閑話 冷血公爵は、その令嬢をずっと見ていた
クラウス・ヴァレンシュタインは、夜会が好きではなかった。
煌びやかなシャンデリア。
飾り立てた言葉。
腹の探り合いを笑顔で包んだ会話。
王都の貴族たちは、それを社交と呼ぶ。
だがクラウスにとっては、ただ疲れるだけの場だった。
北方では、そんなものは何の役にも立たない。
冬が来れば、雪は容赦なく道を塞ぐ。
魔獣は村を襲う。
薬も食料も、足りなくなる。
そこで必要なのは、美しい挨拶でも、甘い言葉でもない。
正しい判断と、迷わず動ける者だ。
だからこそ、彼は王都の夜会に出るたび、いつも早めに切り上げていた。
だが、その夜だけは違った。
リリアーナ・フォルスター公爵令嬢。
彼女が、第一王子エドワードの隣に立っていたからだ。
クラウスは以前から、彼女のことを知っていた。
直接話したことは、ほとんどない。
だが、名前だけは何度も聞いていた。
王宮の慈善事業を実質的に支えている令嬢。
外交文書の下準備まで任されている王子妃候補。
治癒魔法の才を持ちながら、それを誇ることなく学び続けている公爵令嬢。
王都の者たちは、彼女を「完璧な令嬢」と呼んでいた。
だがクラウスは、その呼び方が好きではなかった。
完璧。
その言葉は、時に人を人間ではなくする。
少しも弱ってはいけない。
間違えてはいけない。
泣いてはいけない。
そう周囲が勝手に決めつける。
リリアーナ嬢も、きっとそういう扱いを受けているのだろう。
クラウスは、何度かそう思ったことがある。
夜会の広間で見かける彼女は、いつも背筋を伸ばしていた。
誰に対しても礼儀正しく、必要以上に笑わず、必要以上に語らない。
エドワード王子が不用意な発言をすれば、さりげなく補い。
誰かが困っていれば、目立たないように手を差し伸べる。
だが、その働きを正しく見ている者は少なかった。
多くの者は、ただこう言うだけだった。
さすがリリアーナ様。
完璧ですわね。
王子妃にふさわしい。
クラウスには、その称賛がどこか残酷に聞こえていた。
彼女自身を見ているのではない。
役割を褒めているだけだ。
その夜も、リリアーナはいつも通り静かに立っていた。
淡い青のドレス。
控えめな宝石。
美しく整えられた髪。
どこから見ても、第一王子の婚約者にふさわしい姿だった。
だが隣のエドワード王子は、彼女ではなく、少し離れた場所にいる桃色のドレスの少女ばかり見ていた。
ミレーユ・ラングレー男爵令嬢。
最近、王都の社交界でよく名前を聞く少女だった。
可憐で、素直で、守ってあげたくなる令嬢。
そう評されているらしい。
クラウスは一度だけ、彼女がリリアーナに話しかけている場面を見たことがある。
ミレーユ嬢は涙ぐんでいた。
リリアーナ嬢は静かに何かを説明していた。
周囲の者は、リリアーナが冷たく叱っていると思ったようだった。
だがクラウスの目には、違って見えた。
リリアーナは、相手を責めてはいなかった。
むしろ、どうすれば彼女が困らずに済むかを考えているように見えた。
あれを冷たいと言うのなら、王都の者たちはよほど目が曇っている。
そう思ったことを、クラウスは覚えている。
◇
「リリアーナ・フォルスター。貴様との婚約を、今日この場で破棄する!」
その声が大広間に響いた瞬間、クラウスは眉を動かした。
周囲の貴族たちが一斉にざわめく。
楽団の音が止まり、誰もが第一王子とリリアーナに視線を向けた。
クラウスは、壁際からその光景を見ていた。
エドワード王子の隣には、ミレーユ嬢がいる。
涙を浮かべ、怯えたように王子の腕にすがっていた。
一方のリリアーナは、一瞬だけ目を伏せた。
だが、すぐに顔を上げた。
取り乱さなかった。
泣かなかった。
怒りもしなかった。
