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妹に聖女の座を奪われ婚約破棄されましたが、辺境で薬屋を始めたら冷酷公爵に溺愛されました  作者: 白瀬ほび
第二章 王都社交界編

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第13話 変わった令嬢、変わらない噂

「よく来ましたね、セレスティア」


 王妃陛下の声は、茶会の間に静かに響いた。


 その一言だけで、部屋の空気が変わる。


 私を見ていた令嬢たちの視線が、ほんのわずかに揺れたのが分かった。


 王妃陛下が、私をどう扱うのか。


 それを見極めようとしていた者たちは、今の言葉に込められた意味を必死に探っているのだろう。


 冷たい拒絶ではない。


 かといって、無条件の歓迎でもない。


 穏やかで、優しく、けれど決して簡単には内側を読ませない声。


 それが、王妃陛下という方だった。


「本日はお招きいただき、誠にありがとうございます」


 私は深く礼をした。


 背筋を伸ばし、声を震わせず、ただ丁寧に。


 それだけのことなのに、部屋のあちこちから小さなざわめきが生まれた。


 きっと多くの者が、私が泣きそうな顔で現れると思っていたのだろう。


 あるいは、王妃陛下の前で萎縮し、言葉を詰まらせると期待していたのかもしれない。


 けれど私は、そうはしなかった。


 私はここへ、哀れまれるために来たのではない。


 自分の足で戻ってきたのだ。


「顔を上げなさい」


「はい」


 私は静かに顔を上げた。


 王妃陛下は、以前と変わらぬ美しさでそこに座っていた。


 淡い金の髪を上品に結い、深い緑の瞳で私を見つめている。


 その目は優しい。


 けれど、甘くはない。


 幼い頃から私は、その視線を何度も受けてきた。


 王太子妃となる者に必要なのは、ただ美しく微笑むことではありません。


 そう教えてくださったのは、この方だった。


 国を見る目。


 人を見る目。


 自分の弱さを知る目。


 そのすべてを持ちなさいと、何度も言われた。


 あの頃の私は、その言葉の重さを分かっているつもりでいた。


 けれど今なら少しだけ分かる。


 人を見る目を持たなければ、誰かの甘い言葉に簡単に足元をすくわれる。


 自分の弱さを知らなければ、傷ついた時に立ち上がれなくなる。


 そして、国を見る目を持たなければ、個人の感情に流されて大切なものを見失う。


 アルヴィン殿下は、きっとそのすべてを見失ったのだ。


「こちらへ」


 王妃陛下が手元の席を示した。


 その席は、想像していたよりもずっと上座に近かった。


 令嬢たちの間に、はっきりと動揺が走る。


 私も一瞬だけ、息をのんだ。


 この席に座るということは、王妃陛下が私を軽んじていないと示すことになる。


 同時に、私を注目の的にするという意味でもあった。


 王妃陛下は、私を守ろうとしているのか。


 それとも、試そうとしているのか。


 まだ分からない。


 けれど、どちらであっても受けるしかない。


「恐れ入ります」


 私は礼をして、示された席へ向かった。


 歩く間、いくつもの視線が肌に刺さる。


 好奇心。


 嘲り。


 警戒。


 同情。


 それらが複雑に混じり合い、茶会の間を満たしていた。


 席に着くと、すぐ隣に座っていた令嬢が小さく会釈した。


 淡い紫のドレスを着た、柔らかな雰囲気の令嬢だ。


「ごきげんよう、セレスティア様」


「ごきげんよう」


「エレノア・ハーシェルと申します。以前、王宮の慈善舞踏会で一度だけご挨拶させていただきました」


「覚えておりますわ。ハーシェル侯爵家のエレノア様ですね」


 私がそう答えると、エレノア様は少し驚いた顔をした。


「覚えていてくださいましたの?」


「もちろんです。刺繍入りの手袋を孤児院へ寄付なさっていたでしょう。とても美しい品でした」


 エレノア様の頬が、ほんのり赤く染まる。


「まあ……ありがとうございます」


 その様子を見て、周囲の令嬢たちがまた小さくざわめいた。


 婚約破棄された令嬢が、他人のことまで覚えている。


 そんなことが、彼女たちには意外だったのかもしれない。


 けれど、私はずっとそうしてきた。


 王太子妃になるために、貴族の家名、領地、関係性、過去の寄付や功績まで覚えた。


 茶会で誰にどの話題を振るべきか。


 誰と誰の家が対立しているのか。


 どの令嬢が何を大切にしているのか。


 それを知ることも、私に課せられた役目だった。


 けれど今まで、それを褒められたことはほとんどない。


 当然のことだと思われていたからだ。


 それなのに、リリア様が少し笑えば、周囲は花が咲いたようだと褒めた。


 彼女が貴族の名前を間違えても、可愛らしい間違いだと笑った。


 私が十年かけて積み上げたものは当然で、彼女の未熟さは愛らしい。


 その差を思い出すと、胸の奥が小さく冷えた。


 だが、私は表情を崩さなかった。


「セレスティア」


 王妃陛下の声に、私は視線を戻す。


「久しぶりに見るあなたは、少し変わりましたね」


 その言葉に、茶会の間が静まり返った。


 変わった。


 それは褒め言葉にも、皮肉にもなる。


 ここにいる誰もが、王妃陛下の次の言葉を待っていた。


「以前よりも、ずっと静かな目をしています」


 王妃陛下はそう言って、ティーカップを手に取った。


「それは、良いことなのでしょうか」


 私は尋ねた。


 王妃陛下は少しだけ微笑む。


「良いか悪いかは、これからのあなたが決めることです」


 その答えは、やはり優しくはなかった。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 同情されるよりもずっといい。


