16.TPホテル
翌日の夜、桜井がひょっこり筑波ホビークラブにやってきた。
「あれっ、桜井さん。どうしたんですか? ご自分からここに来られるなんて」
「実は、白鷺結子さんに貸した五十万円が返ってきたんです」
「えっ、桜井さんは彼女と会ったんですか?」
「いえいえ、直接返してもらったのではありません。会社の住所宛にTXの研究学園駅のコインロッカーのカギが送られてきたんです。プリンターで打ち出されたお礼の言葉も添えてありました」
「それで、送られてきたカギでロッカーを開けたらお金が入っていたわけですね」
「そうなんです」
「そうすると、白鷺結子という人はもう桜井さんには一切借金はしていない、ということになりますね」
「あの人には結婚詐欺の容疑が掛かっているそうですが、少なくとも私の場合、詐欺罪は成立しないことになったと思います」
「鹿子木さんには連絡されましたか?」
「はい、現金の額を確かめた後、直ぐに電話で報告しました。そうしたら、先ず叱られてしまいました。『ロッカーのカギに触らないうちに警察に届けてほしかった』って言われたんです。仕方がないので、とにかくつくば東署の方に行って彼女から送付されてきた封書を鹿子木さんにお渡ししました」
「分かりました。お疲れ様でした。これで、桜井さんも今回の事件から開放されればいいですね」
桜井は頷くと爽やかな表情でホビークラブを後にした。
その晩、洋介は東側の小部屋に籠って考えてみたが、大きな変化が期待できるようなアイデアは一つも浮かんでこなかった。そのまま寝落ちして気が付くと翌朝の九時前であった。
顔だけは洗って受付に入っていくと、既に愛が来ていた。
「ああ、愛ちゃん。もう来ていたんだ」
「洋介さん、そんな寝惚け眼のまま受付に来られても困りますわ。会員の方が驚かれてしまうでしょう。一体どうなさったんですか?」
「いやね、私の考えを鹿子木さんが認めてくれなかったものだから、一晩中どうしたらよいか考えていたんですよ」
「それで、いいアイデアは浮かんだんですか? そのお顔では何も閃かなかったのでしょうけどね」
「その通りだったんです」
洋介は一昨日の晩からの経緯をかいつまんで愛に説明した。
「それで、洋介さんはとりあえず何をなさるおつもりですか?」
「仕方がないから一人でTPホテルに行っていろいろ訊いてみようかと思っているんです」
「でも、鹿子木さんと一緒ならホテルの方もきちんとお話してくれるかもしれませんけど、洋介さんお一人で行かれても、怪しまれるのが関の山なんじゃないでしょうか」
「じゃ、どうすればいいのかなあ……」
「そうですね、洋介さんが今みたいな状態で受付におられても困りますし、いっそのこと、今夜TPホテルに泊まって、お客として従業員の方に訊いてみるのもいいのではありませんか? ここは私と源三郎小父様とで何とか対応しておきますから」
「なるほど、それは名案かもしれませんね。でもお二人には申し訳ありませんね」
「大丈夫です。いつものことで慣れていますから」
「有難うございます。それではお言葉に甘えることに致します」
洋介はいつになく丁寧な言葉使いで感謝の気持ちを伝えてから受話器を取った。
「あっ、TPホテルですか、本日シングルで一部屋予約したいんですけど、可能でしょうか?」
「はい、一部屋であればお取りすることができます」
「ああ、良かった。できれば三階の303号室あたりがいいんですけど……」
「申し訳ございません。303号室は既にご予約のお客様がいらっしゃいますので、お取りできかねますが、お隣の304号室であれば、ご予約いただけます」
「はい、そこで結構です。私は神尾洋介と申します。それで、TPホテルでのチェックインとチェックアウトの時刻はどうなっているのでしょうか?」
「はい、チェックインが午後三時からで、チェックアウトは午前十一時までとなっております」
「分かりました。よろしくお願い致します」
午後三時ピッタリに洋介はTPホテルにチェックインした。フロントの従業員に上津屋の写真を見せようと思ったが、最初から怪しまれてしまっては困るので、我慢して止めておいた。304号室に入り、外の様子が分かるようにドアストッパーを床に置いて少しだけドアが開いたままになるようにした。
人の気配がする度に洋介はドアから顔を出してみたが、チェックイン後に部屋に入るための泊り客ばかりで、洋介が期待していたホテル従業員の姿は全く認められなかった。夜九時頃まで頑張ってはみたものの全く収穫はなかった。夜中にドアを開け放しておくのも物騒なのでその晩は諦めることにした。ドアを閉め、持ち込んだ赤ワインを部屋に備え付けのタンブラー形のグラスに注ぎ、コンビニで買ったサンドイッチを頬張りながら今回の中毒事件をタイムラインに沿って考え始めた。何の閃きもなく、お腹も膨らみアルコールも回ってきたようで強烈に眠くなりベッドに潜り込んでしまった。
翌朝洋介が目を覚ましたのは八時少し前であった。慌てて飛び起きて簡単な身繕いをしてからホテルのレストランに急いだ。TPホテルでは朝食はビュッフェスタイルになっていて、所々の料理の傍に従業員が待機していた。洋介はその中の一人に声を掛けた。
