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『大正の迷ゐ子』  作者: 久世 文彦


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第十話 古い帳面



 明治三十七年の春。


 小田原の町で旅芸人の一座が興行をしていた。


 そのことは、古い新聞の広告によって確認できた。


 そして、その広告には「女役者・おふさ」という名前が載っていた。


 片岡写真館の帳面に残されていた「ふさ」という文字。


 大庭宗吉が覚えていた若い女性。


 それらが同じ人物を指しているのかどうか。


 私たちは、その答えを探すために町役場を訪ねることにした。


     *


「文彦さん、役場には何があるんですか?」


 宿を出てから、新太が尋ねた。


「当時の興行に関する届け出や、町の記録が残っているかもしれない」


「新聞には広告がありましたよね」


「ああ。だが、新聞は興行を宣伝するためのものだ。役場の記録には、興行を行うために誰が届け出をしたのか、どこで開催したのか、といった情報が残っている可能性がある」


「つまり、新聞とは別の証拠ですね」


「そういうことだ」


「ふささんの名前もありますかね」


「それは調べてみなければわからない」


 新太は、根付を懐から取り出した。


 小さな木片に刻まれた二つの名前。


 新太と、ふさ。


 彼はしばらくそれを眺めてから、そっと懐に戻した。


「行きましょう」


     *


 小田原町役場は、町の用事を済ませる人々で賑わっていた。


 私たちは受付で事情を説明し、古い興行関係の記録を調べたいと申し出た。


 しばらくして、奥から一人の職員が現れた。


 名を藤田正之(ふじた・まさゆき)という。


 三十歳を少し過ぎたくらいの男で、細身の身体に眼鏡をかけている。仕事には几帳面な性格らしく、私たちの説明を聞きながら、手元の紙に要点を書き留めていた。


「明治三十七年の春の興行ですか」


「はい。旅芸人の一座が小田原で興行を行っていたようなのです」


「一座の名前はわかりますか」


「それを調べているところです。新聞広告には旅芸人一座としか記されておりませんでした」


「なるほど。興行の届け出が残っていれば、何かわかるかもしれませんね」


 藤田は、私たちを記録の保管場所へ案内してくれた。


「ただ、古い書類ですから、すべてが残っているわけではありません。火災や整理の際に失われたものもあるでしょう」


「承知しています。残っている範囲で結構です」


「では、明治三十七年のものを探してみましょう」


     *


 書類の保管場所には、古い帳面や綴じられた書類が並んでいた。


 藤田は、年代ごとに整理された棚から、いくつかの綴りを取り出した。


「こちらが興行関係の届け出です。明治三十七年のものが、このあたりにあるはずです」


 帳面の表紙には、墨で「興行願綴」と書かれていた。


 私は、思わず身を乗り出した。


「これを拝見してもよろしいでしょうか」


「ええ。ただし、傷みやすいものですから、丁寧に扱ってください」


「もちろんです」


 私は帳面を開いた。


 日付、興行場所、興行主、演目、届け出をした人物の名前。


 記録の形式は一定していないが、当時の町の様子が伝わってくる。


 芝居小屋での興行。

 旅回りの一座。

 見世物の催し。


 ひとつひとつ目を通していく。


「文彦さん、これじゃありませんか?」


 新太が指差した。


 そこには、春の興行に関する届け出が記されていた。


 日付は、明治三十七年三月。


 興行場所は、小田原町内の芝居小屋。


 そして、興行主の欄には、こうあった。


 **一座名 松風一座**


「松風一座……」


 私は、その名前を口にした。


「見つかりましたね」


 新太が嬉しそうに言った。


「まだ、これが写真に写っていた一座だとは断定できない。だが、時期と場所が合っている」


 私は記録を詳しく確認した。


 興行主の名前は、**松吉**。


 その下には、出演者の名前がいくつか並んでいた。


 そして、その中に見つけた。


 **おふさ**


 私は、思わず新太を見た。


「ここにもある」


「ふささんですね!」


「ああ」


 新聞広告だけではない。


 写真館の帳面だけでもない。


 町役場の興行願にも、「おふさ」という名前が記されている。


 私は、記録の内容を手帳に写し取った。


     *


「藤田さん、この松風一座について、ほかに記録はありませんか」


「少々お待ちください」


 藤田は別の綴りを取り出した。


「こちらは、興行に関する変更や届け出の控えです。追加の出演者や、興行期間の変更などが記されていることがあります」


 私たちは、もう一度、古い書類を調べた。


 すると、興行期間の延長を申し出た書類が見つかった。


 松風一座の興行は、当初の予定より数日長く行われたらしい。


