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妹に聖女の座を奪われ婚約破棄されましたが、辺境で薬屋を始めたら冷酷公爵に溺愛されました  作者: 白瀬ほび
第一章 婚約破棄と、冷血公爵の求婚

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第10話 冷血公爵の領地へ向かいます

 王都の門を抜けると、景色は少しずつ変わっていった。


 石畳の整った道。


 華やかな店が並ぶ通り。


 貴族の馬車が行き交う賑やかな街並み。


 それらが少しずつ遠ざかり、代わりに広がっていくのは、まだ春の色を残した草原と、どこまでも続く街道だった。


 私は馬車の窓から、遠ざかる王都を見つめていた。


 王宮の塔は、もうほとんど見えない。


 ほんの少し前まで、あの塔の下で生きていくのだと思っていた。


 王妃になるために。


 第一王子の隣に立つために。


 公爵家の娘として、期待に応えるために。


 けれど今、私はその場所を離れている。


 自分の意思で。


「お嬢様、寒くありませんか?」


 隣に座るアンナが、心配そうに膝掛けを直してくれる。


「大丈夫よ。まだそこまで寒くないわ」


「でも、北方へ近づくと急に冷えるそうですから」


「ええ。気をつけるわ」


 そう答えた瞬間、向かいに座るクラウス様が静かに口を開いた。


「今夜泊まる宿を越えたあたりから、風が変わる」


「風が?」


「ああ。北方から吹く風は、王都のものとは違う。肌に刺さるように冷たい」


「……少し怖くなってきました」


「怖がらせるつもりはなかった」


 クラウス様がわずかに眉を寄せる。


 その真面目な表情に、私は思わず小さく笑ってしまった。


「大丈夫です。覚悟しておきます」


「寒ければ、すぐに言え」


「はい」


「我慢はするな」


「分かっています」


「本当に?」


 またそれだ。


 私は少しだけ頬を緩めた。


「本当に、分かっています」


 クラウス様はまだ少し疑っているような顔をしていた。


 アンナが横で、楽しそうに微笑んでいる。


 こんなふうに穏やかに話せる時間が、少し不思議だった。


 数日前まで、私は王宮で婚約破棄され、噂に傷つき、名誉を守るために必死だった。


 それなのに今は、馬車の中で北方の寒さを心配されている。


 人生とは、本当に分からないものだ。


     ◇


 街道を進むにつれ、王都の気配はどんどん薄れていった。


 昼過ぎには、広い畑と小さな村が見えるようになった。


 農民たちが畑を耕し、子どもたちが道端で遊んでいる。


 私たちの馬車に気づくと、彼らは少し驚いたように道の端へ寄った。


 ヴァレンシュタイン公爵家の紋章。


 銀の狼。


 それを見た村人たちは、すぐに深く頭を下げた。


「クラウス様。皆様、紋章を見るとすぐに礼をされるのですね」


「ああ」


「やはり、怖がられているのですか?」


 そう尋ねたあとで、少し失礼だったかもしれないと思った。


 冷血公爵。


 クラウス様は、王都ではそう呼ばれている。


 感情を見せず、冷たい判断を下す北方の公爵。


 私も最初は、その噂を聞いて少し怖い人なのだと思っていた。


 けれどクラウス様は、気にした様子もなく答えた。


「怖がられている部分もあるだろう」


「……そうなのですか」


「北方領主は、甘いだけでは務まらない。冬を越すためには、時に厳しい判断も必要になる」


 クラウス様の声は淡々としていた。


「ただ、領民を怖がらせるために治めているつもりはない」


「はい」


「王都では、私が冷血だと言われているらしいな」


「……はい」


「否定はしない」


 私は少し驚いた。


「否定なさらないのですか?」


