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『声を覚えられた話』  作者: 普通


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5/7

第5話 それは、知っている人の顔をしていた

封筒の一行を見てから、三日間、何も起きなかった。

夢も見なかった。

音もしなかった。

染みも出なかった。

———

静かすぎた。

これが本当の終わりなのか、それとも嵐の前なのか。

どちらか分からないまま、俺は日常を続けた。

———

年末が近づいていた。

職場は忙しくなって、残業が増えた。

疲れて帰って、飯を食って、眠る。

考える余裕がなくなっていくのは、ある意味ありがたかった。

———

その日も残業で、帰宅は夜十一時を過ぎていた。

マンションのエントランスに入ったところで、エレベーターが開いた。

中に、人がいた。

———

田中さんだった。

———

俺は、一瞬止まった。

田中さんも、止まった。

———

「……久しぶりです」

声が出た。反射的に。

田中さんは頷いた。

以前より、さらに痩せていた。

でも目は、あの時と同じで鋭かった。

———

エレベーターを降りて、田中さんは俺の横に並んだ。

廊下を歩きながら、耳元で小さく言った。

「封筒、見たか」

俺は頷いた。

「神社の老人に会ったな」

また頷いた。

———

部屋の前まで来た。

田中さんはドアを見て、お札を確認して、小さく息を吐いた。

安堵なのか、別の何かなのか、相変わらず読めなかった。

———

部屋には上げなかった。

廊下で、ノートもなしに話した。

田中さんは声を出さず、俺も最小限の相槌だけ返した。

田中さんが唇の動きだけで話して、俺がそれを読む。

———

まず田中さんが言ったのは、こうだった。

「俺は今、別の場所に住んでいる。それは教えない」

俺は頷いた。

「メールアドレスを変えた。古いアドレスには、もう俺はいない」

———

「あのアドレスに、今も何かがいる」

———

俺は、想像していたことだった。

あの最後のメール。

件名が俺のフルネームで、『俺の声を、覚えたか』と書いてあったやつ。

田中さんは送っていない。

向こうが、田中さんのアドレスを使って送った。

———

田中さんは続けた。

「神社の老人から受け取ったものは、効いている。ただし、期限がある」

「いつまでですか」

田中さんは少し考えてから、唇を動かした。

「年を越えるかどうか、くらい」

———

十二月の末まで。

あと二、三週間。

———

「その前に、一度だけ、やることがある」

田中さんの目が、俺を真っ直ぐ見た。

「向こうと、直接会う」

———

俺は、聞き間違いかと思った。

「……直接、会う?」

田中さんは頷いた。

「逃げ続けても消えない。声を無視しても消えない。それは俺が証明している」

「向こうが持っているものを、返してもらわないといけない」

———

「返してもらう、って……何を持ってるんですか」

———

田中さんは少しの間、答えなかった。

それから唇だけで、静かに言った。

———

「お前の、泣く声だ」

———

俺は理解するのに数秒かかった。

あの夜。心霊スポットの帰り際。

草むらの奥の小屋の前で、こらえた悲しさ。

泣きそうになって、鼻をすすった。

あの息が、声として取られた。

———

「それを取り返さないといけない」

田中さんは言った。

「向こうが持っているものがある限り、繋がりは切れない。名前を知られて、声を集められて、それでもまだ繋がっている理由は、最初の声があるからだ」

———

「どうやって取り返すんですか」

———

田中さんは答えなかった。

しばらく廊下に立っていた。

エレベーターが別の階で動く音がした。

———

「それを考えている」

田中さんはそれだけ言った。

「もう少し待ってくれ」

———

そのまま、田中さんは帰った。

———

部屋に入って、鍵を閉めて、チェーンをかけた。

お札が、ちゃんと玄関にあることを確認した。

———

「泣く声を、持っている」。

———

向こうは今、何に使っているんだろうと思った。

俺が気づいていないだけで、使われているのかもしれない。

夢の中で聞こえた「疲れただろ」という声。

共感を引き出そうとする、あの言葉。

俺の悲しみを、知っているから言えたのかもしれない。

———

眠れないまま、朝になった。

———

翌日から四日間、田中さんから連絡はなかった。

あるかもしれないと思ったメールアドレスには、何も来なかった。

新しいアドレスは教えてもらっていなかった。

———

五日目の夜、異変があった。

———

職場から帰る途中、コンビニに寄った。

レジに並んでいたら、後ろから声をかけられた。

———

「お前、ここの近く住んでんの?」

———

振り向いた。

大学時代の同期だった。

名前は中村。明るくて、よく笑う奴だ。

卒業後は連絡が途絶えていたが、顔を見たら懐かしかった。

———

「久しぶり、こっちで働いてんの?」

「そう、最近異動になって」

自然な会話が始まった。

レジを済ませて、コンビニを出て、少し立ち話をした。

———

中村は変わっていなかった。

くだらない話をして、よく笑って、近況を教えてくれた。

