第7話 追い詰められた男爵令嬢は、最後の嘘を重ねました
翌朝、王宮には重苦しい空気が漂っていた。
学園調査の途中報告は、すでに国王陛下と王妃陛下のもとへ届けられている。
リリアーナ・フォルスター公爵令嬢が、ミレーユ・ラングレー男爵令嬢を虐げていたという証拠は見つからなかった。
むしろ、リリアーナがミレーユを支援していた記録ばかりが出てきた。
その事実は、王宮にとって非常に都合が悪かった。
なぜなら第一王子エドワードは、その未確認の話をもとに、公の夜会で婚約破棄を告げてしまったからだ。
「……どうして、こんなことに」
王宮の一室で、ミレーユは震える手を握りしめていた。
昨日まで、自分は守られる側だった。
可哀想な男爵令嬢。
冷たい公爵令嬢に虐げられ、王子に救われた少女。
そのはずだった。
けれど今は違う。
皆が、自分を見る目を変え始めている。
侍女たちは前ほど優しくない。
文官たちは距離を置く。
王妃陛下は厳しい目で教育係をつけようとしている。
そして、エドワード様まで。
「事実を知りたいだけだ」
昨夜、彼はそう言った。
私を信じると、すぐに抱きしめてくれなかった。
疑うような目をした。
そのことが、ミレーユには耐えられなかった。
「私は悪くないのに……」
ぽつりと呟く。
そうだ。
私は悪くない。
リリアーナ様が悪い。
あの人が、いつも完璧だったから。
私が間違えるたびに、静かに直してきたから。
私が殿下と話していると、遠くから冷たい目で見ていたから。
実際に何をされたかなんて、もう関係ない。
怖かったのは本当だ。
惨めだったのも本当だ。
だから、私は被害者のはずだった。
「ミレーユ様」
扉の外から声がした。
ベアトリス・ハルデン男爵令嬢だった。
彼女は部屋に入ってくるなり、青ざめた顔でミレーユに詰め寄った。
「どうなさるのですか。このままでは私まで処分されてしまいます」
「処分だなんて、大げさよ」
「大げさではありませんわ!」
ベアトリスは声を荒げた。
「私はミレーユ様から聞いた話を広めただけです。それなのに、王宮の調査官にまで呼ばれて……父にも叱られました」
「私を責めるの?」
「責めているわけではありません。でも、あのお話は本当だったのですよね?」
ミレーユは息を呑んだ。
ベアトリスの目が、不安に揺れている。
昨日までなら、彼女は無条件で自分の味方だった。
それなのに今は、疑っている。
「本当よ」
ミレーユは震える声で答えた。
「リリアーナ様は、私にひどいことをしたの」
「でも、教科書の件も、廊下の件も、記録では違うと……」
「記録なんて、どうにでもできるわ!」
思わず叫んでいた。
ベアトリスがびくりと肩を震わせる。
「リリアーナ様は公爵令嬢よ。王宮でも学園でも、皆あの人の味方なの。記録だって、あの人に都合よく残されているに決まっているわ」
「ですが、教師の証言も……」
「先生たちだって、公爵家を敵に回したくないだけよ!」
ミレーユは必死だった。
自分でも、言っていることが苦しくなっているのは分かっていた。
けれど、認めるわけにはいかなかった。
一つでも嘘だと認めてしまえば、すべてが崩れてしまう。
可哀想な被害者ではいられなくなる。
エドワード様に守ってもらえなくなる。
「では、どうするのですか」
ベアトリスが震える声で尋ねた。
「このままでは、リリアーナ様の名誉が回復されて、私たちの方が悪者になります」
悪者。
その言葉が、ミレーユの胸に突き刺さった。
嫌だ。
そんなの嫌だ。
私は悪者なんかじゃない。
私は、守られるべき人間なのに。
「……証拠があればいいのよ」
ミレーユは小さく呟いた。
「え?」
「リリアーナ様が私を虐げた証拠があれば、皆、私を信じるでしょう?」
ベアトリスの顔がこわばった。
「証拠って……今からどうやって」
「手紙よ」
ミレーユは顔を上げた。
「リリアーナ様から私への手紙があればいいの。冷たく脅すような内容の手紙が」
