第三章 屋島の戦い 決戦前
一ノ谷で大勝を治めた鎌倉軍。
その後義経は京の治安維持を任され、範頼が平家追討使として中国地方を西進する。
自力救済志向の強い鎌倉武士たちはこれまで西国に兵を出すのを渋っていたが、ここにきて範頼部隊には精鋭が投入された。
中国地方で破竹の快進撃を続ける範頼軍だったが、とうとう九州へ渡ろうという時に水軍や舟が手に入らず、兵糧が乏しくなり苦戦し始める。
範頼軍の中で次第に強まる厭戦気分の中、軍中枢である和田義盛までもがひそかに鎌倉へ逃げ帰ろうとする始末だった。
結論から言えば、範頼はその後自力で船を手に入れて九州へ渡るのだが、この時点では追討使はもちろん、ひいては鎌倉軍の崩壊までも危惧された。
これは頼朝が、なお影響の残る養和の飢饉による兵糧不足を解決しないまま進軍命令を出したのが問題のおおもとである(この時の飢饉は北陸や西日本に比べ、関東は影響が小さかったとみられる。このため頼朝はことの深刻さを正しく把握できていなかったと思われる)。
鎌倉精鋭部隊の範頼大手軍が万が一にも蹴散らされれば、一ノ谷とは逆の事態となり、鎌倉の勢力を大きく減損させられたうえで平家は再び息を吹き返す。
関東武士が頼朝を担いでいるのは、自己の利益(所領の安堵)が目的であり、実利度外視の忠誠心ではない。
ひとたび頼朝が不利となれば、鎌倉には巨大な不協和音が鳴り響くことになり、平家どころではなくなる。
危惧と焦燥が頼朝と鎌倉を覆わんとしていた。
なお、もともと頼朝は平家討伐について急戦志向を見せていたのだが、この時期には安徳天皇と三種の神器の優先順位を上げ、範頼に何度もをそれを言い含めている。
一方、そうした方針変更を義経に伝えた記録は残っていない。
その義経は頼朝と違い、平家と義仲の後に荒れ果て、飢餓の極限にあった京をその目で見て、治安回復のための取り締まりを担って成果を出し、朝廷の信頼を得ていた。
元暦二年/寿永四年(1185年)、二月。
いよいよ範頼軍の厭戦気分が極限に達し、命令も通らなくなろうとしているしらせを、当の範頼が鎌倉へ届けた。
頼朝は食料を送るとともに、この範頼を一喝する。
鎌倉郡の中枢が、瓦解しようとしていた。
ほぼ時を同じくして。
「このままでは春には源氏の兵糧が尽きる」
「我に存念(胸中に強い一念)あり」
そう言って、義経が出撃した。




