表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妹に聖女の座を奪われ婚約破棄されましたが、辺境で薬屋を始めたら冷酷公爵に溺愛されました  作者: 白瀬ほび
第一章 婚約破棄と、冷血公爵の求婚

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/7

第3話 新しい王子妃候補は、初めての公務でやらかしたようです

 エドワード殿下が屋敷を去ったあと、私はしばらく応接室に立ち尽くしていた。


 窓の外では、王家の馬車が遠ざかっていく。


 その音が完全に聞こえなくなってから、ようやく肩の力が抜けた。


「……終わったのですね」


 私が小さく呟くと、隣にいたクラウス様が静かに答えた。


「少なくとも、今夜はな」


「今夜は、ですか」


「あの王子がこれで諦めるとは思えない」


 たしかに、その通りだった。


 エドワード殿下は昔から、自分の思い通りにならないことが嫌いだった。


 それは王族として育ったからというより、周囲が彼のわがままを許し続けてきた結果なのだと思う。


 私も、その一人だった。


 殿下の機嫌を損ねないように。


 殿下が恥をかかないように。


 殿下の不足を、私が先回りして補っていた。


 今思えば、それこそが間違いだったのかもしれない。


「リリアーナ嬢」


 クラウス様が私の名を呼んだ。


「はい」


「明日の朝、北方へ向かう準備を進める。君の荷物は私の馬車で運ばせよう」


「よろしいのですか?」


「ああ。王宮がまた人を寄越す前に、王都を離れた方がいい」


 その言葉に、私は少しだけ息を呑んだ。


 王都を離れる。


 昨日までの私なら、考えることさえできなかった。


 王宮、学園、社交界。


 そのすべてが、私の世界だった。


 けれど今は違う。


 私にはもう、別の道がある。


「ありがとうございます、クラウス様」


「礼は不要だ。君は私の婚約者になるのだから」


 婚約者。


 その言葉に、胸がくすぐったくなる。


 昨日まで私は、エドワード殿下の婚約者だった。


 けれどそれは、義務と責任に縛られた立場だった。


 クラウス様の婚約者という言葉は、不思議と重苦しくない。


 もちろん、公爵家に嫁ぐ以上、責任はある。


 それでも、彼は私を道具としてではなく、一人の人間として扱ってくれている。


 それだけで、こんなにも違うのだ。


「お嬢様」


 アンナがそっと声をかけてきた。


「明日のご出発でしたら、今夜のうちに荷物をまとめてしまいましょう」


「そうね。お願いできる?」


「もちろんです!」


 アンナは力強く頷いた。


 その表情は、昨日よりずっと明るい。


「私も一緒に北方へお連れくださいませ。お嬢様を一人にはできません」


「ええ。もちろんよ。あなたがいてくれたら心強いわ」


「はい!」


 アンナの目に涙が浮かんだ。


 その涙は、昨夜のような悲しみの涙ではなかった。


 少しだけ、私まで泣きそうになる。


 けれど今は泣かない。


 私はもう、前に進むと決めたのだから。


 その頃、王宮では。


 私が想像していた以上の混乱が起きていた。


     ◇


「どういうことだ!」


 王宮の執務室に、エドワード殿下の怒声が響いた。


 机の上には、春祭りの予算案、慈善事業の報告書、隣国への返書、王宮晩餐会の招待客名簿が山のように積まれている。


 そのどれもが、未処理のまま放置されていた。


 文官たちは青ざめた顔で立ち尽くしている。


「殿下、ですから申し上げました通り、これらはすべてリリアーナ様が確認なさっていたものでして……」


「だから何だ! お前たちは文官だろう!」


「もちろん、通常業務であれば可能でございます。しかし、王妃陛下のご判断を仰ぐ前段階の調整や、貴族間の力関係を踏まえた修正などは、リリアーナ様が最も詳しく……」


「もうその名を出すな!」


 エドワードは机を叩いた。


 書類の束が崩れ、数枚が床に散らばる。


