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妹に聖女の座を奪われ婚約破棄されましたが、辺境で薬屋を始めたら冷酷公爵に溺愛されました  作者: 白瀬ほび
第一章 婚約破棄と、冷血公爵の求婚

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8/12

第8話 王子の謝罪は、あまりにも遅すぎました

 王宮から正式な通達が出た翌日。


 フォルスター公爵家の屋敷には、朝から重い空気が流れていた。


 リリアーナ・フォルスター公爵令嬢に関する加害疑惑は、現時点で事実を裏付ける証拠なし。


 むしろ、ミレーユ・ラングレー男爵令嬢を支援していた記録と証言が確認された。


 偽造された手紙が提出された疑いがあり、関係者への調査を進める。


 そして、事実確認を経ない噂の流布を慎むよう、各貴族家へ通達する。


 それが、王宮から出された正式な文書の内容だった。


 その文書が出たことで、社交界の空気は大きく変わった。


 昨日まで私を遠巻きに見ていた者たちは、今度は急に態度を変え始めた。


 同情する者。


 謝罪の手紙を送ってくる者。


 自分は最初から信じていたと書いてくる者。


 そのどれもが、少し遅い。


 けれど、私はそれを怒鳴りつける気にもなれなかった。


 ただ、静かに疲れていた。


「お嬢様、こちらもお返事が必要でしょうか」


 アンナが、銀盆に乗せた封書を見せてくる。


 机の上には、朝から届いた手紙が山のように積まれていた。


「差出人は?」


「カサンドラ・メルヴィル侯爵令嬢です」


「カサンドラ様……」


 私は少しだけ目を伏せた。


 茶会で噂を口にし、自分でその出どころを明かしてしまった令嬢。


 彼女もまた、王宮の調査対象になっている。


「内容は?」


「謝罪です。根拠のない噂を口にしてしまい、申し訳なかったと。ただ……」


「ただ?」


「自分もベアトリス様から聞いただけで、悪意はなかったと何度も書いてあります」


 アンナの声には、わずかな不満が混じっていた。


 私は苦笑する。


「悪意がなかった、ね」


「お嬢様は優しすぎます。悪意がなかったなら何を言ってもよいわけではありません」


「ええ。そうね」


 その通りだ。


 悪意がなかった。


 大ごとにするつもりはなかった。


 可哀想だと思っただけ。


 皆、そう言う。


 けれど、その言葉で傷ついた側の痛みが消えるわけではない。


 噂は刃物と同じだ。


 軽い気持ちで振り回しても、当たれば人を傷つける。


「返事は、今は不要よ」


「よろしいのですか?」


「ええ。調査が終わってからにしましょう」


「かしこまりました」


 アンナが封書を脇へよける。


 その時、扉が軽く叩かれた。


「リリアーナ」


 父の声だった。


「はい、お父様」


 入ってきた父の表情は、いつもより険しかった。


 手には、王家の封蝋が押された一通の書状がある。


 私はそれを見ただけで、何となく用件が分かった。


「王宮からですか」


「ああ」


 父は書状を机の上に置いた。


「明日の午後、王宮にて正式な謝罪の場を設けたいとのことだ」


 やはり。


 胸の奥が、重く沈む。


 覚悟していたはずなのに、いざその時が近づくと、指先が少し冷えた。


「エドワード殿下も?」


「同席する。国王陛下、王妃陛下、エドワード殿下、そして調査官も立ち会うそうだ」


「そうですか」


「断ってもいい」


 父はすぐに言った。


「謝罪を受けることは、お前の義務ではない」


 私は膝の上で手を握った。


 断ることもできる。


 今の私には、その権利がある。


 もう王宮の都合に合わせて動く必要はない。


 それでも。


「受けます」


 私は静かに答えた。


 父の眉がわずかに動く。


「本当にいいのか」


「はい」


「つらい場になるかもしれない」


「分かっています」


 それでも、行かなければならないと思った。


 戻るためではない。


 許すためでもない。


 私自身が、きちんと終わらせるために。


「私は、殿下の謝罪を聞きます」


 声が少し震えた。


 けれど、言葉は止めなかった。


「その上で、はっきり伝えます。私はもう王宮には戻らないと」


 父は私をしばらく見つめていた。


 そして、深く頷いた。


「分かった。私も同席する」


「ありがとうございます」


「ヴァレンシュタイン公爵にも伝えておく。彼も同席を望むだろう」


