第2話 私がいなくなった王宮は、思ったより早く詰んだようです
翌朝、私は王都の屋敷で荷造りをしていた。
窓の外には、いつもと変わらない朝日が差し込んでいる。
けれど私の立場は、昨日までとはまるで違っていた。
第一王子の婚約者ではない。
未来の王妃でもない。
ただの、リリアーナ・フォルスター公爵令嬢。
その響きが、少しだけ懐かしかった。
「お嬢様、本当に北方へ向かわれるのですね」
侍女のアンナが、私のドレスを丁寧に畳みながら言った。
「ええ。お父様にはもう手紙を出したわ。しばらくは母の別邸で静かに暮らすつもり」
「王宮から何か言ってきたらどうしますか?」
「もう私には関係ないもの」
そう答えた自分の声は、思っていたよりも冷たかった。
十年間、私は王宮のために尽くしてきた。
けれど、その結果が昨夜の婚約破棄ならば、もう十分だ。
「それよりアンナ、治癒魔法の薬草書は入れてくれた?」
「はい。こちらに」
「ありがとう」
私は机の上に置かれた書類を見下ろした。
王妃教育の資料。
慈善事業の予算案。
外交使節への返書の下書き。
王宮主催の春祭りに関する進行表。
どれも本来なら、今日中に確認して王妃陛下へ提出する予定だったものだ。
だが、もう私が持っている必要はない。
「アンナ。これらは王宮へ返してちょうだい」
「よろしいのですか?」
「ええ。私が抱えていても仕方ないわ」
そう言って、私は書類の束を箱に入れた。
そのときだった。
屋敷の玄関の方から、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「お嬢様!」
執事が血相を変えて部屋へ入ってくる。
「王宮より使者が参っております!」
「王宮から?」
私は思わずアンナと顔を見合わせた。
早い。
いくら何でも早すぎる。
「用件は?」
「それが……至急、リリアーナ様に王宮へ戻っていただきたいと」
アンナの顔が険しくなった。
「昨日あれだけのことをしておいて、どの口で……!」
「アンナ」
私は静かに彼女を制した。
怒ってくれるのは嬉しい。
けれど、もう私が感情を乱す必要はない。
「使者を応接室へ通して」
「かしこまりました」
しばらくして、私は応接室へ向かった。
そこにいたのは、王宮事務官のベルナールだった。
いつも几帳面に髪を撫でつけている彼が、今日は額に汗を浮かべている。
「リリアーナ様!」
彼は私を見るなり、勢いよく立ち上がった。
「どうか、王宮へお戻りください!」
「お戻り、とは?」
「その……本日の王妃教育の件でございます。王妃陛下がご不在のため、春祭りの予算案を確認できる者が誰もおらず……」
「新しい婚約者であるミレーユ様にお願いしてはいかがでしょう」
私がそう言うと、ベルナールは分かりやすく言葉に詰まった。
「ミレーユ様は、まだ王宮の仕事に慣れておられませんので……」
「では、エドワード殿下に」
「殿下は……その、朝からミレーユ様を慰めておられまして」
「慰める?」
「昨夜の件で、ミレーユ様が大変お心を痛められたとかで……」
私は思わず沈黙した。
婚約を破棄されたのは私だ。
大広間で責められ、嘲笑されたのも私だ。
けれど慰められているのは、ミレーユ嬢らしい。
なるほど。
世の中とは、なかなか不思議にできている。
「それで、私に何をしろと?」
「予算案の確認だけでもお願いできませんでしょうか。午後には各商会との打ち合わせがありまして、このままでは春祭りの準備が止まってしまいます」
「お断りします」
私は即答した。
ベルナールの顔が固まる。
「リ、リリアーナ様……?」
「私は昨日、正式に婚約を破棄されました。今後、王宮業務に関わる権限はありません」
「ですが、引き継ぎが……」
「引き継ぎを受けるべき方は、ミレーユ様でしょう」
「それは、その……」
彼はまた黙り込んだ。
分かっている。
ミレーユ嬢は、まだ王妃教育どころか基本的な貴族作法も怪しい。
彼女に予算案を見せたところで、何をどう判断すればいいのか分からないだろう。
けれど、それを選んだのは殿下だ。
私ではない。
「こちらに王宮から預かっていた資料があります。すべてお返しします」
私はアンナに合図した。
アンナは箱を持ってきて、ベルナールの前に置く。
分厚い書類の束を見て、彼の顔色がさらに悪くなった。
「こ、これをすべて……?」
