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『大正の迷ゐ子』  作者: 久世 文彦


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第三話 旅の理由



 人にものを尋ねるというのは、なかなか難しい。


 新聞記者になって、私はそれを何度も思い知らされてきた。


 こちらが知りたいことと、相手が話したいことは、必ずしも同じではない。質問を重ねれば答えが出るというものでもない。むしろ、問い詰めるような聞き方をすれば、相手の口は重くなる。


 ましてや、相手自身が、自分の過去を知らないという場合はどうすればよいのだろう。


 知らないことを、知らないままにしておく。


 それもまた、聞き書きの作法なのかもしれない。


 私は机の上に置いた原稿用紙を眺めていた。


 そこには、前夜に書いた一文がある。


 ――人は、誰かに育てられた場所を、ふるさとと呼ぶことができるのだろうか。


 その下には、題名だけが記されていた。


 『大正の迷ゐ子』


 まだ一行も書き進めていない。


 小説家を志す者としては、いささか情けない話である。


 私は尾崎紅葉先生の作品を愛読している。とりわけ『金色夜叉』を読むたびに、あのような物語を自分も書いてみたいと思う。


 しかし、いざ筆を執ると、思うようにはいかない。


 気の利いた言葉を探し、文章の調子を整え、登場人物にそれらしい台詞を言わせようとする。そうしているうちに、肝心の人物がどこかへ消えてしまうのである。


 田辺には、以前こんなことを言われた。


「久世さんは、文章を飾る前に、書くことを決めたほうがいいですよ」


 まことに手厳しい。


 しかし、反論できないところが、なおさら手厳しい。


 今回の題材は、朝倉新太という青年である。


 二十二歳。旅芸人の一座で育ち、自分の生まれた場所も、幼い頃の家族も知らない。


 彼の手元には、小さな根付が一つある。


 そこには「新太」と「ふさ」という二つの名前が刻まれていた。


 それだけが、彼の過去につながる、今のところ唯一の手がかりだった。


 私は原稿用紙から目を離した。


 まず、確かめなければならないことがある。


 朝倉新太は、本当に自分の過去を知りたいと思っているのだろうか。


 そして、もし知りたいのなら、私と一緒に探してみる気はあるのだろうか。


 私は原稿用紙を引き出しにしまい、外套を手に取った。


     *


 さて、朝倉新太という男について、もう少し説明しておこう。


 この男は、二十二歳。旅芸人の一座で育ち、今もその一員として暮らしている。人懐こく、よく笑い、食べることが好きで、初対面の相手にも物怖じしない。


 もっとも、何も考えていないわけではない。


 むしろ、私のように頭の中であれこれ考えすぎる人間より、よほど物事の本質を見抜くところがある。


 私が彼に会いに行ったとき、新太は一座の者たちが使う道具を片づけていた。


「おや、先生。今日はどうしたんです?」


「先生はやめてくれ。私はまだ、何者でもない」


「新聞記者でしょう?」


「それは職業だ。先生というのは、もう少し立派な人間に使う言葉だと思うがね」


「じゃあ、先生になるまで待ちましょうか」


 新太は悪びれもせずに笑った。


 この男には、どうも調子を狂わされる。


「今日は、君に話があって来た」


「話?」


「君の過去のことだ」


 新太の手が止まった。


 私は、少し間を置いてから続けた。


「前に、君は自分の生まれた場所を知りたいと言ったね」


「ええ。そりゃあ、知りたいですよ」


「本当に?」


「本当に、というのは?」


「知らないままでいることもできる。今の暮らしが不幸せだというわけでもないだろう」


「そりゃそうです」