「事実、冷たい判断をしたことはある」


 クラウス様は窓の外を見る。


 その横顔は、どこか遠くを見ているようだった。


「北方では、迷えば人が死ぬ。情に流されて物資を配れば、別の村が飢える。助けたい者を全員助けようとして、結果として全員を危険にさらすこともある」


 その言葉に、私は何も言えなかった。


 王宮で学んだ慈善事業にも、似た難しさはあった。


 限られた予算。


 限られた薬。


 限られた人手。


 誰を優先するか。


 何を後回しにするか。


 紙の上で考えていたそれが、北方ではもっと切実なものなのだろう。


「だから私は、冷血公爵と呼ばれても構わない」


 クラウス様は静かに言った。


「それで領民が生きられるならな」


 胸の奥が、少しだけ痛んだ。


 この人は、やはり冷たいのではない。


 冷たく見えるほど、背負っているものが重いのだ。


「クラウス様」


「何だ」


「私は、北方のことを何も知りません」


「ああ」


「だから、きっとすぐには役に立てません。間違えることもあると思います」


「当然だ」


「でも、学びたいです」


 私はまっすぐに彼を見た。


「王都で学んだことも、王宮で身につけたことも、今度は自分の意思で誰かのために使いたいです」


 クラウス様は、しばらく私を見つめていた。


 やがて、ほんの少しだけ目を細める。


「君なら、そう言うと思った」


「そうですか?」


「ああ」


「では、止めないのですか?」


「止めない」


 彼ははっきり言った。


「ただし、一人で抱え込もうとしたら止める」


 思わず笑ってしまった。


「それは、何度も言われそうですね」


「何度でも言う」


 その声は真剣だった。


 けれど、私はもうその真剣さが少し嬉しかった。


     ◇


 夕方になると、馬車は街道沿いの宿場町へ入った。


 王都ほど華やかではない。


 けれど、旅人や商人が行き交い、活気のある町だった。


 宿の前で馬車が止まると、宿の主人が慌てて出迎えに来た。


「ヴァレンシュタイン公爵閣下、お待ちしておりました!」


「ああ。世話になる」


「は、はい! お部屋はすでにご用意しております!」


 主人は緊張した様子で頭を下げる。


 やはり、クラウス様の名は強いらしい。


 私が馬車を降りようとすると、クラウス様が自然に手を差し出した。


「足元に気をつけろ」


「ありがとうございます」


 私はその手を取って馬車を降りた。


 その瞬間、宿の主人や従業員たちの視線が私に集まった。


 誰だろう。


 そんな視線だった。


 けれど胸元の銀の狼のブローチに気づいた瞬間、彼らの表情が変わる。


 驚き。


 緊張。


 そして、少しの好奇心。


「こちらは、リリアーナ・フォルスター公爵令嬢だ」


 クラウス様が淡々と紹介した。


「私の婚約者となる方だ。失礼のないように」


 宿の主人が目を見開いた。


「こ、婚約者様でございましたか! 大変失礼いたしました!」


「いいえ。こちらこそ、本日はお世話になります」


 私が礼をすると、主人はさらに慌てたように頭を下げた。


「も、もったいないお言葉でございます!」


 少し申し訳なくなるほどの緊張ぶりだった。


 アンナが小声で囁く。


「お嬢様、やはりクラウス様のお名前は相当効くようですね」


「ええ……」


 私も小さく返した。


 クラウス様はそのやり取りを聞いていたのか、少しだけ眉を寄せた。


「怖がらせるつもりはない」


「でも、少し怖いのかもしれません」


「そうか」


「けれど、私はもう怖くありません」


 そう言うと、クラウス様がこちらを見た。


「本当か」


「はい」


「なら、よかった」


 短い言葉。


