第一章 木曽義仲との戦い 決戦前2
義仲の現況を整理しておく。
義仲は信濃を出て北上し、越前(福井県北部)、加賀(石川県)から南下して連戦連勝のまま上洛する。
その際あまりの勝ちっぷりに、雪玉が転がるがごとくに兵数を増やした。
この兵とはつまり、義仲の進軍路の北陸地域の「かり武者」(専門武士)たちである。
主従関係によって連結した郎党ではないため、彼らは勝つ軍には寄り集まって従うが、劣勢に陥るとたやすく離散してしまう。
平家が義仲討伐に集めた大軍が簡単に崩壊した理由の一つにも、このかり武者の脆さがあった。
折からの飢饉(養和の飢饉)により、当時の北陸は大凶作である。
上洛軍についていこうとするかり武者が多くても無理はない。
だが当時の北陸は、京の食料の一大生産地でもあった。
北陸に作物がなければ、京にもない。
食い詰めて義仲についてきた者たちが、あてが外れて暴徒化するのに時間はかからなかった。
義仲にすれば、呼んでもいないのについてきたかり武者たちが京で暴れ回っていて、それを取り締まる羽目になっている。
※余談だが、義経はその後京へ入り、義仲に代わって治安の回復に努める。
その後の平家追討出撃まで、民と軍の食料問題は常に義経の頭にあった。
これは、養和の飢饉の影響が比較的少なかった関東における頼朝との認識のずれにもつながっていく。
さらに義仲を追い込んだのは、自らが擁していた北陸宮を天皇の位につけようと、皇位継承に口を差し挟んだことだった。
天皇継承の決定権は、治天の君である後白河の特権である。
義仲が中央権力への進出を試みたのか、それとも純粋に北陸宮こそが天皇にふさわしいと思ったのかは不明だが。
この介入を試みたことが、義仲と後白河の決定的な亀裂を生んだ理由の一つだった。
それはつまり、後白河と頼朝の接近、そして義経の動きの加速を促すことにほかならない。
こののち同年十一月に、後白河と頼朝の接近を許せない義仲は治天の君・後白河法皇と直接の決戦に至り(法住寺合戦)、そして勝利を収めてしまう。
その後義仲は、今やはっきりと敵となった頼朝を相手に、漫然と過ごしていたわけではなかった。
義仲は今井兼平、樋口兼光、根井行親などの腹心を呼び、次々に腹案を告げた。
「平家と和睦しようと思う」
「和睦!」
腹心たちは一様に驚愕したが、理にかなってはいる。
これがうまくいけば、西国での後顧の憂いがなくなる。
頼朝という共通の敵が、義仲と平家の橋渡しとなることは、ありえない話ではない。
義仲は続けた。
「次に、奥州藤原氏。頼朝が上洛できない理由の大きな一つが、関東のすぐ北でにらみを利かせている藤原秀衡だ」
義仲は、この独立独歩の北の王に鎌倉討伐の兵を出させるよう、後白河法皇を通じて命じることにした。
木曽陣営にすれば、後白河は治天の君でありながら誠心なき裏切り者である。
兼平が、驚きながらも首肯した。
「そうか。そのくらいは、法皇様に役に立ってもらってもいいだろう。しかし我らが大将殿は、よくそんなことを思いつく」
話は決まり、評定は解散となった。
義仲が、これらの作戦の成功率をどの程度とみていたのかは、今からでは伺い知れない。
だが仮に義仲が義経を――頼朝を打倒したとしても、その命運は長くはなかったかもしれない。
平家の横暴を止めるために兵を起こし、また打倒平家の戦を惹起した以仁王の遺児である北陸宮こそ、帝位にふさわしいと考える義仲の仁義。
それは、あまりにもこのころの京とは相いれない。
名軍略家らしい発想で、平家との和平交渉、奥州藤原氏への頼朝追討の院宣発行など、頼朝対策の手を次々に打った義仲。
だが、これらはいずれも不発に終わる。
義仲を頂点としながら、彼の創案を成功させる時間と人材が、この時の木曽勢には足りなかった。
木曽勢には、焦りが蓄積していった。
かつては数万騎を数えた義仲軍が、離散と脱落により千騎ほどに減っていた。
■
状況が移り変わりかける中、義経はまだ京付近にいた。