 文官の一人が慌てて拾おうとしたが、エドワードは苛立ったようにそれを睨みつけた。


「リリアーナなどいなくても、王宮は回る。あの女は少し仕事ができただけだ」


 そう言ったものの、エドワード自身も薄々気づいていた。


 リリアーナがいなくなっただけで、王宮の動きが明らかに鈍っている。


 今までは、必要な書類が必要な時に机の上に置かれていた。


 会議の前には論点がまとめられていた。


 貴族との面会では、相手の家格や最近の事情が簡潔に記された紙が用意されていた。


 だが今は、何もない。


 誰も先回りしてくれない。


 誰も失敗を防いでくれない。


 それが、こんなにも面倒なことだとは思わなかった。


「エドワード様……」


 甘えるような声がして、エドワードは表情をやわらげた。


 執務室の隅で、ミレーユが不安そうに立っている。


 淡い水色のドレスをまとい、胸元には昨日エドワードから贈られた真珠の飾りをつけていた。


「ミレーユ、怖がらなくていい。君は何も悪くない」


「でも……皆様、私のことを見ている気がして……」


 ミレーユは瞳を潤ませた。


 それだけで、エドワードの胸は痛んだ。


 リリアーナは泣かなかった。


 いつも冷静で、何を考えているか分からなかった。


 だがミレーユは違う。


 か弱く、守ってやりたくなる。


 だからこそ、彼女こそ自分の隣にふさわしいのだと、エドワードは信じていた。


「心配するな。今日の慈善院の視察は、君の初めての公務だ。皆に君の優しさを知ってもらう良い機会になる」


「私、頑張ります。リリアーナ様みたいにはできないかもしれませんけど……」


「君はあんな冷たい女の真似をする必要はない。君らしく、優しく微笑んでいればいい」


 その言葉に、文官たちの顔がさらに青ざめた。


 慈善院の視察は、ただ微笑めばいい公務ではない。


 寄付金の配分、孤児や病人の状況確認、院長との意見交換、今後の支援方針の決定。


 本来なら、事前資料を読み込んだ上で臨むべきものだ。


 リリアーナなら、前日までに院の収支、薬品の不足状況、職員の勤務表まで確認していた。


 だがミレーユは、まだ資料に目を通してすらいない。


「殿下、恐れながら……ミレーユ様には、事前説明をもう少しお聞きいただいた方が」


「必要ない。細かい話はお前たちがすればいい」


「しかし、慈善院側から質問があった場合は……」


「その時は私が答える」


 エドワードは自信満々に言った。


 文官たちは顔を見合わせた。


 殿下も、資料を読んでいない。


 だが、それを指摘できる者はいなかった。


     ◇


 王都の東地区にある聖ルミナ慈善院。


 そこは、身寄りのない子どもや病人、生活に困った者たちを受け入れる施設だった。


 元々は王妃陛下が力を入れていた事業で、近年はリリアーナが補佐として細かな改善を進めていた。


 薬草園を整備し、冬用の毛布を増やし、寄付金の使い道を透明化した。


 そのおかげで、慈善院の評判は少しずつ良くなっていた。


 だからこそ、今日の視察は重要だった。


 新しい王子妃候補であるミレーユが、リリアーナの後任としてふさわしいか。


 多くの貴族が、密かに注目していた。


「まあ……思っていたより古い建物なのですね」


 馬車から降りたミレーユは、慈善院を見上げてそう言った。


 声は小さかったが、近くにいた院長には聞こえていた。


 院長の表情がわずかに強張る。


 エドワードは気づかない。


「ミレーユ、足元に気をつけて」


「ありがとうございます、殿下」


 二人は寄り添うように歩き出した。


 出迎えた子どもたちが、緊張した面持ちで礼をする。


 その中に、幼い少女が一人いた。


 少女はミレーユのドレスを見て、ぽつりと呟いた。


「お姫様みたい……」


 ミレーユは嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう。あなたも、いつか綺麗なドレスを着られるといいわね」


