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妹に聖女の座を奪われ婚約破棄されましたが、辺境で薬屋を始めたら冷酷公爵に溺愛されました  作者: 白瀬ほび
第一章 婚約破棄と、冷血公爵の求婚

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第7話 追い詰められた男爵令嬢は、最後の嘘を重ねました

 翌朝、王宮には重苦しい空気が漂っていた。


 学園調査の途中報告は、すでに国王陛下と王妃陛下のもとへ届けられている。


 リリアーナ・フォルスター公爵令嬢が、ミレーユ・ラングレー男爵令嬢を虐げていたという証拠は見つからなかった。


 むしろ、リリアーナがミレーユを支援していた記録ばかりが出てきた。


 その事実は、王宮にとって非常に都合が悪かった。


 なぜなら第一王子エドワードは、その未確認の話をもとに、公の夜会で婚約破棄を告げてしまったからだ。


「……どうして、こんなことに」


 王宮の一室で、ミレーユは震える手を握りしめていた。


 昨日まで、自分は守られる側だった。


 可哀想な男爵令嬢。


 冷たい公爵令嬢に虐げられ、王子に救われた少女。


 そのはずだった。


 けれど今は違う。


 皆が、自分を見る目を変え始めている。


 侍女たちは前ほど優しくない。


 文官たちは距離を置く。


 王妃陛下は厳しい目で教育係をつけようとしている。


 そして、エドワード様まで。


「事実を知りたいだけだ」


 昨夜、彼はそう言った。


 私を信じると、すぐに抱きしめてくれなかった。


 疑うような目をした。


 そのことが、ミレーユには耐えられなかった。


「私は悪くないのに……」


 ぽつりと呟く。


 そうだ。


 私は悪くない。


 リリアーナ様が悪い。


 あの人が、いつも完璧だったから。


 私が間違えるたびに、静かに直してきたから。


 私が殿下と話していると、遠くから冷たい目で見ていたから。


 実際に何をされたかなんて、もう関係ない。


 怖かったのは本当だ。


 惨めだったのも本当だ。


 だから、私は被害者のはずだった。


「ミレーユ様」


 扉の外から声がした。


 ベアトリス・ハルデン男爵令嬢だった。


 彼女は部屋に入ってくるなり、青ざめた顔でミレーユに詰め寄った。


「どうなさるのですか。このままでは私まで処分されてしまいます」


「処分だなんて、大げさよ」


「大げさではありませんわ!」


 ベアトリスは声を荒げた。


「私はミレーユ様から聞いた話を広めただけです。それなのに、王宮の調査官にまで呼ばれて……父にも叱られました」


「私を責めるの?」


「責めているわけではありません。でも、あのお話は本当だったのですよね?」


 ミレーユは息を呑んだ。


 ベアトリスの目が、不安に揺れている。


 昨日までなら、彼女は無条件で自分の味方だった。


 それなのに今は、疑っている。


「本当よ」


 ミレーユは震える声で答えた。


「リリアーナ様は、私にひどいことをしたの」


「でも、教科書の件も、廊下の件も、記録では違うと……」


「記録なんて、どうにでもできるわ!」


 思わず叫んでいた。


 ベアトリスがびくりと肩を震わせる。


「リリアーナ様は公爵令嬢よ。王宮でも学園でも、皆あの人の味方なの。記録だって、あの人に都合よく残されているに決まっているわ」


「ですが、教師の証言も……」


「先生たちだって、公爵家を敵に回したくないだけよ!」


 ミレーユは必死だった。


 自分でも、言っていることが苦しくなっているのは分かっていた。


 けれど、認めるわけにはいかなかった。


 一つでも嘘だと認めてしまえば、すべてが崩れてしまう。


 可哀想な被害者ではいられなくなる。


 エドワード様に守ってもらえなくなる。


「では、どうするのですか」


 ベアトリスが震える声で尋ねた。


