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妹に聖女の座を奪われ婚約破棄されましたが、辺境で薬屋を始めたら冷酷公爵に溺愛されました  作者: 白瀬ほび
第一章 婚約破棄と、冷血公爵の求婚

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4/7

第4話 父の抗議文は、思ったより王宮に刺さったようです

 フォルスター公爵家の馬車に乗り換え、私は王都の本邸へ戻ることになった。


 北方へ向かうはずだった予定は、少しだけ先延ばしになる。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 父ときちんと話すこと。


 それは、私にとって必要な時間なのだと思えたからだ。


 王都の街並みが窓の外を流れていく。


 朝の光に照らされた石畳。


 行き交う人々。


 昨日までと同じ景色なのに、今はどこか遠く感じる。


 私はもう、王宮へ通うためにこの道を見ることはない。


「リリアーナ」


 向かいに座る父が、静かに私の名を呼んだ。


「はい」


「昨日の夜、王宮で何があったのか。お前の口から聞かせてくれるか」


 父の声は落ち着いていた。


 けれど、その奥に抑えた怒りがあるのは分かった。


 私は膝の上で手を重ね、ゆっくりと話し始めた。


 夜会の場で、エドワード殿下に婚約破棄を告げられたこと。


 ミレーユ嬢を虐げたと一方的に責められたこと。


 弁明の機会もほとんど与えられなかったこと。


 そして、私がそれを受け入れて大広間を出たこと。


 話している間、父は一度も口を挟まなかった。


 ただ、表情だけが少しずつ険しくなっていく。


「……そうか」


 すべてを聞き終えると、父は短くそう言った。


 それだけだった。


 けれど、その一言が恐ろしいほど重かった。


「お父様。申し訳ありません」


「なぜ謝る」


「私が婚約者として至らなかったせいで、フォルスター家に傷を――」


「リリアーナ」


 父の声が、私の言葉を遮った。


 その響きに、私は思わず背筋を伸ばす。


「お前は何も悪くない」


「ですが……」


「悪いのは、公衆の面前で婚約者を侮辱し、家同士の約定を感情で壊した王子だ。そして、それを許した王宮だ」


 父ははっきりと言った。


 その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。


 父は厳しい人だった。


 幼い頃から、甘やかされた記憶はあまりない。


 公爵家の娘として恥ずかしくないように。


 王子の婚約者として隙を見せないように。


 そう言われ続けてきた。


 だから私は、どこかで父にも責められると思っていた。


 婚約破棄された娘など、家の失態だと。


 けれど父は、私を責めなかった。


「私は、お前に無理をさせすぎたのかもしれない」


「お父様……?」


「王家との婚約は、家の名誉だと思っていた。お前なら立派に務められると信じていた」


 父は窓の外へ視線を向ける。


「だが、それはお前が幸せかどうかとは別の話だった」


 私は言葉を失った。


 父がそんなことを言うとは思っていなかった。


「十年間、よく耐えたな」


 その一言で、目の奥が熱くなった。


 王妃陛下にも、同じような言葉をかけられた。


 けれど父から言われると、また別の重さがあった。


 幼い頃からずっと認めてほしかった人。


 その人が、今、私を責めずに労わってくれている。


「……ありがとうございます」


 声が少し震えた。


 父は私の顔を見て、眉をわずかに下げた。


「泣いていい」


「え?」


「ここには、王宮の者はいない。完璧な令嬢でいる必要もない」


 その瞬間、堪えていたものが少しだけこぼれた。


 涙が頬を伝う。


 私は慌てて拭おうとしたけれど、指先が震えてうまくいかなかった。


 父は何も言わず、ただ静かに待ってくれた。


 その優しさが、余計に胸に沁みた。


     ◇


 フォルスター公爵家の本邸に着くと、屋敷中が慌ただしく動いていた。


 使用人たちは私の姿を見るなり、ほっとしたような顔をした。


「お嬢様……!」


「お戻りになられてよかった」


「お怪我はございませんか」


 次々に声をかけられ、私は少し驚いた。


 王宮では、私はいつも評価される立場だった。


 完璧で当然。


