第9話 私はもう、あなたの婚約者ではありません
王宮での謝罪を終えた翌日。
王都の空は、薄く曇っていた。
雨が降るほどではない。
けれど、どこか重たい雲が広がっていて、昨日までの出来事をそのまま空に映したようだった。
私はフォルスター公爵家の自室で、王宮から受け取った謝罪文を机の上に置いていた。
国王陛下からの正式な謝罪文。
王妃陛下からの手紙。
そして、エドワード殿下からの謝罪文。
封はすでに開けてある。
内容も読んだ。
どれも丁寧に書かれていた。
特に殿下の謝罪文は、何度も書き直したのだろう。
ところどころ文字に迷いがあり、インクの濃さも不揃いだった。
そこには、彼なりの後悔が確かにあった。
けれど。
それを読んでも、胸が大きく揺れることはなかった。
悲しくないわけではない。
腹が立たないわけでもない。
ただ、もう戻りたいとは思わなかった。
謝罪は、過去に向けられたものだ。
けれど私は、未来へ進みたい。
「お嬢様」
アンナがそっと紅茶を置いた。
「少しはお休みになれましたか?」
「ええ。ありがとう」
「昨夜は、よく眠れました?」
「思ったよりは」
本当は、何度か目が覚めた。
夜会の大広間。
殿下の声。
ミレーユ嬢の涙。
貴族たちの視線。
そうしたものが、夢の中で何度も現れた。
けれど、目覚めるたびに思い出した。
私はもう、あの場所に戻らなくていい。
そう思うと、不思議と呼吸が楽になった。
「アンナ」
「はい」
「今日、王宮から何か連絡は?」
「朝に一度、文官の方がいらっしゃいました」
「用件は?」
アンナは少し表情を曇らせた。
「ミレーユ様とベアトリス様の処分について、正式決定前にフォルスター公爵家へ説明したいとのことです」
「そう」
「それから……エドワード殿下が、もう一度お嬢様と話したいと」
私は紅茶のカップに伸ばしかけた手を止めた。
「殿下が?」
「はい。昨日は十分に言えなかったことがある、と」
胸の奥が、わずかに重くなる。
昨日、殿下は謝罪した。
最後には、私に幸せになってくれとも言った。
それで終わったはずだった。
少なくとも、私はそう思っていた。
「お父様は何と?」
「旦那様は、必要ないとお断りするおつもりのようです」
「そう……」
当然だと思った。
父からすれば、私をこれ以上殿下に会わせたくないだろう。
アンナも同じ気持ちらしく、心配そうに私を見る。
「お嬢様、無理に会う必要はありません」
「分かっているわ」
「昨日、もう十分お話しされました」
「ええ」
昨日で、終わった。
そう思いたい。
けれど、胸のどこかに小さな引っかかりがあった。
殿下に未練があるわけではない。
もう一度謝ってほしいわけでもない。
ただ、もし殿下がまだ何かを勘違いしているのなら。
私が黙って去ることで、また都合よく解釈されるのなら。
最後に、はっきりと線を引く必要があるのかもしれない。
「アンナ。お父様に伝えて」
「はい」
「殿下とお会いします。ただし、これが最後です」
アンナの目が大きくなる。
「お嬢様、本当によろしいのですか?」
「ええ」
「クラウス様にも同席していただきましょう」
「もちろん」
私は小さく頷いた。
「一人では会わないわ」
もう、以前の私ではない。
殿下の言葉を一人で受け止めて、黙って耐えるだけの私ではない。
◇
エドワード殿下との面会は、フォルスター公爵家の応接室で行われることになった。
王宮ではない。
こちらの屋敷で。
それが、今の立場をはっきり示していた。
私はもう、王宮へ呼ばれて向かう側ではない。
会いたいというなら、殿下がこちらへ来る。
そういう話になったのだ。
午後になると、王家の馬車がフォルスター公爵家の門の前に止まった。
以前なら、王家の馬車が来るだけで屋敷中が緊張しただろう。
けれど今日、使用人たちの空気は違った。
礼は尽くす。
だが、必要以上にへりくだらない。
それが父の指示だった。
