9.失踪
雄峰が筑波ホビークラブに初めて来て、事件に巻き込まれた経緯を洋介に話した二日後、ホビークラブの受付の電話が鳴った。愛が出て少し話した後、洋介の方を向いて告げた。
「洋介さん、待望のお電話ですよ。鹿子木さんからです」
冷やかし半分の笑みを浮かべて愛は受話器を洋介に渡した。
「ああ、神尾さん。ちょっとご相談したいことがあるんで、今晩仕事が終わったらホビークラブの方にお邪魔してもよろしいでしょうか?」
「はい、大丈夫ですよ。私の方も鹿子木さんにお話したいことがあるんですよ。是非お越しください」
「それは嬉しいご返事。それでは夜伺います」
筑波ホビークラブの大時計が午後十時を刻む頃、鹿子木の姿が受付の中にあった。
「いやね、私一人であれやこれやと考えていても今回の事件の納得できる筋書きが現れて来ないのです。やはり、ここは神尾さんのお力をお借りした方が良いと思いましてね、やって来ました」
洋介の就業態度がどうなるか気掛かりでずっと受付に残っていた愛が二人にコーヒーを淹れて運んできた。
「鹿子木さん、いつもにも増してお疲れのようですから、気合を入れて濃いめのコーヒーを淹れてきました。先ず一口お飲みになってからお話されたらいかがでしょうか」
「これは愛ちゃん、いつも済みませんねえ」
鹿子木が旨そうにコーヒーを一口味わった後、洋介が目を輝かせながら訊いた。
「さてと、鹿子木さん、今回はどんな事件なのですか?」
「神尾さんは『ドクウツギ』という植物の果実をご存じですか?」
洋介は微かな微笑みを浮かべながら答えた。
「聞いたことはあるような気もするんですけど、正確な知識はありません」
鹿子木は、ホテルに届けられたケーキを白鷺結子が食べた後、酷い中毒を起こして救急搬送されたこと、中毒の原因は『ドクウツギ』という植物の果実であったこと、ケーキを作ったのは桜井雄峰であったこと、結子や雄峰からの聞き取り捜査では自分の納得のいく事件のストーリーが描けていないことなどについて説明した。
「なるほどね。食べ残したケーキからは毒物が検出されていないのに、嘔吐物からだけ毒物が検出されたのは変ですね」
「そうなんですよ。いくら考えても、辻褄の合うストーリーが浮かんでこないんです。神尾さん、よろしくお願いします」
「これからいくつかの謎解きに挑戦していくとして、鹿子木さんには予め了解しておいていただいた方が良いことがあります」
「何でしょうか? まあ、大概のことでしたら大丈夫だと思っていますよ。何といったって、神尾さんは真実を曲げるようなことは絶対にしない人だと信じていますからね」
「それは有難いお言葉ですね。ところで、鹿子木さんは古徳真由美さんという研究者のことを覚えていますか?」
「古徳真由美さんねえ……。聞いたことがあるような名前ですけど、どなたでしたっけ?」
「ほら、スズメバチの事件の時にスズメバチやミツバチの生態についてについて詳しく教えてくれた人ですよ。大変お世話になったのだから鹿子木さんも覚えているでしょう?」
「ああ、あの時の人ですね。詳しいお話は神尾さんから聞きましたから内容はだいたい覚えていますけど、私は古徳さんとは直接お会いしていないんです」
「ああ、そうでしたっけ。とにかくですね、その古徳さんからある事件のことで頼まれたんです」
「事件ですか?」
「そうです。それも今、鹿子木さんがお話になった事件のことで」
「ええっ、『ドクウツギ』による中毒事件に関係しているんですか?」
「その通りです」
洋介は古徳の友達の弟の件で依頼されたこと、その人は桜井雄峰であること、その後、雄峰本人が筑波ホビークラブを訪れ、事件に巻き込まれて困っているので助けて欲しいと依頼されたことについて詳細に説明した。
しばらく考えていた様子の鹿子木であったが、吹っ切れたような顔を洋介に向けて言った。
「要するに、神尾さんは現時点での容疑者の一人の関係者だということができます。しかし、先ほども言いましたように、神尾さんが真実をねじ曲げるような人ではないと固く信じていますから、大丈夫です。是非ご協力ください」
「ああ良かった。鹿子木さんならそう言っていただけると思っていましたよ」
とりあえず一段落ついたような気分になった二人は飲み残しのコーヒーを旨そうに啜って笑顔になった。
「さて、それでは謎解きを始めましょうか。今ここで全ての謎を解明するなんてことはできっこありませんから、いくつかの謎についてブレーンストーミングしてみましょうよ。先ず何から取り掛かりますかね?」