「まさか……」
ベアトリスは一歩下がった。
「作るおつもりですか?」
「作るなんて言い方しないで」
ミレーユはむっとした。
「本当のことを、形にするだけよ」
「でも、それは偽造ですわ」
「違うわ」
ミレーユは自分に言い聞かせるように言った。
「リリアーナ様は、いつも私を冷たく見ていた。言葉だって冷たかった。なら、そういう手紙を書いていてもおかしくないでしょう?」
「おかしくないからといって、作っていい理由には……」
「あなたも助かりたいのでしょう?」
ミレーユの声が低くなった。
ベアトリスは黙り込む。
「このままだと、あなたは噂を広めた令嬢として処分されるわ。でも、私が本当に被害者だったと証明できれば、あなたは私を助けようとしただけになる」
「……」
「ねえ、ベアトリス様。私たちは友達でしょう?」
ミレーユは涙を浮かべた。
「私を助けて」
その涙に、ベアトリスは揺れた。
けれど、完全には頷かなかった。
「……私は、筆跡の真似などできません」
「大丈夫よ。リリアーナ様の手紙なら、私が持っているものがあるわ」
「持っている?」
「以前、作法の覚書をいただいたの。あの人の字で書かれたものよ」
ミレーユは机の引き出しを開け、一枚の紙を取り出した。
そこには、リリアーナの整った文字で、学園での挨拶や礼の手順が丁寧に書かれていた。
それはかつて、リリアーナがミレーユを助けるために渡したものだった。
けれど今、ミレーユの目には別のものに見えている。
利用できる材料。
自分を守るための道具。
「これを見ながら書けば、それらしくなるわ」
「ミレーユ様……」
「お願い。これが最後だから」
ベアトリスは青ざめた顔で、紙を見つめた。
そして小さく震えながら、頷いてしまった。
◇
その頃、フォルスター公爵家では、北方へ向かう準備が本格的に進んでいた。
王宮の調査は続いている。
けれど、私は少しずつ荷物をまとめ始めていた。
すべてが終わるまで王都に残るべきなのか。
それとも、正式な結果を待たずに北方へ向かうべきなのか。
迷いはあった。
けれど父は、こう言った。
「お前が王都に残り続ける必要はない。調査は記録が進める。お前自身は、前に進んでいい」
その言葉が、私の背中を押してくれた。
「お嬢様、この薬草書もお持ちになりますか?」
アンナが本棚の前で尋ねる。
「ええ。それは持っていきたいわ」
「こちらの王妃教育の資料は?」
私は少し迷った。
外交儀礼。
予算管理。
慈善事業。
王妃になるために学んできた資料の束。
見るだけで、王宮での日々を思い出す。
けれど、それらは私の過去そのものでもあった。
「全部は要らないわ。でも、慈善事業と薬草園に関するものは持っていく」
「北方でも使えそうですものね」
「ええ」
私は一冊の資料を手に取った。
聖ルミナ慈善院の改善計画。
そこには、私が何年もかけて書き込んだメモが残っていた。
薬品の管理方法。
食事の改善案。
子どもたちの教育支援。
王宮の仕事として始めたものだった。
けれど今は、私自身の経験として残っている。
「北方でも、こういう場所はあるのかしら」
私が呟くと、後ろから低い声が答えた。
「ある」
振り向くと、クラウス様が扉の近くに立っていた。
「クラウス様」
「すまない。扉は開いていた」
「いいえ。どうぞ」
彼は部屋に入り、私の手元の資料に視線を落とした。
「北方にも、身寄りのない子どもや、冬を越すのが難しい民はいる」
「やはり、寒さが厳しいのですね」
「ああ。特に北の村では、冬の病と怪我が多い」
「治癒師は足りていますか?」
「足りていない」
クラウス様は淡々と答えた。
「だから、君の知識は役に立つだろう。だが、無理に働けという意味ではない」
先回りしてそう言われ、私は少し笑ってしまった。
「分かっています」
「本当か」
「本当です。でも、私も役に立てるなら嬉しいです」
クラウス様は静かに私を見た。
「君はまた、役に立つことを考えている」