 新太は、手にしていた道具をそっと置いた。


「源次親方もいますし、一座のみんなもいます。おれには家族みたいなもんですから」


「ならば、どうして探したい?」


「どうしてって……」


 新太は、少し考えた。


「自分のことだからですよ」


「自分のこと?」


「ええ。おれがどこで生まれたのか。誰と暮らしていたのか。どうして一人になったのか。何にも知らないんです」


「根付にあった名前も気になるか」


「もちろんです。新太というのは、おれの名前でしょう。でも、ふさというのは誰なのか。おれにはわからない」


 新太は胸元に手をやった。


 根付は、いつも肌身離さず持っているらしい。


「おれは、今の暮らしを捨てたいわけじゃありません。源次親方から離れたいわけでもない。ただ、自分が何者なのか、知りたいんです」


 私は、返す言葉を探した。


 彼の言葉には、恨みも怒りもなかった。


 ただ、自分のことを知りたいという、ごく自然な願いがあった。


「そうか」


「先生は、どう思います?」


「私か」


「おれの過去を探すのは、余計なことですかね」


「いや。君が知りたいのなら、探す価値はある」


「見つかるでしょうか」


「それはわからない。何年も前のことだ。記録が残っているとも限らない」


「そうですね」


「途中で嫌になったら、やめてもいい。無理に探し続ける必要はない」


「はい」


「それから、もう一つ約束しておきたいことがある」


「何です?」


「私は新聞記者だ。調べたことを記事にするかもしれない。それに、小説を書くこともある」


「この前、言ってましたね。小説家になりたいって」


「まだ、なれてはいないがね」


「なればいいじゃないですか」


 新太は、あっさりと言った。


「それで、約束というのは?」


「君の知らない過去を、私が勝手に作って、本当のことのように書くことはしない。わからないことは、わからないと書く」


 新太は、私の顔をじっと見た。


「それなら、いいですよ」


「本当にいいのか?」


「ええ。でも、書く前には読ませてください」


「もちろんだ」


「それと、面白おかしく書かないでくださいよ」


「それは、小説家にとってなかなか難しい注文だな」


「先生は、まだ小説家じゃないでしょう」


 私は思わず笑った。


 どうやら、この男にはかなわないらしい。


「では、もう一つ聞きたい」


「何です?」


「私と一緒に、探しに行かないか」


 新太は、すぐには答えなかった。


 その顔から笑みが消えた。


「旅に出るんですか」


「そうだ。君が見つかった場所を確かめる。源次さんの記憶を聞き、昔の記録を探す。手がかりがあれば、その土地へ行ってみる」


「先生も一緒に?」


「私が言い出したことだからね」


「新聞の仕事は?」


「休暇を取る。もちろん、会社には説明しなければならないが」


「小説のためですか?」


 私は少し考えた。


「最初は、そうだったかもしれない」


「今は?」


「君が知りたいと思っていることを、私も知りたいと思うようになった」


 新太は、しばらく黙っていた。


 やがて、いつもの笑顔を見せた。


「行きましょう」


「いいのか?」


「おれが行きたいんです。先生に連れて行かれるんじゃありません」


「それは大事なことだ」


「ただし、旅費はどうするんです?」


「それは……」


「先生持ち?」


「いや、そこは相談しよう」


「ははは。冗談ですよ」


 新太は笑った。


 だが、その笑顔の奥に、何かを決めた人間の静けさがあった。


     *


 さて、次に話をしなければならないのは、源次である。


 源次は、一座の親方だ。年は五十をいくつか越えているだろう。肩幅が広く、日に焼けた顔には深い皺が刻まれている。言葉数は多くないが、一度口を開けば、その言葉には重みがある。


