第一章 木曽義仲との戦い 決戦前1
京は風雲急を告げていた。
寿永二年(1183年)八月、平家を都から追い落とした源義仲――木曽義仲が在京していた。
彼は治天の君・後白河法皇が有する武力として、平家に代わり、この時の武家の頂点にあったと言える。
だがその京の町は、飢饉による治安悪化からの回復がまるで進まずにいた。
木曽――現在の長野県――からの直参兵は、義仲という強力な王に従う一枚岩の軍隊ではない。
義仲があえてそうしなかったため(彼は専制君主を目指そうという動きが最後までなかった)、寄り合い所帯の連合軍に近かった。
であるから、すべての木曽兵が義仲の意思の通りに従う保証はない。
むしろ悪僧や食い詰め者に混じって狼藉を働こうという者も現れかねない。水も人も、汚れやすく低きに流れたがるものである。
義仲には、乳母子(乳母兄弟)の腹心・今井兼平ら信頼できる腹心がいたが、彼らの力でも京の治安回復は困難だった。
平家物語に記される乱暴狼藉話とは違い、義仲は懸命に京の治安回復を図ろうとした。
その命を後白河法皇から受け、その通りに尽力しようとしていた。
だが、状況がそれを許さなかった。
軍事の天才であり、少なき兵をもって平家に連戦連勝を成し遂げた義仲。
だが時代は彼を窮地に追い込んでいた。
彼を討つべく、源氏きってのもう一人の天才が、京へと歩みを進めていく。
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同年十月。
兄頼朝の命を受け鎌倉から出た源義経が、伊勢国(現在の三重県)に到着した。
なおこの時は義経の名は史料には見られず、ただ頼朝の九番目の弟とかいう者、と玉葉に記されている。
この時義経が連れていた兵数はわずか五六百とされる。
義仲を討つにはあまりに心もとない。
そのため、これはすぐに京へ攻め込むための軍容ではなかったとみられる。
これには当時の頼朝の立場も関係していた。
源平合戦とは言うものの、その中身は中央集権的な貴族体制と、自力救済的な地方武士の衝突である。
忠節や仁義ではなく、利害関係でまとめられた鎌倉武士の軍団の結束はまだまだもろい。
自分たちの領地こそが第一である坂東の武士たちに、京までの遠征を望む者も、そのための兵力を頼朝に貸す者も、ほとんどいなかった。
上洛を望んだ頼朝は、味方のはずの武士たちにたしなめられて鎌倉への定着を余儀なくされる。
この時の頼朝が動員でき、頼朝の命令を二つ返事で引き受けてくれる武将は、血を分けた兄弟である範頼と義経だけだったのである。
そして先遣隊のごとく出陣した義経は、無謀な猪ではない。
己らはいかにして勝つか。
いわゆる十月宣旨を広めるために物見がてら遣わされたと思しき義経の軍才は、しかしすでに脈動を始めていた。
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