第一章 木曽義仲との戦い 開戦
「どういうことだ! 千騎ではなかったのか!」
武装した義仲の怒号が館に響く。
こちらも相手も、互いに千騎。
地の利のなさによる不利を、木曽勢ならではの結束力と義仲の用兵で埋める。
それが義仲の腹積もりだったのだが。
最新の物見からもたらされた報告は、木曽勢にとって絶望的なものだった。
先遣隊だった義経軍も、大手(主軍)の範頼軍も、想像以上に兵数が多い。
やられた、と義仲は悟った。
兵数があまりにも不利ならば義仲が逃亡すると思い、彼らは義仲を罠にはめたのだ。
それでも、即時撤退することはこれまでいくらでもできた。
だが、しなかった。
こういう勘所が、京に来てからというものてきめんに悪い。
吾妻鏡によれば、この時範頼軍が三万騎、義経軍が二万五千騎としている。
だが、合計して千騎対五万五千騎ではさすがに義仲がまともに戦ったとは思えないので、この数字は誇張だろう。
それでも両軍の兵数に、大きな差があったのは確かだと思われる。
この時の鎌倉軍は、さしたる軍略もなく、正面から平押しに攻めて圧勝している。
義仲の大声が続いていた。
「大手軍は鎌倉から出てきたのだろう、それは分かる。だが先に来ていた九郎(義経)とやらの軍は、なぜそんな数になった!?」
兼平が進み出た。
「おそらく、京武者を吸収したものと思われる」
「京武者? ……京周辺に巣食う、烏合の衆の武士どもか」
「そう侮れるものでもない。伊勢などには平信兼など平家の家人が多い、平家の敵である我らを敵として、頼朝が後白河とのつながりをよりどころとして甘言を弄し糾合したのだろう。そうでなければ、この短期間にそれだけの動員、できはすまい」
その通りだった。
義仲が実現しない策を空転させている間に、義経は確実に京武者との連携を取り、この一瞬にその兵力をつぎ込んだ。
また、かつて義仲と連携していた安田義定なども鎌倉軍についている。
義仲が歯噛みした。
すでに義仲軍は、義仲と離反した行家を討つために腹心の一人である樋口兼光に一軍を与えて派遣している。
将がいない。
兵は少ない。
これでは、義仲の辣腕も振るいようがなかった。
義仲一流の感性が、いやがおうにも、何重にも告げてくる。すでに木曽勢は、戦う前から、必敗の死地にある。
これまでにも戦で負けたことはあったが、戦う前にすでに敗北が決められていたことなどなかった。
それでも、義仲は戦闘意欲を奮い起こした。
己の戦意喪失で、木曽から長く旅してきた郎党たちをむざむざ空しく死なせることはできない。
木曽軍は出撃した。
■
この戦いで、義経の戦術には、さしたる見どころは記録されていない。
先にあるように、戦う前から義仲軍は敗北を決められていた。
義経軍は、ただ攻めるのみだった。
宇治から京へと駆け上がり、多勢の前の無勢を蹴散らしていく。
土煙と蹄の音と、人の歓声。
戦いながら確信した勝ち戦に、天井知らずに士気が上がっていく。
初陣の義経は、誰に倣うでもなく、従うでもなく、ただ勝つべくして勝つ必勝態勢を作り、それを粛々と実行していった。
策の原型は頼朝から言い含められていたのかもしれないが、借り物の作戦を凡夫が強行しようとすれば必ずほころび、失敗する。
九郎義経には、その気配がない。
義経が前方を指した。
「弁慶、あの敵はなんだ」
劣勢の木曽勢にあって、まだ気勢を吐いている者がいる。
「ああ、……あれは志田殿です」
「……叔父上か」
志田義弘は、源義朝の異父弟であった。
頼朝や義経にとっては、行家と同じく叔父にあたる。
行家とは違い、義弘と義仲とは深い信頼関係で結ばれていた。
だが義弘は以前に頼朝と戦っており、鎌倉とは完全な敵同士だった。
そして義経の策中にある義弘には、すでに勝ち目はなかった。
それでも義弘は最後まで義仲との絆を守り、寡兵でありながらも必死の奮戦を見せている。
ここで義経の首でもとれれば、また違ったのだろうが。
この時代は、近年の創作で描かれる合戦とは違い、一騎打ちというのはそうそう起こらないため、数で押し包まれて射込まれればやがて敗ける。
義弘に盤面をひっくり返すような逆転の一手はなく、やがて敗走する。
義経にはすでに戦の勝ちは見えていた。
軍記物語ではこの戦いで大げさな城攻めや火攻が描かれるが、そうした記録は玉葉や吾妻鏡には残っていない。
京に入ってからの戦では義仲軍の女武者、巴御前の活躍が描かれるが、これも物語においてだけである。
この戦の勝敗は、開戦前にすでに決まっていた。
だが、ここからがもう一つの戦いだった。
義経は義仲軍を各所で破り、京に入ると、まっすぐに後白河法皇を目指した。
ともすれば敗勢にあって逃げようとする敵の背を討とうとする、自軍兵をしかりつける。
「疾く駆けよ! 戦はすでに勝っている、敵にかまうな!」
「し、しかし」未練がましく郎党が反駁する。「蒲冠者(範頼)殿の兵は残党を追っております、そのほうが手柄が」
「かまうなというのだ! 残党など蒲冠者殿に任せよ!」
