第5話 茶会に出たら、噂を流した令嬢が自爆しました
茶会の日は、驚くほどよく晴れていた。
雲ひとつない青空。
穏やかな風。
庭園に並べられた白いテーブルクロスが、春の日差しを受けて淡く輝いている。
けれど、その美しい景色とは反対に、私の胸の奥は少しだけ重かった。
「お嬢様、本当にお綺麗です」
アンナが背後から、そう言ってくれる。
今日の私は、淡い銀青色のドレスを身にまとっていた。
派手すぎず、けれど地味でもない。
胸元には、クラウス様から贈られた銀の狼のブローチ。
ヴァレンシュタイン公爵家の紋章を簡略化したものだ。
鏡の中の私は、昨日までより少しだけ違って見えた。
王子の婚約者として飾られた令嬢ではなく。
自分の意思で、社交界に戻る一人の令嬢として。
「ありがとう、アンナ」
「緊張されていますか?」
「少しね」
私は正直に答えた。
怖くないと言えば嘘になる。
今日の茶会には、王都の有力な貴婦人たちが集まる。
王妃派の夫人たち。
フォルスター家と親しい貴族。
そして、噂好きの令嬢たち。
きっと私を見る目は、いつもとは違うだろう。
婚約破棄された公爵令嬢。
冷血公爵に拾われた女。
王子に捨てられたあと、別の公爵にすがった女。
どんな言葉が待っているか、分からない。
それでも、逃げたくはなかった。
「リリアーナ嬢」
部屋の扉の向こうから、低い声が聞こえた。
クラウス様だ。
アンナが扉を開けると、黒い礼服をまとったクラウス様が立っていた。
銀色の髪が、窓から差し込む光に淡く照らされている。
いつも通り表情は少ない。
けれど、その青い瞳はまっすぐに私を見ていた。
「準備はできたか」
「はい」
「無理をする必要はない。途中で嫌になったら、すぐに帰ればいい」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
そう言うと、クラウス様はほんの少しだけ目を細めた。
「今日の君は、強く見える」
「強く見せているだけかもしれません」
「それでもいい」
彼は静かに言った。
「強くあろうとすることも、十分に強さだ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
私は小さく頷いた。
「行きましょう」
「ああ」
クラウス様が手を差し出す。
私はその手に、自分の手を重ねた。
◇
茶会の会場は、王都でも名高いローゼン伯爵夫人の屋敷だった。
広い庭園には色とりどりの花が咲き、貴婦人たちの華やかなドレスがその間を彩っている。
馬車が到着した瞬間、周囲の視線が一斉にこちらへ向いた。
さざ波のような囁きが広がる。
「リリアーナ様ですわ」
「本当にいらしたのね」
「隣にいるのは、ヴァレンシュタイン公爵?」
「まあ……噂は本当でしたのね」
予想通りだった。
誰もが私たちを見ている。
好奇。
同情。
疑い。
そして、少しの期待。
私は背筋を伸ばした。
隣にいるクラウス様の存在が、不思議と心を支えてくれる。
「怖いか」
彼が小さく尋ねた。
「少しだけ」
「なら、私の腕を掴んでいればいい」
「よろしいのですか?」
「そのために隣にいる」
当然のように言われ、私は思わず笑いそうになった。
私はそっと、クラウス様の腕に手を添えた。
その瞬間、周囲のざわめきが少しだけ大きくなる。
けれど、もう怯まない。
私は私の意思で、この人の隣に立っている。
「リリアーナ様」
柔らかな声が聞こえた。
振り向くと、今日の主催者であるローゼン伯爵夫人がこちらへ歩み寄ってきた。
上品な薄紫のドレスをまとった、落ち着いた雰囲気の夫人だ。
「本日はお越しくださり、嬉しく思います」
「お招きいただき、ありがとうございます」
私は丁寧に礼をした。
ローゼン伯爵夫人は、私の胸元のブローチに視線を向ける。
そして、ほんの少しだけ微笑んだ。
「とてもよくお似合いですわ」
「ありがとうございます」
