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妹に聖女の座を奪われ婚約破棄されましたが、辺境で薬屋を始めたら冷酷公爵に溺愛されました  作者: 白瀬ほび
第二章 王都社交界編

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第11話 新しい招待状

 屋敷の朝は、以前よりも少しだけ穏やかだった。


 婚約破棄を告げられたあの日から、私を取り巻くものは大きく変わった。


 かつては毎日のように届いていた嫌味混じりの手紙も、意味もなく呼び出される茶会の招待も、今ではほとんどない。


 それが寂しいかと問われれば、答えは決まっている。


 少しも寂しくない。


 むしろ、ようやく息ができるようになった気がしていた。


「お嬢様、本日のお茶でございます」


「ありがとう、リナ」


 侍女のリナが淹れてくれた紅茶から、ふわりと甘い香りが立ち上る。


 私は窓辺の席に腰かけ、庭に咲き始めた白い花を眺めた。


 白い花弁は、朝露を受けて淡く光っている。


 以前なら、その美しさに気づく余裕さえなかった。


 王太子アルヴィン殿下の婚約者として、私はいつも気を張っていた。


 完璧な令嬢でなければならない。


 王家にふさわしい振る舞いをしなければならない。


 誰にも隙を見せてはならない。


 そう言い聞かせながら、息をすることさえ忘れていたように思う。


 けれど、その努力のすべては、たった一夜で踏みにじられた。


 王宮の夜会。


 多くの貴族が見守る中で、アルヴィン殿下は私に婚約破棄を告げた。


 そして隣に立つリリア様を守るように抱き寄せ、私を悪女だと断じた。


 私がリリア様をいじめた。


 私が嫉妬に狂い、彼女を陥れようとした。


 根も葉もない言葉が、あの場では真実のように扱われた。


 誰も私の話を聞こうとはしなかった。


 誰も、私が積み重ねてきた日々を見ようとはしなかった。


 ただ、婚約者に捨てられた令嬢として、面白い見世物を見るような目を向けていた。


 あの視線を、私は忘れていない。


「お嬢様?」


 リナの声で、私は我に返った。


 どうやら、少し長く黙り込んでいたらしい。


「ごめんなさい。考えごとをしていただけよ」


「……ご無理はなさらないでくださいませ」


「大丈夫。もう、あの頃の私ではないもの」


 そう答えると、リナは一瞬だけ泣きそうな顔をした。


 彼女はずっと、私のそばにいてくれた。


 婚約破棄の噂が広まり、屋敷の使用人たちでさえ私を見る目を変えた時も、リナだけは変わらなかった。


 私が部屋で一人、眠れない夜を過ごしていた時も、扉の外でそっと待っていてくれた。


 泣いてもいいのだと、怒ってもいいのだと、何度も私に言ってくれた。


 だからこそ、私は彼女の前では弱さを見せたくなかった。


 これ以上、心配をかけたくなかった。


「お嬢様、王宮より使者が参っております」


 扉の外から、執事の声が響いた。


 その瞬間、部屋の空気が変わった。


 リナの表情が強ばる。


 私も、紅茶のカップを持つ手を止めた。


 王宮。


 その言葉が、胸の奥に小さな痛みを走らせる。


 あの場所は、私にとって誇りの場所であると同時に、屈辱の場所でもあった。


 幼い頃から王太子の婚約者として通い続けた場所。


 未来の王妃となるために、礼儀作法も政治も歴史も学んだ場所。


 そして、すべてを奪われた場所。


「お嬢様、いかがなさいますか?」


 リナが不安げに尋ねる。


 私はゆっくりと息を吸い、カップを置いた。


「通してちょうだい」


「……かしこまりました」


 しばらくして部屋に現れたのは、王宮に仕える年配の使者だった。


 彼は深く頭を下げると、銀の封蝋が押された一通の招待状を差し出した。


 封蝋には、王家の紋章が刻まれている。


 ただの私的な手紙ではない。


 正式な招待状だ。


「セレスティア・ラングレイ公爵令嬢に、王妃陛下より正式なご招待でございます」


「王妃陛下から……?」


 思わず聞き返してしまった。


 王妃陛下は、アルヴィン殿下の母君であり、この国の社交界で最も大きな影響力を持つ女性だ。


 その王妃陛下から、私へ。


 この時期に届く招待状の意味を、考えないわけにはいかなかった。


 私は封を切り、文面に目を通す。


 そこには、三日後に王宮で開かれる茶会へ出席するように、という内容が美しい文字で記されていた。


 王妃陛下が主催する、限られた貴族令嬢だけが招かれる特別な茶会。


 そこに私が呼ばれた。


 婚約破棄された令嬢としてではなく、ラングレイ公爵家の娘として。


 いいえ。


 おそらく、それだけではない。


 王妃陛下は、私を社交界の表舞台へ戻そうとしている。


 そう受け取る者もいるだろう。


 逆に、私を試すために呼びつけたのだと考える者もいるはずだ。


 どちらにせよ、この招待はただの茶会では終わらない。