 新太を育てた男であり、彼にとっては親も同然の存在だ。


 新太が自分の過去を探したいと言い出したとき、源次がどんな顔をするのか。私は、それが気になっていた。


 源次は、私たちの話を聞くと、黙って二人の顔を見比べた。


「そうか。お前、行くのか」


「うん。自分のことだからね」


「そうか」


 源次は、それだけ言って、しばらく黙っていた。


 私は、その沈黙を急かさないようにした。


 新聞記者ならば、ここで質問を重ねるべきなのかもしれない。しかし、今の私は記者である前に、この親子のような二人の間に立つ一人の人間だった。


「源次さん」


「なんだ」


「新太が見つかった場所について、もう少し詳しく聞かせていただけませんか」


「前にも話したとおりだ。春先のことだった。興行であちこち回っている途中で、あの子を見つけた」


「その場所は、覚えていますか」


「大まかにはな」


「町の名前は?」


「帳面を見れば、わかるかもしれん」


「帳面?」


「一座の旅の記録だ。どこで興行をしたか、どこの宿に泊まったか。昔から、わしが書き留めている」


 私は身を乗り出した。


「それを見せていただくことはできますか」


「古いものだぞ。役に立つかどうかはわからん」


「構いません。まずは確かめたいのです」


 源次は立ち上がり、奥の荷物置き場へ向かった。


 新太が私に小声で言った。


「親方、ああいう帳面をずっと取ってあるんですよ」


「几帳面な方なのだな」


「そういうところは、妙にきちんとしてるんです」


「妙に、とは?」


「旅先で食べたものまで書いてあるんですよ。何を食べたとか、いくらだったとか」


「それは、なかなか興味深い」


「先生、そっちが目的じゃないでしょうね」


「いや、記録というものは、どんなことでも大切だ」


「牛鍋の記録もあるかな」


「君は、食べ物のことばかりだな」


 二人で笑っていると、源次が古びた帳面を抱えて戻ってきた。


 表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。何度も開かれ、何度も閉じられた跡があった。


「これだ」


 源次は帳面を膝の上に置いた。


「一座の記録は、昔からこうして残してある。わしが書いたものもあれば、先代が書いたものもある」


「ずいぶん古いものですね」


「商売道具みたいなもんだ。次にどこへ行くか決めるにも、昔の記録が役に立つ」


 私は帳面を開いた。


 そこには、日付、土地の名、興行場所、宿泊先などが、簡単な文字で記されていた。時折、雨で興行を中止したとか、道具が壊れたとか、そういう書き込みもある。


 決して立派な文章ではない。


 だが、そこには確かに、旅を続けてきた人々の暮らしが残されていた。


 私はページを一枚ずつめくった。


 明治三十七年。


 その年の記録を探す。


「あった」


 源次が指を置いた。


「このあたりだ」


 そこには、春の興行についての記録があった。


 私は日付を確認した。興行の場所、宿泊した土地。そこから次の土地へ移った記録もある。


「この日付が、新太を見つけた日ですか」


「いや、正確な日はわからん。興行の前後だったと思う」


「場所は、この町の近くですか」


「そうだ。町から少し離れた道だった」


「どの道でしょう」


「それは……」


 源次は、帳面を覗き込んだ。


「この記録だけでは、わからんな」


 私は、すぐに答えを求めるのをやめた。


 帳面に書かれていることと、源次の記憶にあることは、同じではない。そこを混同してはならない。


「源次さん、見つけたときのことを、もう一度聞かせてください」


「もう一度か」


「はい。覚えていることだけで結構です。何時頃だったか、どんな様子だったか。誰か近くにいたか。何でも構いません」


「そうだな……」


 源次は目を閉じた。


「朝から、あのあたりを歩いていた。興行の道具を運ぶ者もいたし、わしは次の宿のことを考えていた。道の脇に、子供が一人でいたんだ」


「泣いていましたか」


「いや。泣いてはいなかったと思う」


「誰かを待っているようでしたか」


「それも、わからん。ただ、ひどく心細そうな顔をしていた」


「名前は?」


「最初は、何も言わなかった。しばらくしてから、新太という名がわかった」


「それは、本人が言ったのですか」


「そうだったか……。いや、根付に名前があったんだ」


 私は、帳面の端にそのことを書き留めた。


「ほかに、覚えていることはありますか」


「もう一つ、名前があったな」


「ふさ、ですね」


「そうだ」


 源次は、新太の胸元を見た。


「その名前が何なのか、わしにもわからん。あの子の母親か、親類か、それとも別の誰かか」


「ふさという人を探すことが、手がかりになるかもしれません」


「だが、同じ名前の者は大勢いるぞ」


「ええ。ですから、名前だけで決めつけることはできません」


 私は、帳面を閉じた。


 まだ、何もわかっていない。


 しかし、何もないわけでもなかった。


 明治三十七年頃の春。ある町の近く。旅芸人の一座が通った道。そこで見つかった五つほどの子供。そして、根付に刻まれた二つの名前。


 これが、今のところ確かめられる事柄だった。


「まずは、この町へ行ってみようと思います」


 私が言うと、源次はうなずいた。


「そうだな。わしも、覚えていることがあれば話そう」


「源次さんも一緒に来てくださいますか」


「いや」


 源次は首を横に振った。


「わしは、ここに残る。興行の支度もあるし、一座を空けるわけにはいかん」


「そうですか」


「だが、必要なら、いつでも手紙を寄こせ。わしの記憶違いがあれば、確かめて返事をする」


「ありがとうございます」


 新太は、源次の顔を見た。


「親方、心配しないでくださいよ。すぐ戻ってきますから」


「誰が心配していると言った」


「顔に書いてあります」


「馬鹿を言え」


 源次は、少しだけ笑った。


 それから、新太に向き直った。


「新太」


「はい」


「行ってこい。自分のことを知りたいというなら、知ってくればいい」


「うん」


「ただし、どこへ行こうと、お前の帰る場所がなくなるわけじゃない」


 新太は、返事をしなかった。


 ただ、源次の前で深く頭を下げた。


 その姿を見て、私は思った。


 新太は、自分の生まれた場所を知らない。


 しかし、彼には帰る場所がある。


 それは、源次が彼に与えたものなのだろう。


 では、ふるさととは何なのか。


 生まれた場所なのか。育った場所なのか。それとも、自分を待っていてくれる人がいる場所なのか。


 私は、また一つ、答えの出ない問いを抱えることになった。


     *


 その日の夕方、私は新聞社へ戻った。


 田辺に、調査の話をした。


 さて、この男については前にも紹介したが、もう一度だけ触れておこう。


 田辺は、私より年上の同僚で、原稿の整理や校正を担当している。眼鏡の奥の目はよく動き、文章の無駄を見つけることにかけては、なかなかの腕前だ。私が文学青年らしく気取った表現を使うと、たいてい赤鉛筆が入る。