「ヴァレンシュタイン公爵も、ようこそお越しくださいました」
「ああ」
クラウス様は短く頷く。
少し無愛想にも見える返答だったが、伯爵夫人は慣れているのか、気にした様子はなかった。
「リリアーナ様。こちらへどうぞ。皆様、あなたとお話ししたがっておりますの」
その言葉に、私の胸が少し緊張する。
けれど私は頷いた。
「はい」
案内された席には、すでに数人の貴婦人たちが座っていた。
伯爵夫人。
侯爵夫人。
学園に娘を通わせている伯爵家の夫人。
いずれも、社交界で影響力のある方々だ。
私が席につくと、一瞬だけ静寂が落ちた。
そして最初に口を開いたのは、侯爵夫人だった。
「リリアーナ様。この度は、大変でしたわね」
同情の言葉。
けれど、そこに嘲りはなかった。
「お心遣い、感謝いたします」
「昨夜の夜会にいた者から話を聞きました。あのような場で婚約破棄を告げるなど、あまりにも乱暴です」
「殿下にも、何かお考えがあったのかもしれません」
私がそう答えると、夫人は小さく首を振った。
「あなたはまだ、殿下を庇うのですね」
「庇っているわけではありません。ただ、私がここで殿下を悪く言えば、また別の噂になりますから」
その言葉に、夫人たちはわずかに目を見開いた。
私は静かに続ける。
「私は、自分が受けた扱いを忘れるつもりはありません。ですが、感情だけで誰かを断罪することの怖さも、よく知っています」
それは、私自身がされたことだった。
証拠もなく。
弁明も聞かれず。
ただ、ミレーユ嬢の涙だけで悪者にされた。
だからこそ私は、同じことをしたくなかった。
伯爵夫人が感心したように息を吐く。
「やはり、あなたは立派な方ですわ」
「そんなことは……」
「いいえ。私の娘が以前、学園で助けていただいたことを覚えていますか?」
私は少し考えた。
「もしかして、ダンス授業の時のことでしょうか」
「ええ。娘が足を痛めた時、あなたがすぐに治癒魔法で応急処置をしてくださいました。教師への報告まで、丁寧に整えてくださったとか」
「当然のことをしただけです」
「その当然が、誰にでもできるわけではありません」
夫人の言葉に、周囲の貴婦人たちが頷く。
「私も聞きましたわ。慈善院でも、リリアーナ様は熱心に働いておられたとか」
「子どもたちの名前まで覚えていらしたのでしょう?」
「薬草園の整備も、あなたの提案だったとか」
次々に出てくる言葉に、私は少し戸惑った。
私はただ、自分にできることをしてきただけだった。
誰かに評価されるためではない。
むしろ、目立たないようにしていた。
それでも、見てくれていた人はいたのだ。
「ありがとうございます」
私は小さく頭を下げた。
その時だった。
少し離れた場所から、わざとらしく高い声が聞こえた。
「まあ、随分とお優しい空気ですのね」
会話が止まった。
振り向くと、鮮やかな赤いドレスを着た令嬢が立っていた。
カサンドラ・メルヴィル侯爵令嬢。
学園でも社交界でも、噂話が好きなことで知られている令嬢だ。
彼女は扇で口元を隠しながら、私を見て微笑んだ。
けれど、その目は笑っていない。
「リリアーナ様。お元気そうで何よりですわ。婚約破棄されたばかりとは思えませんわね」
周囲の空気が冷える。
アンナが少し離れた場所で、むっとした顔をしたのが見えた。
けれど私は、表情を変えなかった。
「お気遣いありがとうございます、カサンドラ様」
「お気遣いだなんて。わたくし、心配しておりましたのよ。あまりにも早くヴァレンシュタイン公爵様と親しくなられたものですから」
その言葉に、周囲が小さくざわめく。
来た。
噂の中心にある話だ。
私がクラウス様を誘惑した。
復讐のために婚約を迫った。
その噂を、彼女はここで広げるつもりなのだろう。
私は静かにカップを置いた。
「早く、とは?」
「だって、そうでしょう? 殿下との婚約が破棄された夜に、すぐ公爵様とお話しなさったとか」
カサンドラ様は扇の奥で笑う。