「はい。必要なことは書き込んであります。私がいなくても、読めば分かるはずです」
もちろん、簡単ではないだろう。
十年間かけて覚えた仕事を、紙だけで引き継ぐのだから。
けれど私は、できる限り丁寧に記録を残してきた。
それでも分からないなら、それは私の責任ではない。
「リリアーナ様。せめて本日だけでも……」
「ベルナール様」
私は静かに微笑んだ。
「私が王宮に戻れば、昨夜の婚約破棄は間違いだったということになります。殿下のご判断を、あなたは否定なさるのですか?」
「そ、それは……!」
「殿下は、私を未来の王妃にふさわしくないとおっしゃいました。ならば、ふさわしくない者が王宮の仕事に口を出すべきではありません」
ベルナールは完全に黙った。
私は立ち上がる。
「お引き取りください」
それが、答えだった。
ベルナールは青ざめた顔で箱を抱え、屋敷を出ていった。
その背中を見送ったアンナが、小さく呟く。
「……思ったより早かったですね」
「ええ」
私も少しだけ驚いていた。
まさか一晩で使者が来るとは思わなかった。
けれど、王宮の混乱はそれだけでは終わらなかった。
昼前には、王妃陛下付きの侍女が訪ねてきた。
「リリアーナ様、王妃陛下より伝言でございます。今日の慈善事業の視察ですが、資料の所在が分からず……」
「王宮へお返しした箱の中にあります」
「それが、どの資料を使えばよいのか分からないと……」
「表紙に番号を振ってあります。視察用は三番です」
「三番……でございますね。ありがとうございます!」
侍女は礼をして去っていった。
その一時間後には、外務官が来た。
「リリアーナ様! 隣国の使節団への返書についてですが、殿下が内容をご存じなく……」
「殿下は昨日、私のような者は未来の王妃にふさわしくないとおっしゃいました。殿下ご自身でなさるのがよろしいかと」
「で、ですが……」
「過去の書式は王宮図書室にあります」
外務官は泣きそうな顔で帰っていった。
さらに夕方には、学園の教師まで来た。
「ミレーユ嬢の礼儀作法の補習について、リリアーナ様が担当されていたと伺いまして……」
「今後は王宮の教育係にお願いしてください」
「教育係が、彼女は基本から学び直す必要があると……」
「では、基本から学び直せばよろしいのでは?」
教師は何も言えなくなった。
私は応接室の窓から、暮れていく空を見上げた。
たった一日。
たった一日で、王宮はこんなにも私に頼っていたのだと知った。
嬉しくはなかった。
むしろ、虚しかった。
必要としていたのなら、なぜ昨日、誰も私を庇わなかったのだろう。
なぜ私が黙って責められている間、誰も声を上げなかったのだろう。
便利なときだけ呼び戻そうとする。
それが、私の十年間への答えなのだろうか。
「お嬢様……」
アンナが心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫よ」
私は微笑んだ。
大丈夫。
もう傷つかない。
期待しないと決めたから。
その日の夜、再び来客があった。
今度は王宮からではない。
黒塗りの馬車に、銀の狼をかたどった紋章。
ヴァレンシュタイン公爵家の馬車だった。
玄関先に現れたクラウス様は、昨日と同じく黒い礼服をまとっていた。
「突然すまない」
「いいえ。こちらこそ、昨日は失礼いたしました」
「答えを急がせるつもりはない。ただ、王宮から何度も使者が来ていると聞いた」
私は少しだけ目を見開いた。
「もうご存じなのですか?」
「北方の情報網を侮らない方がいい」
クラウス様は淡々と言った。
その言葉に、アンナが小さく身震いする。
冷血公爵という噂は、やはり伊達ではないらしい。
「迷惑をかけられていないか」
「迷惑、というほどではありません。ただ……」
「ただ?」
「少し、虚しくなりました」
私は正直に答えた。
「誰も私を必要としていないと思っていました。でも、必要としていたのは私自身ではなく、私がこなしていた仕事だけだったのだと分かりました」
クラウス様はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「それは違う」
「え?」
「少なくとも私は、君の力だけを見ているわけではない」
その声は、低く落ち着いていた。
「十年間、誰にも正しく評価されなくても努力を続けたこと。屈辱を受けても取り乱さず、相手の立場まで考えて退いたこと。傷ついているのに、書類を整理して返すだけの責任感を持っていること」