「はい」


 クラウス様の顔が頭に浮かぶ。


 彼はきっと、何も言わずに隣に立ってくれる。


 その安心感が、今の私を支えていた。


     ◇


 その日の昼過ぎ。


 クラウス様は、フォルスター公爵家の庭にいた。


 私はアンナに勧められ、少し気分転換をするために庭へ出ていた。


 春の風は穏やかで、薔薇の蕾は昨日より少しだけ開いている。


 その小道の先に、黒い礼服のクラウス様が立っていた。


 銀色の髪が、日の光を受けて淡く輝いている。


「クラウス様」


 私が声をかけると、彼はこちらを振り向いた。


「明日の件を聞いた」


「はい」


「行くのか」


「行きます」


 私は頷いた。


 クラウス様は、すぐには何も言わなかった。


 ただ、私の顔をじっと見つめている。


 その目は、心配しているようにも、私の覚悟を確かめているようにも見えた。


「無理をしているなら、止める」


「無理ではありません」


「本当に?」


「……少し、怖いです」


 正直に言った。


「殿下と向き合うのは、やはり怖いです。夜会のことを思い出します。皆の視線も、殿下の声も、ミレーユ様の涙も」


 胸の奥がきゅっと痛む。


 忘れたわけではない。


 傷はまだ残っている。


「でも、それでも行きたいのです」


「なぜ」


「終わらせたいからです」


 私は庭の白薔薇に視線を向けた。


「ずっと、王宮のために生きてきました。殿下の婚約者として、未来の王妃として、公爵家の娘として」


 そのどれもが、私を形作っていた。


 けれど、それだけが私ではなかった。


「明日、王宮で謝罪を受けたら、私はきちんと別れを告げます。殿下にも、王宮にも、昨日までの自分にも」


 クラウス様は静かに聞いていた。


「私は、北方へ行きたいです」


 その言葉を口にした瞬間、心が少し軽くなった。


「誰かから逃げるためではなく、自分で選んだ場所へ向かうために」


 クラウス様の青い瞳が、わずかにやわらいだ。


「なら、私も隣にいる」


「はい」


「だが、ひとつ約束してほしい」


「何でしょうか」


「つらくなったら、途中でも構わず私を見ること」


「クラウス様を?」


「ああ」


 彼は真面目な顔で言った。


「君が言葉に詰まったら、私が止める。君が傷つけられそうになったら、私が遮る。君が帰りたいと思ったら、すぐ連れ帰る」


 その言い方があまりにも当然で、胸がじんと温かくなった。


「本当に、過保護ですね」


「足りないくらいだ」


「足りないのですか?」


「ああ。君は放っておくと、すぐ一人で耐えようとする」


 言い返せなかった。


 確かに、私はそういうところがある。


 誰にも迷惑をかけないように。


 誰にも弱さを見せないように。


 自分さえ我慢すればいいと、すぐ考えてしまう。


「……気をつけます」


「気をつけるだけでは足りない」


「では、どうすれば?」


「慣れろ」


「またそれですか」


 思わず笑ってしまった。


 クラウス様は少しだけ首を傾げる。


「おかしいか」


「いいえ」


 私は首を横に振った。


「嬉しいです」


 そう言うと、クラウス様はほんのわずかに目を逸らした。


 その仕草が珍しくて、私はまた少し笑ってしまう。


 明日のことを思うと、怖い。


 けれど、その怖さの中にも確かな支えがある。


 私はもう、一人ではない。


     ◇


 一方、王宮では。


 エドワード殿下が、何度も謝罪文を書き直していた。


 机の上には、丸められた紙がいくつも転がっている。


 すまなかった。


 君を傷つけるつもりはなかった。


 私も騙されていた。


 どうか許してほしい。


 どの言葉も、書いた瞬間に薄っぺらく見えた。


 違う。


 これでは足りない。


 これでは、自分が楽になりたいだけだ。


 母に言われた言葉が、頭から離れない。


 謝罪とは、自分が楽になるためのものではありません。


 相手が許してくれるとは限らない。


 それでも、自分のしたことを正しく理解して、言葉にしなければならない。


「正しく理解……」


 エドワードは呟いた。


 自分は、何をしたのか。


 婚約を破棄した。


 それだけではない。


 十年間の婚約者を、公衆の面前で断罪した。


 証拠もない噂を信じた。


 弁明を聞かなかった。


 彼女の努力を当然だと思っていた。


 王宮の仕事を任せながら、それを仕事とも思っていなかった。


