第12話 王都へ戻る日
三日後の朝。
王都へ向かう馬車の前で、私は静かに息を整えていた。
空はよく晴れている。
雲一つない青空は、まるで今日という日を祝福しているようにも見えた。
けれど、私の胸の内は穏やかではない。
これから向かうのは、王宮だ。
幼い頃から何度も通った場所。
王太子の婚約者として、礼儀作法を学び、王妃陛下に茶の淹れ方を褒められ、未来の王妃としてふるまうことを求められた場所。
そして、私がすべてを奪われた場所。
「お嬢様、お支度はすべて整っております」
リナがそっと声をかけてくれる。
今日の私は、淡い青のドレスを身にまとっていた。
派手ではない。
けれど、決して弱くも見えない。
静かな湖面のような色合いに、胸元には小さな真珠の飾り。
髪はきつく結い上げすぎず、けれど乱れのないようにまとめられている。
鏡の前に立った時、リナは涙ぐみながら言った。
お嬢様は、何一つ失ってなどいません、と。
その言葉を思い出すだけで、今も胸が温かくなる。
「ありがとう、リナ。今日も一緒に来てくれる?」
「もちろんでございます。たとえ王宮の全員がお嬢様の敵になったとしても、私はお嬢様の後ろにおります」
「頼もしいわね」
「本気でございます」
リナは真剣な顔でそう言った。
その表情があまりにもまっすぐで、私は思わず小さく笑ってしまう。
笑える。
それだけで、以前の私より少し強くなれた気がした。
「セレスティア」
低い声に振り向くと、父が玄関の前に立っていた。
ラングレイ公爵家の当主であり、私の父。
いつも通り落ち着いた表情をしているが、その目にはわずかな緊張が見えた。
「お父様」
「王宮へ着いたら、必要以上に下手に出る必要はない」
「はい」
「王妃陛下には礼を尽くしなさい。だが、他の者たちの好奇の目にまで、丁寧に応える義理はない」
「承知しております」
父は少しだけ黙ったあと、私の前まで歩いてきた。
そして、普段は滅多にしないことだが、私の肩にそっと手を置いた。
「お前はラングレイ家の娘だ。胸を張って行きなさい」
その短い言葉に、私は何度も救われている。
私が婚約破棄された夜、父は大声で怒鳴ることも、誰かを罵ることもしなかった。
ただ静かに私を屋敷へ連れ帰り、こう言った。
お前が何も恥じることをしていないのなら、下を向く必要はない、と。
あの言葉があったから、私は今ここに立っていられる。
「はい。行ってまいります」
私は深く礼をした。
父は小さくうなずき、馬車の扉を開けるよう御者に合図する。
リナに手を借りて馬車へ乗り込むと、車輪がゆっくりと動き始めた。
屋敷の門が遠ざかっていく。
それはまるで、安全な場所から一歩踏み出す合図のようだった。
王都へ戻る道は、思っていたよりも賑やかだった。
朝の市には野菜や果物を並べる商人たちがいて、焼きたてのパンの香りが通りまで漂っている。
行き交う人々は、私が誰であるかなど知らない者も多い。
それぞれの生活があり、それぞれの悩みがあり、それぞれの一日が始まっている。
婚約破棄。
悪女の噂。
王宮の茶会。
私にとっては人生を揺るがす出来事でも、王都の人々にとっては遠い貴族社会の話にすぎない。
そのことが、少しだけ私を冷静にしてくれた。
世界は、私が傷ついたからといって止まってくれない。
けれど同時に、私が傷ついたからといって、私の人生が終わるわけでもない。
馬車の窓から外を眺めていると、通りの向こうで貴族家の馬車が一台、こちらに気づいたように速度を落とした。
窓の奥に、扇で口元を隠した令嬢の姿が見える。
その目が私を見つけた瞬間、わずかに大きく開かれた。
そして、隣に座る誰かへ何かをささやく。
「……もう気づかれましたね」
リナが小さくつぶやいた。
「ええ」
「嫌な感じです。まるで見世物のように」
「そうね」
けれど、私は視線をそらさなかった。
窓越しに向けられる好奇の目。
それは、あの夜会で浴びたものとよく似ている。
けれど、あの時とは違う。
私はもう、ただ傷ついて震えているだけの令嬢ではなかった。
だから、静かに背筋を伸ばし、向こうの馬車へ軽く会釈した。
令嬢は驚いたように固まった。
きっと私がうつむくと思っていたのだろう。
顔色を悪くして、逃げるように視線をそらすとでも思っていたのだろう。
けれど私は、そんな姿を見せるつもりはない。
「お嬢様、今の会釈、とても綺麗でした」