「あ……」
言われて、少し言葉に詰まった。
確かにそうかもしれない。
私は何かにつけて、自分が役に立てるかどうかを考えてしまう。
王宮で身についた癖だ。
「悪いことではない」
クラウス様は言った。
「ただ、役に立つから価値があるわけではない。それだけは忘れるな」
胸が静かに揺れた。
「……はい」
「君が何もできない日があっても、私は君を必要とする」
その言葉は、まっすぐで、少し照れくさいほどだった。
私は思わず視線を落とした。
「クラウス様は、時々とても困ることをおっしゃいますね」
「困る?」
「はい。どう返せばいいのか分からなくなります」
「そうか」
彼は少し考え込むような顔をした。
「では、慣れてくれ」
「慣れるものなのですか?」
「慣れるまで言う」
真面目な顔でそう言われ、私はつい笑ってしまった。
アンナが横でにこにこと見守っている。
少し前まで、こんな穏やかな時間が来るとは思わなかった。
婚約破棄の直後。
王宮の混乱。
茶会での対峙。
学園調査。
何もかもが嵐のようだった。
けれど今、私は少しだけ未来を考えられるようになっている。
北方の雪。
白鈴花。
寒さの中で生きる人々。
そこで私にできること。
そして、クラウス様の隣で過ごす日々。
その未来は、怖いだけではなかった。
楽しみでもあった。
「リリアーナ嬢」
クラウス様がふと声を落とした。
「明日、王宮から正式な中間報告が出るらしい」
「中間報告、ですか」
「ああ。君への加害認定を保留し、調査中であることを公表する。さらに、事実と異なる噂を広めないよう貴族家に通達するそうだ」
「そうですか……」
ようやく、王宮が私を悪者として扱わないと明言する。
遅すぎる。
そう思う気持ちもあった。
けれど、必要な一歩ではあった。
「それで、王宮から謝罪の場を設けたいという打診も来ている」
「謝罪の場……」
「エドワード殿下本人の謝罪だろう」
その名を聞くと、胸が少しだけ重くなる。
もう未練はない。
戻るつもりもない。
それでも、十年間婚約者だった相手だ。
完全に何も感じないわけではない。
「会いたくなければ、断ればいい」
クラウス様が言った。
「君に謝罪を受ける義務はない」
「……少し、考えます」
「ああ」
「ただ、謝罪を受けるとしても、戻るつもりはありません」
「分かっている」
クラウス様はすぐに答えた。
「君がどの選択をしても、私はその隣にいる」
その言葉に、また心が落ち着いていく。
「ありがとうございます」
今度は、クラウス様は礼を止めなかった。
ただ、静かに頷いた。
◇
その日の夜。
王宮の片隅で、ミレーユとベアトリスは一通の手紙を作っていた。
机の上には、リリアーナが以前書いた作法の覚書。
その隣に、真新しい便箋。
ベアトリスは震える手でペンを握っている。
「もっと、文字を細くして」
ミレーユが小声で言った。
「リリアーナ様の字は、もっと整っています」
「無理です……これ以上は」
「頑張って。これができなければ、私たち終わりなのよ」
ベアトリスは泣きそうな顔で、文字を書き続けた。
内容は、ミレーユが考えた。
『殿下に近づくのはおやめなさい』
『身の程をわきまえなければ、学園に居場所がなくなります』
『あなたのような方が王宮に出入りするなど、恥を知るべきです』
リリアーナなら、絶対に書かない言葉だった。
けれど、事情を知らない人が見れば、冷たい公爵令嬢からの脅しに見えるかもしれない。
「これで……本当に大丈夫でしょうか」
ベアトリスが震える声で言った。
「大丈夫よ」
ミレーユは手紙を見つめる。
心臓が激しく鳴っていた。
怖い。
でも、止まれない。
「これを、明日の朝、私の部屋で見つかったことにするの」
「見つかったことに?」
「ええ。以前から隠していたけれど、怖くて言えなかった。そう説明すればいいわ」
「でも、調査官が紙やインクを調べたら……」
「そんな細かいこと、するわけないでしょう」