 彼女がいなくなって初めて、その価値を知った。


 あまりにも遅い。


「……私は、何を見ていたんだ」


 小さな声が部屋に落ちた。


 彼はリリアーナを知っていたはずだった。


 いつも早く起き、授業前に資料を確認していたこと。


 会議の前に、彼のために要点をまとめていたこと。


 誰かの失敗を、表に出ないように処理していたこと。


 慈善院の子どもたちに、静かに微笑んでいたこと。


 ミレーユが困っていた時でさえ、手を差し伸べていたこと。


 なのに、見なかった。


 見ようとしなかった。


 リリアーナの隣にいると、自分の未熟さが浮き彫りになるようで嫌だった。


 ミレーユの隣にいると、立派な王子になれた気がした。


 それだけだった。


「殿下」


 扉の外から文官の声がした。


「国王陛下がお呼びです」


「……分かった」


 エドワードは立ち上がった。


 謝罪文は、まだ完成していない。


 けれど、もう逃げられない。


     ◇


 国王陛下の執務室には、王妃陛下もいた。


 重厚な机の上には、調査報告書が置かれている。


 その横には、偽造された手紙。


 エドワードは、その手紙を見るだけで胸が苦しくなった。


 自分は、これを見た瞬間でさえ、リリアーナを疑いかけた。


 最後の最後まで、自分の過ちから逃げようとしたのだ。


「エドワード」


 国王陛下が低く呼んだ。


「はい」


「明日の謝罪の場について、確認しておく」


「はい」


「リリアーナ嬢に、復縁を求めることは許さぬ」


 エドワードの肩がわずかに揺れた。


 王妃陛下だけでなく、国王陛下にも先に言われた。


 つまり、自分がそう考えていることなど、周囲には見透かされていたのだ。


「分かっております」


「本当にか」


 国王陛下の目は厳しかった。


「お前は今も、謝ればリリアーナ嬢が戻るのではないかと考えているのではないか」


「……」


 答えられなかった。


 沈黙が、答えになった。


 王妃陛下が深く息を吐く。


「エドワード。あなたは、まだ分かっていません」


「母上……」


「リリアーナが必要なのは、あなたではありません。あなたにとってリリアーナが必要だっただけです」


 胸を刺すような言葉だった。


「彼女はもう、あなたのために生きる必要はないのです」


 エドワードは拳を握りしめた。


 分かっている。


 分かっているはずなのに、心が追いつかない。


 リリアーナはいつも、そこにいた。


 自分の隣にいるのが当然だった。


 叱っても。


 無視しても。


 ミレーユを優先しても。


 彼女は静かに耐え、王宮の仕事を整え、自分の不足を補ってくれた。


 その当然が、もう戻らない。


 自分が壊したのだ。


「明日、お前がすべきことは一つだけだ」


 国王陛下が言った。


「自分の罪を認め、謝罪すること。そして、彼女の新しい人生を邪魔しないと誓うことだ」


「……はい」


「もしその場で、彼女を取り戻そうなどと口にすれば」


 国王陛下の声がさらに低くなる。


「お前の王太子としての立場を、正式に見直す」


 エドワードは息を呑んだ。


 王太子としての立場。


 ついに、そこまで話が及んだ。


「父上、それは……」


「当然だ」


 国王陛下は厳しく言った。


「公爵家との約定を軽んじ、証拠もなく婚約者を断罪し、王宮の信頼を損なった。さらに謝罪の場で私情を優先するなら、お前に王国を背負う資格はない」


 言い返せなかった。


 何一つ。


 王妃陛下は静かに目を伏せている。


 彼女の表情には、母としての悲しみと、王妃としての厳しさが同時にあった。


「分かりました」


 エドワードはかすれた声で答えた。


「明日は、謝罪だけをします」


 そう言った瞬間、自分の中で何かが崩れた気がした。


 もう戻らない。


 リリアーナは、戻らない。


     ◇


 翌日の午後。


 私は王宮へ向かう馬車の中にいた。


 隣にはクラウス様。


 向かいには父。


 アンナは別の馬車で控えている。


 王都の街並みが、窓の外を流れていく。


 何度も通った道だった。


 王子妃教育のために。


 公務の打ち合わせのために。


 殿下の婚約者として。


 けれど今日の私は、そのどれでもない。


 謝罪を受けるために。


 そして、別れを告げるために向かっている。


「顔色が悪い」


 クラウス様が言った。


「少し緊張しています」


「手を」


「え?」