「そう?」
「はい。相手の方、完全に負けておりました」
「勝ち負けではないわ」
「ですが、勝っておりました」
リナがあまりにも真面目に言うので、私はまた少し笑った。
緊張していたはずなのに、彼女がそばにいるだけで呼吸がしやすくなる。
馬車は王都の中心へ近づいていく。
建物はだんだん立派になり、道を行き交う馬車の数も増えていった。
社交界の中心に近づくほど、私を見る視線も増えていく。
ラングレイ公爵家の紋章が入った馬車。
それだけで、私が誰なのか分かる者は多い。
「あの馬車、ラングレイ家の……」
「セレスティア様かしら」
「本当に王宮へ向かわれるのね」
かすかな声が、馬車の外から聞こえた気がした。
噂はもう十分に広まっている。
王妃陛下の茶会に、婚約破棄された公爵令嬢が招かれた。
社交界の人々にとって、これほど面白い話題はないのだろう。
私がどんな顔で王宮へ戻るのか。
アルヴィン殿下と顔を合わせるのか。
リリア様と再び争うのか。
きっと、誰もがその続きを知りたがっている。
けれど私は、誰かを楽しませるために王宮へ向かっているわけではない。
私自身の名誉を取り戻すために行くのだ。
そのことだけは、忘れてはならない。
やがて、馬車は王宮へ続く広い道へ入った。
白い石畳が太陽の光を受けてまぶしく輝く。
遠くに見える王宮の尖塔は、昔と少しも変わっていなかった。
美しく、誇り高く、そして冷たい。
あの場所に、私は何度も憧れた。
いつか自分があの王宮の一部になるのだと思っていた。
王太子妃として。
未来の王妃として。
国を支える者として。
そのために、私は多くのものを捧げてきた。
好きな本を読む時間も、友人と気楽に笑い合う時間も、失敗して泣く自由さえも。
すべて、未来のためだと信じていた。
けれど、その未来は私の手から奪われた。
いいえ。
最初から、私一人が大切に抱えていただけだったのかもしれない。
アルヴィン殿下にとって、私との婚約は重荷でしかなかったのだろう。
だからこそ、リリア様という存在が現れた時、あの人は簡単に私を切り捨てた。
私はそっと拳を握る。
怒りがないと言えば嘘になる。
悲しみが消えたわけでもない。
けれど、その感情に飲み込まれるつもりはなかった。
王宮の門が近づく。
門番がラングレイ家の紋章を確認し、すぐに姿勢を正した。
「ラングレイ公爵令嬢、セレスティア様でございますね。王妃陛下よりお話は伺っております」
「ご苦労さまです」
私は窓越しに静かに答えた。
門番の表情に、一瞬だけ驚きが浮かぶ。
おそらく、もっと弱々しい姿を想像していたのだろう。
誰もがそうだ。
婚約破棄された令嬢は、泣き崩れているものだと思っている。
社交界から姿を消し、噂が過ぎ去るのを待つものだと思っている。
けれど残念ながら、私はそうするつもりはない。
馬車は王宮の敷地内へ入った。
整えられた庭園。
噴水の水音。
白い柱が並ぶ回廊。
すべてが懐かしく、それでいて遠い。
私はここを知っている。
けれど、ここはもう私の居場所ではない。
そう思った瞬間、胸が少しだけ痛んだ。
「お嬢様」
リナがそっと私の手に触れた。
「大丈夫よ」
私はそう答えた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
馬車が正面玄関の前で止まる。
扉が開かれると、王宮の侍従が丁寧に頭を下げた。
「セレスティア・ラングレイ公爵令嬢、お待ちしておりました」
「本日はお招きいただき、光栄に存じます」
私は馬車を降りる。
足が石畳に触れた瞬間、周囲の視線が一斉に集まったのが分かった。
王宮に出入りする貴族。
侍女。
騎士。
皆が、声には出さずとも私を見ている。
婚約破棄された令嬢。
悪女と呼ばれた女。
王太子に捨てられた公爵令嬢。
きっと、彼らの頭の中にはそんな言葉が浮かんでいるのだろう。
けれど私は、微笑んだ。
ほんの少しだけ。
礼儀正しく、静かに、崩れない笑みを浮かべる。
その瞬間、空気がわずかに揺れた気がした。
予想していた姿と違ったのだろう。
哀れで、傷ついて、下を向いている令嬢。
そんなものを期待していた人々の前に現れたのは、淡い青のドレスをまとい、背筋を伸ばした一人の公爵令嬢だった。
それだけで十分だった。
今日の最初の目的は、果たせたのかもしれない。
「こちらへどうぞ。王妃陛下は、すでに茶会の間でお待ちでございます」