対義仲の必勝態勢を作るための作戦が進行中である。
義経は武蔵坊弁慶、佐藤嗣信、佐藤忠信、伊勢義盛などの腹心に厳しく言い含めた。
「いいか。おれたちの動きを決して木曽殿に悟られるな。おれは常に、手勢の千騎程度を連れて行軍する」
義盛が訊いた。
「なんでそんなことを? それになんの意味があるんです?」
「木曽殿に、戦えば勝てると思わせるためだ。木曽殿には、おれたちと戦ってもらわないと困る。向こうの兵力は今や千騎かそこらだという。こちらが圧倒的に兵が多いとなれば、逃げてしまうかもしれないだろう?」
「……逃げられたらまずいんで?」
義経は、空中に指で進軍路を描きながら告げた。
「こたびの戦は、蒲冠者(範頼)殿が京の東の瀬田より、おれが南の宇治より攻め込むことになる。木曽殿はその気になれば、北に逃れて加賀や越前へ逃亡することが可能なんだ。そこで体勢を立て直されたら、厄介なのでな」
今の義仲の戦力が落ちているのは、飢饉に加え、京という土地とのあまりの相性の悪さにある。
だが一度彼がこの都という檻から自由になれば、義仲に勝てる武士が鎌倉にどれだけいるか。
天の時と地の利が確実に鎌倉に味方する、今ここで義仲を仕留める必要があった。
「弁慶。間者を通じて、鎌倉も飢饉で食糧難であるという噂を流せ。それに加えて、木曽殿の物見がおれたちの手勢の兵数を見て確かに千騎程度だと伝えてくれれば、木曽殿は決戦を決意するだろう」
弁慶が首肯した。
あの軍才の持ち主が常の通りの判断をすれば、確かに、即座に撤退してしまうだろう。
それをさせなければ――
義経が拳を握り締めた。
「それをさせなければ、おれたちの勝ちだ」
■
ことは、義経の目論見通りに運んだ。
京は、日本で最も守りにくく攻めやすい都市の一つである。
山に囲まれているとはいえ街道が整備されきっており、守って守れる土地ではない。
だが、鎌倉軍と木曽軍の兵数が互角であれば。
戦の天才、木曽義仲であれば。
たとえ京を根城にしたとて、不覚は取らないだろう。
その判断が、木曽軍の命運を決めた。
そして十二月。
源範頼が、木曽義仲追討の兵を率いて鎌倉から出陣していた。
また、この時。
以前は千騎に満たなかったはずの義経の軍が、どうしたものか。
その数倍にまで膨れ上がっていた。
前段が長くて(なかなか戦が始まらなくて)すみません。
でもこの前状況を書いておかないと、「義仲って勝ち目のない戦にむざむざ挑んで負けただけのうつけじゃない?」と見えかねないので、一通り書かせていただきました。
事象の流れは吾妻鏡などに書かれている記録の通りですが、義仲や義経の郎党との会話は創作です。
木曽義仲の大きな不運は、別についてこなくてもよかったかり武者たちがどんどん義仲にくっついてきたこと。
養和の飢饉の影響で、北陸と京の食糧事情と治安が壊滅的だったこと。
この二つがなければ、もしかしたら武家のトップにしばらく君臨することはあり得たかもしれません。
戦場にいない時の彼は、いやむしろ戦場にない時こそ、常に社会の状況に追い詰められていました。
常勝将軍の切ない一面でもあります。
また、頼朝や平家のように知恵袋的な存在が欠けていたこと。少なくとも、大きく不足していたこと。
清盛や頼朝のように専制君主的な性格を持ちつつ中央進出を目指したタイプの英雄と違い、義仲はどうも純粋な朝廷の武力(天下の警察)であろうとしたように個人的には思えます。
後白河は、国内の実質支配を目指した清盛・頼朝より、むしろ義仲をうまく使えば治天の君としての権勢を思う存分振るえたのでは…という気もします。
ところで、平家物語の影響で、木曽義仲といえば都での乱暴狼藉を止めようともせず、むしろ野放しにしていた人間というイメージがあります。
しかし2020年代の新発見や研究により、彼なりに警察力を行使して治安維持に努めようとした形跡が発表されています。
…あとがきも長くなっちゃったな。