 可哀想にと慰められるより、これからを見なさいと言われる方が、今の私には必要だった。


「肝に銘じます」


 私がそう答えると、王妃陛下は満足げに目を細めた。


 その時、少し離れた席から柔らかな声が聞こえた。


「セレスティア様は、本当にお強いのですね」


 声の主は、ミレーユ子爵令嬢だった。


 栗色の髪に、甘い桃色のドレス。


 彼女はいつも、誰かの噂話の中心にいる。


 自分から悪口を言うことは少ない。


 ただ、誰かが言いやすい空気を作るのが上手い令嬢だった。


「私なら、きっと王宮に戻る勇気などありませんわ」


 ミレーユ様は、感心したように目を伏せる。


「だって、あのようなことがあったのですもの。皆様の前に出るだけでも、胸が痛んでしまいそうです」


 一見、私を気遣っているような言葉。


 けれど、その中には確かな棘があった。


 あのようなこと。


 皆様の前に出るだけでも。


 つまり彼女は、私が恥ずべき立場にあるのだと、この場でもう一度思い出させようとしている。


 以前の私なら、微笑んで流していただろう。


 相手を刺激しないように。


 場を荒らさないように。


 けれど、それはもうやめた。


「ご心配ありがとうございます、ミレーユ様」


 私は静かに微笑んだ。


「けれど、胸が痛むのは、恥じることをした時だけではありませんわ」


 ミレーユ様の笑みが、ほんの少し固まる。


「大切にしてきたものを踏みにじられた時にも、胸は痛むものです」


 部屋が静かになった。


 誰かがカップを置く小さな音まで聞こえる。


 私は続けた。


「ですが、痛むからといって、顔を伏せる理由にはなりません。私は何も恥じることをしておりませんから」


 その言葉を言い終えた瞬間、自分の心臓が強く鳴るのを感じた。


 怖くなかったわけではない。


 王妃陛下の前で、社交界の令嬢たちの前で、はっきりと自分の潔白を示す。


 それは簡単なことではなかった。


 けれど、言わなければならなかった。


 私が黙れば、沈黙は罪を認めた証にされる。


 私がうつむけば、それは後ろ暗さがあるからだと噂される。


 だから私は、言葉にした。


 私は何も恥じていない、と。


「……まあ」


 ミレーユ様は、扇で口元を隠した。


「そのようなおつもりで申し上げたわけではありませんのよ」


「ええ、存じております」


 私は穏やかに返す。


「だからこそ、私も誤解のないようにお答えしただけですわ」


 今度こそ、ミレーユ様は黙った。


 周囲の令嬢たちは、明らかに反応に困っている。


 誰かが笑えば、その者は私を嘲ったことになる。


 誰かが私を責めれば、根拠もなく婚約破棄の一件を蒸し返したことになる。


 王妃陛下の前で、それをする勇気がある者は少なかった。


「セレスティア様」


 隣のエレノア様が、小さな声で言った。


「お茶が冷めてしまいますわ」


 何気ない一言だった。


 けれど、その声は私を助けるように柔らかかった。


「ありがとうございます」


 私はカップを手に取る。


 紅茶の香りが、少しだけ緊張をほどいてくれた。


 王妃陛下は何も言わず、そのやり取りを見ていた。


 止めることも、助けることもしない。


 ただ、私がどう振る舞うかを見ている。


 やはりこれは試験なのだ。


 王妃陛下が私を招いたのは、ただ同情したからではない。


 私が社交界に戻れるだけの強さを持っているのか。


 悪意を受けても、感情だけで動かずに立っていられるのか。


 それを見極めようとしている。


 私はカップを置き、静かに息を整えた。


 大丈夫。


 私はまだ立っている。


 茶会はその後、表向きは穏やかに進んだ。


 季節の花の話。


 最近流行している菓子の話。


 慈善市の予定。