「このままでは、リリアーナ様の名誉が回復されて、私たちの方が悪者になります」


 悪者。


 その言葉が、ミレーユの胸に突き刺さった。


 嫌だ。


 そんなの嫌だ。


 私は悪者なんかじゃない。


 私は、守られるべき人間なのに。


「……証拠があればいいのよ」


 ミレーユは小さく呟いた。


「え?」


「リリアーナ様が私を虐げた証拠があれば、皆、私を信じるでしょう?」


 ベアトリスの顔がこわばった。


「証拠って……今からどうやって」


「手紙よ」


 ミレーユは顔を上げた。


「リリアーナ様から私への手紙があればいいの。冷たく脅すような内容の手紙が」


「まさか……」


 ベアトリスは一歩下がった。


「作るおつもりですか?」


「作るなんて言い方しないで」


 ミレーユはむっとした。


「本当のことを、形にするだけよ」


「でも、それは偽造ですわ」


「違うわ」


 ミレーユは自分に言い聞かせるように言った。


「リリアーナ様は、いつも私を冷たく見ていた。言葉だって冷たかった。なら、そういう手紙を書いていてもおかしくないでしょう?」


「おかしくないからといって、作っていい理由には……」


「あなたも助かりたいのでしょう?」


 ミレーユの声が低くなった。


 ベアトリスは黙り込む。


「このままだと、あなたは噂を広めた令嬢として処分されるわ。でも、私が本当に被害者だったと証明できれば、あなたは私を助けようとしただけになる」


「……」


「ねえ、ベアトリス様。私たちは友達でしょう?」


 ミレーユは涙を浮かべた。


「私を助けて」


 その涙に、ベアトリスは揺れた。


 けれど、完全には頷かなかった。


「……私は、筆跡の真似などできません」


「大丈夫よ。リリアーナ様の手紙なら、私が持っているものがあるわ」


「持っている?」


「以前、作法の覚書をいただいたの。あの人の字で書かれたものよ」


 ミレーユは机の引き出しを開け、一枚の紙を取り出した。


 そこには、リリアーナの整った文字で、学園での挨拶や礼の手順が丁寧に書かれていた。


 それはかつて、リリアーナがミレーユを助けるために渡したものだった。


 けれど今、ミレーユの目には別のものに見えている。


 利用できる材料。


 自分を守るための道具。


「これを見ながら書けば、それらしくなるわ」


「ミレーユ様……」


「お願い。これが最後だから」


 ベアトリスは青ざめた顔で、紙を見つめた。


 そして小さく震えながら、頷いてしまった。


     ◇


 その頃、フォルスター公爵家では、北方へ向かう準備が本格的に進んでいた。


 王宮の調査は続いている。


 けれど、私は少しずつ荷物をまとめ始めていた。


 すべてが終わるまで王都に残るべきなのか。


 それとも、正式な結果を待たずに北方へ向かうべきなのか。


 迷いはあった。


 けれど父は、こう言った。


「お前が王都に残り続ける必要はない。調査は記録が進める。お前自身は、前に進んでいい」


 その言葉が、私の背中を押してくれた。


「お嬢様、この薬草書もお持ちになりますか?」


 アンナが本棚の前で尋ねる。


「ええ。それは持っていきたいわ」


「こちらの王妃教育の資料は?」


 私は少し迷った。


 外交儀礼。


 予算管理。


 慈善事業。


 王妃になるために学んできた資料の束。


 見るだけで、王宮での日々を思い出す。


 けれど、それらは私の過去そのものでもあった。


「全部は要らないわ。でも、慈善事業と薬草園に関するものは持っていく」


「北方でも使えそうですものね」


「ええ」


 私は一冊の資料を手に取った。


 聖ルミナ慈善院の改善計画。


 そこには、私が何年もかけて書き込んだメモが残っていた。


 薬品の管理方法。


 食事の改善案。


 子どもたちの教育支援。


 王宮の仕事として始めたものだった。


 けれど今は、私自身の経験として残っている。