「まるで、最初から乗り換え先を用意していたみたいですわ」
今度こそ、はっきりとした沈黙が落ちた。
かなり悪意のある言葉だった。
周囲の貴婦人たちの表情も険しくなる。
クラウス様の気配が鋭くなった。
けれど、私は彼が口を開く前に答えた。
「カサンドラ様。そのお話は、どなたから聞かれたのですか?」
「え?」
彼女の表情が一瞬だけ揺れた。
「どなたから、そのような話を聞かれたのかと伺っています」
「そ、それは……社交界で皆が話していますわ」
「皆、とはどなたでしょう」
「そんなこと、いちいち覚えておりませんわ」
「そうですか」
私は微笑んだ。
「では、出どころの分からない噂を、今この場で口にされたということですね」
カサンドラ様の頬がぴくりと動いた。
「わたくしはただ、心配して――」
「心配してくださるなら、噂を広げるのではなく、まず私本人に事実を確認してくださればよかったのではありませんか?」
私は声を荒げなかった。
けれど、一言ずつはっきりと告げた。
「私は婚約破棄された直後、王宮の廊下でヴァレンシュタイン公爵様にお会いしました。公爵様から求婚のお話をいただいたのは事実です。ですが、それは王家への復讐のためでも、誰かへの当てつけでもありません」
「では、なぜそんなに早く……」
「私が必要だと、言ってくださったからです」
自分で言って、少しだけ胸が熱くなった。
「私が何をしてきたのかを、見てくださっていたからです」
カサンドラ様は言葉に詰まった。
私は続けた。
「それに、正式な婚約については、父と公爵様が話し合っております。家同士の手順を無視して進めるつもりはありません」
ここは大事だった。
私が勝手に婚約を迫ったのではない。
フォルスター公爵家とヴァレンシュタイン公爵家の間で、正式に進められている話だ。
貴族社会では、この差は大きい。
ローゼン伯爵夫人が静かに頷いた。
「それなら、何も問題はありませんわね」
「ええ。むしろ、婚約破棄の翌日に王宮へ戻れと求められたことの方が問題ですわ」
別の夫人がそう言うと、周囲から小さな同意の声が上がった。
カサンドラ様の表情が焦りに変わる。
「で、ですが、リリアーナ様にはミレーユ様を虐げたという話も……」
「それも、どなたから?」
私はすぐに尋ねた。
カサンドラ様がまた固まる。
「ミレーユ様ご本人ですか?」
「そ、それは……」
「それとも、エドワード殿下ですか?」
「……」
「具体的な証拠をご覧になりましたか?」
沈黙。
それが答えだった。
カサンドラ様は、何も持っていない。
ただ、誰かから聞いた話を広げているだけだ。
私は静かに息を吸った。
「私は、ミレーユ様を虐げたことはありません」
はっきりと言った。
その場の全員に聞こえるように。
「むしろ、彼女が学園に馴染めるよう、礼儀作法や授業の準備を手伝っていました。教師への取り次ぎも、何度も行いました」
「そんなの、証拠が――」
「あります」
私がそう言うと、カサンドラ様の目が見開かれた。
「学園の補習記録、教師への連絡文、ミレーユ様に渡した作法の覚書。すべて写しが残っています」
もちろん、それらは私が自分を守るために残していたものではない。
王子妃候補として、何かあった時に説明できるよう、記録を取る癖がついていただけだ。
けれど今、その記録が私を守ってくれる。
「また、王宮も現在、事実確認を進めているはずです」
私がそう告げると、周囲がざわめいた。
「王宮が調査を?」
「では、まだリリアーナ様の罪が確定したわけではないのですね」
「それなのに、夜会で断罪を……?」
空気が変わる。
私を疑う空気から、殿下とミレーユ嬢への疑問へ。
カサンドラ様は慌てたように声を上げた。
「でも、ミレーユ様は泣いていらしたわ! あんなに怯えて……嘘をついているようには見えませんでした!」
「涙が、必ずしも真実を示すとは限りません」
その言葉を口にしたのは、私ではなかった。