ただ、静かに理由を尋ねた。
「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
その声は、よく通った。
だが、クラウスには分かった。
傷ついていないわけではない。
彼女はただ、傷ついても崩れないように自分を律しているだけだ。
エドワード王子は、ミレーユ嬢を虐げたとリリアーナを責めた。
証拠はない。
王子が口にしたのは、ミレーユ嬢の涙と訴えだけだった。
クラウスの目が冷える。
馬鹿げている。
婚約とは、個人の感情だけで壊してよいものではない。
まして王家と公爵家の約定だ。
公衆の面前で断罪するなら、それ相応の証拠と手順が必要だ。
それを、この王子は何も分かっていない。
いや、分かろうともしていない。
ただ、涙を流す少女を守る自分に酔っている。
クラウスは、そう判断した。
だが彼がさらに目を向けたのは、リリアーナだった。
周囲の囁きが彼女を刺している。
冷たい令嬢。
気位が高すぎた。
殿下もお可哀想に。
そんな言葉が、本人に聞こえる程度の声で飛び交っていた。
それでもリリアーナは、背筋を曲げなかった。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
そう言って、正式な礼をした。
見事だった。
あまりにも、見事だった。
クラウスは、心の中でそう思った。
だが同時に、胸の奥に冷たい怒りが広がっていくのを感じた。
なぜ、誰も止めない。
なぜ、誰も彼女に弁明の機会を与えない。
なぜ、十年間も王宮を支えてきた令嬢を、たった一人の少女の涙だけで切り捨てられる。
王都は、やはり腐っている。
クラウスは静かに息を吐いた。
リリアーナは、大広間を出ていった。
誰も追わない。
エドワード王子でさえ、戸惑った顔をするだけだった。
失ってから慌てるくらいなら、最初から傷つけなければいいものを。
クラウスは冷めた目で王子を一瞥し、それから広間を出た。
◇
廊下に出ると、リリアーナの姿は少し先にあった。
彼女は窓辺で足を止めていた。
大広間にいた時と同じように、背筋は伸びている。
けれど、肩からはわずかに力が抜けていた。
終わった。
彼女が小さく呟いたのが聞こえた。
その声には、悲しみだけではないものが混じっていた。
疲労。
諦め。
そして、ほんのわずかな解放感。
やはり、彼女は限界だったのだ。
クラウスは、すぐには声をかけなかった。
婚約破棄された直後の令嬢に、軽々しく近づくべきではない。
それくらいの分別はある。
だが、彼女の侍女らしき少女が駆け寄り、二人が話し始めた。
領地へ帰る。
社交界から退く。
王妃になる必要はなくなった。
そんな言葉が聞こえた。
クラウスは、少しだけ目を細める。
リリアーナが王都を離れる。
それは当然の選択だった。
彼女はもう王宮に縛られる必要はない。
だが同時に、クラウスの頭には別の考えが浮かんでいた。
北方には、彼女のような人間が必要だった。
治癒魔法が使える者。
慈善事業の実務を理解している者。
限られた資源をどう配分すべきか、現実的に考えられる者。
そして、誰かの痛みに気づける者。
クラウスはこれまで、北方に必要な人材を何度も探してきた。
王都の治癒師たちは、北方を嫌がった。
寒い。
危険。
魔獣が出る。
華やかな社交もない。
貴族の令嬢など、なおさら来たがらない。
だがリリアーナは違う。
彼女は華やかな場所で飾られるより、きっと誰かの役に立つ場所を選ぶ。
それが彼女にとって良いことかどうかは、慎重に考える必要がある。
だが少なくとも、王宮に戻るよりはずっといい。
それに。
クラウスは、自分でも少し意外なほど強く思っていた。