 その書類には、興行主の名前が再び記されていた。


 **松吉**


 しかし、姓は書かれていない。


「この松吉という方の住所はわかりますか」


「この書類には、興行場所しか記されていませんね」


「ほかの書類には?」


「住所を記したものがあるかもしれません。少し調べてみましょう」


 藤田は、さらに別の書類を探してくれた。


 しばらくして、一枚の届け出が見つかった。


 そこには、興行主の住所として、町内の地名が記されていた。


「こちらでしょうか」


「ありがとうございます」


 私は、その住所を手帳に書き写した。


「ただし、これは当時の住所です。今も同じ場所に住んでいるとは限りません」


「承知しています」


 藤田は、さらに書類を確かめていたが、やがて首を横に振った。


「残念ながら、松吉という方のその後については、こちらの記録からはわかりません」


「そうですか」


「ただ、興行の届け出には、地元の芝居小屋の関係者が立ち会うこともありました。当時の芝居小屋について詳しい方がいれば、何かご存じかもしれません」


「芝居小屋の関係者ですか」


「ええ。町の古い商家や、興行に関わっていた家を訪ねてみるのもよいでしょう」


 私は礼を述べた。


 また一つ、次に調べるべき場所が見えてきた。


     *


 役場を出ると、新太は、しばらく手帳の写しを眺めていた。


「松風一座……」


「ああ」


「僕がいたかもしれない一座ですね」


「そうだな。興行の時期も、写真の撮影時期も近い。可能性はある」


「それに、おふささんもいる」


「役場の記録にも名前が残っていた」


 新太は、少し考え込んでいた。


「松吉さんという人は、一座の親方だったんでしょうか」


「興行主と書かれているから、一座を取り仕切っていた人物だった可能性は高い。ただ、座長だったのか、興行の手続きを担当しただけなのかは、まだわからない」


「会ってみたいですね」


「そうだな。住所もわかったことだし、調べてみよう」


「松吉さんが、僕のことを覚えていたらいいな」


 新太の声には、期待と不安が混じっていた。


 私は、その気持ちを無理に励まそうとは思わなかった。


 覚えているかどうかは、会ってみなければわからない。


 それが、今の私たちにできることだった。


     *


 その日の夕方、私は宿の机で、これまでの調査をもう一度整理していた。


 小田原で見つけた記録は、少しずつ一つの方向を示し始めている。


 まず、源次の興行帳。


 明治三十七年の春、源次たちの一座が小田原に滞在していたことを示す記録。


 次に、松井写真館で見つかった集合写真。


 写真の裏には、片岡写真館の印と「ふさ」の文字が残されていた。


 片岡写真館の帳面には、旅芸人一座の集合写真を撮影した記録があり、依頼人として「ふさ」の名が記されていた。


 さらに、大庭宗吉の証言。


 当時、写真館で働いていた彼は、若い女性の「ふさ」が写真撮影を依頼したことを覚えていた。


 そして、新聞広告。


 明治三十七年春、小田原で旅芸人一座が興行を行い、女役者「おふさ」の名が載っていた。


 最後に、町役場の興行願。


 そこには、松風一座という名前と、興行主の松吉、出演者のおふさが記録されていた。


 これらは、互いに関係している可能性がある。


 だが、まだ決定的な証拠はない。


 特に、源次の一座と松風一座が同じ一座なのかどうか。


 そこは、確かめなければならない。


 私は、手帳の余白に書いた。


 **松風一座。興行主・松吉。出演者・おふさ。**


 そして、その下に、もう一つ記した。


 **源次の興行帳との照合。**


     *


「文彦さん、夕飯ですよ」


 新太の声がした。


「もうそんな時間か」


「今日は、何を食べましょうか」


「君は、食事のことを考えている時間が長いな」


「旅の楽しみですから」


 新太は、笑っている。


 私は手帳を閉じた。


「今日は、町の人に小田原の名物を聞いてみよう」


「いいですね!」


「調査も兼ねてだ」


「もちろんです」


 新太は、すぐに立ち上がった。


 私は、その後ろ姿を見ながら思った。


 彼は、自分の過去を知りたいと思っている。


 しかし、それだけではない。


 知らない町を歩き、知らない人と話し、知らない味を知る。


 その一つ一つが、彼の人生に新しい記憶として加わっていく。


 生まれた場所を探すことと、今いる場所を大切にすること。


 その二つは、決して矛盾しないのかもしれない。


 私は、机の上に置いた手帳をもう一度見た。


 松風一座。


 松吉。


 おふさ。


 次に訪ねるべき人物が、ようやく見えてきた。


 小田原での調査は、まだ終わらない。


 そして、この旅もまた、まだ続いていくのである。

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