第6話 学園の記録は、涙よりも正直でした
翌朝、王都はいつもより騒がしかった。
昨日の茶会で起きた出来事は、夜のうちに社交界へ広がり、朝には王宮の文官たちの耳にも入っていた。
リリアーナ・フォルスター公爵令嬢は、ミレーユ・ラングレー男爵令嬢を本当に虐げていたのか。
それとも、ミレーユ嬢の言葉には誇張や嘘が混じっていたのか。
噂は、もはやただの噂では済まなくなっていた。
王家が正式に調査を始める。
その知らせが届いた時、私はフォルスター公爵家の朝食室にいた。
「学園への調査が始まるそうだ」
父が紅茶を置きながら、そう告げた。
「そうですか」
私は静かに答えた。
驚きはなかった。
昨日の茶会で、ミレーユ嬢ははっきりと答えられなかった。
ベアトリス嬢が噂を広めていたことも明らかになった。
ここまで来れば、王宮も動かざるを得ない。
「不安か」
父が尋ねる。
私は少し考えてから、首を横に振った。
「いいえ。少し怖くはあります。でも、不安ではありません」
「怖いのに、不安ではないのか」
「はい」
私は手元のカップに視線を落とした。
「私は、していないことをしていないと言うだけですから」
その言葉を口にして、自分でも少し驚いた。
昨日までの私なら、もっと揺れていたかもしれない。
誰かに疑われるのが怖くて。
また悪者にされるのが怖くて。
黙ってしまっていたかもしれない。
けれど今は違う。
私には、積み重ねてきた記録がある。
私を見てくれていた人たちがいる。
そして、私自身が自分を信じている。
「強くなったな」
父が静かに言った。
「まだ、強くなろうとしている途中です」
「それで十分だ」
父は少しだけ目を細めた。
その表情は、どこか誇らしげにも見えた。
胸の奥が温かくなる。
その時、朝食室の扉が軽く叩かれた。
「失礼いたします」
家令が入ってくる。
「旦那様。王宮より使者が参っております」
「またか」
父の声が少し低くなる。
「今度は何の用件だ」
「学園調査にあたり、リリアーナお嬢様がお持ちの記録を確認したいとのことです」
私は父と顔を見合わせた。
いよいよ、始まるのだ。
私はゆっくりと立ち上がった。
「お父様。私が対応します」
「無理をする必要はない」
「大丈夫です。記録は、私の部屋にまとめてあります」
そう答えると、父は少しだけ頷いた。
「ならば、私も同席する」
「はい」
すると、部屋の端に控えていたクラウス様も静かに立ち上がった。
「私も行こう」
「クラウス様もですか?」
「ああ。君に不要な圧力がかからないように」
その言葉があまりにも自然で、私は小さく笑ってしまった。
「ありがとうございます」
「礼は不要だ」
「言わせてください」
クラウス様は少しだけ困ったように黙った。
その横顔を見て、父が小さく咳払いをする。
「……仲がよろしいようで何よりだ」
「お父様」
思わず声が上ずった。
父は何も言わず、ただ淡々と紅茶を飲んだ。
けれど、その口元がほんの少しだけ緩んでいるように見えた。
◇
応接室に来ていたのは、王宮の調査官だった。
灰色の髪をきっちりと撫でつけた、中年の男性。
名を、アルベルト・グレイという。
王宮内でも公正な人物として知られている人だった。
「リリアーナ様。本日は急なお願いにもかかわらず、お時間をいただき感謝いたします」
「こちらこそ、ご足労いただきありがとうございます」
私は礼を返した。
グレイ調査官は、私に対して過度に同情することも、疑いの目を向けることもしなかった。
ただ、淡々と事実を確認しに来た人の顔をしている。
それが、少しありがたかった。
「本件について、王宮は正式に学園への聞き取り調査を行います。まず、ミレーユ・ラングレー嬢が主張している主な内容を確認させてください」
「はい」
彼は手元の書類を開いた。
「一つ目。リリアーナ様が、ミレーユ嬢の教科書を隠した」
「ありません」
「二つ目。リリアーナ様が、廊下でミレーユ嬢を突き飛ばした」