「北方でも、こういう場所はあるのかしら」


 私が呟くと、後ろから低い声が答えた。


「ある」


 振り向くと、クラウス様が扉の近くに立っていた。


「クラウス様」


「すまない。扉は開いていた」


「いいえ。どうぞ」


 彼は部屋に入り、私の手元の資料に視線を落とした。


「北方にも、身寄りのない子どもや、冬を越すのが難しい民はいる」


「やはり、寒さが厳しいのですね」


「ああ。特に北の村では、冬の病と怪我が多い」


「治癒師は足りていますか?」


「足りていない」


 クラウス様は淡々と答えた。


「だから、君の知識は役に立つだろう。だが、無理に働けという意味ではない」


 先回りしてそう言われ、私は少し笑ってしまった。


「分かっています」


「本当か」


「本当です。でも、私も役に立てるなら嬉しいです」


 クラウス様は静かに私を見た。


「君はまた、役に立つことを考えている」


「あ……」


 言われて、少し言葉に詰まった。


 確かにそうかもしれない。


 私は何かにつけて、自分が役に立てるかどうかを考えてしまう。


 王宮で身についた癖だ。


「悪いことではない」


 クラウス様は言った。


「ただ、役に立つから価値があるわけではない。それだけは忘れるな」


 胸が静かに揺れた。


「……はい」


「君が何もできない日があっても、私は君を必要とする」


 その言葉は、まっすぐで、少し照れくさいほどだった。


 私は思わず視線を落とした。


「クラウス様は、時々とても困ることをおっしゃいますね」


「困る?」


「はい。どう返せばいいのか分からなくなります」


「そうか」


 彼は少し考え込むような顔をした。


「では、慣れてくれ」


「慣れるものなのですか?」


「慣れるまで言う」


 真面目な顔でそう言われ、私はつい笑ってしまった。


 アンナが横でにこにこと見守っている。


 少し前まで、こんな穏やかな時間が来るとは思わなかった。


 婚約破棄の直後。


 王宮の混乱。


 茶会での対峙。


 学園調査。


 何もかもが嵐のようだった。


 けれど今、私は少しだけ未来を考えられるようになっている。


 北方の雪。


 白鈴花。


 寒さの中で生きる人々。


 そこで私にできること。


 そして、クラウス様の隣で過ごす日々。


 その未来は、怖いだけではなかった。


 楽しみでもあった。


「リリアーナ嬢」


 クラウス様がふと声を落とした。


「明日、王宮から正式な中間報告が出るらしい」


「中間報告、ですか」


「ああ。君への加害認定を保留し、調査中であることを公表する。さらに、事実と異なる噂を広めないよう貴族家に通達するそうだ」


「そうですか……」


 ようやく、王宮が私を悪者として扱わないと明言する。


 遅すぎる。


 そう思う気持ちもあった。


 けれど、必要な一歩ではあった。


「それで、王宮から謝罪の場を設けたいという打診も来ている」


「謝罪の場……」


「エドワード殿下本人の謝罪だろう」


 その名を聞くと、胸が少しだけ重くなる。


 もう未練はない。


 戻るつもりもない。


 それでも、十年間婚約者だった相手だ。


 完全に何も感じないわけではない。


「会いたくなければ、断ればいい」


 クラウス様が言った。


「君に謝罪を受ける義務はない」


「……少し、考えます」


「ああ」


「ただ、謝罪を受けるとしても、戻るつもりはありません」


「分かっている」


 クラウス様はすぐに答えた。


「君がどの選択をしても、私はその隣にいる」


 その言葉に、また心が落ち着いていく。


「ありがとうございます」


 今度は、クラウス様は礼を止めなかった。


 ただ、静かに頷いた。


     ◇


 その日の夜。


 王宮の片隅で、ミレーユとベアトリスは一通の手紙を作っていた。


 机の上には、リリアーナが以前書いた作法の覚書。


