第3話 それは、玄関の外で待っていた
田中さんのメールを受け取ってから、俺は三つのことを決めた。
一つ。友人の家を出る。
二つ。自分の部屋には戻らない。
三つ。一人でいる時間を、できる限り作らない。
———
友人には「実家に帰る」と言った。
嘘だ。
実家には帰れなかった。
母親の声を「使われる」かもしれないと分かった時点で、家族には近づけないと思っていた。
巻き込みたくなかった。
———
ビジネスホテルを転々とした。
一泊四千円くらいの、古くて狭い部屋。
チェックアウトを繰り返しながら、二週間過ごした。
———
何も起きなかった。
———
何も起きない、というのは正確じゃないかもしれない。
気になることは、あった。
例えばホテルの廊下で、自分の名前を呼ばれた気がした。
振り向いたら、誰もいなかった。
例えば深夜に、隣の部屋から笑い声がした。
俺の笑い声に、似ていた。
でも壁一枚隔てた向こうに人がいると思えば、確認しようがない。
———
ただ、直接来ることはなかった。
田中さんが「直接来る」と書いたことを、俺はずっと気にしていた。
でも二週間、何事もなかった。
———
金が尽きてきた頃、俺は一つの結論を出した。
部屋に戻るしかない。
———
戻る前に、俺は自分なりに調べた。
図書館で、民俗学の本を何冊か読んだ。
怪異を扱った文献、呪術の記録、祓いの方法。
ほとんどは読み物として面白いだけで、実用的じゃなかった。
でも一冊、古い本の中に気になる記述があった。
———
要約するとこうだ。
「声を模倣する霊は、模倣した声を使って対象を『引き寄せる』ことを目的とする。ただし、対象が反応しない限り、霊は声を変え続ける。声を変えるたびに、霊のエネルギーは消費される。最終的に模倣できる声が尽きた時、霊は対象への興味を失うか、別の手段に切り替えるかのどちらかである」
———
「別の手段」が何なのか、その本には書いていなかった。
でも、一つだけ希望があった。
声を変えるたびに、消耗する。
つまり、反応しなければ、向こうは疲弊する。
———
俺は部屋に戻ることにした。
ただし、一つだけ準備をした。
———
引越しセンターに電話して、大型の荷物だけ別の場所に預けた。
部屋には、逃げやすい最低限のものだけ残す。
いざとなれば、バッグ一つで出られるように。
———
十一月の初め。
二週間ぶりに、自分の部屋のドアの前に立った。
———
鍵穴に鍵を差し込んだ瞬間、気付いた。
ドアが、少しだけ開いていた。
———
チェーンも、かかっていない。
鍵は確かに閉めた記憶がある。
でも、隙間がある。
一センチほどの。
———
俺は、その隙間から中を見た。
暗かった。
見えるのは、廊下の一部だけ。
音はない。
気配も——
———
あった。
———
言葉では説明しにくい。
ただ、「いる」と分かった。
部屋の中ではなかった。
玄関の外でもなかった。
ドアの、隙間のところに。
その一センチの空間に、何かが「挟まって」いた。
———
俺は鍵を引き抜いた。
一歩、後ろに下がった。
ドアには触れなかった。
———
隣の部屋のドアが開いた。
隣人の、四十代くらいの男性が出てきた。
「あ、お帰り」と言った。
普通の声だった。
———
俺はその人の顔を確認した。
見知った顔だった。ちゃんと実在する隣人だった。
「ちょっと聞いていいですか」と俺は言った。
声が出た。久しぶりに、ちゃんと声が出た。
「うちのドア、開いてたの気づきました?」
隣人は少し考えた。
「そういえば、昨日の夜、バタンって音したけど」
「夜、何時ごろですか」
「うーん、三時か四時くらい? 寝てたから定かじゃないけど」
———
俺は礼を言って、隣人が階段の方へ消えるのを待った。
———
一人になってから、もう一度ドアを見た。
隙間は、さっきのままだった。
変わっていない。
でも、「挟まっている」感覚は消えていた。
隣人が来たから、離れたのか。
それとも、最初から気のせいだったのか。
———
俺は意を決して、ドアを押し開けた。
———
電気をつけた。
部屋を、端から端まで確認した。
クローゼットの中も、風呂場も、トイレも。
何もいなかった。
———
でも、一つだけ、おかしなことがあった。
———
玄関の三和土に、泥がついていた。
小さな足跡のような形で、二つ。
左右対称に。
でも、サイズがおかしかった。
子供の足より、さらに小さい。
動物でもない形だった。
———
俺はそれを、雑巾で拭いた。
声を出さないまま、息を止めるようにしながら。
———
その夜から、俺はまた部屋で生活した。