今の法皇の所在も、京の地形も、すべて頭に入っている。
治天の君とともにある者が官軍であり。
そうでなければ賊軍となる。
義仲もまた、敗勢にあって後白河を奪取しようとした。
「法皇様だ! 法皇様が手中にあれば、我らはまだ戦える!」
だが多勢に無勢の上、敗勢にある軍である。
義経のほうがはるかに早かった。
法皇を確保した義経は郎党たちで周囲を固め、掌中の珠を手放してなるものかと万全に布陣した。
ここでの後白河確保が、一気に義経の地位と頼朝の官軍としての正当性を確保することになり、単なる勝利以上の意味をもたらしたのである。
(終わったか)
義仲は胸中でひとりごちた。
(だがおれはまだ生きているぞ。今は退くだけだ)
そも、初めから退いていれば。
それを考え始めると、どこが誤りだったのかを考えてしまう。
法住寺合戦か。上洛か。挙兵か。その前だったのか。果たして。
すべての局面で勝ち目を失った義仲はその後、近江国(滋賀県)粟津で戦死する。寿永三年(1184年)一月。
平家物語には、彼と巴御前別れ、兼平との切なくも壮絶な最期などが描かれている。
その後義仲の首は郎党たちとともに、獄門にかけられた。
木曽を出てから、常勝の将軍として、幾度も少数で多数を打ち破ってきた一代の軍事的英雄はこうして舞台を去った。
そして名実ともに官軍として君臨することになった鎌倉頼朝軍は、ついに。
西国で勝利を重ね再起してきた、仇敵平家と激突することになる。
■
後日談として。
木曽義仲が死亡した同年の四月、吾妻鏡より。
義仲の嫡子であり、人質として鎌倉にあり、頼朝の娘・大姫の婿となっていた義高が、鎌倉からの脱出を試みた。
当時義高は十二歳、大姫は七歳だった。
幼い義高が義仲の仇を討とうとするのではないかと、頼朝は「じっこんの壮士」とやらに相談する。これを聞いた「女房等」が大姫にそれを漏らしてしまう。
彼女らは一計を案じ、義高は女房姿に返送して女房たちに囲まれ、屋敷から脱出する。
蹄に綿を巻いて足音を消した馬に乗って逃げ、夜までは騙しおおせたものの、ことが露見して頼朝は激怒した。
まもなく義高は追っ手によって殺害され、大姫はそれによって深く傷ついてふさぎ込むようになる。
後年、頼朝は大姫の入内を画策する。
しかし、この時から続く体調不良もあり入内工作は失敗に終わって、大姫も夭折した。
(終)
サブタイトル「開戦」なのに終戦してしまった…。
開戦前に比べてあっさりと終わってしまった本編ですが、この戦は内容自体にはあまりみどころがなく、「多勢の鎌倉軍が攻めて普通に勝った」なんですよね。
なので注目すべきはその戦に至るまでの段階であったり、スピード的にもタイミング的にも場所的にもあっさりと後白河法皇を抑える義経の準備と勘所などにある、とも言えます。
これもし義経が「法皇様どこ!? 京の町のどっちをどう!?」なんてもたついてたら、法皇は義仲がさらってさらなる混迷を呼んでいたかもしれませんから。
少し前に「義経は実は愚将だった!」というセンセーショナル(?)な本で、「義経たちの戦いを、純粋に戦術において評価する」という試みをしていましたが、戦というのはそれまでの経緯でありようが決まる部分が多く、「純粋に戦術のみで評価」というのは多くの人が望むことなのでしょうが、実質的に不可能なのです。
これは歴史を少し知った人なら、分かることなんですが。
だってこの戦いとか、義仲にどうせいっちゅうの。
「義仲は事前に鎌倉軍の倍の兵力を有しておき、周りの山に伏兵を置いて義経軍を包囲殲滅すべきだった」とか?
後から歴史を俯瞰した万能感に基づく一部の現代人の机上の空論は、むなしいものです。
ネット社会で増長しちゃってるかもなあ、そういうの。
実際同書は史実性を無視したトンデモ本の類(記録も物語もごっちゃだったり、記録に明記してあることを無視してたり、非常に独自的な採点方法を用いていたり)ですが、結構うのみにしちゃってる人がアマゾンレビューで多く見られ、こういうのは困るなあと思ったり。
この戦い、兵数的にも軍容的にも、開戦の時点で範頼・義経軍が圧倒的に有利な立場にありました。
それを承知で開戦し、しばらくは戦闘した義仲。
もっと早く京から退却していれば…とは誰しもが思うところですが、彼にそうさせなかったのはなんだったのか。
意地か、面子か、今には伝わらないほかのなにかか。
この戦いの少し前、水島の戦いで義仲は平家に大敗しています。
これは水際の戦いに不慣れだったことが一因ともみられますが、あの才子義仲がそのような勝算不確実な戦に臨んだのはなぜだったのか。
もしかしたら京に入ってからの彼は、それまでとは違うなにかによって少しずつ倦んでいたのかもしれません。
それでも、法住寺合戦では余分なかり武者が去った信用できる郎党たちを率い、史上初めて治天の君自らが擁する官軍と戦ってたやすく打ち破ってしまうあたりは、彼本来の軍才の輝きが見られます。