 私が出席すれば、王都の貴族たちは騒ぎ立てる。


 私が欠席しても、同じように噂になる。


 つまり、どちらを選んでも静かには済まない。


「お嬢様……」


 リナが不安そうに私を見つめる。


 その気持ちはよく分かる。


 王宮には、アルヴィン殿下もいる。


 リリア様もいるかもしれない。


 私を嘲笑った者たちも、私が落ちぶれるのを待っている者たちもいるだろう。


 けれど。


「お受けいたします、と王妃陛下にお伝えください」


 私が答えると、使者は静かに頭を下げた。


「確かに承りました」


 使者が去ったあと、部屋にはしばらく沈黙が落ちた。


 窓の外では、穏やかな風が白い花を揺らしている。


 それなのに、私の胸の内には、静かな嵐が生まれていた。


「お嬢様、本当に行かれるのですか?」


「ええ」


「王宮には、殿下も……リリア様もいらっしゃるかもしれません」


「そうね」


「でしたら、無理に行かなくてもよろしいのではありませんか。体調が優れないとお返事すれば、誰も強く責めることはできません」


 リナの言葉は優しかった。


 私を守ろうとしてくれているのだと分かる。


 けれど、私は首を横に振った。


「逃げたと思われるわ」


「ですが……」


「いいの。そう思う人たちのために生きるつもりはない。でも、私自身が逃げたと思いたくないの」


 リナは言葉を失った。


 私は招待状を指先でなぞる。


 王家の紋章は、冷たいほど整っていた。


 この一枚の紙が、再び私を嵐の中心へ連れ戻そうとしている。


 けれど、不思議と怖さだけではなかった。


 怒り。


 悔しさ。


 そして、わずかな期待。


 私を踏みにじった人たちに、今の私を見せたい。


 黙って泣くことしかできない令嬢ではないのだと、分からせたい。


「私は何も恥じることをしていないわ」


 静かに告げると、リナははっとしたように顔を上げた。


「それを示すためにも、私は王宮へ行く」


 言葉にすると、胸の奥が少しだけ軽くなった。


 そうだ。


 私は何も悪いことをしていない。


 ならば、顔を上げて歩けばいい。


 私を悪女だと決めつけた者たちの前で。


 私を哀れんだ者たちの前で。


 そして、私を簡単に捨てたあの人の前で。


「では、すぐに支度の準備をいたします」


 リナの声に、先ほどまでの震えはなかった。


 むしろ、少しだけ力強い。


「ドレスはどちらになさいますか?」


「派手すぎず、けれど地味にも見えないものを。私が哀れに見える装いだけは避けて」


「かしこまりました。王宮の茶会にふさわしく、それでいてお嬢様の品格が一番伝わるものをお選びいたします」


「お願い」


「髪飾りは、真珠がよろしいかと。清らかで、けれど決して弱く見えません」


「任せるわ」


 リナは深くうなずいた。


 その目には、確かな決意が宿っている。


 私の戦いは、私一人のものではない。


 私を信じてくれる者たちのためにも、私は背筋を伸ばさなければならない。


 昼過ぎになると、屋敷の空気は慌ただしくなった。


 仕立て直しが必要なドレスが運び出され、宝石箱が開かれ、茶会にふさわしい装いについて侍女たちが相談を始める。


 その様子を、私は少し離れた場所から眺めていた。


 以前の私なら、完璧でなければならないと焦っていたかもしれない。


 けれど今は違う。


 完璧である必要はない。


 ただ、私が私として立っていられればいい。


「セレスティア」


 低い声がして振り向くと、父が部屋の入口に立っていた。


 ラングレイ公爵。


 厳格で、感情を表に出すことの少ない人。


 けれど、私が婚約破棄された夜、誰よりも静かに怒っていたのは父だった。


「お父様」


「王妃陛下から招待があったと聞いた」


「はい。三日後の茶会に出席するようにと」


「行くつもりか」


「はい」


 父はしばらく私を見つめていた。


 責めているわけではない。


 止めようとしているわけでもない。


 ただ、私の覚悟を確かめている目だった。


「王宮は優しい場所ではない」


「分かっています」


「一度傷ついた者を、さらに傷つけようとする者もいる」


「それも、分かっています」


「それでも行くのだな」


「はい」


 私はまっすぐ父を見返した。


「私は、ラングレイ公爵家の娘です。何も恥じることがないのに、隠れるような真似はしたくありません」


 父の目が、わずかに細められる。


 ほんの少しだけ、口元が緩んだように見えた。


「よく言った」


 その一言だけで、胸が熱くなった。


 父は多くを語らない。


 けれど、その短い言葉に、私への信頼が込められていることは分かった。


「必要なものがあれば、すべて用意させる。お前は堂々としていればいい」


「ありがとうございます、お父様」


「それから」


 父は一歩近づき、少しだけ声を低くした。