「ありません」
「三つ目。リリアーナ様が、ミレーユ嬢を授業から締め出すよう教師に働きかけた」
「それもありません」
私は静かに答えた。
グレイ調査官は頷き、さらに続ける。
「これらに関して、記録があると伺っております」
「はい」
私はアンナに目配せした。
アンナはすぐに、机の上へ数冊の帳面と書類の束を置く。
「こちらが、学園での補助記録です」
「補助記録?」
「ミレーユ様は編入後、王都の貴族社会に不慣れでした。私は王子妃候補として、彼女が学園生活に馴染めるよう、何度か支援を行っていました」
グレイ調査官は書類を一枚ずつ確認していく。
彼の眉が、わずかに動いた。
「かなり細かく記録されていますね」
「王宮での習慣です。何かあった時に、経緯を説明できるようにしておくよう教えられました」
王妃陛下に、何度も言われたことだった。
貴族の仕事は、感情だけで動いてはいけない。
誰が、いつ、何を言い、どう対応したのか。
それを記録に残すこと。
当時は面倒だと思ったこともある。
けれど今、その習慣が私を守ってくれている。
「まず、教科書の件です」
私は一枚の書類を指差した。
「この日、ミレーユ様は歴史学の授業で教科書を忘れていました。私は予備の教科書を貸し、授業後に返却を受けています。担当教師の確認印もあります」
グレイ調査官は黙って書類を読む。
「確かに、教師の確認印がありますね」
「教科書を隠したのではなく、貸したのです」
「なるほど」
次に、私は別の書類を出した。
「廊下で突き飛ばしたという件は、おそらくこの日のことです」
そこには、学園の階段でミレーユ嬢が足を滑らせかけた際、私が腕を掴んで止めたことが記されていた。
同席者として、教師と三名の生徒の名前も書いてある。
「この時、ミレーユ様は階段から落ちかけました。私は近くにいたため、とっさに腕を掴みました。少し強く掴んでしまったため、あとで謝罪もしています」
「その後、怪我は?」
「ありません。ただ、念のため保健室へ行くよう勧めました」
「保健室の記録も確認できそうですね」
「はい」
グレイ調査官は、さらに表情を引き締めた。
事実が少しずつ形になっていく。
涙や噂ではなく。
記録として。
「授業から締め出したという話については?」
「逆です」
私は別の紙を出した。
「ミレーユ様は礼儀作法の授業に遅刻することが多く、教師から注意を受けていました。私は教師に、彼女が編入したばかりで慣れていないことを説明し、補習の機会をいただけないか相談しました」
グレイ調査官は書類に目を落とす。
「これも教師宛ての写しが残っていますね」
「はい」
「リリアーナ様」
彼は顔を上げた。
「失礼ながら、なぜここまで彼女を支援していたのですか」
私は少しだけ言葉に詰まった。
なぜ。
そう問われると、すぐには答えられなかった。
「……殿下が、彼女を気にかけておられたからです」
正直に答えた。
「ミレーユ様が問題を起こせば、殿下の評判にも関わります。ですから、私ができる範囲で支えるべきだと思いました」
「つまり、殿下のために?」
「当時は、そう思っていました」
「今は?」
グレイ調査官の問いに、私は少し考えた。
「今思えば、私自身も彼女を放っておけなかったのだと思います」
ミレーユ嬢は、確かに不慣れだった。
作法も、授業も、貴族社会の暗黙の決まりも。
分からないことが多くて、困っているように見えた。
だから私は手を差し伸べた。
その手が、いつの間にか悪意として語られていたのは、悲しかったけれど。
「私は、彼女に嫌われていたのかもしれません」
ぽつりと呟いた。
「けれど、少なくとも私は、彼女を傷つけるつもりはありませんでした」
応接室に、静かな沈黙が落ちる。
グレイ調査官は深く頷いた。
「承知しました。これらの記録は、写しを取らせていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「原本はフォルスター家で保管を。後ほど学園側の記録と照合いたします」