彼女を、このまま一人にしておきたくない。
それは合理的な判断だけではなかった。
北方に必要だから。
治癒魔法があるから。
王宮への牽制になるから。
そういう理由を並べることはできる。
だが、それだけではない。
彼女が大広間で一人、すべてを受け止めていた姿が、目に焼きついて離れなかった。
誰か一人くらい、彼女の努力を正しく見ている者がいると伝えるべきだ。
もう耐えなくていいと、言うべきだ。
そう思った。
◇
「それは困るな」
クラウスは、廊下の奥から声をかけた。
リリアーナと侍女が振り向く。
リリアーナの瞳に、わずかな驚きが浮かんだ。
「ヴァレンシュタイン公爵閣下……?」
彼女はすぐに礼を取ろうとした。
反射のような動きだった。
どれほど傷ついた直後でも、礼儀を崩さない。
その姿が、また痛ましかった。
クラウスは手で制した。
「先ほどの婚約破棄、見事だった」
彼女は困ったように目を伏せる。
「……お見苦しいところをお見せしました」
「いいや。愚かな王子にはもったいないほど、立派な対応だった」
言葉を選ぶ気はなかった。
本心だったからだ。
リリアーナは一瞬、何と返せばいいのか分からないような顔をした。
おそらく、こんなふうに正面から言われ慣れていないのだろう。
クラウスは、彼女の目を見た。
まだ傷は新しい。
それでも、折れてはいない。
その強さが、危うくもあり、美しくもあった。
「リリアーナ嬢。君はこれから領地へ戻ると言ったな」
「はい。そのつもりです」
「ならば、その前にひとつ提案がある」
彼女は静かに首を傾げた。
「提案、ですか?」
「ああ」
この瞬間、クラウスは自分の言葉が唐突であることを理解していた。
婚約破棄された直後の令嬢に求婚するなど、普通ではない。
だが、遠回しに言えば、彼女はきっと遠慮する。
自分には価値がないと思い込もうとする。
王宮に捨てられたばかりの今なら、なおさらだ。
だから、はっきり言う必要があった。
「私と結婚しないか」
リリアーナの目が大きく見開かれた。
侍女が息を呑む。
無理もない反応だ。
クラウス自身、もう少し順序があるだろうとは思っていた。
だが言ってしまったものは仕方がない。
「……今、なんと?」
「私と結婚しないか、と言った」
「なぜ、私なのですか」
「君が必要だからだ」
それは嘘ではない。
だが、それだけでもない。
クラウスは続けた。
「ヴァレンシュタイン公爵家には、癒やしの力を持つ者が必要だ。君が幼い頃から、治癒魔法に優れていることは知っている」
リリアーナの指先が、わずかに動いた。
治癒魔法。
王宮では軽く扱われていた力。
だが北方では違う。
それは、人を生かす力だ。
「もちろん、道具として扱うつもりはない」
クラウスは、そこだけははっきり伝える必要があると思った。
彼女はこれまで、役割として使われすぎていた。
王子の婚約者。
未来の王妃。
王宮業務の補佐。
便利な才女。
彼女を同じように扱うつもりはなかった。
「君が望むなら、北方で静かに暮らせばいい。社交界に出る必要もない。王都の連中に頭を下げる必要もない」
リリアーナは黙って聞いていた。
青白い顔で、それでも目を逸らさずに。
「ただし、君を傷つけた者たちには、相応の報いを受けてもらう」
その言葉に、彼女の瞳が揺れた。
復讐をけしかけたいわけではない。
だが、何もなかったことにはさせない。
彼女の十年を、王子の軽率な恋心で踏みにじらせたままにはしない。
「第一王子は、君がどれほど王宮を支えていたか理解していない。ミレーユ嬢も同じだ。彼らはすぐに知ることになるだろう。君を失った代償を」
クラウスは、そう確信していた。
王宮はリリアーナに頼りすぎている。
自覚がないだけだ。