 けれどその声が少しだけ柔らかかったので、胸が温かくなった。


     ◇


 宿の部屋は、思っていたよりも落ち着いていた。


 王都の屋敷のような華やかさはない。


 けれど、清潔で、暖炉には火が入っている。


 窓の外には、宿場町の明かりがぽつぽつと灯り始めていた。


「お嬢様、お茶を淹れますね」


「ありがとう、アンナ」


 私は外套を脱ぎ、椅子に腰を下ろした。


 思っていた以上に疲れていた。


 王都を離れた緊張。


 長い馬車移動。


 初めて見る景色。


 胸の奥ではまだ、過去と未来が入り混じっている。


 休もうとしたその時、扉が軽く叩かれた。


「リリアーナ嬢」


 クラウス様の声だった。


 アンナが扉を開ける。


 クラウス様は、手に小さな包みを持っていた。


「入っても?」


「はい。どうぞ」


「疲れているところすまない」


「大丈夫です」


 彼は机の上に包みを置いた。


「これは?」


「防寒用の手袋だ」


 包みを開けると、柔らかな白い手袋が入っていた。


 内側にはふわりとした毛がついていて、とても温かそうだった。


「可愛い……」


 思わず呟いた。


 白地に、銀の糸で小さな雪の模様が刺繍されている。


「北方では、手先が冷える」


「ありがとうございます」


「礼は不要だ」


「でも、とても嬉しいです」


 クラウス様は少し黙った。


 最近気づいた。


 彼はこういう時、どう返せばいいか少し困るらしい。


 その不器用さが、冷血公爵という噂とはあまりにも違っていて、私は少しだけ楽しくなる。


「クラウス様」


「何だ」


「この手袋、クラウス様が選んでくださったのですか?」


「……ああ」


 ほんの少しだけ間があった。


「もしかして、迷われました?」


「少し」


「どんなことで?」


「色だ」


「色?」


「白がいいか、青がいいか、しばらく悩んだ」


 私は思わず笑いそうになった。


 冷血公爵と呼ばれる人が、手袋の色で悩んでいた。


 想像すると、胸がくすぐったくなる。


「なぜ白に?」


「君には、雪の色が似合うと思った」


 今度は、私が黙ってしまった。


 さらりと言われた言葉が、思ったよりも胸に響いた。


 顔が少し熱くなる。


「……ありがとうございます」


「また礼を言ったな」


「これは言わせてください」


 クラウス様は小さく息を吐いた。


 けれど、その表情はどこか穏やかだった。


     ◇


 夕食は、宿の一階に用意された小さな個室で取ることになった。


 温かいスープ。


 焼きたてのパン。


 香草で焼いた肉。


 王宮の食事に比べれば素朴だったが、冷えた体にはとてもありがたかった。


「美味しいです」


 私がそう言うと、宿の主人が心底ほっとしたような顔をした。


「ありがとうございます。北方へ向かわれる方には、体が温まるものをお出しするようにしております」


「北方へ向かう方は多いのですか?」


「商人や兵の方が多いですな。ですが、貴族のお嬢様が向かわれるのは珍しいです」


 主人は言ったあと、しまったという顔をした。


「失礼いたしました」


「いいえ。実際、珍しいのでしょう?」


「は、はい。北方は厳しい土地ですから」


 その言葉に、私はスプーンを止めた。


「厳しい土地」


「ええ。冬は長く、雪も深い。病も怪我も多くなります。けれど……」


 主人は少しだけ表情を和らげた。


「ヴァレンシュタイン公爵様の領地は、他よりずっと守られております」


 私はクラウス様を見る。


 彼は黙ってスープを飲んでいた。


 主人は続ける。


「公爵様は怖い方だと言われますが、北方の者は知っております。冬の前には必ず備蓄を確認され、危ない村には兵を回し、薬が足りない場所には公爵家の倉から出してくださる」


