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『大正の迷ゐ子』  作者: 久世 文彦


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第四話 旅立ち



 旅に出ると決めたからといって、翌朝すぐに出発できるほど、世の中は都合よくできていない。


 少なくとも、新聞記者という職業には、そうした勝手が許されない事情がある。


 私は二十六歳。地方新聞社に勤める記者である。


 小説家になりたいという夢はあるが、だからといって新聞記者の仕事を軽んじているわけではない。むしろ、毎日の取材や記事を書く仕事は、私にとって性に合っている。


 人の話を聞き、町を歩き、昨日まで知らなかったことを知る。世の中には、新聞の片隅に載るような小さな出来事にも、誰かにとっては一生忘れられない意味がある。


 そういうことを知るたび、私はこの仕事を選んでよかったと思う。


 もっとも、今度の旅は少々事情が違う。


 取材対象は、二十二歳の青年、朝倉新太。


 そして調べるのは、彼自身が知らない五歳以前の記憶である。


 新聞記事にする予定はない。ましてや、面白おかしく書き立てるつもりもない。


 これは私自身が小説として書き残すための旅なのだ。


 さて、まずは会社の許しを得なければならない。


     *


 翌日の午前、私は新聞社の編集室で田辺君と向かい合っていた。


 田辺君については、すでに紹介したとおりである。三十を少し越えた、眼鏡の奥に鋭い目を持つ男だ。原稿の誤字脱字を見逃さないばかりか、書き手の余計な一言まで見つけ出す。