 失敗すれば責められる。


 けれどこの屋敷では、私が戻っただけで皆が安心してくれる。


 それだけで、自分の居場所がまだ残っていたのだと感じられた。


「皆、心配をかけましたね」


 私がそう言うと、年配の家令が深く頭を下げた。


「ご無事で何よりでございます」


 その声も、少し震えていた。


 私は胸がいっぱいになりながら、応接室へ案内された。


 そこには、クラウス様も同席している。


 父は席に着くと、すぐに本題へ入った。


「ヴァレンシュタイン公爵」


「はい」


「娘に求婚した理由を、改めて聞かせていただきたい」


 父の声は厳しい。


 けれど、クラウス様は少しも怯まなかった。


「リリアーナ嬢の人柄と能力を、以前から評価しておりました」


「能力、ですか」


「ええ。治癒魔法の才能、慈善事業への理解、政治的判断力。そして何より、困難な状況でも他者を思いやれる強さです」


 私は思わず視線を落とした。


 そんなふうに言われると、落ち着かない。


 父はじっとクラウス様を見ている。


「北方では、娘の治癒魔法が必要だと聞きました」


「必要です。ですが、彼女を治癒師として酷使するつもりはありません」


「ほう」


「北方は冬が厳しく、怪我人や病人も多い。彼女の知識が助けになる場面はあるでしょう。ですが、それは彼女の意思を尊重した上での話です」


 クラウス様は一度、私の方を見た。


「私は、彼女に役割を押しつけるために求婚したのではありません」


「では、何のために」


「彼女に、安心して生きられる場所を与えたい」


 静かな言葉だった。


 けれど、迷いはなかった。


「そして私自身も、彼女に隣にいてほしいと望んでいます」


 応接室が静まり返る。


 父はクラウス様の目を見つめたまま、しばらく黙っていた。


 やがて、深く息を吐く。


「正直に言えば、私はまだあなたを完全には信用していない」


「当然です」


「娘は、王家によって傷つけられたばかりだ。次に選ぶ相手を、簡単に信じるわけにはいかない」


「理解しております」


「だが」


 父は少しだけ表情を緩めた。


「少なくとも、あの王子よりはよほどまともに見える」


 アンナが後ろで小さく咳き込んだ。


 笑いを堪えたのだろう。


 クラウス様も、ほんのわずかに口元を緩めた。


「それは、光栄と受け取っておきます」


「まだ褒めてはいない」


「承知しております」


 そのやり取りに、私も少しだけ笑ってしまった。


 父は私を見る。


「リリアーナ。お前はどうしたい」


 まっすぐな問いだった。


 命令ではない。


 家のためにどうすべきかでもない。


 私自身がどうしたいかを、父は聞いてくれている。


 私は胸に手を当て、ゆっくりと答えた。


「私は、クラウス様と北方へ行きたいです」


 父の目がわずかに揺れた。


「王都を離れてもいいのか」


「はい」


「王宮に未練はないのか」


「ありません」


 私ははっきりと言った。


「王宮で学んだことや、王妃陛下に教えていただいたことは無駄ではなかったと思っています。でも、もう戻りたいとは思いません」


「そうか」


「私はこれから、自分の意思で生きてみたいです」


 父はしばらく私を見つめていた。


 そして、静かに頷いた。


「分かった」


 その一言で、私の胸から重いものが落ちた気がした。


「ヴァレンシュタイン公爵。娘との婚約について、私は条件付きで認めます」


「条件を伺いましょう」


「まず、正式な婚約発表は急ぎすぎないこと。王家との婚約破棄があったばかりだ。世間の噂を整理する必要がある」


「承知しました」


「次に、リリアーナの名誉回復を最優先すること。彼女がミレーユ嬢を虐げたという虚偽の噂を放置するつもりはない」


「私も同意見です」


 クラウス様の声が少し冷たくなった。


「むしろ、その点については徹底的に調べるべきでしょう」


「最後に」


 父の視線が鋭くなる。


「リリアーナが嫌がることを、決して強いるな」


「誓います」


 クラウス様は迷わず答えた。


「彼女を傷つける者がいるなら、たとえそれが私自身であっても、彼女が離れる自由を認めます」


 父は目を細めた。


 その返答は、予想外だったのかもしれない。


「よろしい」


 父は短く頷いた。


「では、王家への抗議文を送る」


 空気が変わった。


 父が机の上に置かれた封書を手に取る。


 すでに用意されていたらしい。


