第2話 それは、俺の声で笑った
田中さんから連絡が来たのは、それから十日後だった。
電話ではなく、メールだった。
アドレスは知っていたが、メールをもらったことは一度もなかった。
件名は空白だった。
———
本文はこうだった。
『今どこに住んでる。住所を教えてくれ。会いに行く。電話はするな。』
———
俺は少し迷った。
田中さんのことは信用していた。
でも、「電話はするな」という一文が引っかかった。
声を出させたくないのか。
それとも、田中さん自身が声を出せない状況なのか。
———
住所を返信した。
———
三日後の土曜日、午後二時過ぎに田中さんが来た。
インターフォン越しに顔を確認して、ドアを開けた。
田中さんは変わっていた。
頬がこけていた。目の下に濃い隈がある。
以前は糊の利いたシャツを着ていたのに、くたびれたパーカー姿だった。
でも目は、以前よりずっと鋭かった。
———
部屋に上がって、田中さんはまず部屋全体を見回した。
隅から隅まで、順番に。
それから俺に向かって、ノートを差し出した。
表紙に、『これで話す』と書いてあった。
———
田中さんは声を出さなかった。
ペンでノートに書いて、俺に見せる。
俺が頷くか、首を振るかで会話が進む。
最初は奇妙だったが、すぐに慣れた。
———
田中さんが最初に書いたのは、こうだった。
『お前の部屋に、まだいる』
俺は頷いた。
『染みは今もあるか』
首を振った。最近は見えていない、という意味で。
田中さんは少し眉を寄せた。
『見えなくなったのは、良くない。慣れたか、隠れたかのどちらかだ』
———
それから田中さんは、自分の経験を書いて見せてくれた。
要約すると、こうだ。
田中さんが最初に「それ」と関わったのは、二十代の頃だという。
詳細は書かなかった。ただ、「一度目は追い払った」と書いた。
でも完全には消えなかった。
数年おきに、また始まる。
音から始まって、形を見せて、名前を呼ぶ。
田中さんはその都度、対処してきた。
方法はいくつかあるが、根本的な解決にはならない、と書いた。
———
『俺がお前に気付いたのは、お前から「同じ匂い」がしたから』
その一文を読んで、俺は少し寒くなった。
「同じ匂い」という言葉が嫌だった。
———
田中さんはさらに書いた。
『向こうはもう、お前の声を覚えた。それは間違いない。ただ、声を出さなければ、今の段階では呼ばれても無視できる』
『問題は次の段階だ』
俺はノートを受け取って、ペンを走らせた。
「次の段階って、何ですか」
田中さんはしばらく止まった。
書いて、消して、また書いた。
———
『向こうが、お前の声を使い始める』
———
意味が、すぐには分からなかった。
田中さんは続けた。
『声を覚えたやつは、その声を再現できる。お前の声で、お前の名前を呼ぶ。外から。あるいは、電話で』
俺は固まった。
『その時、返事をしたり、声の方向に動いたりするな。絶対に。向こうはお前の反応を集めている。驚く声、怯える声、安堵する声。全部が素材になる』
———
「素材」という言葉が、頭に刺さった。
———
田中さんはもう一枚、別のページに書いた。
『ただし、それよりも先に確認したいことがある』
『お前、最近、誰かに名前を呼ばれて振り向いたことがあるか。呼んだ相手が、呼んでいないと言ったことはあるか』
———
俺は、思い出した。
———
二週間前。
職場の廊下で、後ろから名前を呼ばれた気がした。
振り向いたら、同僚がいた。
「呼びましたか」と聞いたら、怪訝な顔をされた。
「呼んでないけど」と言われた。
その時は聞き間違いだと思って、流していた。
———
田中さんにそう書いて渡したら、田中さんは目を閉じた。
少しの間、動かなかった。
それから、ゆっくりとノートに書いた。
———
『始まってる』
———
田中さんが帰り際、最後にこれだけ書いた。
『しばらく、一人でいるな。友人の家に泊まれるか』
俺は頷いた。大学時代の友人が近くにいる。
田中さんはペンを走らせた。
『行け。今夜から。一人の夜を作るな』
———
玄関で見送る時、田中さんが初めて声を出した。
声というより、息だった。
耳元で、ひそひそ声よりも小さく。
唇だけが動いているような。
でも確かに、言葉があった。
———
「……お前の声で笑う音がしたら、走って逃げろ」
———
田中さんは、それだけ言って出ていった。
———
俺はその夜、友人の家に泊まった。
理由は適当に誤魔化した。
友人は特に疑わず、ゲームをして、酒を飲んで、笑って眠った。
普通の夜だった。
久しぶりに、ぐっすり眠れた。
———
問題は、四日後だ。
———
友人の家にずっとはいられない。
仕事もある。着替えも限界だった。