「はい」
話が一段落した時、父が低い声で言った。
「グレイ殿」
「はい」
「調査は、公正に行われるのですね」
「もちろんでございます」
「王子殿下の意向に左右されることは?」
父の問いに、グレイ調査官は表情を変えずに答えた。
「本件は国王陛下直々の命です。殿下個人のご意向は、調査結果に影響しません」
「ならばよろしい」
父は頷いた。
クラウス様も静かに口を開く。
「ミレーユ嬢だけでなく、噂を広めた者についても調べるべきだ」
「その予定です。ベアトリス・ハルデン男爵令嬢、カサンドラ・メルヴィル侯爵令嬢への聞き取りも行います」
「カサンドラ嬢は茶会で出どころを口にしている。証人も多い」
「把握しております」
グレイ調査官は淡々と頷いた。
「また、ローゼン伯爵夫人からも正式な報告書が届いております」
「伯爵夫人が……」
「はい。昨日の茶会での発言内容を、かなり詳細に記録してくださっていました」
私は驚いた。
伯爵夫人は、ただ私を庇ってくれただけではなかった。
きちんと記録として残してくれていたのだ。
また一つ、誰かに支えられていることを知る。
私は小さく息を吐いた。
「ありがたいことです」
「リリアーナ様」
グレイ調査官は、少しだけ声を柔らかくした。
「事実は、必ず確認されます」
「はい」
「ですから、どうかご自身を責めすぎないように」
その言葉に、胸が少し詰まった。
淡々とした調査官の言葉だからこそ、余計に沁みた。
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
◇
その日の午後。
王立学園では、突然の調査に教師たちが慌ただしく動いていた。
王宮からの正式な調査官が来る。
しかも内容は、第一王子の婚約破棄に関わるもの。
学園にとっても、軽い話ではない。
会議室には、歴史学の教師、礼儀作法の教師、保健室の治癒師、そして当時近くにいた生徒たちが呼ばれていた。
グレイ調査官は、まず歴史学の教師に尋ねた。
「ミレーユ・ラングレー嬢の教科書が隠されたという話について、何か記録はありますか」
歴史学の教師は、眼鏡を押し上げながら答えた。
「隠されたという記録はありません。ただ、ミレーユ嬢が教科書を忘れたことはあります」
「その際、どう対応されましたか」
「リリアーナ様が予備の教科書を貸してくださいました。私は授業後に返却を確認し、記録にも残しました」
「リリアーナ様が教科書を隠した可能性は?」
「考えにくいです」
教師ははっきりと言った。
「そもそも、教科書を忘れたと申し出たのはミレーユ嬢ご本人です。授業開始前に、リリアーナ様がすぐ予備を出されました」
グレイ調査官は記録に目を通した。
私が提出した内容と一致している。
次に、階段での件。
保健室の治癒師が証言した。
「ミレーユ嬢は、その日たしかに保健室へ来ました。ただし、怪我はありませんでした」
「突き飛ばされたという話は聞きましたか」
「いいえ。むしろ、リリアーナ様に助けられたと話していました」
会議室の空気が変わる。
「助けられた、と?」
「はい。階段で足を滑らせかけたところを、腕を掴んでもらったと」
「その記録は?」
「こちらに」
治癒師が差し出した保健室記録にも、同じ内容が記されていた。
ミレーユ嬢、階段にて転倒しかける。
リリアーナ嬢が支えたため、転落せず。
腕に痛みの訴えあり。
外傷なし。
念のため休息。
記録は、あまりにも正直だった。
涙よりも。
噂よりも。
はっきりと、その日の事実を示していた。
礼儀作法の教師も証言した。
「リリアーナ様がミレーユ嬢を授業から締め出そうとしたことはありません。むしろ補習の相談を受けました」
「補習ですか」
「はい。ミレーユ嬢は基礎作法に不安がありましたので、リリアーナ様が放課後に復習時間を作っていました」