 彼は当然のように手を差し出した。


「握っていればいい」


 父が向かいで小さく咳払いをした。


 私は一瞬迷ったが、そっとクラウス様の手に自分の手を重ねた。


 温かい。


 それだけで、冷えていた指先が少しずつ戻っていく。


「ありがとうございます」


「何度でも言うが、礼は不要だ」


「それでも言います」


 クラウス様は少しだけ困ったように黙った。


 その横顔を見て、緊張が少しだけ和らぐ。


 父が静かに言った。


「リリアーナ」


「はい」


「今日、お前が何を言っても、私はお前の味方だ」


 胸が熱くなった。


「ありがとうございます、お父様」


「王宮に遠慮する必要はない。お前は被害者だ。だが、ただの被害者として終わる必要もない」


「はい」


「自分の言葉で、終わらせてきなさい」


 私は深く頷いた。


 馬車は王宮の門をくぐった。


 見慣れた白い石造りの建物。


 高い塔。


 整えられた庭園。


 かつては、私が未来を捧げる場所だと思っていた。


 今はもう、違う。


     ◇


 案内されたのは、国王陛下の執務室だった。


 夜会の大広間ではない。


 けれど、十分に重い意味を持つ部屋だ。


 室内には、国王陛下、王妃陛下、エドワード殿下、グレイ調査官がいた。


 エドワード殿下の顔色は悪かった。


 数日で、ずいぶん痩せたようにも見える。


 以前のような自信に満ちた表情はない。


 私を見ると、彼の瞳が揺れた。


「リリアーナ……」


 その声は、かすれていた。


 けれど私は、静かに礼をした。


「国王陛下、王妃陛下。本日はお招きいただき、ありがとうございます」


 あくまで礼儀正しく。


 けれど、必要以上にへりくだらない。


 私はもう、王宮に許しを求める立場ではない。


「リリアーナ嬢」


 国王陛下が静かに言った。


「この度は、王家としてあなたに多大な苦痛と不名誉を与えた。まず、私から謝罪する」


 国王陛下が頭を下げた。


 私は息を呑んだ。


 隣で父の気配が少し鋭くなる。


 クラウス様は何も言わない。


 王妃陛下も、同じように頭を下げた。


「リリアーナ。あなたが受けた扱いは、あまりにも不当でした。王妃として、あなたを守れなかったことを謝罪します」


「陛下……」


 胸の奥が揺れる。


 王妃陛下には、厳しくされた記憶が多い。


 けれど同時に、私に多くを教えてくれた人でもあった。


 その人が、今、頭を下げている。


「お顔をお上げください」


 私がそう言うと、二人はゆっくりと顔を上げた。


 国王陛下は、エドワード殿下へ視線を向ける。


「エドワード」


「……はい」


 エドワード殿下が、一歩前に出た。


 彼の手には、封書が握られている。


 おそらく謝罪文だろう。


 彼は私の前に立つと、しばらく言葉を探すように唇を震わせた。


 そして、深く頭を下げた。


「リリアーナ。すまなかった」


 その言葉が、静かに部屋へ落ちた。


 私は何も言わず、彼を見ていた。


「私は、君を信じなかった。十年間、私の隣で支えてくれた君を、何の証拠もなく疑った」


 エドワード殿下の声は震えていた。


「ミレーユの涙を信じ、君の言葉を聞かなかった。君に弁明の機会を与えず、公衆の面前で婚約破棄を告げた」


 彼は拳を握りしめる。


「王宮の仕事も、君の努力も、私は何も分かっていなかった。君がいて当然だと思っていた。君が私の不足を補ってくれていたことにも気づかなかった」


 私は静かに聞いていた。


 怒りがないわけではない。


 悲しみが消えたわけでもない。


 けれど、不思議と心は冷静だった。


 ああ。


 本当に遅すぎる。


 そう思った。


「君を冷たい女だと思っていた」


 殿下は続けた。


「だが、冷たかったのは私の方だった。君の努力も、優しさも、何一つ見ようとしなかった」


 彼は封書を差し出した。


「これは、私からの謝罪文だ。許してほしいとは言わない。いや、本当は言いたい。だが、言う資格がないことも分かっている」


 私はその封書を見つめた。


 差し出された手は、かすかに震えている。


 かつて、その手を取って夜会に出たことが何度もあった。


 王子の婚約者として。


 未来の王妃として。


 何度も。


 でも今、その手は遠いものに見えた。


 私はゆっくりと封書を受け取った。


「謝罪文、確かに受け取りました」


 エドワード殿下が顔を上げる。


 その瞳には、わずかな期待が浮かんでいた。


