6.雄峰の両親
その日は一日中、心ここにあらずの状態で勤務していた雄峰は何回も上司に叱られてしまった。どうにかその日の業務を終了させ、自分の車に乗り込んでからもじっと考えていたが、ようやくシャキッとした表情になり、スマホで電話し始めた。
「ああ、母さん。どう、お二人とも元気?」
「ええ、父さんも私も元気にやっていますよ。それからお祖父ちゃんとお祖母ちゃんは毎日のように『雄峰はいつここに帰ってくるんだ』って言っていますよ。美佐子もちょくちょく顔を出してくれているけど、雄峰は元気なの? 何だか声に張りがないようだけど」
「まあ、何とかやってはいるんだけどね」
「仕事が上手くいっていないんじゃないの?」
「ここ、二カ月ほど新車が一台も売れていないんで、今、結構ピンチなんだよ」
「だから前から言っているでしょ。車のセールスマンなんて辞めて、こっちに帰って来なさいって」
「うん、有難う。でも、もうちょっと頑張ってみるよ。それで、お願いがあるんだけど……」
「何? お金でも必要なの?」
「さっきも言ったように、ここんとこ新車の販売台数がゼロなんで、周りの目が相当厳しくなっちゃってね。上司からは何度も叱られてしまったんだよ」
「だから、家に帰っておいでって言っているでしょう。雄峰には車の営業は向いていないのよ」
「まあまあ、その話はもう少し先に延ばそうよ。取り敢えず、今の窮地から脱出しなければいけないんだ」
「どうすればいいの?」
「とにかく販売実績がゼロのままじゃ、どうしようもないんだ。知り合いに頼んで表面上販売実機になるようにしてもらおうと思っているんだ」
「で、そうするにはいくら必要なの?」
「取り敢えず五十万」
「そのくらい直ぐに何とかできるけど、そんな綱渡りしていないで早くこっちに帰っていらっしゃいよ」
「有難う。明日の晩、そっちに顔を出すつもりだけど、それまでに用意できる?」
「分かったわ。明日朝銀行に行って下ろしておくから。明日の晩はこっちでご飯を食べなさい。お金を貸してあげるんだから言うことを聞いてよ」
「分かったよ。それじゃ、よろしく頼むね」
電話を終えると雄峰はホッとしたような表情を浮かべた。
約束の日、雄峰は晴れやかな顔でハンバーガーを頬張っていた。ショップの入口から思い詰めたような表情で結子が入って来た。注文もせずに真っすぐに雄峰の所に来て、向かい合わせの席に腰を下ろした。
「お早うございます、結子さん」
「お早う。例の件、何とかなりそう?」
結子は心配そうな顔付きのまま雄峰に訊いた。
「はい、私一人では無理だったので親に借りちゃいました」
結子の顔が急に明るくなった。
「本当? 助かるわ」
雄峰はバッグからお金の入った茶封筒を取り出すと結子の前に置いた。
「あら、もう持ってきてくれたのね。ほんとに有難う」
「これで、結子さんの論文が正当に評価されることになるわけですね」
「そう。これを教授に渡して、審査員の先生にきちんとやってもらえるようお願いできるわ。桜井さんのお蔭ね」
「いえ、結子さんのお役に立てたのなら、私も嬉しいです」
雄峰は満面の笑みを浮かべて応えた。
それからしばらくの間、結子は現れなかったが、論文作成に集中しているのであろうと思って雄峰はそれほど心配していなかった。いつものようにバンズを頬張っていると、しばらくぶりに結子が笑顔でハンバーガーショップに入って来た。
「結子さん、お早うございます。何か良い事があったみたいですね」
「そうなの。この間、アドバイスしてもらおうと思って論文の草案を教授に渡したのよ。それを内緒で審査員の先生に見せたんだって。そうしたら、『なかなかいいね』って言っていたって、教授が私に教えてくれたのよ。『何ヵ所か手直しすれば学術雑誌に掲載できるだろう』とも言っていたそうなのよ。だから、私嬉しいの。桜井さんのお蔭もあるんだから、早くお礼が言いたくて、今日はそのためにやって来たの」
「それは素晴らしいじゃありませんか」
「色々と手伝ってくれてほんとに有難う」
「いえいえ、私がしたお手伝いなんて微々たるものですよ。ほとんどが結子さんご自身の努力の賜物です。それで、これから後はどんなことをされるんですか?」
「今日から何日間かこっちのホテルに泊まり込んで、論文を完成させてしまおうと思っているの。こっちにいれば、追加の調査が必要になった時、直ぐに対応できるでしょ」