ミレーユは苛立ったように言った。
「王子妃候補の私が、泣きながら差し出せば、皆信じるわ」
そう言いながらも、心の奥では不安が膨らんでいた。
以前なら、それで通じた。
けれど今はどうだろう。
ローゼン伯爵夫人。
グレイ調査官。
王妃陛下。
クラウス公爵。
彼らはもう、涙だけでは動かない。
それでも、やるしかなかった。
ミレーユには、他の道が見えなかった。
「ミレーユ様……」
ベアトリスが小さく言った。
「やはり、正直に話した方がよいのではありませんか」
「何を?」
「その……怖かったのは本当だけれど、実際にされたことは少し違っていたと……」
「今さらそんなこと言えるわけないでしょう!」
ミレーユは叫んだ。
ベアトリスが怯える。
「そんなことを認めたら、私は嘘つきになるのよ? 殿下にも嫌われる。王宮にもいられなくなる。あなたも処分されるのよ」
「でも……」
「もう後戻りできないの」
ミレーユは手紙を握りしめた。
「私は、絶対に負けない」
その目には、涙ではなく、追い詰められた者の焦りが浮かんでいた。
◇
翌朝。
王宮で、ミレーユは予定通り泣き崩れた。
「これを……見つけました……」
彼女は震える手で、王妃陛下の前に一通の手紙を差し出した。
エドワード殿下も、その場にいた。
国王陛下。
王妃陛下。
グレイ調査官。
数名の文官。
そして、なぜかクラウス様も同席していた。
本来なら、ヴァレンシュタイン公爵がこの場にいる予定はなかった。
しかし彼は、リリアーナの名誉に関わる新証拠が出たのなら、第三者として確認する権利があると主張した。
国王陛下も、それを認めた。
「ミレーユ嬢」
王妃陛下は静かに言った。
「これは何ですか」
「リリアーナ様からの手紙です」
ミレーユは涙を浮かべる。
「ずっと怖くて言えませんでした。でも、もう黙っていられなくて……」
エドワードの顔が揺れた。
彼は手紙を見る。
そこには、リリアーナの字に似せた文字で、ミレーユを脅す言葉が並んでいた。
「これは……」
彼の胸に、また迷いが生まれる。
やはり、リリアーナが。
そう思いたい気持ちが、まだ残っていた。
自分の過ちを認めたくない心が、最後の逃げ道を探していた。
だが、グレイ調査官は手紙を受け取ると、表情を変えずに確認を始めた。
「この手紙は、いつ受け取ったものですか」
「たしか、二か月ほど前です」
「どこで?」
「学園で……私の机に入っていました」
「なぜ今まで提出しなかったのですか」
「怖かったんです。リリアーナ様に知られたら、もっとひどいことをされると思って……」
ミレーユは泣いた。
けれど、グレイ調査官は動じない。
「なるほど」
彼は手紙を光にかざした。
そして、ほんの少し眉を動かした。
「ミレーユ嬢」
「はい……」
「この便箋は、王宮支給のものですね」
ミレーユの心臓が跳ねた。
「え……?」
「学園の机に入っていたとおっしゃいましたが、この便箋は王宮内で使われているものです。しかも、現在配布されている新しい型です」
部屋の空気が止まった。
ミレーユの顔から、血の気が引いていく。
「二か月前には、この型はまだ使われていません」
「そ、それは……」
グレイ調査官は、さらに続けた。
「インクも新しい。乾き具合から見て、少なくとも数か月前のものではないでしょう」
「そんな……」
ミレーユは思わず後ずさった。
エドワード殿下が手紙を見つめたまま、固まっている。
王妃陛下の目は、氷のように冷たくなっていた。
「それから」
グレイ調査官は、手紙の文字を見た。
「リリアーナ様の筆跡に似せようとしていますが、いくつか癖が違います」
「癖……?」
「リリアーナ様は、文章の句点の前にわずかな余白を作る癖があります。また、貴族名を書く際の敬称の位置が非常に正確です。この手紙には、それがありません」
ミレーユは言葉を失った。
そんな細かいことまで見られるとは思っていなかった。
ベアトリスは言っていた。
