第三章 屋島の戦い 開戦1
平家は二ヶ所に布陣していた。
平宗盛が讃岐国(香川県)の屋島に。
平知盛は九州の兵隊を集め、彦島を拠点としていた。
この知盛が範頼軍を固く足止めしていたのである。
義経は渡辺の津(淀川河口)にいた。向かう先は四国だが、目の前には海が横たわっている。
元暦二(1185)年二月十八日。
義経は前日に渡部の津から渡海しようとしたところ、にわかに暴風が吹き荒れ、舟がさんざんに壊れた。
これによって、武士たちは舟を出そうとしなくなる。
これが有名な梶原景時との逆櫓論争につながり、よく史実のように語られるが、逆櫓論争は平家物語に登場する話である。
吾妻鏡によると頼朝が範頼に「土肥実平や梶原景時とよく話しあって九州勢と交渉しろ」と下文を出しているので、この時景時は範頼軍にいたと思われる(ただし屋島の戦いの後に景時は義経と合流する)。
――なお景時は平家物語で卑小な悪役扱いされているため、非常に印象が悪く伝わっているが、頼朝亡き後に身内からも排除される二代目頼家を盛り立てるなど、確かな実務能力と篤い忠誠心を併せ持った優れた幕臣だった。
平家物語では義経と犬猿の仲のように描かれているが、吾妻鏡では死亡した義経の首を前に、和田義盛らとともに号泣している。
さて、舟が出せず進退窮まった義経は、嵐を前に吠えた。
「朝敵を討つ手を少しでも緩めることは恐れ多い。風や波による損害になど構うな」
そして深夜、わずか五艘の舟で屋島へと漕ぎ出す。
午前二時ごろ出発した一行は、さすがに追い風ではあったのだろう。暴風に乗り、午前六時ごろに阿波国(現在の徳島県)に到着した。
当時通常三日かかるところを四時間で着いたというのだから、これにはさすがに吾妻鏡の誇張(誤り)の可能性はある。
ただ、予定よりも早く到着して「しまった」のは確かである。
(いけない)
義経は焦燥した。
この後、二十二日には梶原景時の水軍が屋島に到着している。義経と示し合わせていたのだろう。
陸から義経が、海から景時が平家を挟撃する作戦であり、水上戦における源氏不利の状況を覆すための一手である。
これに遅れるのは論外だが、早すぎても問題がある。
義経は挟撃が得意な将である。
大手を範頼、搦め手を自身が率いる形で、必勝の陣形を用意してから一気呵成に勝負を決めている。
一か八かの奇襲が義経の得意技とみられがちだが、義仲戦といい一ノ谷と言い、劇的な勝利の裏には常に周到な準備とそれによる勝算があった。
だが。
(今の我らは敵地に孤立無援で、従う兵はわずか百五十騎。平家の屋島本陣を攻めるには、いくらなんでも少ない。勝てぬ)
敵地のただなかでまごついていては、引き包まれて撃破されてしまう。
そうなれば、景時の水軍だけでは屋島平家軍に勝てる見込みは少ない。
何度も記すが、ここでの一敗は、ひいてはいまだ脆弱な頼朝の支配体制の崩壊につながる。
それは頼朝一族が再び明日をも知れぬ身に堕すことをも意味した。
義経は腹を決めた。
郎党たちを見すえ、告げる。
「今、我らは死地にある。だが、そなたらの懸命によって平家をこそ死地に陥れる。我に続けよ」
ここから、九郎義経最大の電撃作戦が始まる。
義経が行きついた阿波は四国の東部。
屋島は北東部(現在の香川県)にあたる。
義経は阿波の近藤親家を案内人に、屋島めがけて一気に北上した。
ひとたびたりとも足を止めない。
休むことはすなわち、死であった。
矢のごとく放たれた義経軍が、その攻撃力を持って桂浦に瀬戸内海の雄である田口氏の桜庭介良遠を、一気に攻めて敗走させた。
さらに阿波国と讃岐国の境をまたいで超えたのが十八日の夜。
渡辺の津を出港したのも十八日なので、吾妻鏡の記述が正しければ、嵐をついての上陸から田口良遠撃破、そして国境越えまでを一日で成し遂げたことになる。