 決して意地悪な男ではない。ただ、文章にも仕事にも、余計な飾りを許さないのである。


「つまり、明治三十七年頃の、ある町の近くで見つかった子供ということですね」


「ああ。旅芸人の一座の記録が残っている」


「その記録だけで、行方不明の子供を探すのは難しいでしょうね」


「わかっている」


「当時の新聞に、迷子や行方不明の届けが出ていないか。まずはそこからでしょう」


「それを調べたい」


 田辺は眼鏡を押し上げた。


「ただし、記事を書くのはまだ早いですよ」


「わかっている」


「それから、見つかった子供と、どこかで届け出られた子供が同一人物かどうか。そこも確認しなければなりません」


「もちろんだ」


「ずいぶん慎重ですね」


「君がそうしろと言ったんだろう」


「言いましたが、実際にやるとなると大変でしょう」


 田辺は、少し笑った。


 私は反論できなかった。


「古い新聞は、どこまで調べられるだろう」


「社に残っている分は確認できます。ただ、地方の新聞まで全部そろっているわけではありません」


「そうか」


「それに、迷子になった子供が必ず新聞に載るとは限らない。届け出があったとしても、記事にならなかった可能性もあります」


「つまり、新聞に記録がないからといって、何もなかったとは言えないわけだ」


「そういうことです」


 田辺は、私の手元の帳面の写しに目を落とした。


「まず、旅の記録にある土地を特定しましょう。それから、その土地の役場や警察に当時の記録が残っていないか、問い合わせる。地元の新聞社にも聞いてみるといい」


「なるほど」


「それと、源次さんの証言は、いつ、どこで聞いたものかを記録しておいてください。後で記憶が混ざらないように」


「わかった」


「久世さん」


「何だ」


「あなたは、ずいぶん熱心ですね」


「そう見えるか」


「ええ。いつもの原稿より、よほど真剣な顔をしている」


「仕事だからな」


「新聞記者としてですか。それとも小説家としてですか」


 私は答えに詰まった。


 田辺は、そんな私を見て、肩をすくめた。


「まあ、どちらでも結構です。ただし、事実と想像は、きちんと分けてください」


「わかっている」


 その言葉を口にしながら、私は自分自身に言い聞かせていた。


     *


 新聞社を出るころには、日が傾いていた。


 私は、駅へ向かう道を歩きながら、今日聞いた話を頭の中で整理していた。


 明治三十七年頃の春。


 ある町の近く。


 道端に一人でいた子供。


 その子供を見つけた旅芸人の一座。


 根付に刻まれた「新太」と「ふさ」の二つの名前。


 新聞記者として考えるならば、まずは土地を特定し、記録を探し、証言を集める。それ以外に方法はない。


 しかし、小説家を志す者としては、どうしてもその先を想像してしまう。


 その子供は、誰かに置き去りにされたのだろうか。


 それとも、何かの事情で家族とはぐれてしまったのだろうか。


 ふさという人物は、母親なのだろうか。


 それとも、姉か、妹か、親類か。


 考え始めれば、いくらでも物語ができる。


 だが、それはまだ私の想像にすぎない。


 新太の人生を、私の都合で作り替えるわけにはいかない。


 私は、ふと足を止めた。


 これまで私は、小説を書くということを、頭の中にある物語を文章にすることだと思っていた。


 しかし、今は少し違う。


 目の前にいる人間を、よく見ること。


 その人が何を考え、何を望み、何を恐れているのかを知ろうとすること。


 そして、自分にはわからないことがあると認めること。