応接室には、私と父、そしてクラウス様がいた。
アンナは少し離れた場所に控えている。
やがて扉が開き、エドワード殿下が入ってきた。
昨日よりもさらに顔色が悪い。
王子らしい華やかさはある。
けれど、その目には疲れが滲んでいた。
「フォルスター公爵。今日は突然の願いを聞き入れてくださり、感謝する」
殿下はまず父に頭を下げた。
父は静かに答える。
「本日が最後です、殿下」
はっきりした言葉だった。
殿下の肩がわずかに揺れる。
「分かっている」
そう言って、殿下は私を見た。
「リリアーナ」
「はい、殿下」
私は立ち上がり、礼をした。
以前よりずっと短く。
婚約者としての親しみではなく、公爵令嬢としての礼。
殿下も、それに気づいたのだろう。
少しだけ表情を歪めた。
「座ってもいいだろうか」
「どうぞ」
皆が席につく。
クラウス様は私の隣に座った。
何も言わず、ただそこにいる。
それだけで、応接室の空気が引き締まった。
殿下はしばらく言葉を探すように視線を落としていた。
そして、ようやく口を開いた。
「昨日は、謝罪を受け取ってくれてありがとう」
「謝罪文は、確かに受け取りました」
「……ああ」
その返答に、殿下は小さく息を吐いた。
受け取った。
けれど、許したとは言っていない。
その違いを、今の殿下は理解しているようだった。
「今日は、謝罪を繰り返しに来たわけではない」
「では、何をお話しに?」
私が尋ねると、殿下は唇を噛んだ。
「確認したかった」
「何をでしょうか」
「本当に、もう何も戻らないのか」
父の気配が鋭くなった。
クラウス様の青い瞳も、少し冷たくなる。
けれど私は、自分で答えた。
「戻りません」
殿下の目が揺れる。
「そうか」
「はい」
「私は、まだどこかで思っていたのだと思う」
殿下は苦しそうに言った。
「謝れば、君は少しだけでも昔のように話してくれるのではないかと。私を責めてもいい。怒ってもいい。けれど、その先にまだ何か残っているのではないかと」
「殿下」
私は静かに彼の言葉を遮った。
「それは、殿下の願いです」
彼の表情が固まる。
「私の気持ちではありません」
応接室に、静寂が落ちた。
はっきり言うのは、少し怖かった。
けれど、言わなければならなかった。
「私は、殿下に怒っています。悲しんでもいます。けれど、それ以上に疲れました」
「疲れた……」
「はい」
私は膝の上で手を重ねた。
「十年間、私は殿下の婚約者として生きてきました。殿下が困らないように、殿下が恥をかかないように、殿下が王子として正しく見えるように」
その言葉に、殿下は目を伏せた。
「それは私の役目だと思っていました。けれど、気づいたのです」
「何に」
「私は、いつの間にか殿下の不足を埋める道具になっていました」
殿下の顔が苦しげに歪んだ。
けれど私は続けた。
「殿下に悪意がなかったとしても、私にとってはそうでした。私の努力も、我慢も、当然のものとして扱われていました」
「……すまない」
「謝罪は受け取りました」
私は同じ言葉を繰り返した。
「でも、私はもう、その場所には戻りません」
殿下は何かを言おうとして、口を閉じた。
以前なら、私はその沈黙を埋めていた。
殿下が困らないように。
場が気まずくならないように。
けれど今は、何も言わなかった。
沈黙を抱えるのも、殿下自身が学ぶべきことだ。
「リリアーナ」
殿下はしばらくして、絞り出すように言った。
「君は、私を憎んでいるか」
その問いに、私はすぐには答えられなかった。
憎んでいる。
そう言えれば、簡単だったかもしれない。
でも、私の中にある感情は、そんなに単純ではなかった。
「分かりません」
私は正直に答えた。
「怒りもあります。悲しみもあります。失望もあります。でも、憎しみだけではありません」
「では……」
「だからといって、戻れるわけではありません」
殿下のわずかな期待を、私は静かに断った。