彼女が一日いなくなるだけで、すぐに綻びが見えるだろう。
それほどまでに、王宮は彼女の努力の上に成り立っていた。
「リリアーナ嬢」
クラウスは静かに言った。
「君はもう、誰かの都合のいい婚約者でいる必要はない」
その瞬間、リリアーナの表情がわずかに崩れた。
泣き出す寸前のような顔だった。
だが彼女は泣かなかった。
それがまた、クラウスには苦しかった。
泣いてもいいのに。
怒ってもいいのに。
彼女はまだ、自分を律している。
「……少しだけ、考える時間をいただけますか」
「ああ。もちろんだ」
即答した。
急かすつもりはない。
彼女が自分の意思で選ばなければ、意味がない。
王家との婚約のように、家のために決められた関係にするつもりはなかった。
「だが、ひとつだけ覚えておいてほしい」
「何でしょうか」
「私は、君を泣かせるために求婚したわけではない」
クラウスは、できるだけ穏やかに言った。
「君を守るために、求婚している」
リリアーナは何も言わなかった。
だが、その瞳の奥で何かが揺れた。
初めて、彼女の中に届いた気がした。
◇
その後、クラウスはフォルスター公爵家へ先触れを出した。
リリアーナに無礼な接触がないよう、屋敷周辺に人も置いた。
王宮がすぐに使者を出すことは分かっていたからだ。
案の定、翌朝には王宮から使者が向かった。
王妃教育の書類。
慈善事業の予算案。
外交文書の下書き。
王宮がいかに彼女に依存していたかを、自ら証明するような動きだった。
クラウスは報告を聞き、冷たく笑った。
「早すぎるな」
側近の一人が尋ねる。
「王宮のことでございますか」
「ああ。せめて三日は持つかと思っていた」
「それほどリリアーナ様が支えておられたと?」
「そうだ」
クラウスは窓の外を見た。
王都の空は、よく晴れている。
だが王宮の中は、今ごろ大騒ぎだろう。
「彼らは、失ってからようやく気づく」
「リリアーナ様を、ですか」
「いや」
クラウスは静かに答えた。
「自分たちが、どれほど愚かだったかをだ」
側近は黙って頭を下げた。
クラウスは、机の上に置いた小さな箱を見た。
銀の狼と雪の結晶をかたどったブローチ。
本来なら、もっと正式な場で渡すべきものだった。
だが、リリアーナには早く必要になるだろう。
王都で彼女を守る印が。
ヴァレンシュタイン公爵家が彼女を軽んじさせないという証が。
それに。
クラウスは少しだけ目を伏せた。
彼女には、似合うと思った。
冷たい銀の色。
雪の結晶。
それでも折れない狼の紋章。
王宮の華やかな宝石よりも、きっと彼女にはこちらの方がふさわしい。
「閣下」
側近が控えめに声をかける。
「本当に、リリアーナ様をお迎えするおつもりですか」
「そうだ」
「王家との関係が悪化する可能性もございます」
「構わない」
「第一王子殿下が反発するかもしれません」
「勝手に捨てたものを惜しむ資格はない」
クラウスの声は冷たかった。
側近はそれ以上何も言わなかった。
クラウスは、箱を閉じる。
王宮が彼女を道具として扱うなら。
王子が彼女を軽んじるなら。
社交界が彼女を嘲笑うなら。
自分が守る。
それは、ただの同情ではない。
北方に必要な人材だからでもある。
だが、今のクラウスには、それだけでは足りないことも分かっていた。
大広間で一人立っていた彼女の姿。
傷ついてもなお、誰も責めずに退いたあの背中。
それを思い出すたび、胸の奥に静かな怒りと、奇妙な熱が生まれる。
彼女を守りたい。
そしていつか、王宮ではなく北方で笑ってほしい。
クラウス・ヴァレンシュタインは、その願いをまだ恋とは呼ばなかった。
けれど。
冷血公爵と呼ばれる男が、たった一人の令嬢のために動き始めたのは、この夜からだった。