 悪気はなかったのだろう。


 けれどその場の空気が、微妙に冷えた。


 慈善院の子どもたちは、綺麗なドレスを着るためにここにいるわけではない。


 彼らに必要なのは、安定した食事と教育、そして安心して眠れる場所だ。


 院長は丁寧に笑みを浮かべたが、その目は笑っていなかった。


「こちらが、現在の薬品保管室でございます」


 院長は二人を案内しながら説明を始めた。


「先月より発熱する子どもが増えておりまして、解熱薬と清潔な布が不足しております。リリアーナ様には、次回予算で増額をご検討いただいておりました」


 ミレーユは首を傾げた。


「解熱薬……ですか?」


「はい。特に幼い子どもは悪化が早いため、早急な対応が必要です」


「でも、薬ばかりに頼るのは良くないのではありませんか?」


「え?」


 院長が固まった。


 ミレーユは自分の考えを褒めてもらえると思ったのか、さらに続ける。


「私、田舎にいた頃、おばあさまから聞いたことがあります。病気は気持ちが弱いと悪くなるのだと。だから、皆で明るく歌ったり祈ったりすれば、きっと元気になります」


 文官の一人が目を閉じた。


 院長の表情から、血の気が引いていく。


 エドワードは満足そうに頷いた。


「さすがミレーユだ。君は本当に心が優しい」


「そんな……私、思ったことを言っただけです」


 ミレーユは頬を染めた。


 だが、院長は笑えなかった。


「もちろん、心の支えも大切でございます。しかし、熱が高い子には薬が必要です。祈りだけでは命を救えません」


「まあ……そんな言い方をしなくても」


 ミレーユの瞳に涙が浮かぶ。


「私、ただ皆さんを励ましたかっただけなのに……」


「ミレーユを責めるな」


 エドワードが院長を睨んだ。


「彼女は善意で言っているのだ」


「殿下、私は責めたわけではございません。ただ、現場として必要なものをお伝えしているだけで……」


「分かっている。だが、予算には限りがある。薬ばかり買えというのは贅沢ではないか?」


 その瞬間、文官たちの顔が完全に青ざめた。


 贅沢。


 慈善院の解熱薬を、王子が贅沢と言った。


 院長は静かに頭を下げた。


「……承知いたしました」


 その声は、冷えていた。


 だがエドワードは、まだ自分の失言に気づいていなかった。


     ◇


 さらに問題は続いた。


 食堂の視察では、ミレーユが子どもたちの食事を見て言った。


「もう少し彩りを良くした方が、皆さん喜ぶのではありませんか?」


 院長が答える。


「彩りを増やすためには、野菜や果物の仕入れを増やす必要がございます」


「では、お花を飾るのはどうでしょう? 食卓が華やかになりますし」


「花よりも、まず食材が必要でございます」


「……私の提案、お嫌でしたか?」


 また涙。


 エドワードはすぐにミレーユの肩を抱いた。


「院長、言葉に気をつけろ。ミレーユはこの院を良くしようとしている」


 院長は何も言わなかった。


 けれど周囲の職員たちは、明らかに不満を隠せていなかった。


 次に、子どもたちの寝室へ向かった。


 そこでは、冬用の毛布が不足しているという説明があった。


「昨年、リリアーナ様のご提案で毛布を追加していただいたのですが、今年は入所者が増えまして……」


 職員がそう説明すると、ミレーユはぱっと顔を輝かせた。


「それなら、皆で一緒に眠れば温かいのではありませんか?」


 場が沈黙した。


 文官の一人が小さく咳き込む。


 職員は困ったように答えた。


「感染症の子どももおりますので、寝具の共有は危険でございます」


「あ……そうなのですね」


 ミレーユは恥ずかしそうに目を伏せた。


 普通なら、そこで学べばよかった。


 だが彼女は、自分が間違えたことを受け止めるより先に、悲しそうな顔をした。


「私、何も知らなくて……やっぱりリリアーナ様みたいにはできません……」


 エドワードはすぐに言った。


