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『大正の迷ゐ子』  作者: 久世 文彦


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第八話 写真師の弟子



 翌朝、私は片岡写真館で教えてもらった住所を、手帳と照らし合わせていた。


 訪ねる相手は、片岡清吉の父親のもとで写真の仕事を手伝っていた元弟子である。


 名前は大庭宗吉(おおば・そうきち)。


 明治三十七年当時、十七、八歳だったというから、今は五十を少し過ぎた頃だろう。


 写真師の仕事を間近で見ていた人物なら、当時のことを何か覚えているかもしれない。


「文彦さん、今日はその大庭さんという人に会うんですね」


「ああ。片岡さんの話では、先代の仕事をよく手伝っていたそうだ」


「じゃあ、写真を撮ったときのことも覚えているかもしれませんね」


「そう期待したいところだが、もう十七年も前の話だ。すべて覚えているとは限らない」


「十七年か……」


 新太は、少し考えるように空を見上げた。


「僕が源次さんに拾われたのも、それくらい前なんですよね」


「そうだな」


「ずいぶん昔のことなのに、僕にはほとんど何も残っていない」


 新太の言葉に、私は返事を急がなかった。


 彼にとって十七年前は、自分の人生の始まりに近い時期である。しかし、私たちが今追っているのは、その頃の記録や、誰かの記憶だ。


 人の記憶は、帳面のように日付をつけて保管しておけるものではない。


「まずは、会って話を聞いてみよう」


「はい」


     *


 その前に、腹ごしらえをすることにした。


 聞き込みに出かける前に食事を済ませておくのは、旅の基本である。少なくとも、新太にとってはそうらしい。


 私たちが入ったのは、海に近い料理屋だった。


 昼時の店内には、魚を焼く香ばしい匂いが漂っている。壁には魚の名前を書いた札が並び、奥の厨房からは、鍋の蓋が触れ合う音が聞こえてきた。


「金目鯛の煮付けはありますか」


 新太が、店の者に尋ねた。


「ございますよ。今日はいいものが入っています」


「それをお願いします」


「アジの刺身も食べたいですね」


 私がそう言うと、新太がこちらを向いた。


「文彦さんも、ずいぶん食べる気ですね」


「君にだけ食べさせるわけにはいかないだろう」


 やがて、料理が運ばれてきた。


 まず目を引いたのは、皿の上に横たわる金目鯛だった。


 赤い魚体には、飴色の煮汁が艶やかに絡んでいる。湯気とともに、醤油と砂糖の甘い香りが立ち上った。


 箸を入れると、身はふっくらと柔らかく、骨からほろりと離れる。


 一口含めば、煮汁の甘辛さのあとから、金目鯛の脂と旨味が広がった。


「これは、うまい」


 私は思わず声を漏らした。


「でしょう?」


 新太は、すでに白いご飯を手にしている。


 金目鯛の身をほぐし、煮汁を少しご飯にかけて口へ運んだ。


「ご飯にも合いますねえ」


「日本酒にも合いそうだ」


「昼間から飲むんですか」


「いや、今は聞き込みが先だ」


 そう言いながら、私は運ばれてきたアジの刺身に箸を伸ばした。


 銀色に光る皮目。新鮮な身にはほどよい弾力があり、生姜を添えて醤油につけると、魚の脂と香りが口の中に広がる。


 金目鯛の煮付けが、じっくりと味わう料理なら、アジの刺身は海の新鮮さをそのままいただく料理である。


 同じ魚でも、これほど味わいが違う。


「文彦さん、アジも食べてくださいよ」


「食べているよ」


「さっきから金目鯛ばかりですよ」


「君こそ、刺身をずいぶん食べているじゃないか」


 私たちは、しばらく食事に夢中になった。


 小田原という町は、記録を探すだけでなく、食べる楽しみも尽きないところである。


 この町を訪れた旅人が、魚の味を忘れずに帰る理由が、少しわかったような気がした。


     *


 食事を終えた私たちは、大庭宗吉の住まいを訪ねた。


 町の中心から少し離れた、静かな通りにある小さな家だった。


 戸を叩くと、しばらくして男が顔を出した。


「どちらさんで?」


 日に焼けた顔に、白髪交じりの髪。目元には深い皺が刻まれている。


 この男が大庭宗吉である。


 片岡写真館の先代に弟子入りし、若い頃から写真の仕事を手伝っていた。今は写真館を離れ、静かに暮らしているという。


 私が名刺を差し出し、訪問の理由を説明すると、宗吉は少し驚いた顔をした。


「片岡さんのところから来なすったのか」


「はい。こちらの写真について、お話を伺いたいのです」


 私は、持参した写真を差し出した。


 宗吉は眼鏡をかけ、写真を手に取った。


 表を眺め、裏返す。


 それから、しばらく黙っていた。


「これは……懐かしいな」


「ご存じですか」


「ええ。片岡先生が撮った写真です。わしも、その場におりました」


 私は、思わず姿勢を正した。


「この写真が撮影されたときのことを覚えていらっしゃるのですね」


「細かいところまでは、もう覚えておりませんよ。なにしろ、ずいぶん昔のことですからな」


「それでも結構です。覚えていらっしゃる範囲で、お聞かせください」


 宗吉は写真を机に置いた。


「確か、旅芸人の一座でした。春の興行で、この町に来ていたんです」