ローゼン伯爵夫人だった。
伯爵夫人は静かにカップを置き、カサンドラ様を見る。
「私たちは貴族です。人の名誉に関わる話をするなら、感情ではなく事実を見るべきです」
「伯爵夫人……」
「ましてや、リリアーナ様は公爵令嬢です。証拠もなく悪評を広めることがどれほど危険か、分からないわけではありませんね?」
カサンドラ様の顔色が変わった。
彼女は今、自分が思っていたより危ないことをしていたと気づいたのだろう。
公爵令嬢の名誉を、根拠のない噂で傷つける。
それはただの悪口では済まない。
「わ、わたくしは、ただ聞いた話を……」
「その聞いた話を広めたのが問題なのです」
別の夫人が冷たく言った。
カサンドラ様の目が泳ぐ。
すると彼女は、焦ったように言った。
「でも、最初に言っていたのは私ではありませんわ!」
その場の空気が止まった。
私は静かに彼女を見る。
「では、どなたですか?」
「そ、それは……」
カサンドラ様は口元を押さえた。
言ってはいけないことを言いかけた。
そんな表情だった。
クラウス様が低い声で告げる。
「ここまで来て黙るのは、賢明ではないな」
その一言に、カサンドラ様はびくりと肩を震わせた。
冷血公爵と呼ばれる人に睨まれれば、たいていの令嬢は平静ではいられない。
「私は、リリアーナ嬢の名誉を傷つけた者を見逃すつもりはない」
クラウス様は続けた。
「もちろん、根拠のない噂を流した者もだ」
カサンドラ様の顔が青ざめる。
「わ、私は……ただ、ミレーユ様のお友達から聞いただけです」
「ミレーユ様のお友達?」
私が尋ねると、彼女は観念したように答えた。
「ベアトリス様です。男爵令嬢のベアトリス様が、ミレーユ様から直接聞いたと……」
ベアトリス・ハルデン男爵令嬢。
ミレーユ嬢とよく一緒にいる令嬢だ。
学園でも、彼女の取り巻きのように振る舞っていた。
「ベアトリス様が、何と?」
「リリアーナ様は、ミレーユ様が殿下に近づいたことを妬んで、教科書を隠したり、廊下で突き飛ばしたりしたと……」
周囲がざわめく。
私は静かに目を伏せた。
やはり、そういう話になっていたのか。
けれど、教科書の件には覚えがある。
ミレーユ嬢が授業に教科書を忘れ、私が予備を貸した。
その時の記録もある。
廊下で突き飛ばしたという話にも、覚えがあった。
彼女が階段で足を滑らせそうになり、私が腕を掴んで止めた。
その場には、教師と数人の生徒がいた。
つまり、どちらも調べればすぐに分かる嘘だ。
「そうですか」
私は顔を上げた。
「教えてくださり、ありがとうございます」
カサンドラ様はほっとしたような顔をした。
けれど、ローゼン伯爵夫人が静かに告げる。
「カサンドラ様。あなたにも、後日きちんとお話を伺うことになるでしょう」
「え……」
「噂の出どころを知っていた以上、あなたは無関係とは言えません」
カサンドラ様の顔が再び青ざめる。
彼女は完全に、自分で自分の立場を悪くした。
その時だった。
「皆様、ずいぶん楽しそうですのね」
聞き覚えのある、か細い声。
私はゆっくりと振り向いた。
庭園の入口に、淡い桃色のドレスを着た少女が立っていた。
ミレーユ嬢だった。
彼女の隣には、エドワード殿下はいない。
代わりに、数人の令嬢を連れている。
その中に、ベアトリス嬢の姿もあった。
ミレーユ嬢は、私を見るなり悲しそうに目を伏せた。
「リリアーナ様……」
周囲の視線が、一斉に彼女へ向く。
昨日までなら、その涙ぐんだ顔に同情が集まっていただろう。
けれど今は違った。
カサンドラ様の自爆により、場の空気はすでに変わっている。
ミレーユ嬢の涙を見る目は、前よりずっと冷静だった。
「お久しぶりです、ミレーユ様」
私は立ち上がり、礼をした。
ミレーユ嬢は小さく肩を震わせる。
「そんなふうに、何もなかったみたいに挨拶なさるのですね」
「何かございましたか?」
「ひどいです……」