クラウス様の青い瞳が、まっすぐに私を見つめる。
「私は、そういう君を必要としている」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
褒められたことならある。
完璧ですね。
さすが公爵令嬢です。
未来の王妃にふさわしい。
けれどそれは全部、役割への称賛だった。
私自身を見てくれた言葉ではなかった。
「……そんなふうに言われたのは、初めてです」
思わず声が震えた。
クラウス様は一瞬だけ眉を寄せる。
「ならば、これから何度でも言う」
「え?」
「君はよくやっている。もう一人で耐えなくていい」
その言葉は、あまりにも優しかった。
昨日までの私なら、きっと困っていただろう。
けれど今は、その優しさに少しだけ縋りたかった。
「クラウス様」
「何だ」
「私は、あなたのお話を受けてもよろしいのでしょうか」
アンナが息を呑んだ。
クラウス様も、ほんのわずかに目を見開いた。
「結婚の話か」
「はい」
「もちろんだ。だが、無理に決める必要はない」
「無理ではありません」
私は首を横に振った。
「ただ、私はまだあなたのことをよく知りません。それでも……王宮に戻るより、あなたの言葉を信じてみたいと思いました」
クラウス様は静かに私を見つめた。
やがて、その口元がわずかに緩む。
ほんの一瞬だけ見えた微笑みは、噂の冷血公爵とは思えないほど穏やかだった。
「それで十分だ」
彼は私の前に片膝をついた。
思わず息が止まる。
公爵である彼が、婚約破棄されたばかりの私に膝をつく。
そんなこと、本来ならあり得ない。
「リリアーナ・フォルスター嬢」
クラウス様は私の手を取った。
手袋越しでも、その指先が驚くほど温かいことが分かった。
「私、クラウス・ヴァレンシュタインは、あなたを妻として迎えたい。あなたの自由と尊厳を守り、あなたが二度と不当に傷つけられぬよう、この名に懸けて誓う」
胸が熱くなった。
求婚の言葉なのに、まるで救いの言葉のようだった。
私はゆっくりと頷く。
「お受けいたします」
その瞬間、アンナが後ろで小さく泣き出した。
「お嬢様……よかった……本当に……」
私も少しだけ笑った。
こんなに穏やかな気持ちで未来を選べる日が来るなんて、思ってもみなかった。
けれど、その静かな時間は長く続かなかった。
玄関の方から、再び慌ただしい足音が聞こえる。
「お嬢様! 大変でございます!」
執事が駆け込んできた。
「今度は何?」
「エドワード殿下が、直接こちらへ向かっておられるとのことです!」
部屋の空気が凍った。
アンナが青ざめる。
私は静かに息を吐いた。
来るとは思っていた。
けれど、まさか本人が来るとは。
「お嬢様、どうなさいますか?」
アンナが不安そうに私を見る。
私は答える前に、クラウス様へ視線を向けた。
彼はゆっくりと立ち上がる。
そして、私の前に一歩出た。
「会う必要はない」
「ですが……相手は第一王子です」
「だから何だ」
その声は、氷のように冷たかった。
「昨日、彼は君を公衆の面前で捨てた。今日になって必要だから戻れと言うなら、それは王族の命令ではなく、ただの身勝手だ」
クラウス様は私を振り返る。
「君が望まないなら、私が追い返す」
その言葉に、心が静かに満たされていく。
守られるとは、こういうことなのかもしれない。
私はもう、誰かの顔色を窺って我慢しなくていい。
「いえ」
私は首を横に振った。
「会います」
「リリアーナ嬢」
「大丈夫です。もう、昨日までの私ではありませんから」
クラウス様は少しだけ目を細めた。
そして、短く頷いた。
「分かった。ならば、私も同席する」
「ありがとうございます」
間もなくして、屋敷の前に王家の馬車が止まった。
乱暴な足音とともに、エドワード殿下が応接室へ入ってくる。
昨日と違い、その顔には余裕がなかった。
「リリアーナ!」
殿下は私を見るなり叫んだ。
「これはどういうことだ!」
「どういうこと、とは?」
「なぜ王宮の仕事が何一つ進まない!? お前がいなくなったせいで、皆が混乱している!」
私は静かに殿下を見つめた。
「私がいなくなったせい、ですか」
「そうだ! お前が勝手に職務を放棄したからだ!」
その言葉に、クラウス様の気配が鋭くなった。
けれど私は、彼が口を開く前に答えた。