 その隣に、真新しい便箋。


 ベアトリスは震える手でペンを握っている。


「もっと、文字を細くして」


 ミレーユが小声で言った。


「リリアーナ様の字は、もっと整っています」


「無理です……これ以上は」


「頑張って。これができなければ、私たち終わりなのよ」


 ベアトリスは泣きそうな顔で、文字を書き続けた。


 内容は、ミレーユが考えた。


『殿下に近づくのはおやめなさい』


『身の程をわきまえなければ、学園に居場所がなくなります』


『あなたのような方が王宮に出入りするなど、恥を知るべきです』


 リリアーナなら、絶対に書かない言葉だった。


 けれど、事情を知らない人が見れば、冷たい公爵令嬢からの脅しに見えるかもしれない。


「これで……本当に大丈夫でしょうか」


 ベアトリスが震える声で言った。


「大丈夫よ」


 ミレーユは手紙を見つめる。


 心臓が激しく鳴っていた。


 怖い。


 でも、止まれない。


「これを、明日の朝、私の部屋で見つかったことにするの」


「見つかったことに?」


「ええ。以前から隠していたけれど、怖くて言えなかった。そう説明すればいいわ」


「でも、調査官が紙やインクを調べたら……」


「そんな細かいこと、するわけないでしょう」


 ミレーユは苛立ったように言った。


「王子妃候補の私が、泣きながら差し出せば、皆信じるわ」


 そう言いながらも、心の奥では不安が膨らんでいた。


 以前なら、それで通じた。


 けれど今はどうだろう。


 ローゼン伯爵夫人。


 グレイ調査官。


 王妃陛下。


 クラウス公爵。


 彼らはもう、涙だけでは動かない。


 それでも、やるしかなかった。


 ミレーユには、他の道が見えなかった。


「ミレーユ様……」


 ベアトリスが小さく言った。


「やはり、正直に話した方がよいのではありませんか」


「何を?」


「その……怖かったのは本当だけれど、実際にされたことは少し違っていたと……」


「今さらそんなこと言えるわけないでしょう!」


 ミレーユは叫んだ。


 ベアトリスが怯える。


「そんなことを認めたら、私は嘘つきになるのよ? 殿下にも嫌われる。王宮にもいられなくなる。あなたも処分されるのよ」


「でも……」


「もう後戻りできないの」


 ミレーユは手紙を握りしめた。


「私は、絶対に負けない」


 その目には、涙ではなく、追い詰められた者の焦りが浮かんでいた。


     ◇


 翌朝。


 王宮で、ミレーユは予定通り泣き崩れた。


「これを……見つけました……」


 彼女は震える手で、王妃陛下の前に一通の手紙を差し出した。


 エドワード殿下も、その場にいた。


 国王陛下。


 王妃陛下。


 グレイ調査官。


 数名の文官。


 そして、なぜかクラウス様も同席していた。


 本来なら、ヴァレンシュタイン公爵がこの場にいる予定はなかった。


 しかし彼は、リリアーナの名誉に関わる新証拠が出たのなら、第三者として確認する権利があると主張した。


 国王陛下も、それを認めた。


「ミレーユ嬢」


 王妃陛下は静かに言った。


「これは何ですか」


「リリアーナ様からの手紙です」


 ミレーユは涙を浮かべる。


「ずっと怖くて言えませんでした。でも、もう黙っていられなくて……」


 エドワードの顔が揺れた。


 彼は手紙を見る。


 そこには、リリアーナの字に似せた文字で、ミレーユを脅す言葉が並んでいた。


「これは……」


 彼の胸に、また迷いが生まれる。


 やはり、リリアーナが。


 そう思いたい気持ちが、まだ残っていた。


 自分の過ちを認めたくない心が、最後の逃げ道を探していた。


 だが、グレイ調査官は手紙を受け取ると、表情を変えずに確認を始めた。


「この手紙は、いつ受け取ったものですか」


「たしか、二か月ほど前です」


「どこで?」


「学園で……私の机に入っていました」


「なぜ今まで提出しなかったのですか」