侍従に案内され、私は王宮の中へ足を踏み入れた。
磨き上げられた床に、私の靴音が静かに響く。
高い天井。
壁に並ぶ歴代王族の肖像画。
窓から差し込む光。
何も変わっていないはずなのに、すべてが少し違って見えた。
以前の私は、この場所を未来の居場所として見ていた。
今の私は、自分を取り戻すための戦場として見ている。
同じ景色でも、立場が変われば意味も変わる。
回廊を進む途中、向こう側から数人の令嬢たちが歩いてくるのが見えた。
彼女たちは私に気づくと、ぴたりと足を止めた。
その中に、見覚えのある顔がある。
ヴィオラ伯爵令嬢。
かつて、私が王太子妃教育で失敗した時に、陰で笑っていた一人だ。
彼女は一瞬驚いた顔をしたあと、すぐに扇で口元を隠した。
「あら、セレスティア様。ごきげんよう」
「ごきげんよう、ヴィオラ様」
私は静かに礼を返した。
「お久しぶりですわね。まさか今日、お目にかかれるとは思っておりませんでした」
柔らかな声。
けれど、その奥には明らかな棘がある。
まさか来られるとは思わなかった。
その言葉の裏には、よく顔を出せたものだという意味が隠れている。
「王妃陛下よりご招待をいただきましたので」
「まあ……そうでしたわね。皆、その話で持ちきりですもの」
ヴィオラ様の背後で、他の令嬢たちが小さく笑う。
リナが後ろで息をのむ気配がした。
私は表情を変えず、ヴィオラ様を見つめる。
「私のことで皆様の話題を占めてしまったのなら、少し申し訳ないですわ」
「いえいえ。退屈な社交界には、時々こうした話題も必要ですもの」
「そうですか」
私は微笑んだ。
「ですが、噂だけで物事を判断なさるのは、あまり品のよい楽しみ方ではありませんわね」
その場の空気が止まった。
ヴィオラ様の目がわずかに見開かれる。
彼女は私が黙って耐えると思っていたのだろう。
以前の私なら、そうしていたかもしれない。
王太子の婚約者として、波風を立てないことを優先した。
誰に嫌味を言われても、微笑んで受け流した。
けれど今は違う。
私はもう、誰かのために自分を押し殺す必要はない。
「それでは、王妃陛下をお待たせするわけにはまいりませんので、失礼いたします」
私は丁寧に礼をして、彼女たちの横を通り過ぎた。
背後で、誰かが小さく息をのむ音がした。
リナがそっと近づいてくる。
「お嬢様……今の、とても素晴らしかったです」
「少し言い過ぎたかしら」
「いいえ。もっと言ってもよかったくらいです」
「リナ」
「本心でございます」
小声でそう言う彼女に、私は思わず口元を緩めた。
心臓はまだ少し速く打っている。
怖くなかったわけではない。
けれど、言えた。
自分の言葉で、相手の悪意を受け流すのではなく、きちんと返すことができた。
それは小さな一歩かもしれない。
けれど、私にとっては大きな一歩だった。
茶会の間に近づくにつれ、華やかな声が聞こえ始めた。
令嬢たちの笑い声。
陶器が触れ合う澄んだ音。
控えめな楽の音。
扉の向こうには、今日の本当の舞台が待っている。
王妃陛下。
社交界の令嬢たち。
そして、おそらく私を観察しようとする多くの目。
私は一度立ち止まり、深く息を吸った。
「お嬢様」
「大丈夫」
今度は、はっきりとそう言えた。
私は逃げるためにここへ来たのではない。
隠れるためでも、許しを乞うためでもない。
顔を上げて、ここに戻るために来たのだ。
侍従が扉の前に立ち、私の到着を告げる。
「セレスティア・ラングレイ公爵令嬢、ご到着でございます」
扉が開いた。
眩しい光と、いくつもの視線が私に注がれる。
茶会の間に集まった令嬢たちが、一斉にこちらを振り向いた。
その奥。
優雅な椅子に腰かけた王妃陛下が、静かに私を見つめている。
私は背筋を伸ばした。
淡い青のドレスの裾をつまみ、深く礼をする。
「本日はお招きいただき、誠に光栄に存じます。王妃陛下」
顔を上げた瞬間、王妃陛下の口元にかすかな笑みが浮かんだ。
「よく来ましたね、セレスティア」
その声は、以前と変わらず穏やかだった。
けれど、その奥に何が隠されているのか、私にはまだ分からない。
歓迎か。
試練か。
それとも、何か別の思惑か。
私は静かに微笑み返した。
王都へ戻る日。
それは、私が過去に向き合う日でもあった。
そして同時に、これから始まる新しい戦いの幕開けでもあった。