「殿下。私は昨日、あなたに婚約を破棄されました」
「それはそうだが、仕事は別だろう!」
「別ではありません。私は王太子妃候補として王宮業務を学び、補佐しておりました。婚約者でなくなった以上、その職務を続ける理由はございません」
「屁理屈を言うな!」
「では、ミレーユ様にお願いしてください」
殿下の顔が歪んだ。
「ミレーユは繊細なんだ! お前のように冷たい書類仕事などできるわけがない!」
「では、なぜ未来の王妃に選ばれたのですか?」
応接室が静まり返った。
殿下は言葉を失う。
私はさらに続けた。
「王妃は、ただ殿下の隣で笑っていればよい立場ではありません。国の財政、外交、慈善事業、貴族間の調整、王宮内の人事。多くの仕事を担います」
「それは……」
「殿下は昨日、私を未来の王妃にふさわしくないとおっしゃいました。ならば、ふさわしいと判断されたミレーユ様に任せるべきです」
エドワード殿下の頬が赤くなる。
怒りか、恥か。
おそらく両方だろう。
「お前、私に恥をかかせるつもりか」
「いいえ。私はただ、殿下のご判断を尊重しているだけです」
「リリアーナ……!」
殿下が一歩踏み出した。
その瞬間、クラウス様が私の前に立った。
「そこまでだ、殿下」
「ヴァレンシュタイン公爵……なぜお前がここにいる」
「リリアーナ嬢は、私の婚約者となる方だ」
殿下の顔から血の気が引いた。
「婚約者……?」
「つい先ほど、彼女から承諾を得た」
「馬鹿な! リリアーナは昨日、私と婚約破棄したばかりだぞ!」
「だから何だ。君が捨てた女性を、私が大切にする。それだけの話だ」
クラウス様の声は淡々としていた。
けれどその言葉には、圧倒的な力があった。
殿下は悔しげに唇を噛む。
「リリアーナ、お前……私への当てつけか?」
「違います」
私ははっきりと答えた。
「私は、私を尊重してくださる方の隣に行くだけです」
殿下の瞳が揺れた。
まるで、初めて私が自分の意思を持っていることに気づいたような顔だった。
「待て。昨日のことは……少し言いすぎたかもしれない」
アンナが背後で小さく息を呑んだ。
私は静かに殿下を見る。
「言いすぎた、ですか」
「ああ。だから、ひとまず王宮に戻れ。詳しいことは後で話す」
謝罪ですらなかった。
命令だった。
昨日までなら、私は従っていたかもしれない。
殿下の機嫌を損ねないように。
王宮に迷惑をかけないように。
公爵家の名に傷をつけないように。
けれど今は、違う。
「お断りいたします」
私はまっすぐに告げた。
「私はもう、あなたの婚約者ではありません」
殿下の顔が強張る。
「リリアーナ……本気で言っているのか」
「はい」
私はクラウス様の隣に立った。
「私は、ヴァレンシュタイン公爵家へ参ります」
その瞬間、殿下はようやく理解したのだろう。
自分が昨日捨てたものは、都合よく戻ってくる道具ではなかったのだと。
私は一人の人間で。
自分の意思で、別の未来を選べるのだと。
「……後悔するぞ」
殿下は低く吐き捨てた。
けれどその声には、昨日のような自信はなかった。
「その言葉、そのままお返しいたします」
クラウス様が冷たく言った。
「後悔するのは、君の方だ」
殿下は何も言い返せず、乱暴に部屋を出ていった。
王家の馬車が走り去る音が遠ざかっていく。
応接室に、静けさが戻った。
私は深く息を吐いた。
手が少し震えていた。
強く言えたつもりだったけれど、やはり怖くなかったわけではない。
すると、クラウス様がそっと私の手を取った。
「よく言った」
たったそれだけの言葉で、震えが止まった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらだ。君は自分で、自分の尊厳を守った」
胸の奥が温かくなる。
私はもう一度、窓の外を見た。
夜の王都には、灯りがいくつも揺れている。
あの灯りのどこかで、王宮は今も混乱しているのだろう。
けれど、もう私の知るところではない。
私は私の未来を選ぶ。
その未来が北方の雪に覆われていたとしても。
隣にこの人がいるなら、きっと歩いていける。
そして私はまだ知らなかった。
この夜を境に、王宮の混乱はさらに大きくなっていくことを。
ミレーユ嬢が初めて任された公務で、とんでもない失敗をすることを。
そしてエドワード殿下が、私を失った本当の意味を、さらに思い知らされることを。