「この一座の名前はわかりますか」


「いや、名前までは……。旅芸人は、いろんなところから来ますからな」


「撮影を依頼したのは、どなたでしたか」


 宗吉は、写真の裏に押された印を見た。


「ふさ、という名前に覚えがあります」


 新太が、私の隣で小さく息を吸った。


「その方は、どのような人でしたか」


「若い女の人だったと思います。いや、娘さんと呼んだほうがよかったかもしれませんな」


「一座の方だったのでしょうか」


「そこまでは、はっきりしません。ただ、一座の人たちと一緒にいたように思います」


「その女性が、写真を撮るよう頼んだのですか」


「ええ。たしか、そうだったと思います」


 宗吉は、遠い昔を探るように目を細めた。


「片岡先生に、みんなで写真を撮りたいと言っていたような気がします」


「みんな、というのは一座の方々ですか」


「そうでしょうな。舞台に出る者も、裏方の者もいた。子供も何人かおりました」


「写真の中に写っている子供たちですね」


「おそらくは」


 宗吉は、写真をもう一度見た。


「ただ、誰が誰なのかまでは、もうわかりません」


「ふささんは、写真に写っていますか」


 宗吉は写真の中の人物を一人ずつ眺めた。


「どうだったかな……。写っていたようにも思うし、撮影のときに外にいたようにも思う。そこは、わしにはわかりません」


 私は、手帳に記録を取りながら、慎重に言葉を選んだ。


 宗吉の記憶には、確かな部分と、曖昧な部分が混じっている。


 ここで私が勝手に整理してしまえば、彼が話したこととは別の話になってしまう。


「大庭さん。ふささんについて、ほかに覚えていることはありませんか」


「そうですな……」


 宗吉は、しばらく考え込んだ。


「写真を撮る前に、片岡先生と何か話していたような気がします」


「どんな話でしたか」


「それが、思い出せんのです。先生は、写真を撮るときにはいつも細かいことを尋ねていましたからな。人数や、並び方や、誰を真ん中にするか。そんな話だったかもしれません」


「ふささんは、何か特別なことを言っていましたか」


「特別なこと……」


 宗吉は首を横に振った。


「申し訳ない。そこまでは覚えておりません」


「いえ、ありがとうございます。覚えていらっしゃることを伺えただけでも、助かります」


     *


 帰り際、私はもう一つ尋ねた。


「大庭さん。片岡先生は、撮影した写真について、何か記録を残していらっしゃいましたか」


「ええ。帳面をつけていましたよ。撮影した日や、注文を受けた人の名前などです」


「その帳面は、現在も片岡写真館に残っています」


「そうですか。先生は、几帳面な方でしたからな。仕事の記録は大切にしていました」


「ほかに、写真を撮ったときの記録や、当時の手紙などはありませんでしたか」


「手紙ですか……」


 宗吉は、少し考えた。


「先生は、写真の注文を受けると、時々、撮影した人に写真を届けていました。遠くへ帰る人には、あとから送ることもあったでしょう」


「なるほど」


「ただ、誰に届けたのかまでは、わしにはわかりません」


 私は礼を述べ、宗吉の家を後にした。


     *


 通りを歩きながら、新太が口を開いた。


「ふささんは、若い女の人だったんですね」


「大庭さんの記憶では、そうらしい」


「一座の人と一緒にいた」


「そのようだな」


「でも、僕とどういう関係なのかは、まだわからない」


「そうだ。そこは決めつけられない」


 新太は、手にした根付を見つめた。


 小さな木の根付には、「新太」と「ふさ」の二つの名前が刻まれている。


「文彦さん」


「何だ」


「僕は、ふささんに会ってみたいです」


「そうだな」


「生きているかどうかもわからないけれど」


「それでも、手掛かりを探そう」


 新太は根付を握りしめた。


 私は、彼の横顔を見ながら考えていた。


 今回わかったことは、決して多くはない。


 明治三十七年の春、小田原に旅芸人の一座が来ていたこと。

 その一座の集合写真を、片岡写真館の先代が撮影したこと。

 撮影を依頼した人物として、「ふさ」という名前が記録されていたこと。

 そして、当時の写真館の弟子が、その名を若い女性の姿と結びつけて記憶していたこと。


 しかし、それが新太の過去とどうつながるのかは、まだわからない。


 私は手帳を閉じた。


 事実は、少しずつ集まってきた。


 だが、事実と事実の間にある空白は、まだ埋まっていない。


 その空白を物語で埋めることは、作家にはできるかもしれない。


 けれど、今、私が書くべきなのは、物語ではない。


 新太が自分の過去を知るために、私たちが確かめたこと。


 それを、正確に残すことだった。


「文彦さん」


「今度は何だ」


「明日は、どこへ行くんですか」


「まずは、今日の話を整理してからだ」


「じゃあ、その前に夕飯ですね」


「君は、いつも食事の話に戻るな」


「だって、小田原には、まだ食べたいものがあるでしょう」


 私は思わず笑った。


 どうやら、この旅は、謎を追うだけでは終わらないらしい。


 新太の腹具合も、私の小説の進み具合も、まだまだ先が長そうである。

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