「気にするな。リリアーナは知識をひけらかしていただけだ。君のような優しさこそ、人々には必要だ」


 職員たちの表情が一斉に固くなった。


 知識をひけらかしていただけ。


 彼がそう言ったリリアーナは、毎月この院を訪れ、子どもたち一人ひとりの名前を覚え、薬草園の土に自ら触れ、職員の負担を減らすために勤務表まで見直していた。


 その事実を知る者たちは、エドワードの言葉を聞いて完全に冷めた目になった。


 そして最後に、決定的な失敗が起きた。


「こちらが、今年度の追加支援案でございます」


 院長が一枚の書類を差し出した。


「解熱薬、清潔な布、冬用毛布、修繕費。優先順位をつけて記載しております。リリアーナ様は、薬品と布を第一にすべきだとおっしゃっていました」


 ミレーユは書類を受け取った。


 そして、困ったように眉を下げる。


「えっと……文字が多くて、少し難しいです」


 文官が慌てて補足しようとする。


「では、私から要点を説明いたします。まず薬品費について――」


「あ、待ってください」


 ミレーユは書類の端に目を留めた。


 そこには、孤児たちの教育費についても記載があった。


「この教育費というのは?」


「子どもたちに読み書きや計算を教えるための費用でございます。将来、仕事に就くためには必要で……」


「でも、薬や毛布が足りないのですよね?」


「はい。ですので、今年は薬品費を優先しつつ、最低限の教育費は残す形で……」


「それなら、教育費を削ればいいのではありませんか?」


 院長の顔色が変わった。


「ミレーユ様、それは……」


「だって、まずは生きることが大切なのでしょう? お勉強は、元気になってからでもできます」


 たしかに、一見すると正しそうに聞こえる。


 だが、慈善院にいる子どもたちにとって、教育は将来ここを出て生きていくための命綱だった。


 読み書きも計算もできなければ、まともな職に就くことは難しい。


 リリアーナが何年もかけて確保した教育費を、ミレーユは一瞬で削ろうとした。


 院長ははっきりと首を横に振った。


「それはできません。教育費を削れば、子どもたちの将来が閉ざされます」


「でも、今必要なのは薬なのでしょう?」


「だからこそ、リリアーナ様は他の費目を調整し、寄付者への説明文まで用意してくださっていました」


 その瞬間、ミレーユの表情が曇った。


「また、リリアーナ様……」


 ぽろりと涙がこぼれる。


「私、頑張っているのに……皆様、リリアーナ様と比べてばかり……」


「ミレーユ!」


 エドワードが彼女を抱き寄せた。


 そして院長に向かって声を荒げる。


「もういい! この視察は終わりだ!」


「殿下、しかし支援案のご確認が……」


「そんなもの、後で王宮に送れ!」


「ですが、来週には薬品の発注を――」


「しつこいぞ!」


 エドワードの怒声に、子どもたちが怯えて身を縮めた。


 それを見た院長の目が、静かに怒りを帯びる。


「……承知いたしました。では、本日の視察内容は、報告書として王妃陛下へ提出いたします」


 エドワードは鼻を鳴らした。


「好きにしろ」


 そしてミレーユを連れて、慈善院を出ていった。


 残された職員たちは、しばらく誰も口を開かなかった。


 やがて、院長が深く息を吐く。


「リリアーナ様は……本当に戻ってこられないのですね」


 その言葉に、誰も答えられなかった。


     ◇


 翌朝。


 私はクラウス様の馬車に乗り、王都を出発する準備をしていた。


 荷物はすでに積み込まれている。


 アンナは私の隣で、何度も忘れ物がないか確認していた。


「薬草書、予備のドレス、外套、手袋、筆記具……大丈夫です。全部あります」


「ありがとう、アンナ」


 私は屋敷を振り返った。


 この王都の屋敷には、幼い頃から何度も滞在してきた。


 王子妃教育を受けるために通った場所。


 嬉しい思い出より、緊張や不安の方が多かった場所。


 けれど今日で、いったん別れだ。


「リリアーナ嬢」


