第1話 それは、名前を知っていた
何かに「覚えられた」経験はあるか。
見られるとか、狙われるとか、そういう話じゃない。
もっと静かで、もっと根深い話だ。
向こうが、お前のことを「知っている」。
それに気付いた時にはもう――手遅れだ。
これは俺の話だ。
二十四歳、社会人二年目の秋に起きたことを、できる限り正確に書く。
———
職場の先輩に、田中さんという人がいた。
三十代前半で、物静かで、仕事ができる人だった。
雑談はしない。昼飯も一人で食う。でも嫌な感じはしない。
ある日、残業で二人きりになった時、田中さんが突然こう言った。
「お前、最近変なもん見た?」
唐突すぎて、笑ってしまった。
「ないですよ。なんですか急に」
田中さんは笑わなかった。
コーヒーのカップを両手で包んで、画面から目を離さないまま言った。
「そうか。ならいい」
それだけだった。
翌週、田中さんは会社を休んだ。
そのまま、一ヶ月以上出てこなかった。
———
その年の九月。
俺は一人暮らしを始めて二年目で、ようやく部屋が「自分の場所」になってきた頃だった。
家具も揃って、余計な段ボールも消えて、生活のリズムも落ち着いていた。
だから気付けなかったのかもしれない。
少しずつ、少しずつ、「何か」がおかしくなっていたことに。
———
最初の違和感は、冷蔵庫だった。
夜中に、音がする。
冷蔵庫の音ではない。
モーターの振動でもない。
もっと高くて、細い音だ。
耳鳴りかとも思った。でも、音量がある。
ドアの方から、聞こえていた。
最初は三秒くらいで止まる。
次の夜は五秒。
その次は、少し長くなる。
一週間もすると、俺は「またか」と思いながら布団を被るようになっていた。
慣れるって怖い。
———
次の違和感は、写真だった。
スマートフォンのカメラロールを遡っていたら、見覚えのない写真があった。
部屋を撮ったものだ。
アングルは、ドアの前くらいの高さ。
俺の部屋で、俺の家具が写っている。
でも、俺は撮っていない。
日付は、三週間前の午前三時十七分。
———
「寝ぼけて撮ったんだろ」
友人にそう言われた。
たぶん、そうだと思う。
でも、その写真の中に、俺が映っていた。
ベッドで寝ている俺が。
誰かが俺を撮った構図で。
———
警察には、相談しなかった。
鍵は変えた。
不動産屋に電話して、「鍵を紛失したかもしれない」と嘘をついた。
費用は三万円かかった。
それでも、音は続いた。
———
十月の中頃だった。
仕事から帰って、シャワーを浴びて、飯を食って。
何をするでもなく、スマホをいじっていた。
午前一時を過ぎた頃、ふと思った。
「そういえば、あの音、最近しないな」
最後に聞いたのはいつだろうと考えたら、思い出せなかった。
一週間? 十日?
なんとなく、ほっとした。
———
その夜だった。
眠れなくて、天井を見ていたら、気が付いた。
部屋の隅に、黒い染みがある。
———
電気を付けて確認したら、何もなかった。
壁は白いまま。
染みなんてない。
「見間違いか」と思って、電気を消した。
———
また、あった。
———
俺は、眠る気を失った。
電気を付けたまま、壁を見ていた。
何もない。
白い壁。
でも電気を消すと、染みがある。
黒というより、濃い影みたいな色だ。
形は不定形。
ゆっくりと、形を変えている気がした。
———
「錯視だ」と自分に言い聞かせた。
人間の目は、暗闇の中で勝手に形を作る。
そういう話は聞いたことがある。
でも。
———
その染みが、俺の名前を知っているとしたら?
———
変な考えだと思うかもしれない。
でも、その時の俺には確信があった。
あれは俺を「見ている」のではない。
俺のことを「知っている」のだ。
———
翌朝、職場で田中さんに会った。
珍しく俺の方を見ていた。
「昨日、眠れなかっただろ」
声をかけられる前に、田中さんが言った。
俺は止まった。
「……なんで分かるんですか」
田中さんは少しだけ眉を寄せた。
「目が違う」
それだけ言って、自分のデスクに戻っていった。
———
昼休みに、俺から声をかけた。
田中さんは弁当を食いながら、窓の外を見ていた。
「あの……部屋で変なことが続いてて」
田中さんは振り向かなかった。
「どんなこと」
俺は、音の話と、写真の話と、染みの話をした。
全部話し終わると、田中さんはしばらく黙っていた。
「名前、呼ばれたか」
俺は首を振った。
「まだだな」
まだ、という言葉が引っかかった。
「まだって、どういう——」
「呼ばれたら、返事するな」
田中さんは立ち上がって、弁当のゴミをまとめた。
「絶対に、返事するな」
それだけ言って、休憩室を出た。
———
その夜から、俺は怖くなった。
音がする怖さではない。
染みがある怖さでもない。
「呼ばれる」ことへの怖さだ。
———
三日後の夜中、午前二時過ぎ。
俺は眠れないまま布団の中にいた。
電気は付けていた。
部屋は静かで、音もなくて、染みもなくて——
「——」
聞こえた。
———
声だった。
音量は小さい。
でも、はっきりと、俺の名前を言っていた。
———
返事をしなかった。
布団を頭まで被って、膝を抱えて、目を閉じた。
心臓がうるさかった。
自分の呼吸が、異常に大きく聞こえた。
———
もう一度、聞こえた。
今度は、少し近かった。
———
俺は、動かなかった。
答えなかった。
———
三度目は、なかった。
———
翌朝、田中さんに報告した。
「返事、しなかったか」
「しませんでした」
田中さんは少し目を細めた。
安堵なのか、別の何かなのか、俺には判断できなかった。
「それで正解だ。ただ——」
田中さんは、珍しく言葉を切った。
「返事をしなかったということは、向こうも分かってる。
お前が、無視したって」
俺は何も言えなかった。
「無視されたやつが、どうするか」
———
それから一週間、何も起きなかった。
音もない。染みもない。声もない。
俺は少しずつ安心してきていた。
———
甘かった。
———
ある朝、出社したら田中さんがいなかった。
休みの連絡もなかったらしく、上司が困った顔をしていた。
「田中さん、なんか言ってなかったか」
俺は首を振るしかなかった。
———
田中さんは、それから三日後に電話をよこした。
職場には戻れないと言った。
理由は言わなかった。
俺に一つだけ、伝言があった。
社内の別の先輩が、メモを渡してくれた。
———
『名前を呼ばれても返事をするな。
ただし、それは一時しのぎだ。
向こうはもう、お前の声を知っている。
声を出すな。部屋で独り言を言うな。
歌うな。笑い声を出すな。
お前の声を、これ以上覚えさせるな。』
———
俺はしばらく、その紙を持ったまま立っていた。
———
「声を覚えさせるな」。
———
思い返せば。
音が聞こえていた一週間、俺はずっと独り言を言っていた。
不安で、怖くて、自分に言い聞かせるために。
「錯視だ」
「気のせいだ」
「大丈夫だ」
———
全部、聞かれていた。
———
今、俺は部屋でできる限り声を出さない生活をしている。
テレビもつけない。
音楽も聴かない。
電話は、外に出てから取る。
———
静かな部屋で、静かに息をしている。
———
それでも時々、夜中に思う。
「声を覚えられた」ということは——
向こうは、もう俺を呼べる。
俺の声で。
———
呼ばれた時に。
自分の声だったら。
返事を、しないでいられるか。
———
……これは、まだ終わっていない。
ありがとうございました。
感想をいただけるとありがたいです。