「そうですか。何だか私までわくわくしてきちゃいました。ホテルはもう予約されたんですか?」
「前にも使ったTPホテルよ」
「ああ、この前送っていった所ですね。それじゃ、大いに頑張って論文を仕上げてくださいね。私はそろそろ会社に行かないと、鬼の上司に叱られてしまいますので。今日はこれで失礼します」
「雄峰さん、ほんとに有難う。そのうちまた進行状況をお知らせするわね」
雄峰は『桜井さん』ではなく『雄峰さん』と呼ばれたことを酷く喜んだ。
「はい、お願いします」
笑顔で答えると雄峰はショップから小走りで出て行った。
三日後の朝、雄峰がバンズを頬張っていると、沈んだ顔で結子がハンバーガーショップに入って来た。
「あれっ、結子さん。どうされたんですか? 論文執筆が順調には進んでいないのですか?」
「論文の方は何とか進んでいるんだけど……」
「何か新たな問題でも起こったのですか?」
「……」
暫くの間、二人の会話は止まったままになった。
ようやく結子が言葉を発した。
「実はね……、教授がまた新たな事を言ってきたのよ」
「一体、何を言ってきたのですか?」
「論文自体には問題がないというか、『このまま仕上げればとても良い論文になりそうだ』って言われたの」
「それじゃ、順調に進んでいるんじゃありませんか」
「ところがね……、教授の知り合いでこの分野では相当力を持っている大先生がアドバイスをくれたらしいの。その大先生によるとね、『論文を受理されて学会誌に掲載されただけでは私の就職先を紹介することは難しい』って言うのね」
「そうなんですか。ところで結子さんはどんな仕事に就きたいのですか?」
「『歌垣』の研究をしているんだから、この分野では有名な大学の研究職に就きたいに決まっているじゃない」
「ああ、そうですね。それで、どうしたら結子さんの就職にとって良い流れになるのでしょうか」
「その大先生曰く、これまで私が執筆した論文をいくつかまとめて本を出版する必要があるんだって。さらに、私が就職したいと思っている大学の教授にもそれなりの『心意気』を示す必要があるらしいの」
「『心意気』ってどんなことをすればよいのですか?」
「煎じ詰めれば、要するにお金よ」
「それじゃ、前回のお金と同じくらいを用意する必要があるんですか?」
「本の出版費用もあるから前の時よりもっと必要になりそうなの」
「総額でいくらくらいを結子さんは考えているのですか?」
「そうね……、最低前回の倍は必要だと思うわ」
「そうすると百万か……」
雄峰はどうすればそんな高額のお金を用意できるか考えてみたが、『とりあえずは親に頼み込むしかないかな』と思った。しかし、今度は親もそう簡単には貸してくれないことは明らかであった。
「結子さん、状況は理解できました。でも、今の私には直ぐには百万円もの大金を準備することはできそうにありません。少し時間をいただけないでしょうか?」
「ええ、そうよね。こんな高額な金額を直ぐに用意できる人なんてそう多くはないわよね」
「済みません」
暫くの間、二人は黙ったままでいた。
沈黙を嫌った雄峰は雰囲気を変えるべくある提案をした。
「あのー、結子さんはまだTPホテルに滞在されているのですか?」
「昨日は一旦東京に帰って、教授に私の論文を見せたんだけど、今日からまた部屋に閉じこもって論文と格闘するつもりよ」
「そうですか。それでは、明日は定休日なので、頑張って手作りのケーキを作って翌日にでも結子さんのホテルに差し入れましょうか?」
「手作りのケーキって、あなたケーキを作れるの?」
「実は、パティシエになるための勉強をこっそりとしているんです。どうも私は車の販売という仕事には向いていないようなので。実家にいる親からも『今の仕事を早く辞めて実家に帰ってくるように』って言われているんです」
「そうなの。実家でケーキ屋さんでも始めるつもりなのね」
「できればそうしたいと思っているんです」
「それで、どんなケーキを作ってくれるの?」
「スポンジケーキを生クリームで包み、上にイチゴと何かベリーをトッピングしたものを作ろうかと思っているんです」
「あら、美味しそうね。それじゃ、雄峰さんのケーキ、楽しみに待っているわね」
「はい、ご期待に添えるような美味しいケーキを作ってお届けします」
「じゃ、よろしくね」
そう言って結子はハンバーガーショップを出ていった。