 刺繍や音楽会の話題。


 けれど、どんな話題の中にも、私への視線は混じっていた。


 誰もが私を見ている。


 誰もが私の言葉を待っている。


 失言しないか。


 怒りを見せないか。


 泣き出さないか。


 それを期待している者もいるのだろう。


 けれど私は、すべての話題に丁寧に答えた。


 花の話では、ラングレイ領で育つ白い花について話した。


 菓子の話では、地方から取り寄せた蜂蜜を使った焼き菓子を紹介した。


 慈善市の話では、父が支援している孤児院の近況を少しだけ伝えた。


 そのたびに、場の空気が少しずつ変わっていくのが分かった。


 婚約破棄された令嬢。


 悪女と噂された女。


 そんな色眼鏡で見ていた者たちが、少しずつ思い出し始めている。


 私はもともと、王太子妃候補として教育を受けてきた公爵令嬢なのだ。


 何も知らないわけではない。


 ただ感情的に泣き叫ぶだけの女ではない。


「セレスティア様は、以前と変わらずお詳しいのですね」


 誰かがぽつりと言った。


 その言葉に、私は微笑む。


「以前より、少しだけ自分のために学べるようになりましたわ」


「自分のために?」


「ええ。誰かに認められるためだけではなく、自分が何を見て、何を考えるのか。そのために学ぶことも大切なのだと、最近ようやく気づきました」


 そう言うと、何人かの令嬢が黙り込んだ。


 彼女たちの中にも、家のため、婚約者のため、社交界での立場のために努力している者は多いだろう。


 私の言葉は、少しだけ彼女たちの胸にも触れたのかもしれない。


 その時、王妃陛下が静かに口を開いた。


「良い気づきです」


 たった一言。


 けれど、その一言で十分だった。


 王妃陛下が私を認めた。


 少なくとも、この場の振る舞いについては。


 その事実が令嬢たちに伝わった瞬間、空気はまた変わった。


 私を見る目に、ほんのわずかな敬意が混じり始める。


 まだ完全ではない。


 疑いも、好奇心も、悪意も残っている。


 けれど、ただの哀れな令嬢として見る者は減った。


 それだけで、今日は十分な成果だった。


 だが、穏やかな時間は長く続かなかった。


 茶会の終わりが近づいた頃、扉の外が少し騒がしくなった。


 侍従が困ったような顔で王妃陛下へ近づき、小声で何かを告げる。


 王妃陛下の表情は変わらなかった。


 けれど、目だけがわずかに鋭くなる。


 私は胸騒ぎを覚えた。


 次の瞬間、扉の向こうから聞き慣れた声が響いた。


「母上、こちらにセレスティアが来ていると聞きました」


 部屋の空気が凍りついた。


 アルヴィン殿下。


 その声を聞いただけで、胸の奥に冷たいものが走る。


 けれど私は、カップを持つ手を震わせなかった。


 扉が開く。


 そこに立っていたのは、王太子アルヴィン殿下だった。


 金の髪。


 整った顔立ち。


 以前は、その姿を見るだけで胸が高鳴ったこともあった。


 未来を共に歩む人だと信じていたから。


 けれど今、私の胸に浮かんだのは、懐かしさではなかった。


 怒りでもない。


 ただ、冷めた静けさだった。


 殿下は部屋に入ると、まっすぐ私を見た。


 その目には驚きがあった。


 おそらく、私があまりにも普通に座っていたからだろう。


 泣き崩れてもいない。


 怯えてもいない。


 彼を見て、縋るような顔もしていない。


「セレスティア……」


 殿下が私の名を呼んだ。


 その瞬間、茶会の間にいる全員の視線が私に集まる。


 私は立ち上がり、静かに礼をした。


「ごきげんよう、アルヴィン殿下」


 声は震えなかった。


 自分でも驚くほど、落ち着いていた。


 殿下は一瞬、言葉を失ったようだった。


 その沈黙が、すべてを物語っている。