「お父様、もう書かれたのですか」


「当然だ」


 父は淡々と言った。


「娘を侮辱された父親が、黙っていると思われては困る」


 その言葉に、胸がまた熱くなった。


 父は私を、公爵家の道具としてではなく、娘として守ろうとしてくれている。


 その事実が、たまらなく嬉しかった。


     ◇


 王宮に抗議文が届いたのは、その日の午後だった。


 封蝋を見た瞬間、受け取った文官の顔色が変わったという。


 フォルスター公爵家。


 王家を支える有力貴族の一つ。


 その公爵家から正式な抗議が届いたとなれば、軽く扱うことはできない。


 抗議文は、すぐに王妃陛下と国王陛下のもとへ届けられた。


 玉座の間ではなく、国王の執務室。


 そこに王妃陛下、エドワード殿下、そして数名の重臣が集められた。


「……読め」


 国王陛下が低く命じる。


 文官は震える手で抗議文を開いた。


 そこに記されていた内容は、極めて丁寧だった。


 だが、丁寧であるほど鋭かった。


 第一に、夜会という公の場で、正式な婚約者であったリリアーナ・フォルスターを一方的に断罪したこと。


 第二に、証拠の提示もなく、男爵令嬢への加害を事実として扱ったこと。


 第三に、王家と公爵家の間で結ばれた婚約を、王子個人の感情で破棄したこと。


 第四に、その翌日になって王宮業務のためにリリアーナを呼び戻そうとしたこと。


 そして最後に。


 リリアーナの名誉を回復する正式な声明と、エドワード殿下からの謝罪を求めること。


 読み上げが終わると、執務室は重い沈黙に包まれた。


 国王陛下は額に手を当てる。


「エドワード」


「はい、父上」


「お前は、自分が何をしたのか分かっているのか」


「私は、ミレーユを守るために――」


「そういう話ではない」


 国王の声が低く響いた。


 エドワードは口を閉じる。


「婚約とは、恋人ごっこではない。王家と公爵家の約定だ。それをお前は、夜会の場で一方的に破棄した」


「ですが、リリアーナはミレーユを……」


「証拠はあるのか」


「それは……ミレーユが泣いていて……」


「泣いていたことは証拠ではない」


 王妃陛下が静かに言った。


 その声には、昨日よりさらに厳しさがあった。


「リリアーナが本当にミレーユ嬢を虐げたのなら、証言と記録を集めるべきでした。あなたはそれをせず、感情だけで断罪したのです」


「母上まで、リリアーナの味方をするのですか」


「違います。私は王妃として当然の判断をしているだけです」


 エドワードは悔しげに唇を噛んだ。


 彼にとって、周囲がリリアーナを評価することは面白くないのだろう。


 しかし、もはや問題は彼の感情では済まなかった。


 重臣の一人が口を開く。


「陛下。フォルスター公爵家の抗議はもっともでございます。このまま放置すれば、他の貴族家も不安を抱くでしょう」


「王家との婚約が王子の気分で破棄されるとなれば、娘を差し出す家は減ります」


「加えて、ヴァレンシュタイン公爵家がリリアーナ嬢を保護しているとの噂もございます」


 その言葉に、エドワードが反応した。


「保護だと? あれは当てつけだ!」


 国王陛下の眉がぴくりと動いた。


「当てつけ?」


「リリアーナは私に未練があるから、わざとヴァレンシュタイン公爵と婚約しようとしているのです」


 重臣たちの表情が微妙に歪んだ。


 王妃陛下は深くため息をつく。


「エドワード。リリアーナは、あなたの申し出を明確に拒んだのでしょう」


「それは……意地を張っているだけです」


「あなたは、本気でそう思っているのですか」


 王妃陛下の声に、失望が滲んだ。


 エドワードは答えられなかった。


 国王陛下はしばらく沈黙し、やがて命じた。


「フォルスター公爵家には、王家として正式に謝罪文を送る」


「父上!」


「エドワード、お前も謝罪文を書け」


「なぜ私が!」


「お前が原因だからだ」


 国王の声に、今度こそ怒りが混じった。


「そして、ミレーユ嬢との婚約承認は保留する。彼女の身辺調査をやり直せ」


「身辺調査ですか?」


 王妃陛下が問い返す。


「そうだ。リリアーナへの嫌がらせの件も含めて、事実を調べる」


「そんな必要はありません! ミレーユは嘘など――」


「お前の判断は信用できん」


 その一言に、エドワードは完全に黙り込んだ。


 国王陛下は疲れたように椅子へ背を預けた。


「リリアーナ嬢を失っただけでは済まぬかもしれんな」