翌日、雄峰は精魂込めてケーキを作り上げ、その次の日にホテルに届けた。
雄峰の長い話はようやく一段落した。愛はキッチンに行き、今度はお茶を淹れて運んできた。三人とも黙ったまま静かにお茶を啜った。雄峰の疲れが少し回復してきたように見えたところで洋介が質問を再開した。
「そのケーキをホテルに届けた後、白鷺さんがそれを食べているうちに症状が出て、倒れてしまったという訳ですね」
「電話で話していた様子からすると、どうもそのようです。ホテルの従業員も同じようなことを言っていたと刑事さんに言われましたし」
「そうですか。それで、桜井さんは白鷺さんとの電話が途切れてしまった後、どうされたのですか?」
雄峰は、残っていたお茶で喉をしっかりと潤した後、続きを話し始めた。
雄峰は大急ぎでTPホテルに着いたが、そこにもう救急車は停まっていなかった。フロントに行って事情を話していると、残っていた救急隊員と思われる人が近付いてきた。
「失礼ですが、救急車を要請された方でしょうか?」
「はい、そうです。名前は桜井雄峰といいます」
「患者の方は先程救急車で大学病院に向かっているところです。救急医が処置するためにも色々な情報が必要になります。是非詳しくお訊きしたいのですが、ご協力をお願いします」
「勿論です。私は白鷺結子さんのことが心配で仕方ないので、知っていることなら何でもお話します」
救急隊員は一度頭を下げてから質問を始めた。
「それでは、患者さんには何か持病があるということはお聞きになっていませんか?」
「さあ、最近知り合いになったばかりですので、詳しいことは知りませんが、少なくとも私は白鷺さんに持病があるとは聞いていません」
「そうですか……。それで、患者さんは何時頃ケーキを食べたのでしょうか?」
「ええと……、結子さんから電話が掛かってきたのは午後四時半頃だったと思います。その少し前にケーキを一切れ食べたと言っていましたので、四時二十分頃じゃないかと思います。私と話しているうちに、もっと食べたくなったと言って残りのケーキを一口食べたところで気持ちが悪くなってきたようです」
「それから後の患者さんの状況は分かりますか?」
「その後、吐きそうになり、口の中が痺れてきたと言っていました。確かに呂律が回らないしゃべり方になっていて、よく聞き取れませんでした」
「それから?」
「その後は会話ができていませんが、受話器からは嘔吐するような音が聞こえてきました。私がいくら呼んでも応答がなかったものですから、一旦結子さんからの電話を切り、ホテルに電話して救急車を呼んでもらったのです」
「なるほど、分かりました。では、ケーキに使った材料はどんなものだったのでしょうか?」
「私が作ったケーキは、スポンジケーキを生クリームで包み、上にイチゴとブルーベリーをトッピングしたものです。ケーキの材料やトッピングした果実は全て市販されているものを使いました。出来上がったケーキは私も試食しましたが、何ともありませんでしたから、ケーキには全く問題はなかったと思います」
「状況についてはだいたい分かりました。有難うございました。なお、これから警察の方が来てお話を伺うかもしれませんので、もうしばらくここにいていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「はい、分かりました」
救急隊員は携帯電話でしばらくの間話をしていたが、刑事らしき人がホテルに到着すると電話を切り、雄峰のところに連れてきた。雄峰は鹿子木と名乗った刑事にも救急隊員に話した内容とほぼ同じ事を丁寧に説明した。雄峰の連絡先を伝えた後、ようやく雄峰はとりあえず開放された。
雄峰の話はようやく終わった。
「私が知っている経緯は現時点では今お話しした通りです」
「お疲れ様でした。私の方からつくば東警察署の知り合いにそれとなく訊いてみます。その後の動きが分かるかもしれませんから」
「有難うございます。どうかよろしくお願い致します」
雄峰は深々と頭を下げた後、筑波ホビークラブを後にした。雄峰の姿を見送った後、愛は洋介に言った。
「いよいよ洋介さんの出番ですね。ホビークラブの方は私と源三郎小父様とで何とかしますから、ご安心ください」
「それは嬉しいお言葉。どうかよろしくお願い申し上げます」
洋介は先ほどの雄峰の頭の下げ方よりももっと深く頭を下げた。