「それは自主的に?」
「リリアーナ様からの申し出です」
教師は少し表情を曇らせた。
「正直に申し上げると、私はリリアーナ様に頼りすぎていたかもしれません。ミレーユ嬢の指導を、彼女に任せてしまっていた部分があります」
「なるほど」
「ですから、虐げたという話を聞いた時は驚きました。私の知る限り、リリアーナ様はむしろ面倒を見ておられました」
次々と、証言が積み上がっていく。
どれも、ミレーユ嬢の主張とは違っていた。
そして最後に呼ばれたのは、数人の生徒だった。
その中に、カサンドラ嬢もいた。
彼女は昨日の茶会の時より、ずっと青ざめている。
「カサンドラ・メルヴィル嬢」
「はい……」
「あなたは、リリアーナ様がミレーユ嬢を虐げていたという噂を、どこで聞きましたか」
「ベアトリス様からです」
「ベアトリス・ハルデン嬢ですね」
「はい。ベアトリス様が、ミレーユ様から直接聞いたとおっしゃっていました」
「あなた自身が、その現場を見たことは?」
「ありません」
「それでも噂を広めたのですね」
カサンドラ嬢は唇を震わせた。
「……はい」
「なぜですか」
「面白がっていたわけではありません!」
彼女は慌てて言った。
「ただ、ミレーユ様が可哀想だと思って……リリアーナ様はいつも冷たく見えましたし……」
「冷たく見えたことは、加害の証拠にはなりません」
グレイ調査官の声は淡々としていた。
だからこそ、逃げ道がない。
カサンドラ嬢は俯いた。
「……申し訳ありません」
次に呼ばれたのは、ベアトリス嬢だった。
彼女はカサンドラ嬢よりもさらに落ち着きがなかった。
椅子に座るなり、視線をあちこちへ彷徨わせている。
「ベアトリス・ハルデン嬢」
「はい」
「あなたは、リリアーナ様がミレーユ嬢を虐げていたという話を広めましたか」
「私は……ただ、ミレーユ様が可哀想で……」
「質問に答えてください」
「……広めました」
「その内容は、ミレーユ嬢から直接聞いたものですか」
「はい」
「具体的には?」
ベアトリス嬢はしばらく黙っていた。
そして小さな声で言った。
「教科書を隠されたとか、廊下で突き飛ばされたとか……授業で恥をかかされたとか……」
「あなた自身が見たことは?」
「ありません」
「では、事実確認は?」
「していません」
「なぜですか」
「だって、ミレーユ様が泣いていたから……」
グレイ調査官は、静かにペンを置いた。
「泣いていたから、事実だと判断したのですか」
「……」
「その結果、リリアーナ様は公衆の面前で名誉を傷つけられ、婚約を破棄されました」
ベアトリス嬢の顔色が変わった。
そこまでの大事になるとは、思っていなかったのだろう。
けれど、もう遅い。
「私は、そんなつもりじゃ……」
「つもりの有無は、事実を変えません」
グレイ調査官の声は冷静だった。
「あなたの発言が、どの範囲に広がったのか。今後も確認します」
ベアトリス嬢は、泣きそうな顔で俯いた。
◇
最後に、ミレーユ嬢が呼ばれた。
彼女は淡い桃色のドレスを着ていた。
昨日の茶会と同じように、儚げで、今にも消えてしまいそうな姿だった。
けれど会議室にいる教師たちの目は、もう以前ほど甘くない。
グレイ調査官が静かに告げた。
「ミレーユ・ラングレー嬢。あなたの主張について、確認させていただきます」
「はい……」
ミレーユ嬢は小さく頷いた。
「あなたは、リリアーナ様に教科書を隠されたと話しましたか」
「……」
「答えてください」
「私は……教科書がなくて困ったことがあって……」
「隠されたのですか」
「そう感じたんです」
「感じた、ということは、実際に隠されたところを見たわけではないのですね」
ミレーユ嬢は黙った。
「記録では、あなたは教科書を忘れ、リリアーナ様から予備を借りたことになっています」
「それは……そうかもしれません」
会議室に、小さなどよめきが起きた。
そうかもしれません。