 その呟きに、誰も答えられなかった。


     ◇


 一方、その頃。


 王都の社交界では、すでに噂が広がり始めていた。


 貴族たちの情報網は、時に王宮の正式発表より早い。


 昨夜の婚約破棄。


 王宮の混乱。


 聖ルミナ慈善院からの抗議。


 フォルスター公爵家の正式抗議。


 そして、リリアーナがヴァレンシュタイン公爵から求婚されたという話。


 すべてが、半日も経たないうちに茶会の話題となった。


「聞きました? リリアーナ様、ヴァレンシュタイン公爵と婚約なさるそうよ」


「まあ、あの冷血公爵と?」


「けれど、考えてみればお似合いではなくて? リリアーナ様ほど落ち着いた方なら、北方の公爵夫人も務まるでしょう」


「それにしても、エドワード殿下は惜しいことをなさいましたわね」


「惜しいどころではありませんわ。王宮の仕事が止まったそうですもの」


「ミレーユ様でしたかしら。新しい候補の方は、慈善院で失言なさったとか」


「まあ……王子妃候補としては少し心配ですわね」


 噂は少しずつ形を変えながら広がっていく。


 だが、その多くは私に同情的だった。


 それも当然だったのかもしれない。


 私は王宮で十年間、目立たずに仕事をしてきた。


 それを見ていた人々は、少なくなかったのだ。


 茶会の片隅で、一人の伯爵夫人が扇を閉じる。


「リリアーナ様が男爵令嬢を虐げたなど、私は信じませんわ」


「なぜですの?」


「以前、私の娘が学園で困っていた時、助けてくださったのはリリアーナ様でしたもの。あの方は、弱い立場の者に手を差し伸べる方です」


「私も同じです。慈善院の職員が言っておりました。リリアーナ様は、子どもたちの名前まで覚えておられたと」


「では、ミレーユ様の話は……」


 そこで皆、口を閉ざした。


 証拠もないうちに断言するほど、彼女たちは愚かではない。


 けれど、空気は確実に変わっていた。


 昨日まで、可憐な被害者として見られていたミレーユ嬢。


 その評価に、小さなひびが入り始めていた。


     ◇


 フォルスター公爵家では、北方へ向かう準備が改めて進められていた。


 父との話し合いを終えたあと、私は自室で荷物を確認していた。


 アンナが横で、厚手の外套を広げている。


「北方はかなり寒いそうですから、こちらも必要ですね」


「まだ春なのに?」


「北方の春は、王都の冬くらい寒い日もあるそうです」


「それは……覚悟が必要ね」


 私が苦笑すると、アンナも笑った。


 部屋の空気は、昨日よりずっと穏やかだった。


 すると、扉が軽く叩かれる。


「リリアーナ嬢、入っても?」


 クラウス様の声だった。


「どうぞ」


 彼が部屋へ入ってくる。


 手には、小さな箱を持っていた。


「出発前に渡しておきたいものがある」


「私に、ですか?」


「ああ」


 クラウス様は箱を差し出した。


 受け取って開けると、中には銀色のブローチが入っていた。


 狼と雪の結晶をかたどった、美しいブローチだった。


「これは……」


「ヴァレンシュタイン家の紋章を簡略化したものだ。正式な婚約発表前でも、それを身につけていれば、君が私の保護下にあると示せる」


「保護下……」


「不快だったか?」


 クラウス様が少しだけ眉を寄せる。


 私はすぐに首を振った。


「いいえ。不快ではありません。ただ、守られているのだと実感して、少し驚いただけです」


「君は守られることに慣れていない」


「……そうかもしれません」


「なら、少しずつ慣れればいい」


 彼は当然のように言った。


 その言葉が、胸に柔らかく落ちる。


 私はブローチをそっと手に取った。


 銀の狼は、冷たく見えるのに、どこか優しい光を放っている。


「ありがとうございます。大切にします」


「ああ」


 クラウス様は短く頷いた。


 その時、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。


 また何かあったのだろうか。


 アンナが扉を開けると、家令が立っていた。


「お嬢様、旦那様よりお呼びでございます」


「お父様が?」


「はい。王宮より、早くも返書が届いたとのことです」


 クラウス様の表情がわずかに鋭くなる。


「早いな」


「はい。かなり急いで届けられたようです」


 私はブローチを胸元につけ、父の執務室へ向かった。


     ◇


 父の執務室には、すでに王宮からの封書が置かれていた。