 クラウス様が馬車の前で私を待っていた。


「体調は?」


「大丈夫です」


「無理はするな。北方までは長旅になる」


「はい」


 彼は私に手を差し出した。


 私はその手を取り、馬車に乗ろうとした。


 そのときだった。


「リリアーナ様!」


 背後から声がした。


 振り返ると、王宮の侍女が息を切らして走ってきていた。


 昨日も来た、王妃陛下付きの侍女だ。


「どうかなさいましたか?」


「王妃陛下より、急ぎのお手紙でございます」


 彼女は震える手で封書を差し出した。


 王妃陛下の封蝋が押されている。


 私は少し迷ってから、それを受け取った。


 封を切り、中を読む。


 そこには、短いながらも丁寧な文字でこう記されていた。


『リリアーナ嬢。昨夜の件、そしてこれまで王宮があなたに負わせてきたものについて、私は深く反省しています。直接謝罪する機会をいただきたい。どうか一度だけ、私と話をしてはくれませんか』


 私は手紙を見つめたまま、しばらく黙っていた。


 王妃陛下。


 厳しい方だった。


 何度も叱られた。


 何度も泣きそうになった。


 けれど、それでも私に王妃としての仕事を教えてくれたのは、あの方だった。


 完全に嫌いになることは、できなかった。


「お嬢様……?」


 アンナが心配そうに私を見る。


 私はゆっくりと手紙を畳んだ。


「王妃陛下が、私に会いたいそうです」


 クラウス様の表情がわずかに険しくなる。


「行く必要はない。君を都合よく呼び戻すための言葉かもしれない」


「はい。分かっています」


 それでも、私は手紙から目を離せなかった。


 王宮に戻りたいわけではない。


 エドワード殿下の婚約者に戻るつもりもない。


 ただ、王妃陛下だけは、私が何も言わずに去るべき相手ではない気がした。


「クラウス様」


「何だ」


「少しだけ、王宮へ行ってもよろしいでしょうか」


 アンナが驚いた顔をした。


 クラウス様は、私をじっと見つめる。


「君が望むなら止めない。ただし、私も行く」


「はい。お願いします」


「そして、少しでも君を傷つける言葉が出たら、すぐに連れ帰る」


 その言い方があまりにも真剣で、私は思わず小さく笑ってしまった。


「ありがとうございます」


「礼はいらない」


 クラウス様は当然のように言った。


「君を守るのは、私の役目だ」


 その言葉に、また胸が温かくなる。


 私は馬車に乗り込んだ。


 北方へ向かうはずだった馬車は、予定を変えて王宮へ向かう。


 王宮の門が近づくにつれ、胸の奥が少しずつ重くなっていった。


 昨日まで私が通い続けた場所。


 私を捨てた場所。


 そして、私の十年間が詰まった場所。


 もう戻るつもりはない。


 けれど、最後に向き合わなければならないものがある。


     ◇


 王宮に着くと、空気が明らかに昨日までと違っていた。


 廊下を行き交う文官たちは慌ただしく、侍女たちは顔を曇らせている。


 私の姿を見た瞬間、何人かがほっとしたような顔をした。


 けれど私は、目を伏せた。


 その期待には応えられない。


 私はもう、王宮のために戻ってきたわけではないのだから。


 王妃陛下の私室に通されると、そこには陛下が一人で座っていた。


 いつも完璧に整えられている髪は、今日は少しだけ乱れている。


 表情にも、疲れが滲んでいた。


「リリアーナ」


 王妃陛下は立ち上がった。


 そして、私を見るなり深く頭を下げた。


「申し訳ありませんでした」


 私は息を呑んだ。


 王妃が、公爵令嬢に頭を下げる。


 そんな光景、あり得ない。


「陛下、お顔をお上げください」


「いいえ。まず謝らせてちょうだい」


 王妃陛下の声は震えていた。


「私は、あなたに多くを背負わせすぎました。あなたが優秀だからと、まだ正式な王族でもないあなたに、王宮の仕事を任せすぎた。そして昨日、エドワードがあのような愚行に出た時、私はその場にいなかった」