「壊れたものは、謝れば必ず元に戻るわけではありません」
それは、自分にも言い聞かせる言葉だった。
私も、過去に戻ることはできない。
殿下の婚約者として過ごした日々が、すべて嘘だったとは思わない。
努力した自分も、期待していた自分も、確かにいた。
けれど、その時間にはもう戻れない。
「私は、これから北方へ行きます」
私は胸元のブローチに触れた。
「クラウス様の領地で、新しい人生を始めます」
殿下の視線が、銀の狼のブローチに落ちる。
その目に、痛みが浮かんだ。
「ヴァレンシュタイン公爵」
殿下がクラウス様を見る。
「リリアーナを、本当に大切にするのか」
クラウス様は少しも表情を変えなかった。
「当然だ」
「彼女は、無理をする。何でも自分で抱え込む」
「知っている」
「……知っているのか」
「見れば分かる」
クラウス様は静かに言った。
「だから、私が隣にいる」
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
殿下は、苦笑に近い表情を浮かべた。
「私は、見ても分からなかった」
「そうだな」
クラウス様は容赦なく答えた。
父が小さく咳払いをした。
けれど、否定はしなかった。
殿下はしばらく俯いていた。
やがて、小さく頷く。
「そうだ。私は分からなかった」
声は震えていた。
「分かろうともしなかった」
殿下は深く息を吐いた。
「リリアーナ。私は、君を取り戻す資格がない」
「はい」
私は静かに頷いた。
殿下は少しだけ目を見開いた。
私がそこを曖昧にしなかったからだろう。
けれど、曖昧にしてはいけない。
ここで優しい言葉をかければ、殿下はまた期待してしまう。
それは、私にとっても、殿下にとってもよくない。
「あなたはもう、私の婚約者ではありません」
私ははっきりと言った。
「そして私はもう、あなたのために生きる人間ではありません」
殿下の顔が、静かに歪む。
傷ついたのだと思う。
けれど、これは必要な言葉だった。
「私は、私の人生を生きます」
応接室の空気が、少しだけ変わった。
父が静かに頷く。
クラウス様の気配が、ほんの少しやわらぐ。
アンナは後ろで目元を押さえていた。
殿下は、長い沈黙のあと、深く頭を下げた。
「分かった」
その声は、苦しそうだった。
「君の言葉を、受け止める」
「ありがとうございます」
「私は、君に許されることばかり考えていた。だが、それすら君に負担をかけることだったのだな」
私は何も言わなかった。
殿下は続ける。
「これからは、君を呼び戻そうとはしない。王宮の仕事を頼むこともしない。君の新しい婚約を邪魔することもしない」
その言葉に、私はようやく少しだけ息を吐いた。
これを聞くために、今日会ったのかもしれない。
「そのお言葉、確かに承りました」
父が静かに言った。
「王家からも、正式な文書としていただきたい」
殿下は頷いた。
「用意する」
「お願いします」
父の声は、最後まで冷静だった。
◇
殿下が帰ったあと、応接室にはしばらく静けさが残った。
私は椅子に座ったまま、ゆっくりと息を吐いた。
手が少し震えている。
怖くなかったわけではない。
けれど、言えた。
もう戻らないと。
私は私の人生を生きると。
「お嬢様……」
アンナが駆け寄ってきた。
「立派でした。本当に、立派でした」
「ありがとう、アンナ」
「私、途中で泣きそうになりました」
「もう泣いているわ」
「これは、その……嬉し涙です」
アンナは慌てて目元を拭った。
その姿に、私は少しだけ笑った。
父が私の前に立つ。
「リリアーナ」
「はい」
「よく言った」
たったそれだけ。
けれど、胸が熱くなった。
「ありがとうございます、お父様」
「これで、本当に王宮との区切りはついたな」
「はい」
私は頷いた。
「もう、迷いません」
その時、クラウス様が静かに口を開いた。
「では、次は私の番だな」
「クラウス様の番?」