それは、夜会で公爵令嬢を断罪する理由にしては、あまりにも曖昧な答えだった。
「では、廊下で突き飛ばされたという話は?」
「怖かったんです」
「突き飛ばされたのですか」
「リリアーナ様に腕を掴まれて……強くて……」
「階段から落ちかけたところを支えられたのでは?」
「でも、痛かったんです」
「痛かったことと、突き飛ばされたことは別です」
ミレーユ嬢の瞳に涙が浮かぶ。
「どうして皆さん、そんなに私を責めるのですか……」
「責めているのではありません。事実を確認しています」
「私、本当に怖かったんです。リリアーナ様はいつも完璧で、私を見る目が冷たくて……」
「それは、あなたの感情です」
グレイ調査官は、少しも揺らがなかった。
「もちろん、あなたが怖いと感じたこと自体は否定しません。しかし、それを具体的な加害行為として語った場合、事実確認が必要になります」
「私は、そんな大ごとにするつもりじゃ……」
「では、エドワード殿下には何と伝えましたか」
ミレーユ嬢の肩が震えた。
「私は……ただ、つらいと……」
「リリアーナ様に虐げられている、と伝えましたか」
「……言ったかもしれません」
「教科書を隠された、突き飛ばされた、と伝えましたか」
「……」
「答えてください」
「言いました……」
会議室の空気が、はっきりと変わった。
ミレーユ嬢は涙をこぼしながら続ける。
「でも、本当にそう感じたんです! リリアーナ様は私に優しくなんかありませんでした! いつも正しくて、私が間違えると静かに直してきて……それが怖くて、惨めで……」
その声には、初めて本音が混じっているように聞こえた。
彼女は、私に何かをされたから怖かったのではない。
私と比べられることが怖かったのだ。
自分ができないことを、私が当たり前のようにこなすことが嫌だったのだ。
そして、その劣等感を、加害されたという言葉に変えてしまった。
グレイ調査官はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「あなたがつらかったことは分かりました」
ミレーユ嬢が顔を上げる。
「ですが、つらかったからといって、事実ではないことを事実のように語ってよい理由にはなりません」
その言葉に、ミレーユ嬢は何も言えなくなった。
「本日の聞き取りは以上です」
グレイ調査官は書類を閉じた。
「調査結果は、王宮へ報告いたします」
ミレーユ嬢は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
◇
その日の夕方。
フォルスター公爵家に、学園調査の途中報告が届いた。
父の執務室で、私はその内容を聞いた。
教科書を隠した事実は確認されず。
むしろ、リリアーナが予備の教科書を貸していた記録あり。
廊下で突き飛ばした事実は確認されず。
階段で転落しかけたミレーユを支えた記録あり。
授業から締め出した事実は確認されず。
補習機会の調整をリリアーナが行っていた記録あり。
ミレーユ嬢本人は、具体的な加害行為について曖昧な証言に終始。
ベアトリス嬢は、事実確認をしないまま噂を広めたことを認めた。
カサンドラ嬢も、噂を広めたことを認めた。
読み上げが終わると、部屋はしばらく静まり返った。
私は膝の上で手を握った。
安心した。
もちろん、すべてが終わったわけではない。
正式な結論はまだ先だ。
けれど、私がしていないことは、少しずつ明らかになっている。
「よかった……」
思わず呟いた。
その声は、自分でも驚くほど小さかった。
アンナがそばに来て、目を潤ませる。
「お嬢様……本当によかったです」
「ええ」
私は微笑もうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
胸の奥にあるのは、喜びだけではなかった。
悲しさもあった。
私は、こんなふうに証明しなければならなかったのだ。
自分が誰かを傷つけていないことを。