「怖かったんです。リリアーナ様に知られたら、もっとひどいことをされると思って……」


 ミレーユは泣いた。


 けれど、グレイ調査官は動じない。


「なるほど」


 彼は手紙を光にかざした。


 そして、ほんの少し眉を動かした。


「ミレーユ嬢」


「はい……」


「この便箋は、王宮支給のものですね」


 ミレーユの心臓が跳ねた。


「え……?」


「学園の机に入っていたとおっしゃいましたが、この便箋は王宮内で使われているものです。しかも、現在配布されている新しい型です」


 部屋の空気が止まった。


 ミレーユの顔から、血の気が引いていく。


「二か月前には、この型はまだ使われていません」


「そ、それは……」


 グレイ調査官は、さらに続けた。


「インクも新しい。乾き具合から見て、少なくとも数か月前のものではないでしょう」


「そんな……」


 ミレーユは思わず後ずさった。


 エドワード殿下が手紙を見つめたまま、固まっている。


 王妃陛下の目は、氷のように冷たくなっていた。


「それから」


 グレイ調査官は、手紙の文字を見た。


「リリアーナ様の筆跡に似せようとしていますが、いくつか癖が違います」


「癖……?」


「リリアーナ様は、文章の句点の前にわずかな余白を作る癖があります。また、貴族名を書く際の敬称の位置が非常に正確です。この手紙には、それがありません」


 ミレーユは言葉を失った。


 そんな細かいことまで見られるとは思っていなかった。


 ベアトリスは言っていた。


 筆跡の真似などできないと。


 それでも、押し切ったのは自分だ。


「ミレーユ嬢」


 王妃陛下の声が響いた。


「この手紙は、本当に二か月前に学園で見つけたものですか」


「……」


「答えなさい」


 ミレーユは震えた。


 涙がこぼれる。


 けれど今度は、誰もその涙に手を伸ばさない。


「私は……」


 声が出ない。


 喉が詰まる。


 エドワードが、ゆっくりと彼女を見た。


「ミレーユ」


 その声は、かすれていた。


「これは、本当にリリアーナが書いたものなのか」


「エドワード様……」


「答えてくれ」


 ミレーユは彼の目を見た。


 そこには、もう以前のような盲目的な優しさはなかった。


 信じたい。


 でも、信じきれない。


 そんな苦しさが浮かんでいた。


「私は……」


 ミレーユの足元が崩れるように感じた。


 もう無理だ。


 そう思った瞬間、扉の外から慌ただしい声がした。


「お待ちください!」


 部屋に飛び込んできたのは、ベアトリスだった。


 顔は真っ青で、息を切らしている。


「ベアトリス様……?」


 ミレーユが呆然と呟く。


 ベアトリスは震えながら、その場に膝をついた。


「申し訳ございません! その手紙は……私が書きました!」


 部屋中が凍りついた。


 ミレーユの顔が真っ白になる。


「ベアトリス様、何を……」


「もう無理です!」


 ベアトリスは泣きながら叫んだ。


「私は、ミレーユ様に頼まれて、リリアーナ様の筆跡を真似して手紙を書きました。リリアーナ様からいただいた作法の覚書を見ながら……!」


「違う!」


 ミレーユは叫んだ。


「私は頼んでいないわ! ベアトリス様が勝手に――」


「ミレーユ様!」


 ベアトリスは顔を上げた。


 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、必死に言った。


「もうやめましょう。これ以上嘘を重ねても、もっと苦しくなるだけです」


「嘘じゃない!」


「嘘です!」


 その叫びが、部屋に響いた。


 ベアトリスは震えながら続ける。


「教科書の話も、廊下の話も、ミレーユ様は最初から曖昧でした。怖かった、冷たかった、見下された気がしたとばかりおっしゃって……でも私は、ミレーユ様が可哀想だと思って、勝手に話を大きくしてしまいました」