 私が文学的な表現を好むのに対し、彼は簡潔明瞭を好む。


 つまり、私の原稿にとっては、なかなか厄介な人物なのである。


「休暇を取りたい?」


 田辺君は、私の申し出を聞いて眼鏡を押し上げた。


「ええ。少しばかり、関東の町を回ってみたいと思いまして」


「旅行か」


「まあ、旅行と言えば旅行ですが、調査も兼ねています」


「何の調査だ」


「ある青年の身元についてです」


 私は、朝倉新太という青年のことを説明した。


 五歳の頃、旅芸人の一座に拾われたこと。本人は自分の生まれた場所を知らないこと。手元に残されていた根付には、「新太」と「ふさ」という二つの名が刻まれていること。


 そして、育ての親である源次が、当時の一座の興行帳を保管していたこと。


 田辺君は、途中で口を挟まずに聞いていた。


「その興行帳には、拾った場所が書いてあるのか」


「いいえ。興行した町と宿泊先などが記されているだけです。新太を見つけた正確な場所も、日付も分かりません」


「それで、どうやって調べる」


「まずは帳面に記された町を訪ねます。当時の新聞や、役場に残っている記録がないか調べてみようかと」


「なるほどな」


 田辺君は机の上に置いた鉛筆を指先で転がした。


「しかし、久世。これは会社の仕事なのか?」


「いいえ。個人的な調査です」


「ならば、会社の仕事を途中で放り出すわけにはいかないな」


「もちろんです。担当している記事の整理を済ませ、休暇をいただきたいと思っています」


「期間は?」


「まずは十日ほどを考えています」


「十日か」


 田辺君は、少し考えてから頷いた。


「編集長に話してみろ。担当記事の引き継ぎは、こちらでも確認する。戻ってきてから困らないように、必要な資料の所在も整理しておけ」


「ありがとうございます」


「礼を言うのは、許可が出てからにしろ」


 まったく、愛想のない男である。


 しかし、こういうところが田辺君のよさでもある。無責任に背中を押すのではなく、出発する前に片づけるべきことを教えてくれる。


「それから、久世」


「はい?」


「調べたことを、都合よくつなぎ合わせるなよ」


 私は返事をせず、彼の顔を見た。


「記録があれば記録。人から聞いた話なら証言だ。お前が考えたことは、お前の推測だ。その区別を忘れるな」


「分かっています」


「分かっている人間ほど、忘れるものだ」


 田辺君は、いつもの調子でそう言った。


 私は苦笑した。


 新聞記者としての心得を、旅立つ前にもう一度教えられたような気がした。


     *


 会社の手続きを済ませ、私はその日の午後、旅支度を始めた。


 荷物は少ない。


 着替えを数枚、洗面道具、財布、筆記用具、それに取材用の手帳。


 さらに、源次から見せてもらった興行帳の記録を、必要な部分だけ書き写した紙を用意した。


 原本を持ち出すわけにはいかない。あれは源次が長年大切に保管してきた一座の記録である。借りることができたとしても、なくしたり傷めたりするわけにはいかない。


 私は書き写した紙を何度も確認した。


 明治三十七年の春。


 興行した町。


 宿泊した場所。


 その前後の日付。


 それだけで、新太の生まれた場所が分かるわけではない。


 しかし、何も手掛かりがないわけでもない。


 旅芸人の一座がその町にいたことは、興行帳によって確かめられる。源次の記憶もある。あとは、当時の町に何が残っているかだ。


 私は手帳の最初の頁に、こう書いた。


 ――明治三十七年春、朝倉新太、五歳。


 その下に、もう一行。


 ――根付に刻まれた「ふさ」とは何者か。


 書き終えてから、私はしばらくその文字を眺めた。


 人の名前だと決まったわけではない。


 それでも、今のところ私たちにとって「ふさ」は、ただの二文字ではなかった。


     *


 翌朝、私は一座の小屋を訪ねた。


 新太は、すでに旅支度を済ませていた。


「おや、文彦さん。遅かったですね」


「遅かったとは何だ。まだ約束の時刻より早いぞ」


「旅に出る日ですからね。待ち遠しくて、早く目が覚めちゃったんですよ」


 新太は笑った。


 その足元には、少し大きめの風呂敷包みが置かれている。


「荷物はそれだけか」


「ええ。着替えと、身の回りのものです」


「食べ物は?」


「それは、途中で買えばいいでしょう」


「君らしいな」


「文彦さんだって、食べるでしょう?」


「もちろんだ」


 こういうところは、私たちの意見がよく一致する。


 新太は、いつもと変わらない様子だった。


 だが、彼の後ろには源次が立っていた。


 源次は、いつもより口数が少ない。


 さて、この男については、もう詳しく紹介する必要もあるまい。新太を拾い、育て、一座の親方として長年旅を続けてきた男である。


 その大きな手には、古びた小さな包みがあった。


「これを持っていけ」


 源次が新太に差し出した。


「何ですか?」


「お前の着替えの足しだ。たいしたものじゃないがな」


 包みの中には、畳まれた手拭いと、丈夫そうな小さな袋が入っていた。


「ありがとうございます」


「それから、これもだ」


 源次は、もう一枚の紙を取り出した。


 そこには、興行帳に記されていた町の名前と、当時の宿泊先が書き写されていた。


「文彦さんに渡しておけ。わしが覚えていることも、そこに少し書いておいた」


「源次さん、わざわざ?」


「わしの記憶は、あてにならんところもある。だが、帳面に残っていることなら、少しは役に立つだろう」


 私は両手で受け取った。


「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」


「頼むぞ。あの子のことを調べるんだからな」


 源次は新太を見た。


「新太」


「はい」


「行ってこい」


 それだけだった。


 もっと長い言葉があるのではないかと、私は思っていた。


 旅の途中で気をつけろとか、無理をするなとか、何かあれば知らせろとか。


 しかし源次は、ただ「行ってこい」と言った。


「はい。行ってきます」


 新太も、それ以上は何も言わなかった。