「そうですね、私が一番引っ掛かっていることからお願いしましょうか。何故猛毒の『ドクウツギ』の果実が白鷺結子の嘔吐物からだけ検出されたのかという謎です」
「確かに一つの謎ではありますね。ただ、単純に考えると、もともとケーキには『ドクウツギ』の果実がトッピングされていなくて、白鷺さんはケーキを食べるのと同じようなタイミングで別の食べ物を摂取した。その中に『ドクウツギ』の果実が入っていた。そう考えれば至極単純な話になりますよね」
「しかし、白鷺は、『朝ホテルのレストランでビュッフェスタイルの食事を摂り、その後はケーキが届くまでずっと論文執筆に集中していたので、部屋に備えてあったコーヒーと緑茶を飲んだ以外は口にしていない』と言っています。今のところ、他の宿泊客に中毒症状が現れたという話は全くないのです。さらに、鑑識でも白鷺が言っている食べ物以外のものは嘔吐物から検出されてはいないのです」
「なるほど、そんなに簡単な話ではない、ということですか……。でも、何かしらのトリックが隠されているような気もしますけどね」
「いったいどんなトリックでしょうか?」
「いや、まだ全く分かりませんよ」
「そんな無責任なこと、言わないでくださいよ……」
鹿子木は落胆の色を隠すことなく表情に出してそう言った。
「ところで、真犯人が実際に存在していると仮定して、その人は白鷺さんを殺そうと考えていたんですかね?」
「鑑識からの情報をまとめますと、次のようになります」
鹿子木は鑑識の係官から聞いたことを簡単に洋介に伝えた。
「今説明しましたように、『ドクウツギ』はかなり毒性が高いんですが、白鷺の命が助かった理由は主に二つあると考えられるそうです。一つは、『迅速な対応と的確な処置ができたこと』、もう一つは、『摂取した果実の量が致死量には達していなかった可能性があること』だそうです。ですから、私は白鷺を殺そうとしていたと考えてもよいのではないかと思っています」
「でも摂取した果実の量は少なかったのですよね。殺そうとまでは考えていなかったのではないのですか?」
「いや、私はそうは考えていません。摂取量が少なくなった主な要因は、白鷺が二切れ届けられたケーキを直ぐに二つとも食べてしまわないで、一つ食べた後、間をあけて残りを食べようとしたことだと思います。つまり、二切れ目のケーキを食べ切らないうちに中毒症状が発症したため、致死量には不十分な量に留まったのではないかと思うのです」
「なるほど。ケーキのトッピングに『ドクウツギ』の果実が使われていたと仮定すると、確かに、そうかもしれませんね。ところで、鹿子木さんは何故桜井雄峰さんのことを疑っているのですか?」
「現時点では、発症直前に白鷺結子が食べたものは、桜井雄峰が届けたケーキだけしか判明していないからです」
「でも、白鷺さんはケーキ以外にコーヒーとお茶を飲んでいたのでしょう?」
「コーヒーやお茶を飲んだのは少なくとも発症する二時間くらい前なので、『ドクウツギ』果実の毒性の現れ方から考えると矛盾が生じるのです」
「なるほど、そういうことですか……。でも、桜井さんが届けたケーキで残されていたものからは『ドクウツギ』の果実は検出されなかったわけですよね」
「そうなんです。だから謎なんです」
そこで二人の会話は止まった。黙ってしまった洋介からの発言をしばらく待っていた鹿子木であったが、洋介は固まったままであった。鹿子木はこの日は諦めることにして愛に言葉を掛けてから筑波ホビークラブを後にした。
鹿子木が筑波ホビークラブで洋介と話をした二日後、桜井雄峰の所に鹿子木から電話があった。
「ああ、桜井さんですね。実は白鷺結子さんに連絡を取りたいと思いましてね。彼女から教えていただいたスマホの番号に電話しているんですが、何回掛けても繋がらないんです。それで、桜井さんなら他の連絡方法をご存じではないかと思いまして電話したんですが……」
「実は、私も結子さんと連絡を取りたいと思って昨日、何回も電話を掛けてみたんですけど、全く繋がらないので困っていたんです」
「桜井さんはスマホの電話番号以外の連絡先をご存じないんですか?」
「ええ、知りません。結子さんは私にスマホの電話番号しか教えてくれなかったものですから」
「分かりました。お手数をお掛けしました」
電話を切った後、鹿子木は若い刑事に指示して、退院した日に書いてもらっていた白鷺結子の住所を手掛かりにして連絡をとってもらうことにした。
翌日、洋介が筑波ホビークラブの営業を終了しようかと思った時、受付の電話が鳴った。