「そうなのですか」


「はい。厳しいお方ですが、見捨てる方ではございません」


 主人の声には、確かな敬意があった。


 私はもう一度、クラウス様を見た。


 彼は少し気まずそうに視線を逸らす。


「余計なことを言わなくていい」


「も、申し訳ございません!」


 主人が慌てて頭を下げる。


 私は思わず微笑んだ。


「いいえ。聞けてよかったです」


「リリアーナ嬢」


 クラウス様が少し低い声で私を呼ぶ。


「私は、クラウス様のことをまだあまり知りません」


 私は正直に言った。


「だから、こうして少しずつ知ることができるのは嬉しいです」


 クラウス様は黙った。


 そして、小さく息を吐く。


「……好きに聞けばいい」


「はい」


「ただし、誇張されている話も多い」


「では、あとで本当かどうか教えてください」


「ああ」


 そのやり取りを、アンナがにこにこと見ていた。


 主人はまだ緊張している。


 けれど部屋の空気は、少しだけ温かくなっていた。


     ◇


 その夜。


 私は宿の部屋で、なかなか寝つけずにいた。


 暖炉の火は穏やかに揺れている。


 アンナは隣室で休んでいる。


 窓の外では、宿場町の明かりが少しずつ消えていく。


 王都から離れた夜は、思っていたより静かだった。


 静かすぎて、自分の心の音が聞こえるようだった。


 私はベッドから起き上がり、窓辺に立った。


 遠くの空に、王都の明かりはもう見えない。


 本当に離れたのだ。


 そう思うと、胸が少しだけ寂しくなる。


 けれど同時に、どこか軽い。


 その時、廊下から控えめな声がした。


「リリアーナ嬢」


 クラウス様だった。


 私は急いで外套を羽織り、扉を開けた。


「どうかなさいましたか?」


「灯りが見えた。眠れないのか」


「少しだけ」


「具合が悪いわけでは?」


「いいえ。大丈夫です」


「ならいい」


 彼はそう言って、手に持っていた小さなカップを差し出した。


「これは?」


「温かい蜂蜜入りのミルクだ。宿の者に用意させた」


「私に?」


「ああ」


 私はカップを受け取った。


 両手に伝わる温かさが、指先に染み込んでいく。


「ありがとうございます」


「礼は――」


「不要、ですよね」


 先に言うと、クラウス様は少しだけ目を細めた。


「分かっているならいい」


 私は小さく笑った。


 カップに口をつけると、優しい甘さが広がった。


 王宮で出される洗練された飲み物とは違う。


 けれど、とても落ち着く味だった。


「美味しいです」


「それならよかった」


 短い言葉だったが、本当に安心したように聞こえた。


 私はカップを両手で包んだまま、廊下の窓の外を見た。


「王都の明かりは、もう見えませんね」


「ああ」


「少し、寂しいです」


「戻りたいか」


「いいえ」


 私はすぐに首を横に振った。


「戻りたいわけではありません。ただ、長くいた場所だったのだと思っただけです」


「そうか」


「嫌なことばかりではありませんでした。王妃教育は厳しかったけれど、学んだことはたくさんあります。慈善院の子どもたちにも会えました。アンナも、お父様もいます」


「ああ」


「だから、全部を嫌いにならなくてもいいのだと思います」


 そう言いながら、自分でも少し驚いた。


 数日前なら、そんなふうには思えなかったかもしれない。


 王都は、私を傷つけた場所。


 王宮は、私を捨てた場所。


 そう思うだけで精一杯だった。


 でも今は違う。


 傷ついた場所でも、そこにあったすべてが無駄だったわけではない。


 私は確かに学び、働き、誰かを助けようとしていた。


 その過去まで、捨てる必要はない。


「君は強いな」


 クラウス様が静かに言った。


「強くなったのかもしれません」


「十分だ」


「でも、まだ時々泣きそうになります」


「泣けばいい」


「クラウス様は、簡単におっしゃいますね」


「泣くのは悪いことではない」


 彼は淡々と言った。


「泣いたあとでも立てるなら、それでいい」


 その言葉に、胸が少しだけ震えた。


 私はカップを見つめながら、小さく頷いた。


「はい」


     ◇


 翌朝。


 宿場町を出る頃には、空気がはっきりと変わっていた。


 朝の風が冷たい。


 王都では感じたことのない、鋭い冷たさだった。


 私は昨日クラウス様からもらった白い手袋をはめた。


 指先が包み込まれるように温かい。


「お嬢様、その手袋、とてもお似合いです」


 アンナが嬉しそうに言う。


「ありがとう」


「クラウス様、選ぶのがお上手ですね」


 私が少し頬を赤くすると、クラウス様が無言で視線を逸らした。


 アンナはますます楽しそうだった。


 馬車は再び北へ向かって進み始めた。