「もし王宮で不当な扱いを受けたなら、遠慮なく言い返しなさい。ラングレイ家は、もう黙ってはいない」


 その言葉に、私は小さく息をのんだ。


 父は本気だった。


 これまで家同士の関係を考え、王家への配慮を欠かさなかった父が、はっきりとそう言ったのだ。


 私は一人ではない。


 その事実が、私の背中をそっと押してくれた。


「はい。必ず」


 父が去ったあと、私はもう一度招待状を手に取った。


 三日後。


 王宮の茶会。


 そこで何が待っているのかは分からない。


 王妃陛下が私に何を望んでいるのかも、まだ分からない。


 けれど、一つだけ確かなことがある。


 私はもう、誰かに決めつけられるだけの令嬢ではない。


 その頃、王都の社交界では、早くも一つの噂が広まり始めていた。


 王妃陛下の茶会に、婚約破棄された公爵令嬢が招かれたらしい。


 あのセレスティア様が、ついに王宮へ戻ってくるのだと。


「本当に来るのかしら」


「さすがに欠席なさるのではなくて?」


「でも、王妃陛下からの正式な招待でしょう? 断るのも難しいはずよ」


「可哀想に。殿下とリリア様に会うことになるかもしれないのに」


「いいえ、私は少し楽しみだわ。あの方がどんな顔で戻ってくるのか」


 同情と好奇心。


 悪意と期待。


 さまざまな感情を含んだ噂は、王都の屋敷から屋敷へと流れていく。


 そしてその噂は、王宮の奥深くにも届いていた。


「セレスティアが……来る?」


 アルヴィン殿下は、手にしていた書類を握りしめた。


 その顔には、隠しきれない動揺が浮かんでいる。


 隣にいたリリア様が、不安げに彼の袖をつかんだ。


「殿下、わたくし……少し怖いです。セレスティア様は、まだわたくしたちを恨んでいるのでしょうか」


「心配するな、リリア。君は何も悪くない」


 アルヴィン殿下はそう言った。


 けれど、その声にはわずかな焦りが混じっていた。


 彼自身も、分かっているのだろう。


 あの婚約破棄が、完全に正しい形で終わったわけではないことを。


 私を悪女と決めつけた言葉の中に、確かな証拠などほとんどなかったことを。


 そして今、王妃陛下が私を正式に招いた。


 それは、王宮が私を完全に切り捨てたわけではないという意味にも取れる。


 アルヴィン殿下にとって、それは決して喜ばしいことではないはずだ。


「でも……もし皆様が、セレスティア様の味方をし始めたら?」


 リリア様の声は震えていた。


「わたくし、またひどいことを言われるかもしれません。セレスティア様は公爵家の方ですもの。わたくしなんて、誰にも信じてもらえなくなってしまうかも……」


「リリア」


 殿下は彼女の肩を抱き寄せる。


「君は私が守る。誰にも傷つけさせない」


「殿下……」


 二人は寄り添う。


 まるで、悲劇に立ち向かう恋人同士のように。


 けれど本当に傷つけられたのは誰だったのか。


 本当に守られるべきだったのは誰だったのか。


 彼らはまだ、見ようとしていない。


 いや、見ないふりをしているのかもしれない。


 私は、その場にはいない。


 けれど、私の名だけが彼らの平穏を揺らしている。


 それだけで十分だった。


 踏みにじった令嬢が、いつまでも黙って下を向いているとは限らない。


 捨てたはずの婚約者が、二度と表舞台に戻らないとは限らない。


 彼らは今になってようやく、その当たり前のことに気づき始めている。


 夜。


 私は自室で、茶会に着ていく予定のドレスを眺めていた。


 淡い青を基調とした、品のあるドレス。


 派手ではない。


 けれど、決して弱々しくもない。


 まるで静かな湖面のような色だった。


「お嬢様によくお似合いになると思います」


 リナがそっと微笑む。


「ありがとう」


「きっと、皆様驚かれます。お嬢様がこんなにも美しく、堂々と戻られるのですから」


「大げさね」


「大げさではございません」


 リナは真剣な顔で首を振った。


「私は、悔しかったのです。あの日、皆がお嬢様を勝手に悪者にして、誰もお嬢様の言葉を聞こうとしなかったことが」


「リナ……」


「だから、見せてやりたいのです。お嬢様は何も失っていないと。むしろ、あの方たちの方が、大切なものを見失ったのだと」


 その言葉に、私は少しだけ笑った。


 リナは時々、私よりもずっと強い。


「そうね」


 私はドレスに触れた。


 滑らかな布地が、指先をすべっていく。


「見せに行きましょう。私がまだ、ここにいるのだと」


 三日後。


 王宮の茶会で、私たちは再び同じ場所に立つことになる。


 今度は、誰かに断罪されるためではない。


 誰かに許しを乞うためでもない。


 私自身の名誉を、取り戻すために。


 そして、私を踏みにじった人たちに思い知らせるために。


 セレスティア・ラングレイの物語は、まだ終わっていないのだと。



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