筆跡の真似などできないと。
それでも、押し切ったのは自分だ。
「ミレーユ嬢」
王妃陛下の声が響いた。
「この手紙は、本当に二か月前に学園で見つけたものですか」
「……」
「答えなさい」
ミレーユは震えた。
涙がこぼれる。
けれど今度は、誰もその涙に手を伸ばさない。
「私は……」
声が出ない。
喉が詰まる。
エドワードが、ゆっくりと彼女を見た。
「ミレーユ」
その声は、かすれていた。
「これは、本当にリリアーナが書いたものなのか」
「エドワード様……」
「答えてくれ」
ミレーユは彼の目を見た。
そこには、もう以前のような盲目的な優しさはなかった。
信じたい。
でも、信じきれない。
そんな苦しさが浮かんでいた。
「私は……」
ミレーユの足元が崩れるように感じた。
もう無理だ。
そう思った瞬間、扉の外から慌ただしい声がした。
「お待ちください!」
部屋に飛び込んできたのは、ベアトリスだった。
顔は真っ青で、息を切らしている。
「ベアトリス様……?」
ミレーユが呆然と呟く。
ベアトリスは震えながら、その場に膝をついた。
「申し訳ございません! その手紙は……私が書きました!」
部屋中が凍りついた。
ミレーユの顔が真っ白になる。
「ベアトリス様、何を……」
「もう無理です!」
ベアトリスは泣きながら叫んだ。
「私は、ミレーユ様に頼まれて、リリアーナ様の筆跡を真似して手紙を書きました。リリアーナ様からいただいた作法の覚書を見ながら……!」
「違う!」
ミレーユは叫んだ。
「私は頼んでいないわ! ベアトリス様が勝手に――」
「ミレーユ様!」
ベアトリスは顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、必死に言った。
「もうやめましょう。これ以上嘘を重ねても、もっと苦しくなるだけです」
「嘘じゃない!」
「嘘です!」
その叫びが、部屋に響いた。
ベアトリスは震えながら続ける。
「教科書の話も、廊下の話も、ミレーユ様は最初から曖昧でした。怖かった、冷たかった、見下された気がしたとばかりおっしゃって……でも私は、ミレーユ様が可哀想だと思って、勝手に話を大きくしてしまいました」
彼女は床に額をつけた。
「申し訳ございません。リリアーナ様の名誉を傷つけました。私は、取り返しのつかないことをしました」
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
エドワードは、ただ立ち尽くしていた。
その顔には、怒りでも困惑でもなく、絶望に近いものが浮かんでいた。
王妃陛下は目を閉じ、深く息を吐いた。
国王陛下は低く告げる。
「ミレーユ・ラングレー嬢」
ミレーユはびくりと肩を震わせた。
「この件について、弁明はあるか」
「私は……私は、ただ……」
言葉が出てこない。
もう涙では誤魔化せない。
手紙は偽物。
ベアトリスは自白した。
調査官は矛盾を見抜いている。
そしてエドワード様も、もう私を見ていない。
「私は、悪くない……」
ミレーユは小さく呟いた。
「私はただ、怖かっただけ……」
その声は、部屋の誰にも届かなかった。
王妃陛下が静かに告げる。
「ミレーユ嬢。あなたには、本日より王宮内での自由な行動を禁じます。正式な処分が決まるまで、部屋で待機しなさい」
「そんな……」
「ベアトリス嬢についても、ハルデン男爵家へ通達します。処分は追って決定されます」
ベアトリスは涙を流しながら、深く頭を下げた。
「はい……」
ミレーユだけが、まだ信じられないように立ち尽くしていた。
その時、エドワードが一歩近づいた。
「ミレーユ」
彼女は顔を上げた。
最後の希望にすがるような目だった。
「エドワード様……私を信じてくださいますよね?」
けれど、エドワードはすぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、彼はかすれた声で言った。