誰かを助けたつもりだったことを。
記録と証言を並べて、ようやく信じてもらえる。
そのことが、少しだけ悲しかった。
「リリアーナ嬢」
クラウス様が静かに声をかける。
「はい」
「つらいなら、つらいと言っていい」
その言葉に、胸が揺れた。
「……少し、つらいです」
「ああ」
「疑いが晴れそうなのは嬉しいです。でも、どうして最初から誰も聞いてくれなかったのだろうと思ってしまいます」
声が震えた。
「私は、ミレーユ様を助けていたつもりでした。完璧ではなかったかもしれません。冷たく見えたのかもしれません。でも、傷つけたいと思ったことはなかった」
涙がにじむ。
「それなのに、あんなふうに……」
言葉が続かなかった。
クラウス様は何も言わず、私の隣に立った。
ただ、そばにいてくれた。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
父が静かに言った。
「リリアーナ」
「はい……」
「お前は、もう十分すぎるほど証明した」
私は父を見る。
「これ以上、自分を責めるな」
「でも……」
「人の善意を、相手が正しく受け取るとは限らない。だが、だからといって善意が無価値になるわけではない」
父の言葉は、重く、温かかった。
「お前がミレーユ嬢を助けようとした事実は消えない。たとえ彼女が、それを別の形で語ったとしてもだ」
涙が一筋、頬を伝った。
「はい」
私は小さく頷いた。
今度の涙は、昨夜のような悔しさだけではなかった。
少しだけ、救われたような涙だった。
◇
一方、王宮では。
エドワード殿下が、調査の途中報告を読んでいた。
最初は怒りに任せて書類を机に叩きつけようとした。
けれど、途中から指が動かなくなった。
教科書を隠した事実なし。
リリアーナが予備を貸した記録あり。
突き飛ばした事実なし。
転落しかけたミレーユを支えた記録あり。
授業から締め出した事実なし。
補習の調整をしていた記録あり。
「……嘘だ」
エドワードは呟いた。
だが、その声には力がなかった。
嘘であってほしい。
そう思っているだけだと、自分でも分かっていた。
リリアーナは記録を残す。
何でも丁寧に、整えて、間違いがないようにする。
それを、彼は誰よりも知っていた。
なのに、信じなかった。
ミレーユの涙だけを信じた。
いや、正確には。
信じたかったのだ。
自分を頼って泣く少女の方が、完璧で静かな婚約者より心地よかった。
リリアーナの努力は、自分の不足を突きつけるようで苦しかった。
だから、彼女を冷たい女だと決めつけた。
悪者にした。
そうすれば、自分はミレーユを守る正義の王子でいられたから。
「殿下」
文官が恐る恐る声をかける。
「国王陛下がお呼びです」
「……父上が?」
「はい。調査報告について、直接お話があるとのことです」
エドワードは立ち上がろうとした。
だが、足元が少しふらついた。
その時、廊下の向こうからミレーユの声が聞こえた。
「エドワード様!」
彼女が駆け寄ってくる。
目には涙が浮かんでいた。
いつもなら、守ってやりたいと思った。
けれど今は、その涙を見るたびに、調査報告の文字が頭をよぎる。
事実ではないことを、事実のように語った。
その可能性が、どうしても消えない。
「エドワード様、皆が私を責めるんです……私、本当に怖かっただけなのに……」
ミレーユは彼の袖を掴んだ。
「お願いです。私を信じてください」
エドワードは、彼女を見下ろした。
信じたい。
今まで通り、何も疑わずに抱きしめたい。
けれど、声が出なかった。
「エドワード様……?」
「ミレーユ」
ようやく出た声は、かすれていた。
「少し、一人にしてくれ」
ミレーユの表情が凍った。
「え……?」
「考えたいことがある」
「私より、リリアーナ様の言い分を信じるんですか?」
「そういう話ではない」
「そういう話です!」
ミレーユは泣きながら叫んだ。
「エドワード様まで私を疑うなら、私はもう誰を信じればいいんですか!」
