第二章 一ノ谷の戦い 開戦1 三草山の戦い
寿永三年(1184年)二月四日。
頼朝の弟である範頼が大手軍五万六千騎。
同じく義経が、二万騎を率いて京を出る(これらの兵数は吾妻鏡の誇張の可能性がある。玉葉によれば平家二万騎、官軍は合わせて一二千騎馬。ただこれでは逆に源氏軍が少なすぎるので、不正確な情報であるか、あるいはやや源氏側が少ないということだったかもしれない)。
平家はすでに、福原を中心として、東の生田と西の一ノ谷に防御陣形を敷いていた。
この日の夜、一ノ谷の前哨戦といえる戦いが起きる。
三草山の戦いである。
平家方は、平資盛・平有盛・平忠房・平師盛らが播磨国(兵庫県)三草山の西に布陣する。
一方の義経は東側に陣を張り、両軍は三里(約十二km)ほどの至近距離で対峙した。
義経が、同道していた田代信綱や土肥実平に訊いた。
「夜討ちすべきか、明日まで待つべきか。どう思う?」
実平らが答える。
「夜討ちでしょう」
義経が、我が意を得たりとうなずいた。
「そうよな、明日まで待つ必要はなにもない。出るぞ」
疾風のごとき迅速さで駆けた義経軍は、その本領を充分に発揮する。
暗い山道に、騎馬と徒の足音が響き、矢のような奇襲部隊が平家陣地に食らいついた。
夜襲に備えていなかったのか、あるいは単純に兵の精強さの差があったのか。
ともあれ義経の攻撃は成功し、平家の陣は打ち破られた。
平家物語ではこの時民家に火をかけて火計を行ったことになっているが、史実としては不明である。
だが、火計を行っていてもおかしくない理由がこの夜戦にはあり、それが玉葉に書かれている戦闘の推移と関連してくる。
同道した武者たちが義経に語りかけた。
「やりましたな、九郎殿。成功ですぞ」
義経が深く息をつく。
味方の誰もが、この夜襲の成功を、「まずは目の前の一手柄」とただそれだけを喜んでいる。
だが義経にすれば、この一戦は是が非でもこの夜のうちに勝たねばならない、眼前の一ノ谷本決戦の命運を左右する戦いだった。
ひとまずの成果を得て、義経がつぶやく。
「平家の退路はふさいだ」
「退路、でござるか?」
傍らの武者がいぶかしげに首をかしげた。まだ本戦は始まってもいないのに、退路?
義経軍はこの後戦場の西側の道から一ノ谷に攻め込むのだが、この道はさかのぼっていくとやがて宇治から京に至る。
つまり平家軍は、もし東の生田で敗勢となっても、余力を残して西から退却すれば、京を伺うことができた。
その可能性を、この夜義経が潰した。
「これで福原は死地となる」
すでにこの時、義経による挟撃、いや半包囲作戦は発動していた。
余談だが、この直後の二月六日、後白河法皇から平家あてに停戦協定が出されている。
協定文を受け取った平家棟梁、平宗盛――清盛の息子――はそれを受け取り、一笑に伏した。
「法皇様の戯れもきわまったものよ。わずか数里先に源軍が陣を敷いておるのに、備えを解く者がどこにいる」
一説には、武装解除を命じられたため、平家がそれに従い油断して戦支度をやめてしまったのが平家の敗因だという話もある。
しかし、わずか十数km先に源氏軍を見据えて対峙しておきながら、言われるがままに能天気に武装解除してしまったというのは、あまりに無理があるだろう。
後年、平家棟梁である平宗盛が後白河にこの件で激しく不満をぶつけているが、本当に全軍丸腰にまでなったのかは非常に疑わしい。
ともあれこうして、平家の重要拠点である三草山陣地は義経の敏速さによって陥落した。
義経の搦め手は夜道を駆けて、海沿いの一ノ谷へと向かう。
その際、隊が二つに分かれた。
一手はそのまま義経の部隊である。
もう一手は、安田義定と、地元の摂津源氏で地理に明るい多田行綱が率いた。
「安田殿、多田殿、頼みました」
そう言う義経に行綱が応える。
「ご安心召され。平家の青侍どもは、このあたりの山を知らぬ。地元の我らにとっては庭ですがな」
別動隊は夜の山に消えていった。
彼らこそは、義経が放った平家軍崩壊の一矢であった。
義経は三草山の夜襲で天の時を得、摂津源氏を得ることで地の利を得、これまで木曽軍や京武者として活動していた武者たちという人材を得ていた。
二月七日、まだ暗さの残る明け方。
一ノ谷の戦いが開戦する。
大手の範頼軍には、千葉常胤、畠山重忠、梶原景時など、三十名以上の勇名が並ぶ。
義経軍にあるのは、安田義定、土肥実平、熊谷直実、多田行綱など十七名ほど(行綱の名は吾妻鏡にはなく、玉葉による)。
吾妻鏡によれば、卯の刻(午前六時ごろ)、義経軍にあった熊谷直実と直家親子らの五騎が一ノ谷側に攻め込み、少数ながら戦端を開いた。
次第に戦は数を増し、救援軍が入り混じって本格的な合戦となる。
この戦いについては、平家物語に激戦の様子が記されているが、史料においてはあまり詳しい経緯が残されていない。
吾妻鏡ではここで範頼軍も混じるのだが、東の生田にいたはずの範頼が一ノ谷での戦いに突然現れるあたりは、信用できる表記ではないおそれがある。
そのためここでは、玉葉を参考にして経緯を記す。
そこに書かれているのは、一か八かの崖下りなどよりもはるかに周到な包囲作戦であった。
みんな大好き一ノ谷の戦いですが、おそらく鵯越の逆落としは平家物語の創作だろうという見方が強力です。
山手からの攻撃を、崖を駆け降りたと誇張したのかな。
義経も最前線には出ておらず、後方にいたという見方が先行研究では有力(だって大将だもんね)。
なおこの三草山での放火については平家物語の記述なので史実かどうかは不明ですが、もし火煙を起こしていれば、次回書くように義経の思惑があったとみられます。
なお前に書いた義経が愚将だったというトンデモ本では(別に義経が愚将だと主張するのは自由なんだけど、論旨がトンデモ)、「煙を立てれば奇襲がバレる。奇襲はバレずに行うから奇襲なのであって、自らバラしたらその時点で失敗」という独自ルールで採点されています。
あのさあ…