「……もう、分からない」
その一言で、ミレーユの表情が完全に崩れた。
◇
その日の午後。
フォルスター公爵家に、王宮から緊急の知らせが届いた。
偽造された手紙が提出されたこと。
それをベアトリス嬢が自白したこと。
ミレーユ嬢が深く関与している疑いがあること。
そして、リリアーナへの加害疑惑は、ほぼ事実無根と判断されつつあること。
父の執務室でそれを聞いた私は、しばらく言葉を失った。
「偽造……」
手紙まで作ったのか。
私の字を真似て。
私が彼女を助けるために渡した覚書を使って。
そう考えた瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
悲しいというより、虚しかった。
「お嬢様……」
アンナが心配そうに私を見る。
私は小さく首を振った。
「大丈夫」
そう言ったけれど、大丈夫ではなかった。
記録が出て、証言が出て、少しずつ真実が明らかになって。
それでもなお、彼女は嘘を重ねた。
私を悪者にするために。
自分を守るために。
「リリアーナ嬢」
クラウス様が静かに言った。
「怒っていい」
「怒る……」
「ああ。これは、君が傷ついて当然のことだ」
私は唇を噛んだ。
怒っていい。
そう言われて、初めて自分が怒っているのだと気づいた。
「私は……」
声が震える。
「私は、彼女を助けようとしていました」
「ああ」
「完璧ではなかったかもしれません。言い方が冷たかったこともあるかもしれません。でも、少なくとも、貶めようとしたことはありません」
「ああ」
「それなのに……私が渡した覚書を、そんなふうに使うなんて」
涙がにじんだ。
悔しかった。
悲しかった。
そして、怒っていた。
「ひどいです」
ようやく、その言葉が出た。
「本当に、ひどい」
クラウス様は何も言わず、ただ私のそばにいてくれた。
父も静かに目を伏せていた。
アンナは涙をこらえながら、私の手にハンカチを握らせてくれた。
「お嬢様は、何も悪くありません」
アンナが言った。
「ええ」
私は頷いた。
今度は、はっきりと。
「私は、悪くない」
その言葉を自分で言えた瞬間、胸の奥に少しだけ力が戻った。
ずっと、誰かに言ってほしかった言葉。
でも今は、自分でも言える。
私は悪くない。
嘘をつかれた。
利用された。
傷つけられた。
それでも、私のしてきたことまで嘘にはならない。
「お父様」
私は顔を上げた。
「はい?」
「王宮から謝罪の場を設けたいという話がありましたね」
「ああ」
「受けます」
父とクラウス様が、同時に私を見た。
私はまっすぐ前を向いた。
「ただし、私を戻すための場ではなく、私の名誉を回復するための場として」
父の目が鋭くなる。
「よく言った」
クラウス様も静かに頷いた。
「私も同席する」
「はい。お願いします」
もう逃げない。
怒りを抱えたままでも。
傷ついたままでも。
私は、自分の名誉を取り戻す。
そして、きちんと終わらせる。
◇
その夜。
王宮では、エドワード殿下が一人で執務室に座っていた。
机の上には、偽造された手紙。
学園調査の記録。
リリアーナが残していた補助記録の写し。
そして、まだ書きかけの謝罪文。
彼はペンを握ったまま、何も書けずにいた。
何を書けばいいのか、分からなかった。
すまなかった。
それだけで済む話ではない。
彼はリリアーナを信じなかった。
十年間、自分の隣にいた婚約者を。
誰よりも王宮を支えていた女性を。
彼女の努力を、冷たさだと思った。
彼女の責任感を、可愛げのなさだと思った。
そして、ミレーユの涙に酔った。
自分を頼ってくれる少女を守ることで、自分が立派な王子になったような気がしていた。
「……愚かだった」
初めて、その言葉が口から出た。
あまりにも遅すぎた。
リリアーナはもう、自分の隣にはいない。
彼女はヴァレンシュタイン公爵の隣に立つ。
自分ではなく、あの冷血公爵を選んだ。
当然だ。