廊下にいた侍女たちが、息を潜める。
エドワードは唇を噛んだ。
以前なら、この涙で簡単に心が動いた。
けれど今は、その言葉の中に答えがないことに気づいてしまう。
疑うなら。
信じるなら。
彼女はいつも、そうやって話を感情に戻す。
事実には、答えない。
「ミレーユ」
エドワードは静かに言った。
「私は、事実を知りたいだけだ」
その瞬間、ミレーユの顔から血の気が引いた。
「……ひどい」
彼女は小さく呟いた。
「エドワード様も、結局リリアーナ様の味方なんですね」
そう言って、ミレーユは走り去った。
エドワードは追いかけなかった。
追いかけられなかった。
ただ、手元の調査報告を見つめる。
紙の上の文字が、重くのしかかってくる。
彼は初めて、心の底から思った。
もしかすると。
自分は、とんでもない過ちを犯したのではないか、と。
◇
その夜。
私は自室の机に向かい、古い帳面を閉じた。
学園での記録。
ミレーユ嬢への補助内容。
王宮への提出書類の写し。
それらを整理し直しているうちに、日が暮れていた。
アンナが心配そうに声をかける。
「お嬢様、もうお休みになった方がよろしいのでは?」
「そうね。少しだけ、整理したかったの」
「無理はなさらないでください」
「ええ。ありがとう」
私は帳面に手を置いた。
この記録たちは、私を守ってくれた。
けれど同時に、過去の私がどれほど必死だったかも教えてくれる。
誰にも迷惑をかけないように。
誰にも責められないように。
完璧でいるために。
私は、こんなにも細かく自分の行動を残していた。
少し息苦しくなる。
その時、窓の外で小さな音がした。
見ると、庭に雪のような白い花びらが舞っていた。
薔薇ではない。
夜風に乗って、どこからか小さな白い花が飛んできたのだろう。
私はふと、クラウス様の言葉を思い出した。
北方には、白鈴花という花が咲く。
雪解けの頃に咲く、小さな白い花。
「北方……」
小さく呟く。
王都での問題は、まだ終わっていない。
けれど私は、少しずつ未来のことを考え始めていた。
王宮でも、学園でもなく。
北方での暮らし。
クラウス様の隣。
私が、私として生きられる場所。
その時、扉が軽く叩かれた。
「リリアーナ嬢」
クラウス様の声だった。
アンナが扉を開けると、彼は小さな包みを持って立っていた。
「遅くにすまない」
「いいえ。どうかなさいましたか?」
「これを渡しておきたかった」
彼が差し出した包みを開くと、中には白い花を模した小さな髪飾りが入っていた。
銀細工で作られた、繊細な花。
「白鈴花、ですか?」
「ああ」
「綺麗……」
私は思わず呟いた。
銀の花びらは、月明かりを受けて淡く輝いている。
「本物は、もっと素朴な花だ」
「それでも、見てみたいです」
「なら、必ず見せる」
クラウス様は静かに言った。
「王都でのことが片づいたら、北方へ行こう」
「はい」
「そこでは、君は誰かの罪を証明するために生きる必要はない」
その言葉に、胸が静かに震えた。
「君はただ、君として生きればいい」
私は髪飾りを両手で包み込んだ。
涙が出そうになった。
でも、今度は泣かなかった。
代わりに、笑えた。
「クラウス様」
「何だ」
「私、北方へ行くのが楽しみです」
そう言うと、クラウス様の表情がほんの少しだけやわらいだ。
「それはよかった」
たったそれだけの言葉。
けれど私は、その中に確かな優しさを感じた。
王都の夜は静かだった。
けれど、その静けさの裏で、王宮も学園も大きく動き始めている。
ミレーユ嬢の嘘は、記録によって崩れ始めた。
エドワード殿下も、ようやく自分の過ちに気づきかけている。
そして私は、初めて未来を楽しみにしている。
だが、この時の私はまだ知らなかった。
追い詰められたミレーユ嬢が、次にとんでもない行動に出ることを。
そしてその行動が、彼女自身の立場を決定的に壊すことになるのだと。