私が首を傾げると、彼は父の方を向いた。
「フォルスター公爵。改めて、リリアーナ嬢との婚約を正式に申し込みたい」
空気が止まった。
私は思わずクラウス様を見る。
「クラウス様?」
「本来なら、王宮の問題が落ち着いてから改めて話すつもりだった」
彼は私を見た。
「だが、今日、君は過去と決別した。ならば、私も曖昧なままにはしておきたくない」
胸が、急に早く鳴り始める。
父は目を細めた。
「ヴァレンシュタイン公爵。以前にも条件付きで認めるとは言いましたが」
「承知しています」
「まだ正式な婚約発表には早い」
「発表を急ぐつもりはありません」
「では?」
クラウス様は、まっすぐ父を見た。
「まずは、家同士の正式な婚約契約を進めたい。リリアーナ嬢本人の意思を最優先にし、彼女が望めばいつでも撤回できる条項を入れて構わない」
父の眉がわずかに上がった。
「撤回できる条項、ですか」
「ああ」
「それでは、あなたに不利でしょう」
「彼女を縛るための婚約ではない」
クラウス様は即答した。
「彼女が自分の意思で私の隣にいることに意味がある」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
私は、王家との婚約でそんなことを言われたことはなかった。
婚約は決まったもの。
私が果たすべき義務。
そういうものだと思っていた。
けれどクラウス様は違う。
私が選ぶことを、何より大切にしてくれる。
父はしばらくクラウス様を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷く。
「よろしい。正式な協議を始めましょう」
「感謝します」
「ただし、リリアーナの意思を確認するのが先です」
父の視線が私に向く。
クラウス様も、私を見る。
アンナまで、息を呑んで私を見ていた。
私は少しだけ緊張しながら、立ち上がった。
「私は……」
言葉にすると、胸が震えた。
でも、不思議と怖くはなかった。
「私は、クラウス様との婚約を望みます」
はっきりと、そう言った。
クラウス様の青い瞳が、わずかに揺れた。
珍しい表情だった。
父は静かに頷く。
「分かった」
アンナが後ろで小さく泣いた。
「お嬢様……」
「アンナ、今日はよく泣くわね」
「今日は仕方ありません」
そう言われて、私も少し笑ってしまった。
クラウス様は私の前に立つ。
「リリアーナ嬢」
「はい」
「ありがとう」
その言葉に、私は目を瞬いた。
クラウス様が、礼を言った。
いつも私が礼を言うと、不要だと言う人が。
「珍しいですね」
「そうか」
「はい。クラウス様が私にありがとうとおっしゃるなんて」
「言いたかった」
彼は静かに言った。
「私を選んでくれて、ありがとう」
胸の奥が、どうしようもなく温かくなった。
「こちらこそ」
私は小さく微笑んだ。
「私を選ばせてくださって、ありがとうございます」
クラウス様は、ほんの少しだけ困ったような顔をした。
けれどその表情は、どこか優しかった。
◇
その日の夕方。
フォルスター公爵家とヴァレンシュタイン公爵家の間で、正式な婚約協議が始まった。
すぐに大々的な発表をするわけではない。
けれど、両家の間では確かに話が動き出した。
王宮にも、その意向は伝えられることになった。
王家との婚約破棄。
名誉回復。
謝罪。
決別。
そして、新たな婚約。
一つずつ、過去の扉が閉じていく。
同時に、新しい扉が開いていく。
私は自室に戻り、北方へ持っていく荷物を改めて確認していた。
机の上には、白鈴花の髪飾り。
胸元には、銀の狼のブローチ。
王宮から受け取った謝罪文は、箱に入れて封をした。
捨てるつもりはない。
けれど、何度も読み返すつもりもない。
それは過去の証として、静かにしまっておく。
「お嬢様、こちらのドレスはどうなさいますか?」
アンナが淡い金色のドレスを広げた。
かつて、王宮の夜会で着る予定だったものだ。
