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『大正の迷ゐ子』  作者: 久世 文彦


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第九話 紙面に残る足跡



 大庭宗吉から話を聞いた翌朝、私は宿の机に向かい、これまでの調査内容を整理していた。


 机の上には、何枚かの紙が並んでいる。


 源次から見せてもらった興行帳の写し。

 松井写真館で見つかった集合写真。

 片岡写真館の先代が残した撮影記録。

 そして、大庭宗吉から聞いた証言の書き取り。


 それぞれに、同じ名前が現れている。


 ふさ。


 だが、その人物が誰なのかは、まだわからない。


「文彦さん、何を考えているんですか」


 新太が、宿の窓際から声をかけた。


「新聞を調べようと思っている」


「新聞?」


「ああ。明治三十七年の春、小田原で旅芸人の一座が興行をしていた。写真も撮影された。ならば、その頃の新聞に興行の広告や記事が載っているかもしれない」


「新聞に、僕のことが書いてあるかもしれないんですね」


「君のことかどうかは、まだわからない。ただ、一座の名前や、出演者の名前が見つかる可能性はある」


「なるほど」


 新太は、机の上の紙を覗き込んだ。


「新聞記者の出番ですね」


「そういうことだ」


 私は、少しばかり胸を張った。


 もっとも、新聞記者だからといって、古い新聞がどこにでも都合よく残っているわけではない。


 まずは、地元の新聞社を訪ねてみることにした。


     *


 小田原の町で発行されている新聞社を訪ねると、編集部の男が応対してくれた。


 名は石渡敬三(いしわた・けいぞう)。


 三十代後半の、痩せた身体つきの男である。新聞記者という仕事柄か、話を聞くときには相手の目をよく見て、こちらの言葉を途中で遮らない。


 私は東京の新聞社に勤めていることを伝え、明治三十七年春の古い新聞を調べたいと申し出た。


「十七年前ですか。ずいぶん古いものをお探しですね」


「旅芸人の興行について調べています。当時の広告や記事が残っていれば、拝見したいのです」


「なるほど。すべてが残っているわけではありませんが、古い紙面をまとめたものがあります。少しお待ちください」


 石渡は、奥の書庫へ入っていった。


 新太は、壁に貼られた新聞の見出しを眺めていた。


「新聞って、こんなに昔のものまで取っておくんですね」


「新聞社にとって、過去の紙面は大切な記録だからな」


「文彦さんの書いた記事も、いつかこうして残るんですか」


「どうだろうな。残るかもしれないし、忘れられるかもしれない」


「小説は?」


「それは、もっと難しい」


 私は笑った。


 新聞記者として書いた記事が、いつか誰かの役に立つことはあるかもしれない。だが、小説家として自分の名前を残すことは、まだ遠い夢だった。


 やがて石渡が、何冊かの綴じられた新聞を抱えて戻ってきた。


「明治三十七年の春の分です。こちらでよろしいですか」


「ありがとうございます」


 私は礼を言い、新聞を開いた。


     *


 古い新聞は、紙が黄ばんでいる。


 文字は細かく、現在の新聞よりも活字の並びが詰まっていた。広告欄には商店の宣伝や芝居の案内が並び、町の暮らしがそのまま紙面に残されている。


 私たちは、興行が行われたと思われる時期を中心に、紙面を調べ始めた。


 新太も、私の向かいに座って新聞をめくっている。


「文彦さん、これですか?」


「どれだ」


「旅芸人の興行って書いてあります」


 新太が指差したのは、小さな広告だった。


 そこには、こう記されていた。


 **春季興行 旅芸人一座**

 **小田原町内 某興行場にて**

 **連日開演**


 その下には、演目がいくつか並んでいる。


「これだな」


「でも、一座の名前がありませんね」


「そうだ。広告主が興行場なのか、一座なのかもわからない」


 私は広告の日付を確認した。


 興行帳に記されていた小田原滞在の時期と、近い日付だった。


「時期は合っている」


「じゃあ、この一座が写真に写っている人たちかもしれませんね」


「可能性はある。しかし、まだ断定はできない」


 私は広告を手帳に写した。


 その日の紙面だけでは、出演者の名前まではわからなかった。


 さらに数日分を調べていくと、別の日付の広告に、少し違う記述が見つかった。


 **旅芸人一座 春の大興行**

 **女役者 おふさ**

 **小児芸 ほか**


 私は、その文字を何度も見直した。


「新太、これを見てくれ」


 新太が身を乗り出す。


「おふさ……」


「そうだ。ふさという名前がある」


「この人が、写真を頼んだ人でしょうか」


「わからない。写真館の帳面にあった『ふさ』と、同じ人物かもしれない。だが、別の人間である可能性もある」