「陛下……」


「母としても、王妃としても、恥ずべきことです」


 私は何も言えなかった。


 胸の奥に、ずっと押し込めていたものが込み上げてくる。


 誰かに謝ってほしかった。


 ただ一言でよかった。


 あなたは悪くなかった。


 そう言ってほしかった。


「リリアーナ」


 王妃陛下は顔を上げた。


「あなたは、よく尽くしてくれました。誰よりも努力し、誰よりも王宮を支えてくれた。私はそれを知っています」


 視界が少し滲んだ。


 泣かないと決めていたのに。


 その言葉だけは、少し遅すぎるけれど、欲しかったものだった。


「……ありがとうございます」


 私はようやくそれだけを言った。


 王妃陛下は悲しそうに微笑む。


「あなたに戻ってほしいとは言いません」


 その言葉に、私は顔を上げた。


「本当は、戻ってほしい。けれど、それを言う資格が私たちにはない。あなたはもう、自分の幸せを選ぶべきです」


 王妃陛下の視線が、私の後ろに立つクラウス様へ向いた。


「ヴァレンシュタイン公爵」


「はい」


「この子を、どうか大切にしてください」


「言われるまでもありません」


 クラウス様は迷いなく答えた。


「私は彼女を、王宮のようには扱わない」


 かなり鋭い言葉だった。


 王妃陛下はそれを受け止めるように、静かに頷いた。


「それで構いません。むしろ、そうでなければ困ります」


 部屋に、短い沈黙が落ちた。


 そのとき、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。


「王妃陛下!」


 扉の外で侍女の声がする。


「何事です」


「聖ルミナ慈善院より、正式な抗議文が届きました!」


 王妃陛下の顔色が変わった。


「抗議文?」


「はい。昨日の視察におけるエドワード殿下とミレーユ様のご発言について、慈善院側が強く説明を求めております」


 私は思わず目を伏せた。


 来ると思っていた。


 あの慈善院の院長は、穏やかだが筋を曲げない人だ。


 子どもたちを軽んじる発言があれば、黙っているはずがない。


 王妃陛下は額に手を当てた。


「……エドワードは、いったい何を言ったのですか」


 侍女は言いにくそうに口を開いた。


「薬品費を贅沢だと。さらに、ミレーユ様が教育費を削る提案をなさったと……」


「なんですって」


 王妃陛下の声が低くなった。


 部屋の空気が一瞬で張り詰める。


 さすがに、これはまずい。


 慈善事業は王妃陛下が長年築いてきた信頼の柱だ。


 そこに傷がつけば、王家への不信にも繋がる。


「すぐにエドワードを呼びなさい」


「かしこまりました」


 侍女が去っていく。


 王妃陛下は深く息を吐いた。


「リリアーナ……あなたなら、この件をどう見ますか」


 その問いに、私は一瞬だけ迷った。


 答えれば、また王宮の仕事に関わることになる。


 けれどこれは、慈善院の子どもたちに関わる問題だ。


 私の意地だけで黙ることはできなかった。


「陛下。まず、慈善院には王妃陛下ご自身の名で謝罪を出すべきです。薬品費は予定通り確保し、教育費には手をつけないと明言してください」


「ええ」


「その上で、視察記録を確認し、殿下とミレーユ様のご発言を正式に訂正する必要があります。特に薬品を贅沢とした発言は、他の支援者にも不信を与えます」


 話しながら、自分の声が自然と仕事の時のものに戻っていることに気づいた。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 これは王宮のためではない。


 慈善院の子どもたちのためだ。


「それから、今後ミレーユ様を公務に出す場合は、必ず事前教育を行ってください。少なくとも予算、施設の目的、相手方の事情を理解するまでは、単独で発言させるべきではありません」