———
特に何も起きない夜が続いた。
一週間、二週間。
染みは出なかった。
音もしなかった。
声もなかった。
———
俺は少しずつ、普通の生活を取り戻した。
声を出してもいいかどうかは分からなかったが、職場では普通に喋った。
帰宅してから、無意識に独り言を言いそうになって止める、ということを何度か繰り返した。
———
三週間が経った頃、俺はある考えに至った。
———
終わったのかもしれない。
———
田中さんの言っていた「声が尽きる」というのは、こういうことなんじゃないか。
向こうは俺の笑い声を使った。俺は反応しなかった。
次の声を用意しようとした。でも俺が部屋を空けていたから、機会がなかった。
そのうち諦めた。
———
都合のいい解釈だとは思っていた。
でも、信じたかった。
———
十二月の初旬。
仕事の忘年会があった。
同僚と居酒屋で飲んで、終電一本前で帰った。
酔っていた。
悪い酔い方ではなく、ただ気持ちよく酔っていた。
———
部屋のドアを開けて、電気をつけて、コートを脱いで。
気が緩んでいたんだと思う。
———
鼻歌を、歌っていた。
———
気付いた時には、四小節くらい歌っていた。
止めた。
静かになった。
———
「やばい」と思った。
でも何も起きなかった。
そのまま眠った。
———
翌朝、目が覚めた。
普通の朝だった。
鳥の声がして、外が明るくて、アラームより少し早く目が覚めた。
———
俺はほっとした。
大丈夫だったと思った。
———
シャワーを浴びながら、昨日の忘年会のことを思い出していた。
上司の話が面白かった。同僚が酔って変なことを言っていた。
普通の記憶だった。
———
シャワーを止めた。
タオルを取ろうとして、手が止まった。
———
洗面鏡に、字が書いてあった。
———
曇った鏡に、指で書いたような文字。
———
俺の名前だった。
———
ただし。
———
漢字で、フルネームで、正確に書いてあった。
———
俺の名前は、少し珍しい漢字を使う。
変換候補の一番上に出てくるような字ではない。
その珍しい字が、正確に書いてあった。
———
俺は鏡を見た。
自分の顔が、白く映っていた。
———
「漢字を、知っている」
———
声を聞かれた。
笑い声を聞かれた。
鼻歌を聞かれた。
でも——
漢字を知るために、声は関係ない。
———
向こうは俺のことを、俺が思っていたよりも、ずっとよく知っていた。
———
その日、仕事を終えて帰宅した時、郵便受けに一通の封筒が入っていた。
差出人の欄は、空白だった。
宛名だけがあった。
俺のフルネームが、あの珍しい漢字で、正確に書いてあった。
筆跡は、田中さんのものではなかった。
——そもそも田中さんは、俺の名前の漢字を知っていただろうか。
———
俺は封筒を開けなかった。
ポストの前で、しばらく立っていた。
———
開けるべきか、捨てるべきか。
———
その時、スマホが鳴った。
母親からの電話だった。
———
本物かどうか、分からなかった。
———
俺は、出なかった。
———
折り返すこともできなかった。
———
封筒を持ったまま、近くのコンビニに入った。
明るい照明の下で、封筒の表面をもう一度見た。
———
宛名の字の横に、小さく何かが書いてあった。
見落としていた。
———
『返事を、待っている』
———
俺はコンビニのゴミ箱に、封筒を捨てた。
開けなかった。
———
家に戻って、母親に折り返した。
本物だった。
用件は、年末年始の帰省の確認だった。
何事もなく、五分で電話が終わった。
———
布団に入って、天井を見た。
———
静かな夜だった。
何も聞こえなかった。
染みも出なかった。
———
でも俺は一つのことを考え続けていた。
———
「返事を待っている」。
———
向こうは、今も待っている。
俺が答えるのを。
声でも、言葉でも、反応でも。
何でもいいから、俺が「応じる」のを。
———
そしてもう一つ。
———
俺の名前を漢字で書けるなら。
封筒に宛名を書けるなら。
———
向こうは今、どこにいる。
部屋の中か。
廊下か。
———
それとも——
もっと近くか。
———
俺は目を閉じた。
眠れるはずがないと思っていた。
でも、気付いたら朝だった。
———
夢は見なかった。
———
ただ一つだけ、妙なことがあった。
起きた時、俺の手が——
玄関の方を指さしていた。
———
自分では、まったく覚えていなかった。
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