 彼はきっと、私が変わらず自分に心を乱されると思っていた。


 彼の一言で傷つき、彼の視線で揺れると思っていた。


 けれど、違う。


 私はもう、あの日の私ではない。


「……元気そうだな」


 殿下はようやくそれだけ言った。


 私は微笑む。


「おかげさまで」


 短い返事。


 それだけで、殿下の表情がかすかに歪んだ。


 何を期待していたのだろう。


 泣いて責める言葉か。


 まだ想っていると示す態度か。


 それとも、自分が捨てた女は今も傷ついているという確認か。


 残念ながら、そのどれも差し上げるつもりはない。


「アルヴィン」


 王妃陛下の声が、静かに響いた。


「ここは私の茶会です。招かれていない者が、許しもなく入る場所ではありません」


 その声は穏やかだった。


 けれど、はっきりとした叱責が含まれていた。


 殿下の顔が強ばる。


「申し訳ありません、母上。ただ、私はセレスティアに少し話が――」


「今でなければならない話ですか」


「それは……」


 殿下は言葉に詰まった。


 王妃陛下は、静かにカップを置く。


「彼女は今日、私が招いた客人です。あなたの都合で呼び止めることは許しません」


 その言葉に、令嬢たちが息をのんだ。


 王妃陛下は、はっきりと私を客人として扱った。


 婚約を破棄された元婚約者ではなく。


 王太子に捨てられた令嬢でもなく。


 正式に招かれた、公爵家の娘として。


 その意味は大きかった。


「……失礼いたしました」


 殿下は悔しそうに頭を下げた。


 だが、去り際にもう一度、私を見た。


 その目には、苛立ちと戸惑いが混ざっている。


 私はただ、静かに礼を返した。


 それ以上は何も言わない。


 殿下が扉の向こうへ消えると、茶会の間にはしばらく沈黙が残った。


 誰もすぐには話し出せなかった。


 けれど、その沈黙は先ほどまでとは違う。


 私を哀れむ沈黙ではない。


 今の一幕をどう受け止めるべきか、皆が測りかねている沈黙だった。


「お茶を続けましょう」


 王妃陛下が何事もなかったかのように告げる。


 その一言で、ようやく空気が動き出した。


 けれど、もう誰も先ほどのように私を軽く見ることはできなかった。


 アルヴィン殿下が動揺した。


 王妃陛下が私を守った。


 そして私は、殿下の前でも崩れなかった。


 それだけで、社交界の噂は新しい形へ変わるだろう。


 茶会が終わる頃、エレノア様がそっと私に近づいてきた。


「セレスティア様」


「はい」


「本日、お話しできて嬉しゅうございました」


 彼女は少しだけ迷ったあと、声を低くした。


「私、噂だけで人を見てはいけないのだと、改めて思いました」


 その言葉に、私は胸が少し温かくなるのを感じた。


「ありがとうございます、エレノア様」


「また、お話ししていただけますか」


「もちろんです」


 私がそう答えると、エレノア様は嬉しそうに微笑んだ。


 その笑みは、今日この場所で初めて向けられた、純粋な好意だった。


 茶会の間を出る時、私はもう一度王妃陛下に礼をした。


「本日はお招きいただき、ありがとうございました」


「よく務めましたね」


 王妃陛下は静かに言った。


 その言葉に、私は目を見開きそうになる。


 よく務めました。


 幼い頃、王太子妃教育で課題を終えた時、王妃陛下がたまにかけてくださった言葉だった。


 懐かしくて、少しだけ胸が詰まる。


「ありがとうございます」


 私は深く頭を下げた。


 王妃陛下は続ける。


「ただし、これで終わりではありません」


「はい」


「今日のあなたを見て、味方をしようと考える者もいるでしょう。ですが同時に、あなたを邪魔だと思う者も増えます」


「承知しております」


「ならば、気を抜かないことです」