 それもまた、文章を書くために必要なことなのかもしれない。


 尾崎紅葉先生なら、こんな場面をどのように書かれただろう。


 私は、そんなことを考えた。


 けれど、すぐに思い直した。


 紅葉先生の文章を真似ることはできても、紅葉先生の目で世界を見ることはできない。


 私には、私の目がある。


 私には、私の出会った人間がいる。


 ならば、私自身の文章を探すほかないのだろう。


     *


 夜、自宅に戻ると、私は机に向かった。


 引き出しから原稿用紙を取り出す。


 今日の出来事を書き留めようと思った。


 まず、朝倉新太。二十二歳。旅芸人の一座で育つ。明治三十七年頃、五歳ほどのときに一座の源次に見つけられた。


 根付には「新太」と「ふさ」の文字。


 源次の記憶では、見つけた場所はある町の近くの道。詳しい地名、日付は不明。


 ここまでは、聞き取った事実である。


 その先に、私は何を書けばよいのだろう。


 新太の母親は、どんな人だったのか。


 ふさという人物は、誰なのか。


 なぜ、新太は一人で道端にいたのか。


 それを想像することはできる。


 小説家ならば、いくらでも物語を作れるだろう。


 しかし、それを新太の過去として書くことはできない。


 私は筆を止めた。


 小説家になりたいと思っていた。


 読者を驚かせる物語を書きたい。人の心を動かす文章を書きたい。尾崎紅葉のように、いつまでも読まれる作品を書きたい。


 だが、目の前にいる人間の人生を、面白い小説の材料として扱うだけなら、それは作家の仕事とは言えないのではないか。


 少なくとも、私はそう思い始めていた。


 原稿用紙の一番上に、私は書いた。


 ――自分は、誰なのか。


 その文字を、しばらく眺めた。


 これは新太の問いである。


 しかし、私自身にも無関係な問いではなかった。


 私は何者なのだろう。


 新聞記者として記事を書く私。小説家になりたいと願う私。尾崎紅葉に憧れ、その文章を追いかけている私。


 それらは、どれも私の一部だ。


 けれど、それだけで久世文彦という人間を説明できるのだろうか。


 私には、まだわからない。


 新太は、自分がどこから来たのかを知りたいと言った。


 私は、自分がどこへ向かうのかを知らない。


 妙な話だが、私たちは似たような迷いを抱えているのかもしれない。


 私は新しい紙を取り、題名を書いた。


 『大正の迷ゐ子』


 その下に、今日のことを記した。


 ――この旅で、私は何を知ることになるのだろう。


 明日、私は新聞社に休暇の相談をしなければならない。


 新太にも、旅支度をしてもらわなければならない。


 行き先は、まだはっきりとは決まっていない。


 手がかりは、古い帳面に残された土地の名と、源次の記憶だけだ。


 それでも、出発する理由はあった。


 新太が、自分の過去を知りたいと願っている。


 そして私は、その願いに付き合ってみたいと思った。


 新聞記者として、事実を確かめるために。


 小説家を志す者として、人間を知るために。


 そして、一人の友人として。


 こうして、私と朝倉新太の旅が始まることになったのである。


 もっとも、そのときの私は、まだ知らなかった。


 この旅で見つけることになるのは、新太の過去だけではない。


 私自身が、これから何を書くべきなのかという答えもまた、この旅のどこかに待っているのかもしれない。


 それを知るには、まず歩き出すほかないのである。

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