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『大正の迷ゐ子』  作者: 久世 文彦


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第七話 写真の裏に残されたもの



 写真というものは、不思議なものだ。


 そこに写っている人間は、何十年たっても、写真の中では同じ顔をしている。笑っている者は笑ったまま、こちらを見ている者は、いつまでもこちらを見つめている。


 けれど、その人たちが誰なのか、何を考えていたのか、写真だけではわからない。


 わからないからこそ、写真を撮った人間に尋ねてみるという方法がある。


 私は、そのことに気づくのが少々遅かった。


     *


「文彦さん、また写真を見ているんですか」


 宿の朝食を済ませた新太が、私の向かいに腰を下ろした。


 私は昨晩から何度も取り出している写真を、もう一度机の上に置いた。


「この写真だよ。昨日、松井写真館で見せてもらったものだ」


「はい。男の子と女の子が写っている写真ですね」


「そうだ。だが、私たちは写っている人間を探すことばかり考えていた」


「違うんですか?」


「いや、間違いではない。ただ、別の手掛かりがある」


 私は写真を裏返した。


 そこには、昨日まで気に留めていなかった小さな印があった。


 写真の隅に、薄く押された文字。


 少し擦れてはいるが、読めないほどではない。


 **小田原 片岡写真館**


 その下には、住所らしき文字も残っていた。


「写真館の名前ですね」


「ああ。撮影した写真館の印だろう」


「だったら、そこへ行けばいいんじゃありませんか」


 新太は、あっさりと言った。


 まったく、その通りである。


 私は新聞記者を名乗っているくせに、目の前にある手掛かりを見落としていた。


「よし。今日は片岡写真館へ行こう」


「その前に、もう一度、朝飯を食べますか?」


「君は、食べることばかり考えているな」


「旅は腹が減りますから」


 新太は悪びれもせずに笑った。


     *


 片岡写真館は、旧市街の通りにあった。


 看板には、墨で「片岡写真館」と書かれている。店先の硝子戸から中を覗くと、奥に大きなカメラが見えた。


 私たちが戸を開けると、鈴が小さく鳴った。


「いらっしゃいませ」


 出てきたのは、五十歳を少し過ぎたくらいの男だった。


 背筋が伸び、口髭をきちんと整えている。白いシャツに黒いベストという身なりで、いかにも写真館の主人といった風情である。


 この男が片岡清吉(かたおか・せいきち)である。


 明治の初めから写真の仕事に携わってきた父親の跡を継ぎ、現在は自分が写真館を切り盛りしているという。


 私たちは名刺を差し出し、訪問の理由を説明した。


「こちらの写真館で撮影されたと思われる写真を見つけたのです」


 清吉は写真を受け取り、表を見た。


 それから裏返し、店の印を確かめる。


「これは、うちの印ですね」


「明治三十七年の春に撮影されたものと思われます」


「明治三十七年……」


 清吉は少し考え込んだ。


「その頃ですと、私の父が撮影していた時代です。私はまだ子供でした」


「こちらの写真に見覚えはありませんか」


「残念ですが、写真そのものには覚えがありません。ただ、父は昔の仕事について、帳面を残しておりました」


 その言葉に、私は思わず身を乗り出した。


「帳面が残っているのですか」


「ええ。撮影した日付や、注文を受けた人の名前などを記したものです。すべてではありませんが、何冊かあります」


「ぜひ、拝見できないでしょうか」


「少しお待ちください」


 清吉は奥へ引っ込んだ。


 新太は、店内に飾られた写真を眺めていた。


 家族写真、子供の写真、夫婦の写真。


 どの写真にも、それぞれの暮らしがある。


「新太、どうした」


「この写真館で撮った人たちは、みんな、自分の写真がこんなふうに残るとは思っていなかったでしょうね」


「そうかもしれないな」


「写真を撮った人も、撮られた人も、もういないかもしれない。でも、写真は残っている」


 新太は、壁に飾られた家族写真を見つめていた。


 私は、その横顔を見ていた。


 彼が何を考えているのか、私にはわからない。