 景色は、昨日よりもずっと荒々しい。


 畑は少なくなり、代わりに針葉樹の森が増えていく。


 遠くには、白く霞む山々が見えた。


「あれが北方の山ですか?」


「ああ。ヴァレンシュタイン領は、あの山脈の手前から奥に広がっている」


「広いのですね」


「広いが、豊かとは言いにくい」


 クラウス様は言った。


「雪が多く、作物も限られる。魔獣の被害もある。だが、鉱山と薬草、毛織物には恵まれている」


「薬草もあるのですか?」


「ああ。王都ではあまり使われない北方の薬草が多い」


 私は少し身を乗り出した。


「見てみたいです」


「領地に着いたら案内する」


「約束ですよ」


「ああ」


 その短い約束が、また一つ増えた。


 白鈴花を見ること。


 北方の庭を見ること。


 薬草を見ること。


 私は、未来に小さな楽しみを重ねている。


 それが嬉しかった。


     ◇


 昼過ぎ。


 馬車が森の道に差しかかった頃だった。


 前方を走っていた護衛の騎士が、急に速度を落とした。


 クラウス様の表情が変わる。


 先ほどまで穏やかだった空気が、一瞬で引き締まった。


「止まれ」


 クラウス様の短い命令で、馬車が止まる。


 私は思わず窓の外を見た。


 森の道の先。


 そこに、小さな荷馬車が横倒しになっていた。


 近くには、数人の村人らしき人々がいる。


 そのうち一人が、地面に倒れていた。


「怪我人ですか?」


 私は反射的に立ち上がりかけた。


 クラウス様がすぐに私を制する。


「待て。周囲を確認してからだ」


「でも」


「焦るな」


 その声は厳しかった。


 けれど、怒っているのではない。


 私を守ろうとしている声だった。


 護衛の騎士たちが周囲を確認する。


 やがて一人が戻ってきた。


「魔獣の気配はありません。馬車の車輪が外れ、横転したようです。怪我人が一名」


「分かった」


 クラウス様はすぐに馬車の扉を開けた。


 私も外へ出る。


 冷たい空気が頬に当たった。


 倒れているのは、中年の男性だった。


 足を押さえ、苦しそうに呻いている。


 近くにいた少女が泣きながら叫んでいた。


「お父さん! お父さん!」


 その声に、胸が締めつけられる。


 私はすぐに駆け寄ろうとした。


 けれど、クラウス様が隣で歩調を合わせる。


「私も行く」


「はい」


 怪我人のそばに膝をつく。


 足首のあたりが不自然に腫れていた。


 骨に異常があるかもしれない。


 私は深く息を吸った。


 王宮で学んだ治癒魔法。


 これまで、軽い怪我や体調不良の処置に使うことはあった。


 けれど、旅の途中で、目の前の人を救うために使うのは初めてだった。


「私はリリアーナ・フォルスターです。治癒魔法を使えます。診てもよろしいですか?」


 男性は苦しそうに頷いた。


 少女が涙で濡れた目で私を見る。


「お父さん、助かるの?」


「できる限りのことをします」


 私は手袋を外し、男性の足にそっと手をかざした。


 淡い光が、指先から広がる。


 骨の状態を探る。


 完全に折れてはいない。


 けれど、ひびが入っている。


 周囲の筋も傷めている。


「骨にひびが入っています。今すぐ動かさないでください」


 私はアンナに指示を出した。


「清潔な布を。あと、添え木になりそうな板を」


「はい!」


 アンナがすぐに動く。


 護衛の騎士たちも、クラウス様の指示で荷馬車の破片から使えそうな板を持ってきた。


 私は治癒魔法で痛みを和らげ、出血と腫れを抑えた。


 完全に治すには時間が必要だ。


 無理にすべてを治そうとすれば、私の魔力が大きく削られる。


 王宮での授業で、治癒師から何度も教えられたことだ。


 治癒魔法は万能ではない。


 正しく使わなければ、患者にも術者にも負担がかかる。


「応急処置をします。しばらく安静にすれば、歩けるようになります」


 男性の表情が少し和らいだ。


「あ、ありがとうございます……」


 少女が泣きながら頭を下げる。


「ありがとうございます、お姉様!」


「お父様を支えてあげてください。でも、足は動かさないように」


「はい!」


 少女の声に、胸が温かくなる。


 私は布で足を固定し、添え木を当てた。


 治癒魔法だけで終わらせず、正しく処置する。


 それが大切だ。


 処置が終わると、村人たちが口々に礼を言った。


「ありがとうございます」


「助かりました」


「どちらの治癒師様で……?」


 その問いに、クラウス様が答えた。


「彼女はリリアーナ・フォルスター公爵令嬢だ。私の婚約者となる方だ」


 村人たちが一斉に驚いた。


「公爵様の……!」


「婚約者様……!」


 彼らは慌てて頭を下げようとした。


 私はすぐに首を横に振る。