 父はそれを読み終えたところらしく、机の上に置いている。


「お父様、王宮から何と?」


「王家として正式に謝罪する、とのことだ」


「……そうですか」


「ただし、エドワード殿下本人の謝罪文は、まだ届いていない」


 父の声が冷える。


 おそらく、殿下が拒んでいるのだろう。


 想像できてしまう自分が悲しかった。


「王家は、事態を収めたいようだ」


「それはそうでしょうね」


 クラウス様が淡々と言った。


「フォルスター家とヴァレンシュタイン家を同時に敵に回すのは、王家にとって損が大きすぎる」


「その通りです」


 父は頷いた。


「だからこそ、こちらは焦る必要がない」


「お父様は、どうなさるおつもりですか」


「リリアーナの名誉回復が先だ」


 父ははっきりと言った。


「王家には、夜会での発言が正式な調査を経たものではなかったと公表させる。ミレーユ嬢の証言についても、調査中であると明言させる」


「それでは、殿下の面目が……」


「そんなものは知らん」


 父は即答した。


 私は思わず瞬きをした。


 父がここまで強く出るとは思わなかった。


「お前の名誉を傷つけておいて、王子の面目を守れなどという話は通らない」


「……ありがとうございます」


「礼を言う必要はない。これは父親として当然のことだ」


 その言葉に、また涙が出そうになった。


 けれど今度は堪えられた。


 泣くよりも、前に進みたいと思えたからだ。


 父はクラウス様へ視線を向ける。


「ヴァレンシュタイン公爵。あなたの家からも、婚約の意向を王宮へ伝えていただきたい」


「すでに準備しております」


「早いですな」


「彼女に関することですので」


 クラウス様は当然のように答えた。


 父は少しだけ目を細める。


「なるほど」


 何かを見定めるような表情だった。


 けれど、以前ほど厳しいものではなかった。


「では、こちらも動く。リリアーナ、お前は明日まで屋敷で休みなさい」


「ですが――」


「休みなさい」


 父の声は穏やかだが、逆らえない強さがあった。


「今まで十分働いた。今は、何もしないことに慣れろ」


「何もしないこと、ですか」


「そうだ」


 私は少し困ってしまった。


 何もしない。


 それが一番難しいかもしれない。


 王宮にいた頃は、朝から晩まで予定が詰まっていた。


 空いた時間があれば、書類を読んだり、礼儀作法を復習したり、治癒魔法の練習をしたりしていた。


 何もしない時間など、ほとんどなかった。


 クラウス様が静かに言う。


「では、庭を散歩するといい」


「庭、ですか」


「ああ。王都を離れる前に、この屋敷の景色を見ておくのも悪くない」


 その提案に、父も頷いた。


「そうしなさい。母上の好きだった薔薇が咲き始めている」


 母。


 その言葉に、私は胸が少しだけ痛んだ。


 幼い頃に亡くなった母は、フォルスター家の庭をとても大切にしていた。


 王宮に通うようになってから、私はその庭をゆっくり眺めることさえ忘れていた。


「分かりました」


 私は頷いた。


「少し、歩いてきます」


     ◇


 庭に出ると、柔らかな風が頬を撫でた。


 王都の春は、北方へ向かう前の私を見送るように穏やかだった。


 薔薇はまだ満開ではない。


 けれど、いくつかの蕾がほころび始めている。


 私はゆっくりと小道を歩いた。


 アンナは少し離れた場所で待ってくれている。


 クラウス様は、私の隣を静かに歩いていた。


「綺麗な庭だな」


「母が好きだった庭です」


「そうか」


「私は、あまり見ていませんでした」


 自分で言って、少し寂しくなる。


「王宮のことで頭がいっぱいで。ここに帰ってきても、次の授業や公務のことばかり考えていました」


「これからは、見る時間がある」


「そうですね」


 私は足を止め、淡い白薔薇の蕾に触れた。


 柔らかな花びらが、指先に触れる。


「こんなに静かだったのですね。この庭」


「ああ」


「私は、ずっと急いでいたのかもしれません」


 完璧にならなければ。


 認められなければ。


 役に立たなければ。


 そう思って、前だけを見て走っていた。


 でも本当は、立ち止まってもよかったのかもしれない。


「リリアーナ嬢」


 クラウス様が私を呼ぶ。


「はい」


「北方にも庭がある」


「そうなのですか?」