 しばらく二人は向かい合っていた。


 やがて源次が、新太の肩に大きな手を置いた。


「どこへ行こうと、お前の帰る場所がなくなるわけじゃない」


「分かっています」


「分かっていればいい」


 源次は、少しだけ笑った。


 新太も笑った。


 しかし、その笑顔は、いつものように軽やかなものではなかった。


     *


 一座の者たちも、見送りに出てきた。


 年長の女が、新太の襟元を直してやる。


「向こうで風邪をひかないようにね」


「はい」


「食べ過ぎにも気をつけなさいよ」


「それは、気をつけます」


「本当かい?」


「たぶん」


 周囲から笑い声が起こった。


 新太は、ひとりひとりに頭を下げた。


 彼にとって、この一座は、ただ住んでいた場所ではない。食事を共にし、芸を覚え、叱られ、笑い合ってきた人々がいる。


 五歳の頃から十七年。


 新太の知る人生の大半は、この一座とともにあった。


 それを置いて旅に出る。


 だが、彼は誰かに命じられて出るのではない。


 自分の過去を知りたいと願い、自分で決めたのだ。


「それじゃあ、行ってきます」


 新太は、もう一度、一座の者たちに頭を下げた。


 源次は何も言わなかった。


 ただ、二人が小屋を離れるまで、そこに立っていた。


     *


 駅へ向かう道すがら、新太は何度も後ろを振り返った。


「寂しいか」


 私が尋ねると、彼は少し考えてから答えた。


「寂しくないと言ったら、嘘になりますね」


「そうだろうな」


「でも、帰る場所があるって、いいことですね」


「そうだな」


「文彦さんには、帰る場所がありますか?」


 思いがけない質問だった。


「私か?」


「ええ」


「もちろんある。家もあるし、勤め先もある」


「そういうことじゃなくて」


 新太は、こちらを見た。


「帰ってきたときに、自分を待っていてくれる人がいるか、ということです」


 私はすぐには答えられなかった。


 家に帰れば、いつもの暮らしがある。


 新聞社に戻れば、田辺君が待っているだろう。机の上には、私の担当記事が積まれているに違いない。


 しかし、新太の言う「待っていてくれる人」というのは、そういうことだけではないのだろう。


「さて、どうかな」


 私は曖昧に答えた。


「文彦さんにも、探すことがあるんですね」


「君ほど大きな問題ではないさ」


「そうでしょうか」


 新太は笑った。


「人のことは、分からないものですね」


 その言葉に、私は少し驚いた。


 五歳以前の記憶を持たない青年が、私に向かってそんなことを言う。


 私は彼の過去を調べるために旅に出る。


 だが、彼のことを知っているつもりになってはいけない。


 そのことを、改めて思った。


     *


 駅に着くと、汽車の出発までには、まだ少し時間があった。


 私たちは切符を買い、待合室で腰を下ろした。


 新太は窓の外を眺めている。


「文彦さん」


「何だい」


「最初の町では、何をするんですか?」


「まずは、興行帳に書かれていた宿を探してみるつもりだ。当時の宿が残っていればいいが、なくなっているかもしれない」


「それから?」


「当時の新聞を調べる。迷子や身元の分からない子どもの記事がないか。役場にも、古い記録が残っていないか尋ねてみる」


「そんなものが、今でも残っているんでしょうか」


「分からない。残っているかどうかを確かめるのも、調査のうちだ」


「なるほど」


 新太は、膝の上に置いた風呂敷包みを見た。


「それで、ふささんのことも分かるでしょうか」


「それも、まだ分からない」


「人の名前じゃないかもしれないんですよね」


「そうだ」


「店の名前だったり、土地の名前だったり」


「可能性はある」


「じゃあ、最初から人だと思って探すのは、よくないですね」


「そのとおりだ」


 私は手帳を取り出した。


 新太の言葉を記録しようと思ったが、鉛筆を動かす前に、彼の顔を見た。


「今の話、書いてもいいかい?」


「どうぞ」


「ありがとう」


 私は、手帳に書き留めた。


 ――ふさは人名とは限らない。


 それは、調査の出発点として、なかなかよい言葉だった。


 やがて、汽車の出発を知らせる声が聞こえた。


 私たちは立ち上がった。


 新太が先に歩き、私はその後を追う。


 ホームには、旅立つ人、見送る人、荷物を運ぶ人々が行き交っていた。


 汽車の窓からは、見慣れた町の景色が見える。


 この町を離れれば、しばらくは戻らない。


 新太にとっては、過去を探す旅の始まり。


 私にとっては、一人の青年の人生を記録する旅の始まりである。


 いや、それだけではない。


 私は小説を書こうとしている。


 尾崎紅葉のような文章を書きたいと願いながら、まだ自分の文章を見つけられずにいる。


 この旅で、私は何を書くことになるのだろう。


 人の過去か。


 人の記憶か。


 それとも、過去を知ろうとする人間の姿か。


 答えは、まだない。


「文彦さん、行きましょう」


 新太が、汽車の乗降口で私を待っていた。


「ああ、今行く」


 私は手帳を懐にしまい、彼の後に続いた。


 汽車が動き出す。


 窓の外の景色が、ゆっくりと後ろへ流れていく。


 新太は、しばらく黙ってそれを眺めていた。


 やがて、こちらを向いて言った。


「文彦さん」


「何だい」


「最初の町で、何か分かるといいですね」


「そうだな」


「でも、何も分からなくても、旅に出たことは無駄じゃないと思います」


「なぜだい?」


「だって、知らないことを知ろうとしているんですから」


 私は返事をしなかった。


 その言葉を、すぐに小説の文章にしてしまうのは、何だか惜しい気がしたからである。


 汽車は、春の関東を走り続けていた。


 私たちの最初の目的地は、興行帳に記された町。


 そこに新太の過去があるのかどうかは、まだ分からない。


 ただ一つ確かなのは、私たちが今、その町へ向かっているということだった。

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