「あのー、ちょっとお伺いします。今年の七月十四日かその前後にこの男を見掛けませんでしたか?」
スマホを翳して上津屋の写真を見せて訊いてみた。
「さあ、どうでしょうか……。毎朝沢山のお客様が食事に来られますので、お一人お一人のお客様のお顔までは覚えておりません。申し訳ございません」
他の数人の従業員にも訊いてみたが、同じ答えしか返ってこなかった。ある程度予想していた返事ではあったが、仄かな期待も抱いていた洋介は少し落胆して朝食を摂った。
部屋に戻ると直ぐにまたドアを少し開けた状態にして中で待機し、人の気配を感じる度に様子を窺ったが、昨夜と同様宿泊客ばかりであった。
時刻は十時四十五分になっていた。泊まり込んだ努力も虚しく、収穫なしで帰宅することを覚悟せざるを得ない状況に、洋介は焦りを感じたまま帰り支度を始めた。すると部屋の外で人が動く気配を感じた。
「チェックアウト時刻が近づいたので宿泊客が慌てて部屋を出るところだろうな」
半ば諦め顔で覗くと、リネンサプライアーから派遣されてきたと思われる二人の女性従業員が泊り客が使用したシーツや枕カバーを集めていた。洋介が二人に軽く会釈すると一人が反応してくれた。
「あのー、お仕事中済みません。ちょっとお話をお訊きしてもいいですか?」
「何でしょう?」
会釈を返してくれた方の従業員が応じてくれた。
「ひと月ほど前、この部屋の隣の303号室で騒ぎがあったんですが、その時もここでお仕事をされていたんですか?」
「ああ、お客さんが部屋の中で倒れて大騒ぎになった時ですね?」
「そうです。七月十四日水曜日の午後四時半頃のことです」
「ええ、私はあの時もこの階で作業していましたよ。大騒ぎの後、私たちまで大変だったんで、よく覚えていますよ」
洋介はようやく探していた人に出会えて非常に嬉しかったが、感情を抑えて訊いた。
「そうですか。それで、どんな騒ぎだったんですか?」
「いつもの業務をしていたんですよ。集めた使用済リネンを洗濯するために分類し、回収しに来た会社の車に載せる作業を済ませました。チェックインが午後三時なので、それに間に合うように新しいリネンを準備して、三時過ぎからはまだ泊り客の到着していない部屋の最終チェックを行ないました。あの日の仕事が一応終わったところで仲間とお茶を飲みながら作業報告書に記載していたんです。作業が終わったら直ぐに帰りたいところなんですけど、偶にリネンに関してクレームが付くことがあるので、ある程度の時刻まではリネン室に待機しておくように言われているものですから」
「ではこの写真の男の人を見かけませんでしたか?」
洋介は桜井から転送してもらった上津屋の写真を見せた。
「ああ、この人だったら、303号室の斜め向かいの314号室に泊まっていた人だと思いますよ」
「ええっ、斜め向かいの部屋に泊まっていたんですか?」
「間違いないと思います。この人、言っちゃあ悪いけど、人相が良くないというか、怖そうな顔をしていたんでよく覚えているんです」
「それで、この人は大騒ぎになった時、様子を見に出て来られましたか?」
「ええ、後ろの方から中の様子を覗いていました」
「その男の人は何か変な行動をしたりしていませんでしたか?」
「さあ、私も倒れた人の方ばかり見ていたんで、他の人たちのことはよく見てはいなかったものですからねー、分かりませんね」
「そうですか……。その男の人は騒ぎになってからずっと傍で見ていたんでしょうか?」
「ええと、どうだったかな……、そうだ、思い出した。その人は最初のうち後ろの方にいたんですけど、その後、少しの間姿が見えませんでした。てっきり部屋に戻ったのかと思っていたら、しばらくすると、また他のお客さんといっしょに救急隊員の様子を見ていましたよ」
「本当ですか。それで、後で見た時、その男は何かを持っていたりしませんでしたか?」
「さあ、どうだったかな……。はっきりとは覚えていませんねー、申し訳ありません。私たちもあの騒ぎの後、大変だったんで、他の人のことなんか構っちゃいられなかったんですよ」
「と言うと」
「お客さんが吐いたりしたんで、部屋が汚れてしまったんです。本当は私たちはリネン関係だけが仕事なんですけど、緊急事態だったんで、そうも言っていられなかったんです。汚れたリネンは勿論のこと、カーペットや椅子などの汚れをきれいに清掃したんです。それも警察の捜査が済んでから始めたんで、帰りはずいぶんと遅くなってしまったんです」
「そうでしたか。大変だったんですね。とにかく、あの男を目撃されたことを覚えてくれていただけでも本当に有難いことです。後で刑事さんが同じことを訊くかもしれませんが、よろしくお願いします。本当に有難うございました」
洋介は頭を下げ、その従業員の名前と連絡先を訊いて手帳にメモし、慌てて自分の荷物を持ってフロントに向かった。
ホテルの駐車場で自分の車に乗り込むと直ぐにスマホで鹿子木に電話し、リネンサプライアーの女性従業員から訊いた貴重な証言の内容を伝えた。
「分かりました。神尾さんのお蔭で私の迷いも消えました。早速うちの若い刑事を上津屋に貼り付けます。本当に有難うございました」
鹿子木は慌てた様子で電話を切った。