 王妃陛下は静かに頷いた。


「分かりました。ありがとう、リリアーナ」


「これが最後です」


 私ははっきりと言った。


「私はもう、王宮の補佐には戻りません」


「ええ。分かっています」


 王妃陛下は寂しそうに微笑んだ。


「それでも、最後に助けてくれてありがとう」


 そのとき、扉が乱暴に開いた。


「母上! なぜ私を呼び出したのですか!」


 エドワード殿下が部屋に入ってきた。


 その隣には、ミレーユ嬢もいる。


 私の姿を見るなり、殿下は顔を歪めた。


「リリアーナ……! やはり戻ってきたのか」


「違います」


 私は即座に答えた。


「王妃陛下にお呼びいただいただけです」


 ミレーユ嬢が不安そうに殿下の袖を掴む。


「エドワード様……私、またリリアーナ様に責められるのでしょうか」


「心配するな。私が守る」


 そのやり取りを見て、王妃陛下の目が冷たくなった。


「エドワード」


「はい?」


「あなたは昨日、慈善院で薬品費を贅沢だと言ったのですか」


 エドワード殿下は一瞬だけ目を泳がせた。


「それは……予算には限りがあるという意味で」


「子どもたちの解熱薬を、贅沢だと?」


「言葉のあやです」


「では、ミレーユ嬢。あなたは教育費を削るよう提案したのですか」


 ミレーユ嬢はびくりと肩を震わせた。


「わ、私はただ、薬が必要なら、他のところを削ればいいと思って……」


「教育費を削れば、慈善院の子どもたちは将来の仕事を得る機会を失います」


「でも、私は悪気があったわけでは……」


「悪気がなければ、何を言っても許されるわけではありません」


 王妃陛下の声は、静かだが厳しかった。


 ミレーユ嬢の目に涙が浮かぶ。


 いつもの涙だ。


 けれど王妃陛下は、少しも揺らがなかった。


「泣く前に、学びなさい」


 その一言に、部屋の空気が凍った。


 エドワード殿下が慌てて前に出る。


「母上、ミレーユはまだ慣れていないだけです!」


「慣れていない者を公務に出したのは誰ですか」


「それは……」


「あなたです、エドワード」


 王妃陛下の声が鋭くなる。


「あなたはリリアーナを公衆の面前で侮辱し、婚約を破棄しました。その翌日に、何の準備もない女性を王子妃候補として公務に連れ出した。その結果、慈善院から正式な抗議を受けているのです」