一度だけ、昼間に荷物を取りに戻った。
昼の十二時過ぎ。
日差しがある。外の音が聞こえる。
大丈夫だと思った。
———
部屋のドアを開けた瞬間、気付いた。
空気が、違う。
うまく説明できないが、部屋の空気が「重かった」。
夏の昼間なのに、ひんやりしている。
———
急いで着替えと必要なものをバッグに詰めた。
声は出さなかった。
息も、できるだけ音を立てないように。
———
全部詰め終わって、玄関に向かおうとした時。
———
聞こえた。
———
部屋の奥から。
笑い声が。
———
俺の笑い声が。
———
友人の家でゲームしながら笑っていた、あの声と同じ質の、同じ高さの、俺の笑い声が——
部屋の奥から、聞こえた。
———
走った。
田中さんの言葉通りに、考えるより先に体が動いた。
廊下に出て、エレベーターを待てなくて、非常階段を駆け下りた。
外に出て、三十メートルくらい走って、やっと止まった。
———
振り向いた。
建物は、普通に建っていた。
いつもと変わらない、古いマンション。
———
でも、俺の部屋の窓だけ。
カーテンが、揺れていた。
風のない日なのに。
内側から、揺れていた。
———
俺はそのまま友人の家に戻った。
その日の夜、田中さんにメールした。
「笑い声がしました。逃げました」
返信は、翌朝来た。
———
『よく逃げた。それで正解だ』
『ただ、一つ聞く。笑い声を聞いた時、お前はどうした』
俺は正直に書いた。
「走って逃げました。声は出していません」
———
返信が来るまで、二時間かかった。
———
『声が出なかったのは運が良かった。
普通は出る。悲鳴でも、呻きでも、何でもいい。
向こうはそれが欲しかった。
お前が黙って逃げたから、今回は取られなかった。
ただ』
———
続きが、なかなか来なかった。
三分ほど待ってから、次のメールが届いた。
———
『次は笑い声じゃない。もっと、反応したくなる声を使ってくる。
覚悟しておけ』
———
「反応したくなる声」。
———
俺はしばらく、その言葉の意味を考えなかった。
考えたくなかった。
でも夜中に、気付いてしまった。
———
俺が一番、反応してしまう声。
声を聞いたら、条件反射で返事をしてしまう声。
———
母親の声だ。
———
それに気付いた瞬間、スマホが震えた。
通知を見た。
知らない番号からの、着信だった。
———
俺は、画面を伏せた。
出なかった。
———
翌朝確認したら、留守番メッセージが入っていた。
再生ボタンに、指が止まった。
———
長い間、迷った。
———
結局、再生した。
———
無音だった。
ただ、最後の一秒だけ。
何かが、あった。
———
音声データとして残っているのに、うまく言葉にできない。
声ではなかった。
でも、確かに意味があった。
まるで「まだ間に合う」とでも言うような。
あるいは、「もうすぐそっちに行く」とでも言うような。
———
俺はメッセージを消した。
着信拒否を設定した。
田中さんにメールを送った。
———
「知らない番号から着信がありました。留守電に変な音が入っていました。消しました」
———
返信は、今度は早かった。
———
『消したのは正解だ。
ただし、それ以上でも以下でもない。
向こうは、お前の住所を知っている。
声を集め終わったら、直接来る。
時間が、あまりない』
———
「時間が、あまりない」。
———
俺は、友人の部屋の天井を見上げた。
友人は隣で寝息を立てている。
何も知らない。
———
ここに、これ以上いるわけにはいかない。
———
次のメールを打った。
「どうすればいいですか」
———
田中さんからの返信は、その夜来なかった。
翌日も来なかった。
翌々日も。
———
三日後、田中さんのアドレス宛に送ったメールが、戻ってきた。
『このアドレスは現在使われていません』
———
俺は、一人になった。
———
それから俺が何をしたか。
どうやって、次の段階をやり過ごしたか。
あるいは、やり過ごせなかったか。
———
それは、また別の話だ。
———
ただ一つだけ言っておく。
田中さんが消える直前に、最後に送ってきたメールがあった。
迷惑メールフォルダに入っていて、一週間後に気付いた。
———
件名は、俺の名前だった。
俺のフルネームが、件名に入っていた。
———
本文は、一行だけ。
———
『俺の声を、覚えたか』
———
送信者は、田中さんのアドレスだった。
でも俺には分からない。
あれが田中さんの最後のメールなのか。
それとも——
田中さんの声を、覚えた「何か」が送ったのか。
———
俺は今でも、そのメールを消せずにいる。
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