「女役者と書いてありますね」


「ああ。もし同じ人物なら、興行に関わっていた女性ということになる」


 新太は、しばらく広告を見つめていた。


「僕の根付にある名前と同じです」


「そうだな」


「ふささんは、旅芸人だったんでしょうか」


「まだ、そうとは言えない。新聞の広告に載っているのは、おふさという芸名かもしれない。写真館の帳面に書かれた名前が、この女性を指しているのかもわからない」


「でも、何もないところから、名前が出てきましたね」


「それは大きな前進だ」


 私は、手帳に広告の日付と記載内容を写し取った。


 写真館の記録だけでは、ふさという名前の意味はわからなかった。


 しかし、新聞の広告には、女役者としてのおふさが載っていた。


 別々の記録が、同じ時代、同じ町で、同じ名前を示している。


 偶然と片づけるには、少し気になる一致だった。


     *


「ほかにも、何か見つかりましたか」


 石渡が、私たちの様子を見て尋ねた。


「旅芸人の興行広告がありました。それから、女役者のおふさという名前も」


「おふさですか」


「はい。明治三十七年の春です」


 石渡は、少し考え込んだ。


「その頃の興行場についてなら、町の古い記録を調べる手もありますよ」


「興行場の記録ですか」


「ええ。場所によっては、興行の届け出や、使用に関する書類が残っているかもしれません。必ず見つかるとは言えませんが」


「どこへ行けばよいでしょう」


「町の役場に相談してみるといいでしょう。当時の書類が残っているかどうかは、そちらで尋ねるのがよいと思います」


「ありがとうございます」


 私は石渡に礼を述べた。


 新聞に載っていたのは、興行の広告である。


 広告は興行があったことを示す手掛かりにはなるが、写真に写っている人物が誰なのかを証明するものではない。


 それでも、次に調べるべき場所が見えてきた。


     *


 新聞社を出ると、新太は、先ほど写し取った広告の紙を見ていた。


「女役者、おふさ……」


「気になるか」


「ええ。僕の根付には、ふさとだけ書いてありますから」


「同じ名前だというだけでは、まだ何とも言えない」


「わかっています」


 新太は、根付を取り出した。


 小さな木片に刻まれた二つの名前。


 新太と、ふさ。


「もし、このおふささんが僕の知っている人だったら、どんな人だったんでしょうね」


「それは、会ってみなければわからない」


「会えるかな」


「今から十七年前のことだ。生きているかどうかもわからない。だが、記録を追えば、何かが見つかるかもしれない」


 新太は、根付をそっと握り直した。


「僕、もう少し調べてみたいです」


「もちろんだ。そのために来たのだからな」


 私は、手帳を開いた。


 今日の調査でわかったことを書き留める。


 明治三十七年春、小田原で旅芸人一座の興行があった。

 その広告に、女役者「おふさ」の名が記されていた。

 片岡写真館の撮影記録にも、「ふさ」の名が残っている。

 両者が同一人物であるかどうかは、未確認。


 私は最後に、次の調査先として、町の役場と記した。


     *


 その日の夕方、私たちは宿へ戻った。


 新太は、窓辺に腰を下ろして、外を眺めていた。


「文彦さん」


「何だ」


「僕の名前が新聞に載っていたら、どう思います?」


「君の名前がか?」


「ええ。明治三十七年の新聞に、迷子のお知らせとか、尋ね人の記事とか」


 私は、少し考えた。


「もし載っていれば、大切な手掛かりになるだろう」


「でも、載っていなかったら?」


「それで、誰も探していなかったと決まるわけじゃない」


「そうですね」


 新太は、窓の外に目を戻した。


「源次さんは、僕を探している人が来るかもしれないと思っていたそうです」


「ああ」


「僕が来るのを待っていた人がいたのかな」


 その問いに、私はすぐに答えられなかった。


 新聞に載った広告は、確かに一つの事実だった。


 しかし、その広告の向こうにいる人々の思いまでは、紙面から読み取れない。


 私は、机の上に置いた手帳を見つめた。


 記録は、何かを残す。


 けれど、記録に残らなかったものまで、なかったことにはできない。


「明日は、役場へ行ってみよう」


「はい」


「興行の届け出が残っているかもしれない。それに、当時の町の記録も調べてみたい」


「おふささんのことが、もっとわかるといいですね」


「ああ」


 私は、今日見つけた新聞広告の写しを、手帳の間に挟んだ。


 新太の過去を探す旅は、まだ始まったばかりだ。


 けれど、小田原の町には、確かに何かが残っている。


 写真の中に。

 写真館の帳面の中に。

 そして、古い新聞の紙面の中に。


 私は、その一つ一つを、確かめていこうと思った。

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