第1話 婚約破棄されたので、静かに消えようと思います
初投稿です。
婚約破棄、ざまぁ、薬師、冷酷公爵の溺愛ものです。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
「リリアーナ・フォルスター。貴様との婚約を、今日この場で破棄する!」
王宮の大広間に、第一王子エドワード殿下の声が響き渡った。
きらびやかなシャンデリアの光を受け、招かれた貴族たちの宝石が一斉にきらめく。楽団の演奏は止まり、談笑していた人々の口も閉じられた。
夜会の主役は、本来ならば王太子妃候補である私と、第一王子である殿下のはずだった。
けれど今、皆の視線は祝福ではなく、好奇と嘲笑を含んで私に向けられている。
「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
私はできるだけ静かに問い返した。
声が震えなかったのは、自分でも少し意外だった。
エドワード殿下は、私を見下ろすように顎を上げる。
「しらばっくれるな。お前が男爵令嬢ミレーユを虐げていたことは、すでに分かっている」
その名を聞いた瞬間、私の視線は殿下の隣へ向いた。
淡い桃色のドレスを着た少女が、殿下の腕にすがりついている。大きな瞳には涙が浮かび、小さな肩は震えていた。
ミレーユ・ラングレー男爵令嬢。
半年前、王立学園に編入してきたばかりの少女だ。
「わ、私……リリアーナ様に嫌われていて……毎日、怖くて……」
ミレーユ嬢は、か細い声でそう言った。
周囲から、小さなどよめきが起こる。
「なんてひどい」
「やはりフォルスター公爵令嬢は気位が高すぎるのだ」
「殿下もお可哀想に」
聞こえるように囁かれる言葉たち。
私は思わず笑いそうになった。
虐げた?
毎日、怖かった?
彼女が授業を抜け出した後始末をしたのは私だ。
彼女が礼儀作法を間違えたとき、教師に叱責されないように庇ったのも私だ。
王子妃教育の合間を縫って、彼女に貴族社会の作法を教えたのも私だった。
それでも、彼女は殿下の前では泣く。
そして殿下は、その涙だけを信じた。
「リリアーナ」
殿下の声は冷たかった。
「お前のような心の醜い女を、未来の王妃にするわけにはいかない。私はミレーユを新たな婚約者とする」
大広間に、今度こそはっきりとしたざわめきが広がった。
王族の婚約は、個人の感情だけで決められるものではない。
それでも殿下は、自分が正義だと信じて疑っていない顔をしている。
「殿下」
私はゆっくりと膝を折り、正式な礼を取った。
「承知いたしました」
「……何?」
殿下が眉をひそめる。
私は顔を上げた。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
会場が静まり返った。
誰もが、私が泣き崩れると思っていたのだろう。
あるいは、怒りに任せてミレーユ嬢を責めるとでも思っていたのかもしれない。
けれど、私はもう疲れていた。
十年間。
私は殿下の婚約者として生きてきた。
朝から晩まで王子妃教育を受け、学園では常に模範であることを求められ、少しの失敗も許されなかった。
殿下が遊んでいる間も、私は国の歴史を学んだ。
殿下が狩りに出かけている間も、私は外交文書を読んだ。
殿下がミレーユ嬢と庭園で笑い合っている間も、私は王妃陛下の代わりに慈善事業の書類を整理していた。
そのすべてが、たった今、無意味になった。
ならばもう、私には関係ない。
「なっ……本当に、それでいいのか?」
殿下はなぜか狼狽えたように言った。
「はい。殿下とミレーユ様の末永いお幸せをお祈り申し上げます」
私はもう一度、深く礼をした。
ミレーユ嬢の表情が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
泣き顔の奥に、勝ち誇った笑みが見えた気がした。
けれど、それを指摘するつもりはない。
私が何を言ったところで、今この場の人々は信じないだろう。
ならば黙って去るだけだ。
「失礼いたします」
私は踵を返した。
背後で殿下が何かを言いかけた気配がしたが、聞こえないふりをした。
大広間の扉が閉まる。
その瞬間、胸の奥に張り詰めていた糸が切れた。
「……終わった」
小さく呟く。
涙は出なかった。
ただ、体の芯から力が抜けていくようだった。
廊下の窓の外には、春の夜空が広がっている。
王宮の庭園では白い花が咲き誇り、噴水の水音が静かに響いていた。
私はその景色を見ながら、十年間の自分を思い返した。
頑張れば認めてもらえると思っていた。
完璧でいれば、誰にも迷惑をかけずに済むと思っていた。
王子妃になれば、家族も領民も誇りに思ってくれると思っていた。
でも、そうではなかった。
殿下にとって私は、都合のいい婚約者でしかなかったのだ。
「お嬢様!」
廊下の向こうから、侍女のアンナが駆け寄ってくる。
私の幼い頃から仕えてくれている、数少ない味方だった。
「今の話、本当ですか? 婚約破棄だなんて……!」
「本当よ」
「そんな……! あまりにもひどすぎます!」
アンナは今にも泣き出しそうな顔をした。
私は苦笑する。
「大丈夫。むしろ、よかったのかもしれないわ」
「よかった、ですか?」
「ええ。これで私は、王妃になる必要がなくなった」
口にしてみると、不思議なくらい胸が軽くなった。
王妃にならなくていい。