自分は彼女を捨てたのだから。
乱暴に。
無責任に。
皆の前で。
エドワードは顔を覆った。
その時、扉が静かに開いた。
「エドワード」
王妃陛下だった。
「母上……」
「謝罪文は書けましたか」
「……まだです」
「そうですか」
王妃陛下は責めなかった。
ただ、静かに彼の向かいに座った。
「あなたは、リリアーナに何を謝るべきか分かっていますか」
「婚約破棄のことです」
「それだけではありません」
王妃陛下の声は厳しかった。
「彼女を信じなかったこと。彼女の努力を当然のものとして扱ったこと。彼女の人格を見ようとしなかったこと。王子である自分の言葉が、どれほど人の人生を壊すか考えなかったこと」
エドワードは何も言えなかった。
「謝罪とは、自分が楽になるためのものではありません」
「……はい」
「相手が許してくれるとは限らない。それでも、自分のしたことを正しく理解して、言葉にしなければなりません」
王妃陛下は、机の上の紙を見た。
「そして、決して言ってはいけないことがあります」
「何でしょうか」
「戻ってきてほしい、とは言わないことです」
エドワードの肩が震えた。
心のどこかで、まだ思っていたのかもしれない。
謝れば、彼女は戻ってくるのではないか。
昔のように、王宮の仕事を整えてくれるのではないか。
自分の隣に立ってくれるのではないか。
けれど、その考え自体が間違いなのだ。
「リリアーナは、もうあなたのものではありません」
王妃陛下ははっきりと言った。
「彼女は彼女自身の人生を選びます。あなたにできることは、その邪魔をしないことだけです」
「……はい」
エドワードは、震える手でペンを握り直した。
今度こそ、書かなければならない。
自分の過ちを。
自分の愚かさを。
そして、もう取り返せないのだという事実を。
◇
翌日。
王宮から正式な通達が出された。
リリアーナ・フォルスター公爵令嬢に関する加害疑惑は、現時点で事実を裏付ける証拠が確認されていないこと。
むしろ、複数の記録と証言により、彼女がミレーユ・ラングレー男爵令嬢を支援していた事実が確認されたこと。
偽造された手紙が提出された疑いがあり、関係者への調査を進めること。
そして、事実確認を経ない噂の流布を厳に慎むよう、各貴族家へ通達すること。
その知らせは、王都中に広がった。
社交界の空気は、決定的に変わった。
もう、リリアーナを冷たい悪役令嬢として語る者はほとんどいない。
代わりに囁かれるのは、別の話だった。
王子に信じてもらえなかった才女。
嘘で名誉を傷つけられた公爵令嬢。
そして、冷血公爵に守られ、新しい未来を選んだ女性。
◇
私はその通達を、フォルスター公爵家の執務室で読んだ。
紙の上の文字を、一つずつ目で追う。
加害疑惑は、事実を裏付ける証拠なし。
支援していた事実を確認。
噂の流布を慎むよう通達。
ようやく。
本当にようやく、私の名誉は戻り始めた。
完全に傷が消えるわけではない。
夜会で浴びた視線も。
嘲笑も。
裏切られた痛みも。
すべてがなかったことになるわけではない。
けれど、それでも前に進める。
「リリアーナ」
父が言った。
「よく耐えた」
「はい」
私は頷いた。
「でも、もう耐えるだけでは終わりません」
父の目が少しだけ細くなる。
「謝罪の場で、きちんと伝えます」
「何を」
「私は、もう王宮には戻らないと」
部屋に静かな空気が流れた。
クラウス様が、私の隣に立つ。
「それでいい」
「はい」
私は胸元の銀の狼のブローチに触れた。
冷たくて、けれど頼もしい光。
もう私は、誰かの言葉に怯えて黙るだけの令嬢ではない。
自分の名誉も。
自分の未来も。
自分の幸せも。
自分の意思で選び取る。
そしてこの時の私は、まだ知らなかった。
次に王宮へ向かう日。
エドワード殿下が、私の前で初めて本当の意味で頭を下げることを。
そして私は、その謝罪に対して、自分でも驚くほど静かな答えを返すことになるのだと。