「ああ。ただし、王都のように薔薇は多くない。雪に強い花が中心だ」


「どんな花ですか」


「白鈴花という、小さな白い花だ。雪解けの頃に咲く」


「見てみたいです」


「なら、案内する」


 その短い約束が、嬉しかった。


 未来のことを考えて、少し楽しみだと思える。


 そんな感覚は、久しぶりだった。


 その時、屋敷の方からアンナが慌てた様子で近づいてきた。


「お嬢様、失礼いたします」


「どうしたの?」


「王都で、妙な噂が流れ始めているそうです」


 私は眉をひそめた。


「妙な噂?」


 アンナは言いにくそうに唇を噛む。


「その……お嬢様がヴァレンシュタイン公爵様を誘惑し、王家への復讐のために婚約を迫った、という噂です」


 空気が一瞬で冷えた。


 クラウス様の表情が消える。


 私は静かに息を吸った。


「そう」


 驚きはあまりなかった。


 むしろ、来るならそういう方向だろうと思っていた。


 私を悪者にしなければ困る者がいる。


 エドワード殿下か。


 ミレーユ嬢か。


 あるいは、その周辺か。


「お嬢様……」


 アンナが心配そうに私を見る。


 私はゆっくりと手を下ろした。


「大丈夫よ」


 心は揺れている。


 けれど、以前ほど怖くはなかった。


 もう私は一人ではない。


 父も、アンナも、クラウス様もいる。


 クラウス様が低い声で言った。


「誰が流したか、すぐに調べる」


「クラウス様」


「君の名誉をまた傷つけるなら、黙ってはいない」


 その目は、氷のように冷たかった。


 けれど私は、その冷たさを怖いとは思わなかった。


 私のために怒ってくれているのだと分かったから。


「ありがとうございます。でも、私も逃げるだけでは嫌です」


 クラウス様が私を見る。


「どうするつもりだ」


「噂を否定するだけでは、また別の噂が流れます」


 私は胸元のブローチに触れた。


 銀の狼が、指先で小さく光る。


「だから、私自身の言葉で示したいです」


「何を」


「私は復讐のためではなく、自分の意思であなたの隣に立つのだと」


 クラウス様の目が、わずかに見開かれる。


 私はまっすぐ彼を見た。


「それに、王宮でのことも、黙っていれば勝手な物語にされてしまう。ならば、私が何をしてきたのか、正しく知ってもらう必要があります」


 王宮での十年間を、ただの犠牲にしたくない。


 苦しかったことも多かった。


 けれど、確かに私が積み上げてきたものだ。


 それを誰かの嘘で汚されるのは、もう嫌だった。


 クラウス様はしばらく黙っていた。


 やがて、静かに頷く。


「分かった。ならば、社交界に一度顔を出すか」


「社交界に?」


「明後日、王都で大きな茶会がある。王妃派の貴婦人たちも、フォルスター家に近い者も出席する。そこで君が堂々としていれば、噂の流れは変わる」


「ですが、婚約破棄の直後に茶会へ出れば、余計に注目されるのでは」


「注目されるからいい」


 クラウス様は淡々と言った。


「隠れれば、やましいことがあると思われる。堂々と出れば、噂を流した者が焦る」


 確かに、その通りだった。


 王宮にいた頃の私なら、波風を立てないために控えていただろう。


 けれど今は、ただ耐えるだけではいけない。


「分かりました」


 私は頷いた。


「出席します」


 アンナが驚いた顔をした。


「お嬢様、本当によろしいのですか?」


「ええ。怖くないと言えば嘘になるけれど……逃げたくないの」


 そう言うと、クラウス様が少しだけ口元を緩めた。


「君は強いな」


「強くなりたいだけです」


「それで十分だ」


 その言葉に、私は小さく笑った。


 王宮を離れ、北方へ向かう前に。


 私はもう一度、社交界の前に立つことになる。


 噂と好奇の視線が待つ場所へ。


 けれど、今度は一人ではない。


 私の胸元には、銀の狼のブローチがある。


 私の隣には、冷血公爵と呼ばれる人がいる。


 そして私自身も、もう昨日までの私ではない。


 誰かに選ばれるのを待つ令嬢ではなく。


 自分の未来を、自分で選ぶ一人の人間として。


 私は、もう一度顔を上げる。


 そしてこの時の私は、まだ知らなかった。


 明後日の茶会で、噂を流した張本人が姿を現すことを。


 そしてその場で、ミレーユ嬢の嘘が初めて大きく崩れ始めることを。


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