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『声を覚えられた話』  作者: 普通


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4/7

第4話 それは、夢の中まで来た

目が覚めても、しばらく手を下ろせなかった。

玄関を指さしたまま、俺は天井を見ていた。

自分の意志で動かした記憶はない。

寝返りを打った拍子に、たまたまそうなっただけかもしれない。

でも、そうじゃない気がした。

———

玄関を確認した。

何もなかった。

鍵は閉まっていた。

チェーンも、かかっていた。

泥も、足跡も、なかった。

———

ただ、ドアスコープが——

内側から、紙で塞がれていた。

———

俺はその紙を覚えていなかった。

貼った記憶がない。

白い紙で、テープで止めてあった。

テープも紙も、部屋にあるものだった。

俺が持っているマスキングテープと、メモ用紙。

———

俺が、眠りながら貼ったのか。

それとも。

———

剥がした。

ドアスコープから外を覗いた。

廊下には、誰もいなかった。

———

その日は土曜日だった。

仕事はない。

俺は午前中、部屋から出なかった。

———

昼過ぎに、大学時代の友人から連絡が来た。

飲もうという誘いだった。

二つ返事で了承した。

———

夜、居酒屋で友人と向かい合った。

友人は変わらず能天気で、くだらない話を延々とした。

俺はそれが、ありがたかった。

笑った。声を出して、笑った。

外では、いい。そう決めていた。

声を聞かれるのは、部屋の中だけだと思っていたから。

———

終電近くまで飲んで、帰った。

酔っていたが、意識はあった。

部屋に入る前にドアスコープを確認した。

廊下は、空だった。

部屋の中も、確認した。

異常はなかった。

———

眠ったのは、午前一時を回った頃だった。

———

夢を見た。

———

夢の中で、俺は自分の部屋にいた。

でも、少し違った。

家具の配置が逆だった。

窓の位置が、反対側にある。

鏡に映した部屋、みたいな感じだ。

———

夢だと気づいていた。

なぜかはっきりと、「これは夢だ」と分かっていた。

———

その部屋の中に、椅子が一つあった。

俺の部屋にはない椅子だ。

木製の、古い椅子。

———

誰かが座っていた。

———

顔は見えなかった。

俯いていて、髪で顔が隠れていた。

でも輪郭は分かった。

小柄だった。子供くらいの背格好だ。

———

俺は近づかなかった。

夢の中で、距離を保っていた。

———

その人影が、顔を上げようとした。

———

俺は目を逸らした。

夢の中で、意識的に。

「見るな」と自分に言い聞かせた。

———

その瞬間、声が聞こえた。

———

俺の声だった。

笑い声じゃない。

さっき居酒屋で友人と話していた、あの俺の声だ。

———

「なんで逃げるんだよ」

———

俺は、答えなかった。

夢の中で、唇を噛んだ。

———

「逃げてばっかじゃないか」

———

声は続いた。

俺の声で、俺に話しかけてくる。

———

「もう疲れただろ」

———

その一言が、刺さった。

———

嘘じゃなかったから。

本当に、疲れていたから。

ホテルを転々として、声を殺して、田中さんも消えて、一人で抱えて。

疲れていた。

———

「答えてくれたら、楽になるよ」

———

俺の声が、そう言った。

———

夢の中で、俺は一歩だけ前に出た。

椅子の方に。

———

気づいた瞬間、踏みとどまった。

———

「答えるな」

田中さんの声が、頭の中で響いた。

メモに書いてあった言葉じゃない。

玄関で別れた時の、あの息みたいな声だ。

———

俺は後ろに下がった。

———

夢の中の部屋が、暗くなった。

椅子が、遠くなった。

声が、小さくなった。

———

「……もったいない」

———

最後にそれだけ聞こえて、目が覚めた。

———

午前四時だった。

部屋は静かだった。

電気はついたままだった。

俺は眠る時、最近ずっと電気をつけたまま寝ていた。

———

汗をかいていた。

でも、声は出ていなかった。

———

しばらく動かなかった。

夢の内容を、頭の中で整理した。

———

夢に、入ってきた。

———

部屋の外にいた何かが、今度は夢の中に来た。

俺が眠っている間、無防備な間に。

声を使って、返事を引き出そうとした。

———

「答えてくれたら、楽になる」。

———

あと一歩で、答えていた。

夢の中の俺は、一歩前に出た。

田中さんの声がなければ、そのまま何か言っていたかもしれない。

———

田中さんの声。

———

俺は、そこで気づいた。

田中さんの声も、向こうは聞いているかもしれない。