ミレーユ嬢の瞳に涙が浮かぶ。
「私、リリアーナ様が怖くて、ずっと我慢していたのに……今度は私のことを嘘つきみたいに言うなんて」
周囲がざわめく。
だが、それは彼女への同情だけではなかった。
疑問。
警戒。
観察。
そんな視線が混ざっている。
私は静かに尋ねた。
「ミレーユ様。では、はっきり確認させてください」
「え……?」
「私はあなたの教科書を隠しましたか?」
ミレーユ嬢が固まった。
隣にいたベアトリス嬢の顔色も変わる。
「それは……」
「私はあなたを廊下で突き飛ばしましたか?」
「リリアーナ様……そんなふうに責めないでください……」
「責めているのではありません。確認しています」
私は一歩も引かなかった。
声を荒げず、ただ静かに。
「あなたが私にされたと主張していることです。事実なら、ここではっきりおっしゃってください」
ミレーユ嬢の涙がこぼれる。
けれど、言葉は出てこない。
ローゼン伯爵夫人が口を開いた。
「ミレーユ様。これは大切なことです。リリアーナ様の名誉に関わります」
「わ、私は……」
「教科書を隠されたのですか?」
「……」
「廊下で突き飛ばされたのですか?」
「……怖かったんです」
ミレーユ嬢は、答えになっていない言葉を呟いた。
「リリアーナ様はいつも完璧で、私を見下しているようで……だから、私……」
「見下されたと感じたことと、実際に危害を加えられたことは別です」
伯爵夫人が静かに言った。
ミレーユ嬢はびくりと肩を震わせる。
「でも、私は本当に傷ついて……」
「傷ついたことは否定しません」
私は言った。
「ですが、事実ではないことを広められたら、私も傷つきます」
ミレーユ嬢が私を見る。
その瞳には、涙と困惑が浮かんでいた。
もしかすると彼女は、自分の涙が通じない場面を初めて経験しているのかもしれない。
私は続けた。
「教科書の件は、あなたが忘れた教科書の代わりに、私が予備を貸しました。担当教師の記録があります」
周囲がざわめく。
「廊下の件は、あなたが階段で足を滑らせかけたため、私が腕を掴みました。その場には教師と生徒がいました」
「そ、そんな……」
「もし私の記憶違いであれば、調査で明らかになるでしょう」
ミレーユ嬢は唇を震わせた。
ベアトリス嬢が焦ったように口を挟む。
「で、でもミレーユ様は怖がっていたんです! リリアーナ様の言い方が冷たくて、傷ついたって……」
「言い方が冷たかったことと、虐げたことは違います」
私はベアトリス嬢を見た。
「あなたは、その違いを理解した上で噂を広めましたか?」
ベアトリス嬢の顔が青ざめた。
「わ、私は、ミレーユ様から聞いて……」
「では、ミレーユ様のお話を確認もせずに広めたのですね」
「……」
今度はベアトリス嬢が黙り込んだ。
庭園の空気は、完全に変わっていた。
ミレーユ嬢を守る空気ではない。
事実を求める空気だ。
「リリアーナ様……ひどいです」
ミレーユ嬢は涙声で言った。
「私をこんな大勢の前で責めるなんて……」
その言葉に、私は静かに息を吸った。
「大勢の前で責められる苦しさなら、私も知っています」
ミレーユ嬢の表情が止まる。
「夜会で、私は弁明の機会もほとんど与えられず、婚約破棄を告げられました。あなたはその場にいましたね」
「それは……」
「私はあなたを責めたいわけではありません。ただ、事実を明らかにしたいだけです」
私はまっすぐ彼女を見た。
「あなたが本当に私に傷つけられたと言うなら、調査に協力してください。教師や生徒の証言、学園の記録、すべて確認しましょう」
ミレーユ嬢は答えなかった。
答えられなかったのだろう。
その沈黙は、何より雄弁だった。
ローゼン伯爵夫人が静かに立ち上がる。
「本日のところは、ここまでにいたしましょう」
その声に、誰も逆らわなかった。
「ミレーユ様。ベアトリス様。今日の件は、私からも王宮へ報告いたします」
「そ、そんな……」
ミレーユ嬢の顔から血の気が引いた。