「今は礼よりも、怪我人を休ませることを優先してください」


 そう言うと、村人たちは少し戸惑ったように私を見た。


 そして、一人の年配の女性が小さく言った。


「お優しい方なのですね」


 その言葉に、胸が少しだけ震えた。


 王都では、冷たいと言われた。


 悪役のように語られた。


 けれどここでは、たった今の行動だけを見て、優しいと言ってくれた。


 私は小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


 クラウス様が隣で静かに私を見る。


 その目は、どこか誇らしげだった。


     ◇


 怪我人は、近くの村まで護衛の一部が運ぶことになった。


 荷馬車の修理も手配される。


 クラウス様は、村人たちに食料と毛布を渡すよう騎士に命じた。


「公爵様、そこまでしていただくわけには……」


 村人の一人が恐縮する。


「夜までに村へ戻れない者が出る。森の中で冷えれば危険だ」


「ですが……」


「受け取れ」


 クラウス様の声は短い。


 けれど、そこに冷たさはなかった。


 村人たちは深く頭を下げる。


「ありがとうございます、公爵様」


 私はその様子を見つめていた。


 彼の言葉は少ない。


 表情も変わらない。


 けれど、必要なことを迷わずする。


 宿の主人が言っていたことを思い出す。


 厳しいお方ですが、見捨てる方ではございません。


 本当に、その通りだった。


「リリアーナ嬢」


 クラウス様がこちらへ来た。


「魔力は?」


「少し使いましたが、大丈夫です」


「無理はしていないな」


「していません」


「本当に?」


「本当にです」


 今度は胸を張って答えた。


 クラウス様は少しだけ目を細める。


「ならいい」


「クラウス様」


「何だ」


「北方では、こういうことが多いのですか?」


「冬は特に多い。馬車の事故、凍傷、魔獣被害、病」


「そうですか」


 私は自分の手を見た。


 まだ、治癒魔法の余韻が少し残っている。


 王宮では、私の治癒魔法はあまり重視されなかった。


 王妃に必要なのは血筋と教養。


 魔法ではない。


 そう言われたこともある。


 けれど今、私の力は確かに一人を助けた。


 大げさなことではないかもしれない。


 国を救ったわけでもない。


 でも、あの少女にとっては、大切な父親を助ける力だった。


「私……」


 言葉が自然とこぼれた。


「北方で、できることがあるかもしれません」


 クラウス様は静かに頷いた。


「ある」


 迷いのない声だった。


「君の力は、ここで必要とされる」


 その言葉に、胸の奥が熱くなる。


 王子妃候補としてではなく。


 誰かの不足を埋める道具としてではなく。


 私自身の力が、必要とされる。


 それは、初めて感じる喜びだった。


     ◇


 再び馬車が動き出した時、私は少し疲れていた。


 治癒魔法を使ったせいもある。


 けれど、それ以上に心が大きく動いたからだと思う。


 アンナが心配そうに膝掛けをかけてくれる。


「お嬢様、少しお休みください」


「ええ。ありがとう」


 窓の外では、森がゆっくり流れていく。


 先ほど助けた少女が、馬車の後ろで何度も手を振っていた。


 私も小さく手を振り返す。


 その姿が見えなくなるまで、窓の外を見ていた。


「リリアーナ嬢」


 クラウス様が声をかける。


「はい」


「先ほどの処置は見事だった」


「ありがとうございます」


「落ち着いていた」


「内心は少し慌てていました」


「そうは見えなかった」


「王宮で、動揺を顔に出さない訓練だけはたくさんしましたから」


 冗談めかして言ったつもりだった。


 けれど、クラウス様は少しだけ目を細めた。


「その訓練は、君を苦しめたかもしれない」


「はい」


 私は正直に頷いた。


「でも、全部が無駄ではなかったと思います」


 今日、怪我人を前にして冷静でいられたのは、王宮で身につけたものがあったからだ。


 人前で取り乱さないこと。


 状況を整理すること。


 必要な指示を出すこと。


 それは、かつて私を縛っていたものでもあった。


 けれど今は、誰かを助ける力にもなる。


「私は、過去を全部捨てるのではなく、別の形で使いたいです」


 私は言った。


「王宮で学んだことも、王妃陛下に教わったことも、傷ついた経験さえも。いつか、誰かの役に立つ形に変えたい」


 クラウス様は静かに聞いていた。


 そして、ゆっくりと頷く。


「君らしい考えだ」


「そうでしょうか」


「ああ」


「甘すぎますか?」


「いや」


 クラウス様は首を横に振った。


「強い考えだ」


 その言葉に、私は少しだけ目を伏せた。


 強い。


 私はまだ、自分をそう思えない。