エドワード殿下の隣に立つために仕立てられたドレス。
私はそれを見つめた。
美しいドレスだった。
けれど、今の私には少し眩しすぎる。
「持っていかないわ」
「よろしいのですか?」
「ええ。これは王都に置いていく」
「では、保管しておきますね」
「お願い」
アンナが丁寧にドレスを畳む。
私は代わりに、厚手の外套を手に取った。
北方用の、深い青色の外套。
王都の夜会ではなく、雪の道を歩くためのもの。
今の私には、こちらの方がしっくりきた。
「明後日には出発ですね」
「ええ」
「寂しくなりますか?」
「少しは」
私は窓の外を見た。
王都の夕暮れは、柔らかな橙色に染まっている。
この街で、私は多くの時間を過ごした。
苦しいこともあった。
けれど、学んだこともある。
出会えた人もいる。
すべてを嫌いになる必要はない。
ただ、もうここを自分の居場所にはしない。
「でも、楽しみでもあるの」
私はそう言った。
「北方へ行くのが」
アンナが嬉しそうに笑った。
「私もです。雪は少し怖いですけれど」
「私も寒さは心配だわ」
「クラウス様が、きっと山ほど外套を用意されますよ」
「あり得そうね」
二人で少し笑った。
その穏やかな時間が、何より嬉しかった。
◇
一方、王宮では。
エドワード殿下が、フォルスター公爵家から戻ったあと、一人で自室にいた。
リリアーナの言葉が、何度も頭の中で響いている。
私はもう、あなたの婚約者ではありません。
私はもう、あなたのために生きる人間ではありません。
私は、私の人生を生きます。
分かっていた。
昨日の時点で、分かっていたはずだった。
それでも、直接言われた言葉は重かった。
胸の奥に、空洞ができたようだった。
「殿下」
扉の外から、側近の声がする。
「王妃陛下がお呼びです」
「……今行く」
エドワードは立ち上がった。
逃げてはいけない。
これから、自分は向き合わなければならない。
ミレーユの処分。
自分の失態。
王太子としての責任。
そして、リリアーナを失った現実。
廊下を歩いていると、遠くの部屋からすすり泣く声が聞こえた。
ミレーユが待機を命じられている部屋だった。
以前なら、すぐに駆け寄っていただろう。
だが今、エドワードは足を止めただけだった。
「エドワード様……?」
扉の向こうから、ミレーユの声がする。
「そこにいらっしゃるのですか?」
彼は答えなかった。
「お願いです。私、怖いんです。皆が私を責めるんです。私を助けてください……」
涙声。
震える声。
かつての自分なら、それだけで心を動かされていた。
けれど今は、リリアーナの言葉が浮かんだ。
誰かの涙だけではなく、事実を見てください。
エドワードは拳を握った。
そして、扉を開けなかった。
「エドワード様?」
ミレーユの声が不安に変わる。
彼は小さく息を吐き、廊下を歩き出した。
初めてだった。
ミレーユの涙に、背を向けたのは。
それは優しさではないかもしれない。
冷たさでもないかもしれない。
ただ、ようやく彼が現実を見始めたというだけだった。
◇
翌日。
王宮から正式な追加声明が出された。
夜会におけるエドワード殿下の婚約破棄と断罪は、十分な事実確認を経ない不適切なものであったこと。
リリアーナ・フォルスター公爵令嬢に対する加害疑惑は、現時点で事実無根と判断されること。
むしろ、彼女がミレーユ・ラングレー男爵令嬢の学園生活を支援していた記録が複数確認されたこと。
偽造手紙の提出について、関係者を厳正に調査していること。
そして、リリアーナ・フォルスター公爵令嬢の名誉を王家として正式に回復すること。
その声明は、王都に大きな衝撃を与えた。
今度こそ、噂は完全にひっくり返った。
可哀想な男爵令嬢。
冷たい公爵令嬢。
そんな単純な物語は、もう通用しない。
社交界の人々は、手のひらを返すようにリリアーナを称え始めた。
才女。
忍耐強い令嬢。
王宮を支えた本物の王子妃候補。