 わからないことを、わかったように書いてはいけない。


 それは、彼に約束したことだった。


     *


 しばらくして、清吉が一冊の帳面を持って戻ってきた。


 表紙は茶色く変色し、角も擦り切れている。


「父の帳面です。明治三十七年のものが、ちょうど残っていました」


 私は丁寧に受け取った。


 帳面には、日付と撮影内容、注文主らしい名前が並んでいる。


 私は一ページずつ、ゆっくりと目を通した。


 家族写真。

 商店の主人。

 結婚記念。

 学校の集合写真。


 そして、春の興行が行われた頃の日付に、ひとつの記録があった。


 **旅芸人一座 集合写真 一枚**


 その下に、名前が書かれていた。


 私は息を止めた。


「片岡さん。これは……」


 清吉が帳面を覗き込む。


「旅芸人一座ですね。父が撮影したものに間違いないでしょう」


「この一座の名前はわかりますか」


「残念ながら、そこまでは書いてありません」


「撮影を依頼した人物の名前は?」


 清吉は、記録の下を指でなぞった。


「ここにあります」


 そこには、少し崩れた文字で、こう記されていた。


 **ふさ**


 新太が、私の隣から帳面を覗き込んだ。


「ふさ……」


「そうだ。君の根付に刻まれていた名前だ」


「同じ名前ですね」


「ああ。しかし、これだけで同じ人物だとは言えない」


 私は帳面を閉じず、もう一度その文字を確かめた。


 写真の裏にも、帳面にも、同じ名前がある。


 これは偶然なのか。


 それとも、何かをつなぐ手掛かりなのか。


「片岡さん、この『ふさ』というのは、女性の名前でしょうか」


「そうかもしれません。ただ、撮影を依頼した人の名前なのか、写真に写っている人の名前なのか、父がどういう意味で記したのかまではわかりません」


「当時のことを覚えている方は?」


「父はもう亡くなりました。けれど、当時、父の仕事を手伝っていた者が、まだこの町におります」


「その方に会うことはできますか」


「ええ。父の弟子だった人です。今は隠居していますが、写真の仕事を長く手伝っていました。父のことも、よく覚えているはずです」


 私は、清吉にその人の居場所を尋ねた。


 清吉は住所を書いた紙を用意してくれた。


「ただし、もうずいぶん年を取っています。どこまで覚えているかはわかりませんよ」


「それでも、ぜひお話を伺いたいのです」


 私は礼を述べ、帳面の該当箇所を写し取った。


     *


 写真館を出ると、新太はしばらく黙って歩いていた。


「文彦さん」


「何だ」


「少し、近づいたんでしょうか」


「何にだ?」


「僕の過去に」


 私はすぐには答えなかった。


「手掛かりは増えた。写真を撮った写真師の仕事の記録に、君の根付と同じ名前が出てきた。それは確かなことだ」


「でも、ふささんが誰なのかは、まだわからない」


「そうだ」


「僕と関係があるのかも、わからない」


「そうだな」


 新太は、少しだけ笑った。


「わからないことが、少し減ったような気がします」


 その言葉を聞いて、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 彼は、答えを急いでいるわけではない。


 ただ、自分の足で、自分の過去へ近づこうとしているのだ。


 私は懐から手帳を取り出し、今日の記録を書きつけた。


 明治三十七年春。

 片岡写真館。

 旅芸人一座の集合写真。

 撮影依頼人、ふさ。


 そして、次に訪ねるべき人物の住所。


 新聞記者として、私は事実を追う。


 小説家志望として、私はその事実の向こうにある物語を想像する。


 しかし、今はまだ、想像を文章にする時ではない。


 新太の過去は、私の筆先で作るものではない。


 見つけたものを、ひとつずつ確かめていく。


「文彦さん」


「今度は何だ」


「昼飯、どうします?」


 私は手帳を閉じた。


「……君は、まったく変わらないな」


「腹が減るのは、仕方ありませんよ」


 新太は笑った。


 小田原の空は、昨日より少し晴れていた。


 私たちは、次の証言者を訪ねるため、町の通りを歩き始めた。

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