思った。

———

俺は目を閉じた。

———

あの悲しさを、思い出した。

八月の夜。

あの場所で感じた、重くて、静かで、古い悲しみ。

誰かの感情だと、今なら分かる。

この場所に残っていた、誰かの。

———

俺が無意識に受け取ってしまった、その感情を——

———

手放す、というより。

———

返す、という感覚だった。

———

ここに来る前に持っていたものを、元の場所に戻す。

宅配便の、誤配達を届け直すみたいな。

そんな、妙に事務的なイメージが浮かんで、場違いだとは思ったけれど、それが一番近かった。

———

息を吐いた。

声は、出さなかった。

———

何も起きなかった。

———

もう一度、息を吐いた。

今度は少し長く。

———

その時だった。

———

胸の中で、何かが動いた。

———

痛くはない。

でも確かに、動いた。

まるで長い間そこにあったものが、初めて位置を変えたみたいな感覚。

———

目を開けた。

———

縄の輪の中に、何かあった。

———

見えるわけじゃない。

でも、「ある」と分かった。

さっきまで何もなかったのに、今は何かがそこにある。

———

田中さんは縄の輪を、素早く縛った。

布で包んだ。

塩で覆った。

———

立ち上がって、その包みを小屋の開口部に置いた。

奥に向かって、深く頭を下げた。

———

声は出さなかった。

でも唇が、少し動いた。

何を言ったのかは、聞こえなかった。

———

田中さんが振り向いた。

俺に向かって、頷いた。

———

帰るぞ、という意味だと分かった。

———

来た道を戻った。

田中さんの後ろを、黙ってついた。

草の音。足元の土。遠くの鳴き声。

———

車に戻った時、田中さんが初めて普通の声で喋った。

「終わった」

———

俺は助手席に座って、深く息を吐いた。

「本当に、終わったんですか」

「あそこでは、終わった」

田中さんはエンジンをかけた。

「ただ、もう一つある」

———

「もう一つ?」

———

田中さんは車を出しながら、前を向いたまま言った。

「あれが、お前の感情を持ち歩いていた期間、あれはお前の一部を知っていた」

「返した今、その繋がりは切れた」

「でも」

———

「向こうは、まだお前の声を持っている」

———

俺は窓の外を見た。

暗い山道が続く。

———

「声は、返せないんですか」

「返せない。声は記憶と違って、複製されたものだ。向こうが持っている声を消すには、元を断つしかない」

———

「元を断つ、というのは」

———

田中さんは少し間を置いた。

———

「お前が声を変えるか」

「あるいは、向こうを完全に消すか」

———

「消す方法は?」

「俺には分からない。俺が二十年やってきて、まだ見つけていない」

———

車が山道を抜けた。

街の明かりが見えてきた。

———

「声を変えるというのは、どういうことですか」

———

田中さんはしばらく黙っていた。

信号で止まった時、こう言った。

「人間の声は、大きな経験で変わることがある」

「病気で変わる人もいる。歳で変わる人もいる」

「あるいは——感情で変わることもある」

———

「感情で」

「大きな悲しみや、大きな恐怖や」

田中さんは続けた。

「そういう経験が、声質を変えることがある」

「もし声が変われば、向こうが持っているものは、お前の声じゃなくなる」

———

俺は、その言葉の意味をゆっくり考えた。

———

「つまり」

俺は言った。

「俺が何か大きな経験をすれば、向こうの持っている声が古くなる?」

「そういうことだ」

「ただし、それは自然に起きるものだ。意図して起こせるものじゃない」

———

「だから、待つしかない?」

「今は、そうだ」

———

車が、見慣れた街に入った。

マンションが見えてきた。

———

「田中さんは」

俺は聞いた。

「田中さんの声は、まだ持たれてるんですか」

———

田中さんは答えなかった。

車を路肩に寄せて、止めた。

エンジンは切らなかった。

———

「降りろ」

———

俺は降りた。

ドアを閉める前に、田中さんの横顔を見た。

———

「田中さん」

「なんだ」

「また、連絡しますか」

———

田中さんは前を向いたまま言った。

———

「お前から連絡してくるな」

「俺から行く」

「ただ」

———

一拍置いた。

———

「もし、俺から来た連絡が、おかしいと思ったら」

「無視しろ」

———

俺は頷いた。

ドアを閉めた。

田中さんの車は、静かに走り去った。

———

部屋に戻った。

お札はあった。鍵も閉まっていた。

部屋の空気は、普通だった。

あの「重さ」が、なかった。

———

眠れると思った。

久しぶりに、そう思えた。

———

布団に入って、電気を消した。

———

暗闇に、染みは出なかった。

———

静かだった。

本当に、静かだった。

———

俺は眠った。

———

夢を見た。

———

知らない場所だった。

でも怖くはなかった。

広い野原みたいな場所で、空が明るかった。

誰もいなかった。

———

俺は一人で、そこに立っていた。

声を出してみた。

自分の声が、普通に出た。

誰にも聞かれていない声が。

———

目が覚めたら、朝だった。

カーテンの隙間から、光が入っていた。

———

静かな朝だった。

それだけで、十分だった。

———

——ただし。

———

これが終わりじゃないことを、俺はどこかで分かっていた。

———

向こうはまだ、俺の声を持っている。

田中さんは「また連絡する」と言った。

中村の顔をした何かと、俺は会話した。

神社の老人のお札は、年を越えるかどうかの期限がある。

———

一つ一つを並べると、終わってなんかいない。

———

でも、あの朝の光は本物だった。

あの静けさは本物だった。

———

だから俺は、とりあえず飯を食った。

コーヒーを淹れた。

窓を開けて、冷たい空気を吸った。

———

普通の朝だった。

———

それだけで、今は十分だと思った。

———

年が明けたら、どうなるか。

田中さんが来るのか、来ないのか。

声が変わるほどの何かが起きるのか、起きないのか。

———

全部、分からない。

———

でも一つだけ。

あの封筒に書いてあった一行を、俺は思い出した。

———

『まだ、終わっていない。でも、一人じゃない』

———

誰が書いたのか、今も分からない。

田中さんなのか、神社の老人なのか、それとも別の何かなのか。

———

でも。

———

一人じゃない、という言葉だけは。

信じることにした。

———

年末まで、あと十日。

ありがとうございました。

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