「私、そんなつもりじゃ……」
「つもりの問題ではありません」
伯爵夫人は厳しく言った。
「人の名誉を傷つける言葉には、責任が伴います」
ミレーユ嬢は泣き崩れそうになった。
けれど、今度は誰も駆け寄らなかった。
エドワード殿下がいないからではない。
皆が、彼女の涙だけでは動かなくなったからだ。
やがてミレーユ嬢は、ベアトリス嬢に支えられながら茶会の場を離れていった。
その背中を見送りながら、私は静かに息を吐いた。
手が少し震えている。
強く言えた。
けれど、怖くなかったわけではない。
すると、隣にいたクラウス様がそっと私の手を取った。
「よく耐えた」
「……耐えられていましたか?」
「ああ。見事だった」
その一言で、胸の奥がふっと緩む。
私は小さく笑った。
「ありがとうございます」
「だが、まだ終わりではない」
「はい」
分かっている。
今日のことで、ミレーユ嬢の嘘は大きく揺らいだ。
けれど、完全に崩れたわけではない。
王宮の調査。
学園の証言。
そして、エドワード殿下の反応。
まだいくつもの波が来るだろう。
それでも、今日の私は逃げなかった。
自分の言葉で、自分の名誉を守った。
それだけで、昨日までの私より少し前に進めた気がした。
ローゼン伯爵夫人が私の前に立つ。
「リリアーナ様」
「はい」
「今日のあなたは、とても立派でしたわ」
「ありがとうございます」
「それから、ひとつお伝えしておきます」
「何でしょうか」
伯爵夫人は少しだけ声を潜めた。
「聖ルミナ慈善院の院長が、あなたに感謝状を出す準備をしているそうです」
「感謝状、ですか?」
「ええ。これまでの支援と、今回の件で子どもたちを守ろうとしてくださったことへの感謝だそうです」
私は驚いて言葉を失った。
慈善院の仕事は、王妃陛下の補佐として行っていたものだ。
私個人が感謝状を受け取るようなことではないと思っていた。
「そんな、私は……」
「受け取りなさい」
クラウス様が静かに言った。
「君がしてきたことへの、正当な評価だ」
その言葉に、私はゆっくりと頷いた。
「……はい」
胸の奥に、温かいものが広がる。
王宮での十年間は、無駄ではなかった。
誰かが見てくれていた。
誰かの役に立っていた。
そう思えるだけで、過去の重さが少しだけ変わった。
◇
その日の夕方。
茶会で起きた出来事は、あっという間に王都中へ広がった。
カサンドラ嬢が噂の出どころを口にしたこと。
ベアトリス嬢がミレーユ嬢から聞いた話を広めていたこと。
教科書を隠した話も、廊下で突き飛ばした話も、記録や証人が存在するらしいこと。
そして何より。
ミレーユ嬢が、はっきりと事実を答えられなかったこと。
社交界の空気は、一日で大きく変わった。
昨日までは、可哀想な男爵令嬢と冷たい公爵令嬢の話だった。
けれど今は違う。
涙で王子を動かした男爵令嬢。
証拠もなく婚約者を断罪した第一王子。
そして、静かに名誉を傷つけられていた公爵令嬢。
物語の役割が、少しずつ入れ替わり始めていた。
◇
王宮の一室で、エドワード殿下はその報告を聞いていた。
「何だと?」
彼の声は低かった。
報告に来た文官は、青ざめながら頭を下げる。
「本日のローゼン伯爵夫人の茶会にて、ミレーユ様がリリアーナ様と対面されました。その際、学園での嫌がらせについて具体的に確認されたところ、ミレーユ様は明確にお答えになれなかったとのことです」
「そんなはずがない」
「また、ベアトリス男爵令嬢が噂を広めていたことも判明しつつあり……」
「黙れ!」
エドワードは机を叩いた。
文官が肩を震わせる。
「ミレーユが嘘をつくはずがない。リリアーナがまた何か仕組んだに決まっている」
「ですが、学園の記録を確認すれば――」
「確認など不要だ!」
エドワードは叫んだ。
だが、その声には焦りが混じっていた。
自分でも分かっていたのだ。
リリアーナは、記録を残す女だった。