 もしかしたら。


 ほんの少しでも許してもらえるのではないか。


 そんな期待。


 私はその期待を見て、胸の奥が静かに冷えていくのを感じた。


「殿下」


「……ああ」


「謝罪は、受け取ります」


 彼の瞳が揺れた。


 けれど私は、続けた。


「ですが、許すかどうかは、今すぐには決められません」


「リリアーナ……」


「私が受けた傷は、謝罪の言葉だけで消えるものではありません。夜会で浴びた視線も、噂も、失った信頼も、すべてがなかったことになるわけではありません」


 エドワード殿下は、何も言えなかった。


「それに、たとえいつか許せる日が来たとしても」


 私はまっすぐ彼を見た。


「私は、もうあなたの婚約者には戻りません」


 部屋の空気が静まり返った。


 殿下の表情が、はっきりと揺れる。


 分かっていたはずだ。


 それでも、直接言われるのは違うのだろう。


「私は、王宮にも戻りません」


 言葉を重ねる。


「王子妃候補としての務めも、王宮業務の補佐も、すべて終えました」


「……そうか」


 殿下は小さく呟いた。


「本当に、もう戻らないのか」


 その問いは、縋るようだった。


 国王陛下の表情が険しくなる。


 王妃陛下も、目を伏せた。


 けれど私は、静かに答えた。


「はい。戻りません」


 はっきりと。


 迷いなく。


「私は、北方へ行きます」


 胸元の銀の狼のブローチに触れる。


「ヴァレンシュタイン公爵様の隣で、自分の人生を歩きます」


 隣に立つクラウス様の気配が、少しだけやわらいだ気がした。


 エドワード殿下は、私の胸元のブローチを見た。


 銀の狼。


 彼が私に贈ったことのない、守るための印。


「……そうか」


 殿下はもう一度、同じ言葉を呟いた。


 今度は、諦めに近い声だった。


「私は、本当に君を失ったのだな」


 その言葉に、私は何も答えなかった。


 失った。


 そうだろう。


 けれど私は、物ではない。


 殿下が所有していたものではない。


 私は、自分で去ったのだ。


 ようやく。


「エドワード殿下」


 私は静かに言った。


「どうか、これからは誰かの涙だけではなく、事実を見てください」


 殿下の肩が震えた。


「そして、誰かが黙って耐えている時、その沈黙を都合よく解釈しないでください」


 これは、最後に伝えたかったことだった。


「私は黙っていました。けれど、傷ついていなかったわけではありません」


 エドワード殿下は、深く頭を下げた。


「……本当に、すまなかった」


 もう一度の謝罪。


 けれど私は、今度は何も言わなかった。


 受け取るべきものは、もう受け取った。


 伝えるべきことも、伝えた。


     ◇


 その後、グレイ調査官から正式な調査の進捗が説明された。


 ミレーユ嬢の証言には、複数の不一致があること。


 偽造された手紙について、ベアトリス嬢が作成を認めていること。


 ミレーユ嬢の関与について、さらに調査が進められること。


 王宮として、私の名誉回復に関する追加声明を出す予定であること。


 父は、それらを一つずつ確認した。


「追加声明には、夜会での断罪が不適切だったことも明記していただきたい」


「もちろんです」


 国王陛下が答える。


「フォルスター公爵家には、改めて正式な謝罪と補償の話し合いを行う」


「承知しました」


 父の声は冷静だった。


 だが、その冷静さの奥には鋭さがある。


 簡単には終わらせない。


 娘を傷つけられた父として、そして公爵家の当主として、当然の態度だった。


 クラウス様も口を開いた。


「リリアーナ嬢に関する悪質な噂が今後も流れるようなら、ヴァレンシュタイン家としても対応します」


 国王陛下は頷いた。


「理解している。王宮からも、各貴族家へ再度通達を出す」


「それならよい」


 クラウス様の声は淡々としていた。


 けれど、その存在だけで場の空気が引き締まる。


 冷血公爵。


 そう呼ばれる彼が、今は私の隣にいる。


 それがどれほど心強いことか、私は改めて感じていた。


 話し合いが終わりに近づいた頃、王妃陛下が私に声をかけた。


「リリアーナ」


「はい」


「あなたは、北方へ行くのですね」


「はい」


「寂しくなります」


 その言葉は、王妃としてではなく、一人の女性としてのものに聞こえた。


「私は、あなたに厳しすぎたかもしれません」


「……王妃陛下には、多くのことを教えていただきました」