 彼女は床に額をつけた。


「申し訳ございません。リリアーナ様の名誉を傷つけました。私は、取り返しのつかないことをしました」


 誰も、すぐには言葉を発しなかった。


 エドワードは、ただ立ち尽くしていた。


 その顔には、怒りでも困惑でもなく、絶望に近いものが浮かんでいた。


 王妃陛下は目を閉じ、深く息を吐いた。


 国王陛下は低く告げる。


「ミレーユ・ラングレー嬢」


 ミレーユはびくりと肩を震わせた。


「この件について、弁明はあるか」


「私は……私は、ただ……」


 言葉が出てこない。


 もう涙では誤魔化せない。


 手紙は偽物。


 ベアトリスは自白した。


 調査官は矛盾を見抜いている。


 そしてエドワード様も、もう私を見ていない。


「私は、悪くない……」


 ミレーユは小さく呟いた。


「私はただ、怖かっただけ……」


 その声は、部屋の誰にも届かなかった。


 王妃陛下が静かに告げる。


「ミレーユ嬢。あなたには、本日より王宮内での自由な行動を禁じます。正式な処分が決まるまで、部屋で待機しなさい」


「そんな……」


「ベアトリス嬢についても、ハルデン男爵家へ通達します。処分は追って決定されます」


 ベアトリスは涙を流しながら、深く頭を下げた。


「はい……」


 ミレーユだけが、まだ信じられないように立ち尽くしていた。


 その時、エドワードが一歩近づいた。


「ミレーユ」


 彼女は顔を上げた。


 最後の希望にすがるような目だった。


「エドワード様……私を信じてくださいますよね?」


 けれど、エドワードはすぐには答えなかった。


 長い沈黙のあと、彼はかすれた声で言った。


「……もう、分からない」


 その一言で、ミレーユの表情が完全に崩れた。


     ◇


 その日の午後。


 フォルスター公爵家に、王宮から緊急の知らせが届いた。


 偽造された手紙が提出されたこと。


 それをベアトリス嬢が自白したこと。


 ミレーユ嬢が深く関与している疑いがあること。


 そして、リリアーナへの加害疑惑は、ほぼ事実無根と判断されつつあること。


 父の執務室でそれを聞いた私は、しばらく言葉を失った。


「偽造……」


 手紙まで作ったのか。


 私の字を真似て。


 私が彼女を助けるために渡した覚書を使って。


 そう考えた瞬間、胸の奥がひどく冷えた。


 悲しいというより、虚しかった。


「お嬢様……」


 アンナが心配そうに私を見る。


 私は小さく首を振った。


「大丈夫」


 そう言ったけれど、大丈夫ではなかった。


 記録が出て、証言が出て、少しずつ真実が明らかになって。


 それでもなお、彼女は嘘を重ねた。


 私を悪者にするために。


 自分を守るために。


「リリアーナ嬢」


 クラウス様が静かに言った。


「怒っていい」


「怒る……」


「ああ。これは、君が傷ついて当然のことだ」


 私は唇を噛んだ。


 怒っていい。


 そう言われて、初めて自分が怒っているのだと気づいた。


「私は……」


 声が震える。


「私は、彼女を助けようとしていました」


「ああ」


「完璧ではなかったかもしれません。言い方が冷たかったこともあるかもしれません。でも、少なくとも、貶めようとしたことはありません」


「ああ」


「それなのに……私が渡した覚書を、そんなふうに使うなんて」


 涙がにじんだ。


 悔しかった。


 悲しかった。


 そして、怒っていた。


「ひどいです」


 ようやく、その言葉が出た。


「本当に、ひどい」


 クラウス様は何も言わず、ただ私のそばにいてくれた。


 父も静かに目を伏せていた。


 アンナは涙をこらえながら、私の手にハンカチを握らせてくれた。


「お嬢様は、何も悪くありません」


 アンナが言った。


「ええ」


 私は頷いた。


 今度は、はっきりと。


「私は、悪くない」


 その言葉を自分で言えた瞬間、胸の奥に少しだけ力が戻った。


 ずっと、誰かに言ってほしかった言葉。


 でも今は、自分でも言える。


 私は悪くない。


 嘘をつかれた。


 利用された。


 傷つけられた。


 それでも、私のしてきたことまで嘘にはならない。


「お父様」


 私は顔を上げた。


「はい?」


「王宮から謝罪の場を設けたいという話がありましたね」


「ああ」


「受けます」


 父とクラウス様が、同時に私を見た。


 私はまっすぐ前を向いた。


「ただし、私を戻すための場ではなく、私の名誉を回復するための場として」


 父の目が鋭くなる。


「よく言った」


 クラウス様も静かに頷いた。


「私も同席する」


「はい。お願いします」


 もう逃げない。


 怒りを抱えたままでも。


 傷ついたままでも。


 私は、自分の名誉を取り戻す。


 そして、きちんと終わらせる。


     ◇


 その夜。


 王宮では、エドワード殿下が一人で執務室に座っていた。


 机の上には、偽造された手紙。


 学園調査の記録。


 リリアーナが残していた補助記録の写し。


 そして、まだ書きかけの謝罪文。


 彼はペンを握ったまま、何も書けずにいた。