俺も、久しぶりに普通に笑った。

———

「また飲もうぜ」と言って、中村は手を振って去っていった。

———

俺は、その背中を見送った。

———

何かが、引っかかった。

———

上手く言えない引っかかり方だった。

中村の顔も声も、おかしくなかった。

話の内容も、記憶と矛盾していなかった。

でも何か、一つだけ。

———

俺は、その場で立ち止まって、さっきの会話を思い返した。

———

中村が、俺の名前を呼んだ場面があった。

話の途中で、一度だけ。

「お前さ、○○って今でも——」という流れで。

———

そこだった。

———

中村は、俺の名前を言う時。

少しだけ、間があった。

———

普通の会話なら間はない。

親しい相手の名前は、考えずに出てくる。

でも中村は、一瞬止まった。

まるで、今から言う名前を確認するみたいに。

———

俺は、走った。

———

中村の後を追ったわけじゃない。

その場から、逃げた。

———

部屋に帰って、鍵を閉めて、チェーンをかけて、お札を確認した。

———

震えていた。

———

中村が本物かどうか、分からなかった。

でも、もし本物だったとしたら、俺は今、大切な友人を疑っている。

もし本物じゃなかったとしたら、俺は向こうと会話した。

名前を呼ばれた。

笑い声を出した。

———

どちらにしても、最悪だった。

———

その夜、俺はノートに書き出した。

声を出さないまま、ペンを走らせた。

向こうが俺について知っていること。

名前。漢字。声。笑い声。泣きそうになった感情。鼻をすする息。

そして今夜、もしかしたら——

大学時代の同期の顔。

———

知っている人間の顔を、使い始めた。

———

田中さんの言っていた「次の手段」が、これだったのか。

声から、顔へ。

見知った人間の形を借りて、普通に話しかけてくる。

———

俺は、ノートを閉じた。

———

これが一番、怖かった。

音は怖い。染みは怖い。声は怖い。

でも、全部「おかしい」と分かった。

知っている人の顔は、分からない。

普通に見えるから。

普通に話せてしまうから。

———

この先、誰かに話しかけられるたびに。

俺は疑うことになる。

本物かどうかを、確かめながら会話する。

———

それが続いたら、どうなるか。

———

翌朝、田中さんから連絡が来た。

新しいアドレスからだった。

件名は『準備できた』。

本文は短かった。

———

『今週末、一緒に行く。あの場所に、戻る。持ち物を教える。返信はするな。このアドレスに送ってくるものがあっても、開くな。』

———

俺は返信しなかった。

———

でも、一つだけ気になることがあった。

———

田中さんは「今週末」と書いた。

でも、日付を指定していなかった。

今週末が土曜なのか日曜なのか。

———

どちらか分からないまま、俺は週末を待った。

———

土曜日、誰も来なかった。

———

日曜日、昼過ぎに田中さんから電話が来た。

出た。

「今から迎えに行く」とだけ言って、切れた。

———

声が、少しだけ変わっていた気がした。

以前より、低くなっていた。

疲れているのか。

それとも——

———

俺は、その考えを打ち切った。

玄関の前に立って、田中さんを待った。

———

インターフォンが鳴ったのは、一時間後だった。

モニターに田中さんの顔が映った。

俺は、じっとモニターを見た。

———

田中さんの顔だった。

でも、俺は三十秒、動かなかった。

顔を見ながら、確認した。

表情。目の動き。立ち方。

———

田中さんは待っていた。

急かさなかった。

———

その「急かさない」ところが、田中さんらしかった。

俺はドアを開けた。

———

田中さんは車で来ていた。

助手席に乗り込んだら、後部座席に紙袋があった。

「触るな」と田中さんは言った。

声で言った。

———

「あの場所に、戻るんですね」

「ああ」

「持って帰ってきたもの、取り返せるんですか」

田中さんは少しの間、前を向いたまま答えなかった。

———

「取り返すんじゃない」

———

「返しに行く」

———

俺は、意味が分からなかった。

「返しに行く? 何を返すんですか」

———

田中さんはウインカーを出して、車線を変えた。

それから、静かに言った。

———

「お前が、あの場所から持って帰ったもの」

「物じゃない。記憶だ」

「あの小屋の前で感じた、あの悲しさ」

———

「あれは、お前のものじゃない」

———

俺は、助手席で固まった。

———

「あの場所にいた誰かの、感情だ」

「お前が受け取ってしまった」

「だからずっと、繋がっている」

———

夜の道路を、車が走る。

ヘッドライトが対向車と交差する。

———

「返しに行けば、終わるんですか」

———

田中さんは、すぐには答えなかった。

信号が赤になった。

車が止まった。

田中さんはハンドルを握ったまま、前を向いていた。

———

信号が、青になった。

———

「終わるかどうかは、分からない」

「ただ、始まりの場所に戻ることが、今できる唯一のことだ」

———

俺は、窓の外を見た。

見慣れた街並みが、後ろに流れていく。

———

暗い道が、続いていた。

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