けれど、その言葉もまた、少しだけ遠く感じた。
悪く言われるのも。
急に褒められるのも。
どちらも、私自身を見ているようで、見ていない気がしたからだ。
「お嬢様、またお手紙です」
アンナが苦笑しながら、銀盆を持ってくる。
「今日は何通?」
「数えるのを途中でやめました」
「そんなに?」
「はい。お茶会のお誘い、謝罪、婚約のお祝い、いろいろです」
「婚約はまだ正式発表していないのに」
「皆様、気が早いのです」
アンナは少し呆れたように言った。
私は小さく笑った。
けれど、心は決まっていた。
「返事は、出発後にしましょう」
「北方へ向かってからですか?」
「ええ」
王都の噂に、今すぐ一つずつ返事をする必要はない。
私はもう、社交界の評価に振り回されたくなかった。
「まずは、北方へ行きたい」
そう言うと、アンナは嬉しそうに頷いた。
「はい。では、荷造りを急ぎます」
◇
その夜。
私は最後に、フォルスター公爵家の庭を歩いた。
明日には、北方へ向かう。
王都の屋敷もしばらく離れることになる。
庭の薔薇は、いくつか花を開いていた。
母が好きだった白薔薇。
私はその前に立ち、静かに目を閉じた。
「お母様」
小さく呟く。
「私は、王妃にはなりませんでした」
夜風が、花びらを揺らす。
「でも、これでよかったのだと思います」
王妃になれなかった。
婚約破棄された。
王宮から去る。
それだけを見れば、失敗のように見えるかもしれない。
けれど今の私は、そうは思わない。
私は、失っただけではない。
自分の意思を取り戻した。
守ってくれる人に出会った。
新しい場所へ行く勇気を得た。
「私は、私の幸せを選びます」
白薔薇が、静かに揺れた。
まるで、頷いてくれたようだった。
「リリアーナ嬢」
後ろから声がした。
振り向くと、クラウス様が立っていた。
黒い外套をまとい、月明かりの下にいる彼は、まるで夜そのもののようだった。
けれど、もう怖くはない。
「クラウス様」
「明日の出発は、朝になる」
「はい」
「長旅になる。無理はするな」
「分かっています」
「本当に?」
「……たぶん」
そう答えると、クラウス様は少しだけ眉を寄せた。
その表情が面白くて、私は笑ってしまった。
「笑うところか」
「すみません」
「君は、時々危うい」
「よく言われます」
「誰に」
「最近は、クラウス様に」
「なら、もっと言う」
真面目にそう言われ、また笑いそうになった。
けれど、今度は少しだけ胸が温かくなる。
私はクラウス様の隣に立ち、庭を見た。
「この庭を、しばらく見られなくなると思うと少し寂しいです」
「北方にも庭がある」
「白鈴花の庭ですか?」
「ああ」
「楽しみです」
「それならよかった」
短い会話。
けれど、心地よかった。
以前の私は、誰かとの沈黙が怖かった。
何か話さなければ。
場を整えなければ。
そう思っていた。
でもクラウス様との沈黙は、不思議と怖くない。
隣にいるだけで、十分だと思える。
「リリアーナ嬢」
「はい」
「明日、王都を出る」
「はい」
「もう振り返るなとは言わない」
私は彼を見る。
「振り返ってもいい。過去を思い出してもいい。傷ついてもいい」
クラウス様の声は静かだった。
「だが、戻る必要はない」
胸の奥が震えた。
「はい」
「君の帰る場所は、これから作ればいい」
その言葉に、目の奥が少し熱くなる。
私は白鈴花の髪飾りに触れた。
「クラウス様」
「何だ」
「北方で、私の居場所を作れるでしょうか」
「作れる」
即答だった。
「なぜ、そう言い切れるのですか」
「私がそうするからだ」
あまりにも当然のように言われて、言葉に詰まった。
けれど、その真っ直ぐさが嬉しかった。
「それに」
クラウス様は少しだけ視線を和らげた。
「君自身も、きっと作れる」
その言葉の方が、もっと嬉しかった。
守るだけではなく。
私自身の力も、信じてくれている。
「ありがとうございます」