 王妃陛下の視線は鋭かった。


 その言葉は忠告であり、警告でもあった。


「はい。心に留めます」


「それでよろしい」


 私はもう一度礼をし、茶会の間を後にした。


 回廊へ出ると、リナが待っていた。


 彼女は私の顔を見るなり、泣きそうな顔で駆け寄ってくる。


「お嬢様……!」


「リナ、ここは王宮よ」


「申し訳ございません。でも、本当に、本当に立派でございました」


「聞こえていたの?」


「少しだけです。ですが、皆様の顔を見れば分かります」


 リナは誇らしげに胸を張った。


「お嬢様は、負けておりませんでした」


「勝ち負けではないわ」


「ですが、勝っておりました」


 前にも聞いたような言葉に、私は思わず笑ってしまった。


 緊張が解け、少しだけ肩の力が抜ける。


 その時、背後から声がした。


「セレスティア」


 振り向かなくても分かった。


 アルヴィン殿下だ。


 リナがさっと私の前に出ようとする。


 私はそれを手で制した。


「大丈夫」


 ゆっくりと振り向く。


 回廊の先に、殿下が立っていた。


 先ほどよりも表情は険しい。


 周囲に人は少ない。


 おそらく、私が出てくるのを待っていたのだろう。


「少し話がある」


 殿下は当然のように言った。


 以前なら、私はその一言で足を止めていた。


 殿下が望むなら、どんな予定よりも優先した。


 けれど今は違う。


「申し訳ございません。帰りの馬車を待たせておりますので」


 私は丁寧に答えた。


 殿下の眉が動く。


「少しでいい」


「その少しをお受けする理由が、私にはございません」


「セレスティア」


 殿下の声が低くなる。


「君は変わったな」


 その言葉に、私は静かに微笑んだ。


「ええ。変わりました」


 認めると、殿下は意外そうに目を見開いた。


「ですが、殿下」


 私は続ける。


「変わったのは私だけでしょうか」


「何?」


「変わらなかったのは、噂だけかもしれません。人は、見ようとしなければ何も見えませんから」


 殿下は黙った。


 私の言葉の意味を理解したのか、理解したくなかったのか。


 その顔からは読み取れない。


 けれど、私はもうこれ以上ここにいるつもりはなかった。


「失礼いたします」


 私は深く礼をし、踵を返した。


 背中に殿下の視線を感じる。


 呼び止められるかもしれないと思った。


 けれど、彼は何も言わなかった。


 王宮の外へ出ると、夕方の光が庭園を淡く染めていた。


 朝見た王宮とは、少し違って見える。


 冷たく、美しく、遠い場所。


 それは変わらない。


 けれど、その中を歩く私は、少しだけ変わっていた。


 馬車に乗り込む前、私は一度だけ王宮を振り返った。


 ここで私は傷ついた。


 ここで私は奪われた。


 けれど今日、ここで私は一つ取り戻した。


 顔を上げて立つ自分自身を。


 その日の夜。


 王都の社交界には、新しい噂が駆け巡った。


 婚約破棄されたセレスティア様は、泣き崩れるどころか、王妃陛下の茶会で見事に振る舞ったらしい。


 アルヴィン殿下が現れても、少しも動揺しなかったらしい。


 王妃陛下は、彼女を客人として大切に扱ったらしい。


 あの令嬢は、以前とは違う。


 けれど、やはり公爵令嬢としての格は失っていない。


 噂は形を変えながら、夜の王都を流れていく。


 変わった令嬢。


 変わらない噂。


 その二つが交わる場所で、私の名は再び社交界に戻り始めていた。


 そして私はまだ知らなかった。


 この日生まれた新しい噂が、やがてリリア様を大きく追い詰めていくことを。


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