 けれど、クラウス様がそう言ってくれるなら。


 少しずつ、信じてもいいのかもしれない。


     ◇


 その日の夕方。


 空から、白いものが落ちてきた。


 最初は花びらかと思った。


 けれど、違う。


 雪だった。


「雪……?」


 私は思わず窓に近づいた。


 春だというのに、空から小さな雪が舞っている。


 王都では考えられない光景だった。


「北方の入口だ」


 クラウス様が言った。


「このあたりから、天気が変わりやすくなる」


「綺麗……」


 白い雪が、森の木々に静かに降りかかっていく。


 音もなく。


 優しく。


 けれど、どこか厳しく。


 私はその景色に見入っていた。


 王都の華やかな花とは違う。


 冷たく、静かで、凛としている。


「寒くないか」


「少し。でも、大丈夫です」


 私は白い手袋を見せた。


「これがありますから」


 クラウス様は一瞬だけ視線を逸らした。


「ならいい」


 アンナがまた横で微笑んでいる。


 馬車は雪の中をゆっくり進む。


 やがて、遠くに小さな村が見えた。


 屋根には薄く雪が積もっている。


 煙突から煙が上がり、人々が冬支度のような作業をしていた。


「あれは?」


「ヴァレンシュタイン領の外れにある村だ」


「もう領地に入ったのですか?」


「ああ」


 私は窓の外を見つめた。


 ここから先が、クラウス様の領地。


 そして、私がこれから生きていくかもしれない場所。


 胸が静かに高鳴った。


「リリアーナ嬢」


「はい」


「ようこそ、北方へ」


 クラウス様の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


「厳しい土地だが、悪い場所ではない」


 私は窓の外の雪景色を見ながら、ゆっくり頷いた。


「はい」


 王都を離れて、初めての雪。


 怪我人を救った森の道。


 静かな村の灯り。


 そして、隣にいるクラウス様。


 知らないものばかりだ。


 けれど、不思議と怖さだけではなかった。


 ここでなら、私は新しい自分になれるかもしれない。


 誰かの婚約者としてだけではなく。


 誰かの代わりとしてでもなく。


 リリアーナ・フォルスターとして。


 そしていつか、リリアーナ・ヴァレンシュタインとして。


 私は胸元の銀の狼に触れた。


 冷たい金属の感触が、指先に伝わる。


 けれど、心は温かかった。


     ◇


 その夜、私たちは北方領の小さな館に泊まることになった。


 本邸までは、まだ一日ほどかかるらしい。


 館の人々は、私たちを温かく迎えてくれた。


 最初は緊張していたようだが、昼間の怪我人の話がすでに伝わっていたらしく、何人かは私を見る目に親しみを滲ませていた。


「怪我人を助けてくださったそうですね」


「ありがとうございます。あの村とは親戚の者も多いのです」


「公爵様の婚約者様は、治癒魔法を使われるとか」


 口々にそう言われ、私は少し戸惑った。


 王都では、噂は私を傷つけるものだった。


 けれどここでは、噂が少しだけ温かい。


 誰かを助けた話が、誰かの安心につながっている。


 それが新鮮だった。


「私は、できることをしただけです」


 そう答えると、年配の女性が優しく笑った。


「その、できることをしてくださる方がありがたいのですよ」


 胸がまた温かくなる。


 クラウス様は少し離れた場所で、その様子を見ていた。


 目が合うと、彼は静かに頷いた。


 まるで、ここが君の始まりだと言ってくれているようだった。


     ◇


 部屋に案内されたあと、私は窓を開けた。


 外には、雪が静かに降っていた。


 王都の夜とはまったく違う。


 華やかな灯りも、遠くの音楽もない。


 ただ、雪と風と、遠くに見える村の明かりだけ。


「寒いですよ、お嬢様」


 アンナが慌てて外套を持ってくる。


「少しだけ見ていたいの」


「では、これを」


 彼女が肩に外套をかけてくれる。


 私は窓の外を見ながら、小さく息を吐いた。


 白い息が、夜に溶けていく。


「アンナ」


「はい」


「来てよかったと思う?」


「もちろんです」


 アンナは即答した。


「お嬢様が、王都にいた時よりずっと自然に笑っておられます」


「そう?」


「はい」


 そう言われて、私は少し驚いた。


 自分では、まだ緊張しているつもりだった。


 けれど、笑えているのなら。


 それは、きっと良いことなのだろう。


「私も、来てよかったと思うわ」


 そう呟いた時、扉が軽く叩かれた。


 クラウス様だった。


「入っても?」


「はい」


 彼は部屋に入り、窓が開いていることに気づくと少し眉を寄せた。


「冷える」


「少しだけ雪を見ていました」