「なんだ、鹿子木さんですか。こんなに遅い時間にどうしたんですか?」
「夜遅くに済みません。実は白鷺結子と連絡がつかなくなってしまったんです」
「ええっ、中毒の被害者の所在が分からなくなるなんてことがあるんですか?」
「神尾さんもそう思われるでしょう。ところが実際に白鷺結子と連絡が取れなくなってしまったんです。そればかりでなく、『白鷺結子』という人物を調べているんですけど、どうも実在しているのかどうか怪しくなってきているんです」
「本当ですか?」
「私もキツネにつままれたみたいな気持ちではあるんです。でも、振り返ってみると、あの女には少なからず怪しい挙動があったんです」
「どういうことですか? 詳しく説明してくださいよ」
「あの女は、あんな酷い目に遭ったというのに、自分が中毒になった原因究明には乗り気ではなかったんです。あの女が退院したら警察で詳しく話を訊こうと思っていたんですが、どうもそれを嫌がっているような素振りでしたので、あの女が退院する直前に私が病院に行って警察に連れてきたんです。署で待っているとあの女は来てくれないような気がしたものですからね」
「鹿子木さんの予感が的中したというわけですね」
「そうだったんです」
「それで、警察ではどう対処するのですか?」
「とりあえずは、あの女のことをしっかりと調べるつもりです。桜井にも訊いてみたんですけど、彼も電話番号以外の連絡先は知らないと言っているんです」
「分かりました。私もじっくりと考えてみます」
「よろしくお願いします」
そう言って鹿子木は電話を切った。洋介は東の外れの部屋に籠って外が白むまであれやこれや思考を巡らしたが、何の進展もなかった。
翌朝、洋介はもう一度昨晩と同じことを考えてみたが、新たなアイデアは出てこなかった。
「夜中に考えていたことを朝起きてからもう一度考えてみると、スルスルと良いアイデアが浮かぶことが多いんだけどなあ……。仕方がない。桜井さんに来てもらって今回の中毒事件の始まりからもう一度詳しく訊くとするか」
次の日は火曜日であった。会社が一応休みである雄峰の姿が筑波ホビークラブにあった。
「桜井さん、大事なお休みの日に来ていただきまして申し訳ありません。白鷺さんが消息不明になってしまったそうなので、ここでもう一度事件の始まりから詳しくお話を伺おうと思いまして、ご足労願いました」
「神尾さんはこのクラブの仕事でお忙しいにも拘わらず、私のせいで更に忙しくさせてしまって大変恐縮しております。疑問がありましたら、何でもお話しますので、よろしくお願いします」
愛が淹れてくれたコーヒーを雄峰は旨そうに啜った。愛はコーヒーを出した後、少し離れたところに椅子を移動して二人の話に聞き耳を立てた。
「それでは、桜井さんと白鷺さんとの出会いからもう一度お話を伺いましょうか」
雄峰は、出勤前に通勤途中にあるハンバーガーショップに寄るのが日課であったこと、結子とはそこで出会って親しくなったこと、結子は『歌垣』の研究者だと言い雄峰に現地調査への協力を依頼し雄峰が快諾したこと、調査はほぼ順調に進み結子が論文を書き始めたこと、ホテルに缶詰めになって執筆している結子を励ますためにケーキを作ってホテルに届けたこと、を詳しく説明した。
「先日お訊きした内容とあまり代わり映えしませんが、他に何かまだ私に伝えていないことはないでしょうか?」
雄峰はしばらくいろいろと思い出している様子であったが、意を決した顔つきになってやや頬を赤らめながら口を開いた。
「この前お会いした時にはお話しなかったのですが、実は、私は結子さんに惹かれていたのです。結子さんと一緒に行動するようになった後、立て続けに三人の男から声を掛けられました。私の想像では、そのうちの二人の男は結子さんに好意を抱いていて、私のことをライバル視している連中ではないかと思っているんです」
「それで、もう一人はどんな目的で近付いてきたのだと思われますか?」
「その人は上田司さんと名乗り、結子さんの陰の支援者だと言っていました」
「ライバルと思しき男が二人いて、更に白鷺さんの陰の支援者と名乗る男もいたのですか。これはかなり重要なことかもしれませんよ。桜井さんにとっては恥ずかしくて喋りづらい内容かもしれませんが、一人ずつご存知のことを全部話してください」
「はい。できれば他の人に話したくはないことですが、私の疑いを晴らすためには仕方ありません。では、最初に現れた穂谷慎一郎と名乗った人のことからお話します」