 何を書けばいいのか、分からなかった。


 すまなかった。


 それだけで済む話ではない。


 彼はリリアーナを信じなかった。


 十年間、自分の隣にいた婚約者を。


 誰よりも王宮を支えていた女性を。


 彼女の努力を、冷たさだと思った。


 彼女の責任感を、可愛げのなさだと思った。


 そして、ミレーユの涙に酔った。


 自分を頼ってくれる少女を守ることで、自分が立派な王子になったような気がしていた。


「……愚かだった」


 初めて、その言葉が口から出た。


 あまりにも遅すぎた。


 リリアーナはもう、自分の隣にはいない。


 彼女はヴァレンシュタイン公爵の隣に立つ。


 自分ではなく、あの冷血公爵を選んだ。


 当然だ。


 自分は彼女を捨てたのだから。


 乱暴に。


 無責任に。


 皆の前で。


 エドワードは顔を覆った。


 その時、扉が静かに開いた。


「エドワード」


 王妃陛下だった。


「母上……」


「謝罪文は書けましたか」


「……まだです」


「そうですか」


 王妃陛下は責めなかった。


 ただ、静かに彼の向かいに座った。


「あなたは、リリアーナに何を謝るべきか分かっていますか」


「婚約破棄のことです」


「それだけではありません」


 王妃陛下の声は厳しかった。


「彼女を信じなかったこと。彼女の努力を当然のものとして扱ったこと。彼女の人格を見ようとしなかったこと。王子である自分の言葉が、どれほど人の人生を壊すか考えなかったこと」


 エドワードは何も言えなかった。


「謝罪とは、自分が楽になるためのものではありません」


「……はい」


「相手が許してくれるとは限らない。それでも、自分のしたことを正しく理解して、言葉にしなければなりません」


 王妃陛下は、机の上の紙を見た。


「そして、決して言ってはいけないことがあります」


「何でしょうか」


「戻ってきてほしい、とは言わないことです」


 エドワードの肩が震えた。


 心のどこかで、まだ思っていたのかもしれない。


 謝れば、彼女は戻ってくるのではないか。


 昔のように、王宮の仕事を整えてくれるのではないか。


 自分の隣に立ってくれるのではないか。


 けれど、その考え自体が間違いなのだ。


「リリアーナは、もうあなたのものではありません」


 王妃陛下ははっきりと言った。


「彼女は彼女自身の人生を選びます。あなたにできることは、その邪魔をしないことだけです」


「……はい」


 エドワードは、震える手でペンを握り直した。


 今度こそ、書かなければならない。


 自分の過ちを。


 自分の愚かさを。


 そして、もう取り返せないのだという事実を。


     ◇


 翌日。


 王宮から正式な通達が出された。


 リリアーナ・フォルスター公爵令嬢に関する加害疑惑は、現時点で事実を裏付ける証拠が確認されていないこと。


 むしろ、複数の記録と証言により、彼女がミレーユ・ラングレー男爵令嬢を支援していた事実が確認されたこと。


 偽造された手紙が提出された疑いがあり、関係者への調査を進めること。


 そして、事実確認を経ない噂の流布を厳に慎むよう、各貴族家へ通達すること。


 その知らせは、王都中に広がった。


 社交界の空気は、決定的に変わった。


 もう、リリアーナを冷たい悪役令嬢として語る者はほとんどいない。


 代わりに囁かれるのは、別の話だった。


 王子に信じてもらえなかった才女。


 嘘で名誉を傷つけられた公爵令嬢。


 そして、冷血公爵に守られ、新しい未来を選んだ女性。


     ◇


 私はその通達を、フォルスター公爵家の執務室で読んだ。


 紙の上の文字を、一つずつ目で追う。


 加害疑惑は、事実を裏付ける証拠なし。


 支援していた事実を確認。


 噂の流布を慎むよう通達。


 ようやく。


 本当にようやく、私の名誉は戻り始めた。


 完全に傷が消えるわけではない。


 夜会で浴びた視線も。


 嘲笑も。


 裏切られた痛みも。


 すべてがなかったことになるわけではない。


 けれど、それでも前に進める。


「リリアーナ」


 父が言った。


「よく耐えた」


「はい」


 私は頷いた。


「でも、もう耐えるだけでは終わりません」


 父の目が少しだけ細くなる。


「謝罪の場で、きちんと伝えます」


「何を」


「私は、もう王宮には戻らないと」


 部屋に静かな空気が流れた。


 クラウス様が、私の隣に立つ。


「それでいい」


「はい」


 私は胸元の銀の狼のブローチに触れた。


 冷たくて、けれど頼もしい光。


 もう私は、誰かの言葉に怯えて黙るだけの令嬢ではない。


 自分の名誉も。


 自分の未来も。


 自分の幸せも。


 自分の意思で選び取る。


 そしてこの時の私は、まだ知らなかった。


 次に王宮へ向かう日。


 エドワード殿下が、私の前で初めて本当の意味で頭を下げることを。


 そして私は、その謝罪に対して、自分でも驚くほど静かな答えを返すことになるのだと。


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