 それは本心だった。


 つらかったことも多い。


 けれど、王妃陛下から学んだことが、今の私を支えているのも事実だ。


「その学びは、無駄にしません。北方で、私なりに活かしたいと思います」


 王妃陛下の瞳が揺れた。


「あなたなら、きっとできます」


「ありがとうございます」


「幸せになりなさい」


 以前にも言われた言葉。


 けれど今回は、より深く胸に届いた。


「はい」


 私は小さく微笑んだ。


「必ず」


     ◇


 王宮を出る時、私は一度だけ振り返った。


 白い石造りの宮殿。


 高い塔。


 整えられた庭園。


 十年間、私が通い続けた場所。


 苦しかった。


 誇らしかった。


 寂しかった。


 期待していた。


 認められたかった。


 そのすべてが、ここにあった。


 けれど今は、もう違う。


「リリアーナ嬢」


 クラウス様が隣で声をかける。


「はい」


「大丈夫か」


「はい」


 私は息を吸った。


 王宮の空気を、最後に胸に入れるように。


 そして、ゆっくり吐き出した。


「もう、大丈夫です」


 その言葉は、クラウス様に向けたものでもあり、自分自身に向けたものでもあった。


 馬車へ向かって歩き出す。


 父は少し前を歩いている。


 クラウス様は、私の隣にいる。


 王宮の階段を下りるたびに、過去から一歩ずつ離れていくようだった。


 馬車の扉に手をかけた時、背後から声がした。


「リリアーナ!」


 エドワード殿下だった。


 私は振り返った。


 彼は宮殿の入口に立っていた。


 追いかけてきたのだろう。


 息が少し乱れている。


 国王陛下や王妃陛下の姿はない。


 おそらく、最後にどうしても言いたいことがあったのだ。


 クラウス様の気配が鋭くなる。


 父も振り返った。


 私は、静かに殿下を見た。


「何でしょうか」


 エドワード殿下は唇を噛んだ。


 何かを言おうとして、言えずにいる。


 以前なら、私は待っただろう。


 殿下が言葉に詰まれば、助け舟を出した。


 殿下が困らないように、先回りして答えを用意した。


 でも、もうしない。


 彼自身が、言葉を選ぶべきだ。


「……幸せに」


 やがて、殿下はかすれた声で言った。


「幸せになってくれ」


 私は少しだけ目を見開いた。


 戻ってきてほしい、ではなかった。


 行くな、でもなかった。


 ようやく。


 本当にようやく、彼は私を手放す言葉を選んだのだ。


 私は静かに礼をした。


「ありがとうございます。殿下も、どうかご自身のなすべきことと向き合ってください」


 それが、私に言える最後の言葉だった。


 殿下は何も言わず、ただ立ち尽くしていた。


 私は馬車に乗り込む。


 扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き出した。


 窓の外で、王宮が少しずつ遠ざかっていく。


 エドワード殿下の姿も、小さくなっていく。


 胸が痛まないわけではなかった。


 けれど、その痛みはもう、私を縛るものではなかった。


「終わりました」


 私は小さく呟いた。


 クラウス様が静かに頷く。


「ああ」


「本当に、終わったのですね」


「そして、始まる」


 その言葉に、私は彼を見る。


「北方での生活が」


 クラウス様の声は、少しだけ穏やかだった。


「君自身の人生が」


 胸の奥に、静かな温かさが広がる。


 私は窓の外へ視線を戻した。


 王宮は、もう遠い。


 これから向かう先には、雪の北方がある。


 冷血公爵と呼ばれる人の領地。


 まだ知らない人々。


 まだ見たことのない白鈴花。


 そして、私が私として生きる未来。


 私は胸元の銀の狼のブローチにそっと触れた。


 もう、誰かの婚約者としてだけ生きるのではない。


 私は、私の足で進む。


 その隣に、クラウス様がいてくれる。


 それだけで、少し怖くても歩いていける気がした。


 けれど、この時の私はまだ知らなかった。


 王宮での謝罪が終わったことで、すべての問題が片づいたわけではないことを。


 ミレーユ嬢への処分をめぐって、王都の一部貴族と教会が不穏に動き始めることを。


 そして北方へ向かう道中で、私が初めて、ヴァレンシュタイン領の厳しさと優しさを知ることになるのだと。


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