殿下の隣で笑わなくていい。
誰かの理想の令嬢を演じ続けなくていい。
「アンナ。屋敷に戻ったら、すぐに荷物をまとめるわ」
「荷物、ですか?」
「領地へ帰ります」
私は静かに言った。
フォルスター公爵家の領地は、王都から馬車で五日ほど離れた北方にある。
雪深く、華やかな王都とはまるで違う場所だ。
けれどそこには、私の母が遺してくれた小さな別邸がある。
王妃教育も、社交界も、王子もいない。
私はそこで、静かに暮らしたい。
「お父様には、私から手紙を書きます。社交界からも退きます」
「お嬢様……」
「もう十分よ。私は、私のために生きたい」
そう言った瞬間だった。
廊下の奥から、低い声が聞こえた。
「それは困るな」
振り向くと、黒い礼服をまとった男性が立っていた。
銀色の髪に、氷のような青い瞳。
周囲の空気まで冷たくなるような、美しい人だった。
クラウス・ヴァレンシュタイン公爵。
北方最大の領地を治める、若き公爵。
そして人々からは、こう呼ばれている。
冷血公爵、と。
「ヴァレンシュタイン公爵閣下……?」
私は慌てて礼を取ろうとした。
けれど彼はそれを手で制した。
「先ほどの婚約破棄、見事だった」
「……お見苦しいところをお見せしました」
「いいや。愚かな王子にはもったいないほど、立派な対応だった」
あまりにもはっきりと言われ、私は返答に困った。
クラウス様は表情を変えないまま、私を見つめている。
「リリアーナ嬢。君はこれから領地へ戻ると言ったな」
「はい。そのつもりです」
「ならば、その前にひとつ提案がある」
「提案、ですか?」
「ああ」
彼は一歩、私に近づいた。
窓から差し込む月明かりが、彼の銀髪を淡く照らす。
「私と結婚しないか」
時間が止まったような気がした。
アンナが隣で息を呑む。
私は目の前の公爵を見つめたまま、言葉を失った。
「……今、なんと?」
「私と結婚しないか、と言った」
「なぜ、私なのですか」
「君が必要だからだ」
その声には、迷いがなかった。
「ヴァレンシュタイン公爵家には、癒やしの力を持つ者が必要だ。君が幼い頃から、治癒魔法に優れていることは知っている」
私は思わず指先を握りしめた。
治癒魔法。
それは私が、王子妃教育と並行して磨き続けてきた力だった。
けれど王宮では、あまり評価されなかった。
王妃に必要なのは血筋と教養であって、魔法ではないと言われていたからだ。
「もちろん、道具として扱うつもりはない」
クラウス様は、少しだけ声をやわらげた。
「君が望むなら、北方で静かに暮らせばいい。社交界に出る必要もない。王都の連中に頭を下げる必要もない」
「……」
「ただし、君を傷つけた者たちには、相応の報いを受けてもらう」
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
「報い……?」
「第一王子は、君がどれほど王宮を支えていたか理解していない。ミレーユ嬢も同じだ。彼らはすぐに知ることになるだろう。君を失った代償を」
冷血公爵。
そう呼ばれる理由が、少しだけ分かった気がした。
彼の言葉は冷たい。
けれど不思議と、怖くはなかった。
むしろ、初めて私の努力を見てくれた人のように思えた。
「リリアーナ嬢」
クラウス様は静かに言った。
「君はもう、誰かの都合のいい婚約者でいる必要はない」
その一言で、胸の奥が熱くなった。
ずっと欲しかった言葉だった。
完璧でいろと言われるのではなく。
我慢しろと言われるのでもなく。
ただ、もう苦しまなくていいと言ってくれる言葉。
「……少しだけ、考える時間をいただけますか」
「ああ。もちろんだ」
クラウス様はすぐに頷いた。
「だが、ひとつだけ覚えておいてほしい」
「何でしょうか」
「私は、君を泣かせるために求婚したわけではない」
その声は、先ほどよりもずっと穏やかだった。
「君を守るために、求婚している」
私は何も言えなかった。
王宮の廊下に、夜風が吹き込む。
遠くの大広間からは、また音楽が聞こえ始めていた。
きっと殿下とミレーユ嬢は、今ごろ祝福されているのだろう。
けれど私はもう、そこに戻りたいとは思わなかった。
婚約破棄された夜。
私はすべてを失ったのだと思っていた。
けれどもしかすると。
この夜こそが、私の本当の人生の始まりなのかもしれない。
私はクラウス様を見上げ、静かに息を吸った。
「閣下。私……もう少しだけ、自分の幸せを信じてみたいです」
クラウス様の青い瞳が、わずかに細められる。
「ならば、私の隣に来るといい」
その言葉は、命令のようでいて、不思議と優しかった。
「君を捨てた王国が、必ず後悔するほどに幸せにしてみせる」
その瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。
私は初めて、ほんの少しだけ笑うことができた。
そしてこのときの私は、まだ知らなかった。
翌朝、王宮が大混乱に陥ることを。
私がいなくなっただけで、王妃教育の書類も、慈善事業の予算案も、外交使節への返書も、すべて滞り始めることを。
そして第一王子が、すぐに理解することを。
自分が捨てた婚約者こそが、王宮を陰で支えていた本物の才女だったのだと。
お読みいただきありがとうございます。
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