一迅の風を巻くようなすさまじい強行軍だが、このたった一日には、頼朝一族の命運が握られていた。
生きるか族滅かの分岐がここだった。
馬も人も残らず息を荒らげながら、義経軍は、屋島からわずか四五kmの牟礼・髙山に陣取り、身を潜めた。
夜の闇の中、敵にはまだ気取られていない。
屋島の平家本陣に駆け込む、早馬もいない。
「御曹司、いかがします。一息に攻めますか」
郎党が義経に訊く。
「いや。夜襲はせぬ。敵に気取られぬように休め」
いくら精強な義経郎党といえど、昼夜駆け続けた後である。
ここでの開戦、しかも夜戦では、さすがに自軍のほうに無理がたたる。
失敗を許されない、そして時間に追い詰められていたのは義経軍のほうであったが。
義経がそれらの重圧にさらされる中で選択した、忙中の閑であった。
「少憩のほかは、いかに」
汗みずくの郎党の問いに、義経はすでに定まっていた計略を告げる。
「火だ。松脂と油を出せ」
「火ですか。しかし、やつらの陣へ火を放てるほどに近づけるかは」
「違う。このあたりの、家々を焼く」
「ここらをですか? 敵陣から遠い、こんなところを焼かれると?」
「我らの生き目を、それで手繰り寄せることができよう。宗盛どのに、強いて一族を守らんという気持ちがあればな」
怪訝そうな郎党を叱咤し、夜のうちに、すべての支度が整えられた。
そして十九日の午前八時ごろ。
義経軍は近隣の民家を焼き払い、激しく火煙を立てた。
この火計が義経の非凡さを物語る、屋島での決定的勝因の一つとなった。
先述の通り、このころの放火は武士の常套戦術である。それ自体は珍しい計略ではない。
だがこの時の義経は、単に火で敵を追い込むのではなく、寡兵である自軍を大軍に見せかけるのに使った。
もちろんただ火を起こすのではなく、いかにも大手軍並みの軍団が攻め寄せて見えるよう、巧みに発煙させたのだろう。
平家の総大将、平宗盛は唖然とした。
彼は、すでに南の田口が城ごと破られていることを知らない。
「ばかな。一ノ谷と言い、なんなのだ。こいつらの兵はどこから湧いてきた」
だが、あっけにとられているわけにはいかない。
彼はこのあまりにも緊急に生じた窮地に、いかんとすべきか必死に考える。
通常なら、平家とて、屋島は仮ごしらえとはいえ安徳天皇の内裏を守る本陣である。
総員、弓馬を携えて迎え撃つはずだった。
だが、ここで一ノ谷の大敗が響いた。
一族のうち強力な武者を多く失い、残された戦力の多くを彦島に割いたせいで、水上戦ならともかく陸戦における屋島の戦力は心もとない。
しかも後背からの奇襲、しかも相手は信じがたいほどの大軍である。
平家側の細かい兵数は伝わっていないが、四国の南方を田口氏に任せて北側の瀬戸内海をにらんでいた宗盛――実際、大手の範頼軍はそちらにいた――が擁していた兵は、彼が充分と考えるほどではなかったのだろう。
宗盛の肩には、平家一族の運命がかかっている。
ここで、武士の意地に任せて蛮勇をふるうべきか。
あるいは彦島の知盛と合流し、挽回を期すべきか。
宗盛は、一族を愛していた。
彼は、一敗して帝も一族もここで命数を断たれるくらいならと、退却を号令した。
「引け! 引いて海に出よ! 鎌倉どもが漕ぎ出してくればそこで討てる、帝も無事におわさればどうとでも立て直せる!」
宗盛をして、戦の感性に乏しい無能者とする声は古今に絶えない。
だがこの退却には、彼なりの一定の合理性はあった。
誤算だったのは、その退却決定の最大の理由であった鎌倉軍の兵数が、義経の鬼謀によって創り出された幻想だったことである。
宗盛を無能と断罪するのは、その記録を知る後世の人間の傲慢ではある。
しかしこの失着は、平家にとって痛恨であった。