「風邪を引く」


「すぐ閉めます」


 私が窓を閉めようとすると、クラウス様が隣に立った。


 そして、窓の外を見た。


「北方の雪は、珍しいか」


「はい。とても」


「これから嫌というほど見る」


「それでも、今日の雪は忘れないと思います」


「なぜ」


「初めて、自分で選んだ未来の景色だからです」


 そう言うと、クラウス様は少し黙った。


 そして、静かに言った。


「なら、よかった」


 私は窓を閉めた。


 部屋の中の暖炉の音が、少し大きく聞こえる。


「リリアーナ嬢」


「はい」


「明日、本邸へ着く」


「はい」


「家臣たちが待っている。歓迎する者もいれば、警戒する者もいるだろう」


「分かっています」


「王都の噂を知っている者もいる。君を試す者もいるかもしれない」


 私は少しだけ背筋を伸ばした。


 第一章が終わっても、すべてが優しい世界になるわけではない。


 北方には北方の難しさがある。


 それでも。


「大丈夫です」


 私は言った。


「私は、王都から逃げてきたのではありません。自分でここへ来ました」


 クラウス様が私を見る。


「だから、向き合います。北方の人たちとも、この土地とも」


 怖くないわけではない。


 けれど、もう怯えて黙るだけではない。


「ただし、無理はしません」


 私が付け加えると、クラウス様が少しだけ目を細めた。


「それならいい」


「先に言っておこうと思って」


「賢明だ」


 私たちは少しだけ笑った。


 穏やかな沈黙が流れる。


 その沈黙が、やはり心地よかった。


     ◇


 その夜、私は久しぶりによく眠った。


 王宮の夢は見なかった。


 夜会の声も、殿下の怒声も、ミレーユ嬢の涙も出てこなかった。


 代わりに夢の中で見たのは、白い雪と、小さな白鈴花だった。


 まだ本物を見たことはない。


 けれど夢の中の花は、雪の中で静かに咲いていた。


 冷たさの中でも、折れずに。


 小さく、けれど確かに。


 目が覚めた時、窓の外は淡い朝の光に包まれていた。


 雪は止んでいる。


 空は澄み、遠くの山々が白く輝いていた。


「お嬢様、おはようございます」


 アンナがカーテンを開ける。


「よく眠れましたか?」


「ええ。とても」


「それはよかったです」


 私は起き上がり、窓の外を見た。


 昨日とは違う朝。


 王都ではない朝。


 北方で迎える、初めての朝。


 胸の奥に、静かな期待が広がった。


 今日は、ヴァレンシュタイン公爵家の本邸へ向かう。


 そこには、私を待つ人々がいる。


 歓迎だけではないだろう。


 警戒も、疑いもあるかもしれない。


 それでも、私は行く。


 ここから始めるために。


 自分の人生を。


 自分で選んだ未来を。


     ◇


 朝食を終え、馬車に乗り込む頃には、空は明るく晴れていた。


 雪をまとった森が、朝日に輝いている。


 クラウス様が馬車の前で私に手を差し出した。


「行こう」


「はい」


 私はその手を取る。


 白い手袋越しに、彼の手の温かさが伝わった気がした。


 馬車が動き出す。


 北方の道を、さらに奥へ。


 王都はもう遠い。


 過去も、少しずつ遠ざかっている。


 けれど、私の中に残ったものは消えない。


 努力した日々。


 傷ついた記憶。


 学んだ知識。


 それらすべてを抱えて、私は新しい場所へ向かう。


 冷血公爵の領地へ。


 けれど、私はもう知り始めている。


 その冷たさの奥には、確かな優しさがあることを。


 そして、この雪深い土地でこそ、私の力が必要とされるかもしれないことを。


 馬車の窓から、遠くに大きな城館が見えた。


 灰色の石で造られた、堅牢な館。


 その背後には、白く輝く山々。


 ヴァレンシュタイン公爵家の本邸。


 私の新しい生活が始まる場所。


 私は胸元の銀の狼に触れ、静かに息を吸った。


 第一王子の婚約者だった私は、もういない。


 婚約破棄された哀れな令嬢でもない。


 私は、リリアーナ・フォルスター。


 自分の意思で北方へ来た、一人の人間だ。


 そして、これから。


 この雪の土地で、私だけの居場所を作っていく。


 馬車はゆっくりと、灰色の城館へ近づいていった。


 門の前には、多くの人々が並んでいる。


 その視線の中には、歓迎もあれば、疑いもある。


 私は背筋を伸ばした。


 怖くないわけではない。


 けれど、もう逃げない。


 隣には、クラウス様がいる。


 そして私自身も、もう一人で耐えるだけの私ではない。


 雪の門が、ゆっくりと開く。


 私の新しい物語が、ここから始まる。


     第一章 完


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