「ですが、リリアーナが戻ってくれば――」


「まだ分からないのですか」


 王妃陛下は、はっきりと息子を睨んだ。


「リリアーナは、もうあなたの婚約者ではありません」


 エドワード殿下が黙り込む。


 王妃陛下はさらに続けた。


「そして、あなたの都合で呼び戻せる存在でもありません」


 殿下の顔が赤くなった。


 その視線が、私へ向く。


「リリアーナ、お前が母上に何か吹き込んだのか」


 私は何も言わなかった。


 言う必要がなかったからだ。


 代わりに、クラウス様が一歩前へ出た。


「殿下。彼女に責任を押しつけるのは、いい加減おやめになった方がいい」


「ヴァレンシュタイン公爵……!」


「あなたの失敗は、あなたのものだ」


 クラウス様の声は冷たかった。


「リリアーナ嬢はもう、それを肩代わりしない」


 エドワード殿下は悔しげに唇を噛んだ。


 ミレーユ嬢は泣きながら俯いている。


 だがその涙を、今度は誰も慰めなかった。


 王妃陛下は静かに告げた。


「エドワード。ミレーユ嬢との婚約については、正式承認を保留します」


「母上!?」


「当然です。王子妃候補としての資質を確認する必要があります。ミレーユ嬢には、本日より基礎教育を受けてもらいます」


「そんな……」


 ミレーユ嬢が震える声を漏らした。


「私、勉強はあまり得意では……」


「得意不得意の問題ではありません」


 王妃陛下は容赦しなかった。


「王族の隣に立つとは、そういうことです」


 私はその言葉を、静かに聞いていた。


 かつて私が何度も言われた言葉だ。


 王族の隣に立つとは、そういうこと。


 その重さを、ミレーユ嬢は今ようやく知るのだろう。


 エドワード殿下もまた、王妃の仕事が飾りではないことを、これから思い知るのだ。


「リリアーナ」


 王妃陛下が私を見る。


「あなたをこれ以上引き止めません。行きなさい」


「はい」


 私は深く礼をした。


「これまで、ご指導ありがとうございました」


 王妃陛下の瞳がわずかに揺れた。


「幸せになりなさい」


 その言葉に、私は静かに頷いた。


「はい。必ず」


 私はクラウス様とともに、王妃陛下の私室を後にした。


 背後で、エドワード殿下が私の名を呼んだ気がした。


 けれど、私は振り返らなかった。


 もう振り返らないと決めたから。


     ◇


 王宮を出ると、空はよく晴れていた。


 雲ひとつない青空の下、クラウス様の馬車が待っている。


 私は一度だけ王宮を振り返った。


 十年間、私がすべてを捧げた場所。


 けれど今はもう、檻のようには見えなかった。


 ただ、遠ざかっていく過去に見えた。


「リリアーナ嬢」


 クラウス様が手を差し出す。


「行こう」


「はい」


 私はその手を取った。


 馬車に乗り込むと、アンナがほっとしたように笑った。


「お嬢様、お疲れさまでした」


「ええ。少し疲れたわ」


「北方に着いたら、まずは温かいお茶を淹れますね」


「楽しみにしているわ」


 馬車がゆっくりと動き出す。


 王都の石畳を抜け、門へ向かって進んでいく。


 私は窓の外を見ながら、静かに息を吐いた。


 これで本当に終わり。


 そう思った。


 けれど、馬車が王都の門を出ようとした、その時だった。


 前方から、別の馬車が勢いよく近づいてきた。


 それは王宮のものではない。


 フォルスター公爵家の紋章が刻まれていた。


「お父様……?」


 私が呟くと同時に、馬車が止まる。


 向こうの扉が開き、一人の男性が降りてきた。


 威厳ある灰色の髪。


 鋭い眼差し。


 私の父、フォルスター公爵だった。


 父は私を見るなり、険しい顔で近づいてきた。


「リリアーナ」


「お父様……」


 私は馬車を降りようとした。


 しかし、それより早く父が口を開いた。


「話は聞いた」


 低い声だった。


 怒っている。


 そう思って、私は身を固くした。


 婚約破棄された娘など、公爵家の恥だと責められるかもしれない。


 だが次の瞬間、父は私の前で立ち止まり、深く息を吐いた。


「よく耐えた」


 その一言に、胸が詰まった。


「……お父様」


「王家には正式に抗議する。お前を公衆の面前で侮辱した件、簡単に済ませるつもりはない」


 父の視線がクラウス様へ向く。


「ヴァレンシュタイン公爵。娘との婚約の話、詳しく聞かせてもらおう」


「もちろんです」


 クラウス様は堂々と答えた。


「私はリリアーナ嬢を、必ず大切にします」


 父はしばらくクラウス様を見つめていた。


 そして、わずかに目を細める。


「言葉だけなら、誰にでも言える」


「では、行動で示します」


「よろしい」


 父は短く頷いた。


 その口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。


「ならばまず、我が家で正式に話をしよう。リリアーナをそのまま北方へ連れて行く前に、父親として確認すべきことがある」


 私は思わずクラウス様を見る。


 クラウス様は静かに頷いた。


「リリアーナ嬢が望むなら」


 今度は、皆が私の意思を待ってくれている。


 それが少し、不思議だった。


 でも、嬉しかった。


「はい。お父様とお話ししたいです」


 私がそう言うと、父は少しだけ安心したような顔をした。


「ならば帰るぞ、リリアーナ」


「はい」


 こうして私は、北方へ向かう前に、一度フォルスター公爵家へ戻ることになった。


 王宮では、エドワード殿下とミレーユ嬢への教育が始まり。


 慈善院への謝罪対応に追われ。


 王家とフォルスター公爵家の関係は、静かに揺らぎ始めていた。


 そして私はまだ知らなかった。


 父が王家に突きつける抗議文が、社交界を大きく騒がせることを。


 そしてその噂が、私とクラウス様の婚約を、思わぬ形で王国中に広めることになるのだと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