田中さんは俺に会いに来た。俺の部屋で、ノートで話した。

声は出さなかった。でも最後に、玄関で耳元で囁いた。

———

あの声も、聞かれていたとしたら。

———

田中さんが消えたのは。

———

俺は、その考えを途中で止めた。

考えても意味がない方向だと思った。

———

朝になって、飯を食って、シャワーを浴びた。

普通の日曜日を過ごした。

———

夕方、散歩がてら近所を歩いていたら、古い神社があった。

普段は素通りするような、小さな神社だ。

なんとなく、足が止まった。

———

賽銭を入れて、手を合わせた。

特に何かを祈ったわけじゃない。

ただ、そこに立っていたかった。

———

帰り道、社務所に明かりがついていた。

宮司らしき老人が、掃除をしていた。

———

俺は声をかけた。

自分でも、なぜそうしたか分からない。

———

「少し、相談してもいいですか」

———

老人は箒を止めて、俺を見た。

品定めするような目ではなかった。

ただ、静かに見た。

———

「どうぞ」

———

社務所の中で、俺は話した。

全部ではない。でも、大筋は話した。

声を聞かれたこと。名前を知られたこと。夢に来たこと。

———

老人は途中で口を挟まなかった。

最後まで聞いて、少しの間、黙っていた。

———

「祓えるかどうかは、分からん」

老人はそう言った。

「ただ、一つだけ聞かせてくれ」

———

「それが来るようになったのは、いつからだ」

俺は、心霊スポットに行った日を言った。

老人は頷いた。

「その場所で、お前は何かを持って帰らなかったか」

———

俺は考えた。

何も持ち帰った記憶はない。

写真も撮らなかった。石も拾わなかった。

———

「持ち帰ったものは、ないと思います」

「物じゃなくてもいい」

老人はゆっくりと言った。

「言葉でも、感情でも、記憶でも」

———

俺は、考えた。

———

あの夜のことを、思い出した。

八月の、心霊スポット。

「つまんねーな」と言って帰った夜。

———

でも、一つだけあった。

———

帰り際、その場所の入口に立った時。

妙に、気になった場所があった。

草むらの奥に、古い小屋みたいな建物があった。

なんとなく気になって、近づいた。

近づいた時、なぜかひどく悲しくなった。

理由のない、唐突な悲しさだった。

———

泣きそうになった。

こらえた。

声には、出さなかった。

でもたぶん、息が出た。

鼻をすする音が、出た。

———

「その場所で、泣きそうになったことがあります」

俺は言った。

「こらえましたが」

———

老人は、少し目を細めた。

「こらえたのは、良かったかもしれん」

「でも、感情は出た」

———

老人は立ち上がって、棚から古い木箱を出した。

中に、紙が入っていた。

お札、というより、もっと古い感じの紙だった。

———

「これを、玄関の内側に貼れ」

「声を出す時は、外に出てから」

「夢の中で話しかけられても、答えるな。夢だと分かっていても」

———

俺は頷いた。

———

「それと」

老人はもう一枚、紙を出した。

「田中、という人に、これを渡してくれ」

———

俺は、固まった。

「……田中さんを、ご存知ですか」

老人は首を振った。

「知らん。ただ、お前の話を聞いていたら、その人もまだ続いている気がした」

「消えた人間は、本当に消えたわけじゃない場合がある」

———

俺は、二枚の紙を受け取った。

———

家に帰って、玄関の内側にお札を貼った。

田中さん宛の紙は、封筒に入れて机の引き出しにしまった。

渡せるかどうか、分からなかった。

でも、捨てられなかった。

———

その夜は、夢を見なかった。

———

翌朝、引き出しを開けたら、田中さん宛の封筒が——

開封されていた。

———

俺は開けていない。

中の紙は、なくなっていた。

———

封筒だけが残っていた。

———

俺は、しばらくそれを見ていた。

———

二つの可能性が頭に浮かんだ。

一つは、田中さんが来た。

眠っている間に部屋に入って、紙を持っていった。

———

もう一つは——

別の何かが、持っていった。

———

どちらかは、分からない。

今も、分からない。

———

ただ、封筒の内側に、一行だけ書き込みがあった。

俺の筆跡ではなかった。

田中さんの筆跡かどうかも、分からなかった。

———

『まだ、終わっていない。でも、一人じゃない』

———

俺は、その封筒を——

今も、持っている。

———

お守りみたいに思っているわけじゃない。

ただ、捨てられない。

あの一行が、誰の言葉なのかを——

確かめるまでは。

ありがとうございました。

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