何事も丁寧に整理し、後から確認できるようにする。
それは王宮にいた頃、何度も見てきた。
もし本当に記録があるなら。
もし教師や生徒が証言したなら。
ミレーユの話は崩れる。
そうなれば、夜会での婚約破棄は完全に自分の失態になる。
「殿下」
文官が恐る恐る言った。
「国王陛下より、学園への調査を正式に進めるよう命が出ております」
「父上が……?」
「はい」
エドワードの顔が歪む。
その時、部屋の扉が開いた。
「エドワード様……」
ミレーユが立っていた。
目は赤く腫れている。
いつものように涙を浮かべ、震える手で胸元を押さえていた。
「私、怖かったです……リリアーナ様が、皆の前で私を責めて……」
普段なら、エドワードはすぐに彼女を抱き寄せていただろう。
だが今日は、一瞬だけ動きが止まった。
茶会で、彼女は事実を答えられなかった。
その報告が、頭から離れなかった。
「ミレーユ」
「はい……?」
「リリアーナに、教科書を隠されたという話は本当か」
ミレーユの表情が固まった。
「え……」
「廊下で突き飛ばされたという話も、本当なのか」
「エドワード様まで、私を疑うのですか?」
涙がこぼれる。
けれど、エドワードはすぐには慰めなかった。
「答えてくれ」
「ひどいです……」
「ミレーユ」
「私は、怖かったんです!」
彼女は泣きながら叫んだ。
「リリアーナ様はいつも完璧で、私が何をしても静かに見ていて……まるで、私のことを馬鹿にしているみたいで……!」
エドワードは黙った。
それは、答えではなかった。
「だから、教科書を隠されたのか」
「……」
「突き飛ばされたのか」
「……私、そんな細かいこと、もう覚えていません」
エドワードの表情が、初めて揺れた。
覚えていない。
婚約破棄の理由になったはずの被害を。
彼がリリアーナを公衆の面前で責めた理由を。
ミレーユは、覚えていないと言った。
「ミレーユ……」
「だって、つらかったんです! 怖かった気持ちは本当なんです!」
彼女は泣いていた。
その涙は本物かもしれない。
けれど、事実とは限らない。
エドワードはそのことを、初めて理解しかけていた。
◇
一方、茶会を終えた私は、フォルスター公爵家の馬車に戻っていた。
窓の外では、夕暮れの王都が金色に染まっている。
長い一日だった。
けれど、不思議と心は軽かった。
「疲れたか」
向かいに座るクラウス様が尋ねる。
「少し」
「今日はよく休め」
「はい」
私は胸元のブローチに触れた。
銀の狼は、夕日の中で静かに光っている。
「クラウス様」
「何だ」
「今日、怖かったです」
「ああ」
「でも、逃げなくてよかったと思います」
クラウス様は静かに私を見つめた。
「君は、自分で自分を守った」
「一人では無理でした」
「なら、これからも隣にいる」
その言葉が、あまりにも自然で。
私は胸が温かくなった。
「ありがとうございます」
「何度も言うが、礼はいらない」
「でも、言わせてください」
クラウス様は少しだけ困ったように目を伏せた。
その表情が珍しくて、私は小さく笑ってしまう。
「何がおかしい」
「クラウス様にも、困ることがあるのですね」
「君の礼には、少し困る」
「なぜですか?」
「守りたくて守っているだけだからだ」
その言葉に、今度は私が黙ってしまった。
胸が、じわじわと熱くなる。
馬車の中に、穏やかな沈黙が落ちた。
その沈黙は、気まずいものではなかった。
むしろ、少し心地よかった。
私は窓の外を見ながら、静かに息を吐く。
今日、ミレーユ嬢の嘘は揺らいだ。
社交界の空気も変わった。
王宮も、もう無視はできないだろう。
けれど、これで終わりではない。
むしろ、ここから本当の調査が始まる。
そして私はまだ知らなかった。
学園に残された記録と証言が、ミレーユ嬢の話を次々と崩していくことを。
そして、エドワード殿下が初めて、取り返しのつかない過ちを犯したのだと気づき始めることを。