今度は、クラウス様は何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
◇
翌朝。
フォルスター公爵家の玄関前には、出発の馬車が並んでいた。
荷物はすでに積み込まれている。
厚手の外套。
薬草書。
慈善事業の資料。
白鈴花の髪飾り。
そして、銀の狼のブローチ。
私が王都から持っていくものは、思っていたより少なかった。
けれど、それで十分だった。
父が玄関前に立っている。
いつも通り厳しい顔。
けれど、その目には少しだけ寂しさがあった。
「リリアーナ」
「はい、お父様」
「体には気をつけなさい」
「はい」
「北方は寒い。無理をするな」
「はい」
「困ったことがあれば、すぐに手紙を寄越しなさい」
「はい」
「それから……」
父は言葉を止めた。
少し迷うように目を伏せる。
そして、低い声で言った。
「幸せになりなさい」
胸が詰まった。
私は深く頭を下げた。
「はい。お父様」
父は一歩近づき、私の頭にそっと手を置いた。
幼い頃以来かもしれない。
その手は大きく、少しだけ不器用だった。
「お前は、よく頑張った」
「……ありがとうございます」
声が震えた。
アンナが後ろで泣いている。
けれど、私も少しだけ泣いてしまった。
クラウス様が父の前に立つ。
「フォルスター公爵。リリアーナ嬢は、必ず大切にします」
「言葉だけではなく、行動で示していただきます」
「もちろんです」
「娘を泣かせたら、北方まで乗り込みます」
「承知しました」
クラウス様は真面目に答えた。
父は少しだけ口元を緩める。
「ならば、頼みます」
その言葉は、父としての信頼の始まりのように聞こえた。
クラウス様は静かに頭を下げた。
「お任せください」
私は馬車に乗り込む前に、もう一度屋敷を振り返った。
生まれ育った家。
王宮へ向かうたびに戻ってきた場所。
苦しい時も、私を待っていてくれた場所。
「行ってまいります」
そう言うと、使用人たちが一斉に頭を下げた。
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
その声に、胸が温かくなる。
私はクラウス様の手を借りて、馬車に乗り込んだ。
アンナも隣に座る。
扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き出した。
王都の道が、窓の外を流れていく。
王宮の塔が、遠くに見えた。
私はそれを、静かに見つめた。
もう、胸は締めつけられなかった。
ただ、静かに思った。
さようなら。
かつての私。
さようなら。
王子の婚約者だった私。
私はもう、あなたのために生きない。
私は、私の人生を生きる。
「リリアーナ嬢」
向かいに座るクラウス様が声をかける。
「はい」
「寒くないか」
「まだ王都ですよ」
「北方に近づけば冷える」
「その時は、外套を着ます」
「足りなければ、私のものを使えばいい」
アンナが横で小さく笑った。
私は少しだけ頬が熱くなる。
「ありがとうございます」
「礼は不要だ」
いつものやり取り。
それが、ひどく安心した。
馬車は王都の門へ向かって進んでいく。
もうすぐ、私はこの街を出る。
第一王子の婚約者としてではなく。
婚約破棄された令嬢としてでもなく。
冷血公爵の隣で、自分の未来を選ぶリリアーナとして。
王都の門が近づく。
その向こうには、まだ見ぬ北方への道が続いていた。
私は胸元の銀の狼に触れ、静かに息を吸った。
怖くないわけではない。
けれど、もう立ち止まらない。
私の新しい人生は、ここから始まる。
そしてこの時の私はまだ知らなかった。
北方へ向かう道中で、雪に閉ざされた村と出会うこと。
そこで初めて、私の治癒魔法が本当の意味で人を救うこと。
そしてクラウス様が、冷血公爵ではなく、誰よりも北方を愛する領主なのだと知ることになるのだと。




